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マスクメロンとネットメロン

 

夕張メロンといえば高級メロンの代名詞だろうが、私は実物を見たことがない。地元の八百屋やスーパーで売られているのは、高いといっても千円くらいのマスクメロンだが、私はそれさえ買ったことはない。

 

去年、ホームセンターで野菜苗を見ていたら、「ネットメロン」の苗が売られていた。その時、ツルをネットに這わせて育てる特殊なメロンだと思った。メロンも西瓜のように、地面の上で大きくなるものだとばかり思っていたからだ。

 

それで、苗株のそばにネットを張って、ツルを絡ませたら、うまい具合に実がつき、大きくなってきた。ネットから落ちないようにマスクを張って実を乗せたので、これこそ「マスク」メロンだと、ひとりでうけていた。

 

それが、はじめはツルツルだった皮の表面に、網状の模様が出てきて、スーパーで売られているようなマスクメロンになったので驚いたものだった。

だが、それでもウカツながら、ネットメロン=マスクメロンだとは思い至らなかった。

 

去年使ったネットをそのままにしていたのは、今年もネットメロンの苗を購入するつもりだったからだ。ところが、「ネットメロン」の名札のついたものは既に売れてしまったのか、ただ「メロン」とある苗が残っていた。

だから、今年はネットメロンではなく普通のメロンを、ネットで育てているつもりだった。

 

収穫時期が良く分からないので、今か今かと見ていたら、マスクメロンのように表面に網模様が出てきた。なんと、去年のマスクメロンにそっくりではないか。

 

それで、ようやくのこと、ネットメロンとは何だろうと思い至った次第。網=ネットと知ってるくせに、思い込みというのは恐ろしいものだ。先入観の誤りといってもよいだろう。

人にべらべらしゃべらなくて良かったと胸をなでおろしたのだが、残念なことに、マスクメロンと同じとは知らずに、去年のブログに乗せてしまっている。読んだ人には笑われていたかも知れない。

 

まあ、夕張メロンも我が家のネットメロンも、同じマスクメロンでたいして違わないのでは・・・こればかりは、食ってみなければ分からないが、1万円もするようなメロンは買えないな。

author:u-junpei, category:-, 19:19
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読評 「屋上のウインドノーツ」(額賀 澪 著)

 

何か読書の候補はないかと、読書用のメモ帳をめくっていたら、「屋上のウインドノーツ」の題名と作者名があった。読みたいと思った動機がなんであったかは、思い出せない。

地元図書館の資料検索をしたら、松本清張賞(第22回 2015年)を受賞している。たぶん、その関連だったのだろう。

 

図書館の案内には、『友達がひとりもいない県立高校へ入学した、引っ込み思案の少女・給前志音は、ワケありの部長・日向寺大志に誘われ、吹奏楽部に入部する。やがて厳しい練習の日々が始まって…。爽やかな風を感じる熱血部活小説。』とある。

 

松本清張といえば、私のイメージは社会派推理小説。当然、その名前を冠した文学賞なら、そうした分野の作品が対象だろうが…。なぜ、青春小説が選ばれているのか不思議に思いサイトを見ると、『ジャンルを問わず、良質の長編エンターテイメント小説』に与えることに改めていた。

ちなみに、公募の文学賞で、賞金額が500万円は他の文学賞に比べてかなり高い。この22回には、600編を越える応募があったようだが、その中での受賞となれば、けっこう期待が持てそうだ。

 

それに、吹奏楽の部活を描いたという事では、武田綾乃原作のアニメ「響け! ユーフォニアム」を見てるし、こうした青春物には抵抗がない。また、中学時代に吹奏楽部(ブラスバンド)にはちょっと特別な思い出もある。

まあ、私の孫の世代の主人公が、よう頑張っている、と思って読書を楽しもうと借りてきた。

 

物語は、主人公の給前志音の幼稚園での風景から始まる。自分を「おれ」と言うので、私はこの子は男の子だと思って読み進めたら女の子だった。物語の背景にある茨城県では、女でも「おれ」という風習が残っているという。給前(きゅうまえ)という姓も珍しいと思ったら、これもフツウにあるのだという。

 

だが、苗字はともかく、女の子が高校生になっても「おれ」というのは、私には抵抗がある。地方の風俗にしても、わざわざ彼女だけそういうのはヘンに思える。どんなイントネーションで言うのかもあろうが、作家の意図がわからない。

 

分からないといえば、題名の「ウインドノーツ」の意味がなんなのか、興味深く読み進めたのだが、説明となるようなことは最後までなかった。

気になるので検索したが、ネットでは取り上げていない。ということは、読者はごく当たり前に知っているのだろう。

 

2017年に文庫本が出ていて、その出版に際して、著者は『三年前の原稿は、見るに耐えないもの』で、これでよく松本清張賞になったものだとして、文庫本では特にもう一人の主人公である男子生徒・日向寺大志の口調や行動の結末を書き換えたという(旭屋書店インタビュー)。

 

文庫本出版のときに、改稿するというのが一般的にあるのかどうかは知らない。だが、著者があえてするならば、そこには作家の数年間の成長のあとが見られるわけで、興味を持った私は文庫本を取り寄せてみた。

 

 

文庫本の帯に、「この風の音が 君にもきこえるか?」とあり、「風の音」の上に小文字で「ウインドノーツ」と振ってある。

つまり、この小説の題名は『屋上の風の音』ということになる。おそらく、単行本の帯にも似たようなことが書かれていて、読者はそれを知っているから、当然ながら誰も疑問にあげていなかったのだろう。

 

私は図書館の本を借りたので、帯はなく、それを知りえなかったわけで、私だけが「ウインドノーツ」の知識不足だったわけではあるまい・・・と思う。

まあ、若い人が好みそうな表紙でもあるし、この場合、外国語で表したほうが、題名としてカッコいいかも知れない。

 

私の時代、吹奏楽部はブラスバンドと言っていた。それで調べてみると、ブラスでは金管楽器を意味して、木管楽器が入らない。それで、今は「wind ensamble」とか「wind orchestra」というらしい。

ノーツは「note」で音符や(楽器の)音を意味している。

つまり、作者の意図は知らないが、単純に「風の音」だけではなく、「吹奏楽」に掛け合わしたのだろうと思って合点した。

author:u-junpei, category:読評, 20:40
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読評 「これなら読める! くずし字・古文書入門」(小林正博 著)

 

タイトルに騙されてしまった、というのが読み終えた直後の実感。

 

石仏の調査をしていると、文字が流麗な草書体(?)で刻まれているのがある。その方面の知識がない私には、ほとんど読み取ることが出来ない。歌碑などはそのような文字で刻まれたものが多い。

当該物が公私の調査資料などに載っていれば、それを参考にできるが、客観的にそれが正しい解読かどうかは分からない。そうした時には、昔の人が書いた文字を勉強したいとか、古文書などがすらすら読めたら素敵だろうと思ったりする。だが、そう思うのも一時の願望で、ついつい心の中にしまわれてしまっている。

 

それが、新聞の本の広告で「古文書入門」とあるのを見た。新書版で安かったこともあって、実物を確かめようともせず、ネットで注文したのは、上のような状況があったのが原因だ。

 

この本の始めの方では、まず「ひらがな」の字体を覚えるようになっている。その「ひらがな」は、昔の「いろは数え歌」順と現在の「あいうえお」順とで、2度も掲載している。その結果、1つの「ひらがな」文字には、字母となっているのが複数あるのだが、その表示は重複されていて、ときにはそれぞれに分散されてしまっている。したがって、どちらか1つの方法でまとめてあった方が、あとで文字を確認するにも見易かったろう。

 

また、『ひらがなはもともと漢字をくずしてできています』とし、「ひらがな」の元となった「字母」との組み合わせが載せられている。

その「ひらがな」も昔の字体であるから、漢字を崩して書く手順は、知識として必要と思われる。だが、この本では、どう「崩し」て書いてるのか、書き順が全く説明されていないので、視覚的にも覚えるのが難しい。私のように、「くずし字」のイロハも知らず、古文書解読の入門書だと思って手に取った者は、困惑するに違いない。

 

著者は「古文書解読検定協会」の代表をしている。この本も受験用になるように、そうした立場から書かれたようだ。ところが、教える側の指導者というのは、その知識が当然で当たり前であったりすると、初心者がどこでつまずいているのか、得てして分からなかったりする。

 

あえて言えば、著者は入門書のつもりだろうが、初心者にとっては、説明が足らなくて入門書にならないこともあるのだ。この本で「くずし字」の書き順が無視されているのは、まさにそれであろう。

 

この本では、明治時代の小学生が学んだ教科書などを、初心者にとって古文書の入門にふさわしいとして使っている。だが、当時の教師は、「読み書き」を教えるのに、くずし字なども、黒板などに手本を書いて見せたに違いない。

子どもが使ったのだから、それゆえ易しいわけではあるまいと思う。

 

私は、古文書解読検定がどの程度のレベルを要求されているのか知らない。だが、著者がいうほどには、この本を読んだくらいでは、合格できるとは思えない。少なくとも、私は身についていない自覚がある。

 

そう思って改めて帯を見ると、『あなたの くずし字の知識が確実に レベルアップする一冊』というコピーがある。

「くずし字」の知識がなければ、そもそもレベルアップなどありえないはず。

つまりは、この本は入門書とうたっているが、ズブの素人のための入門書というより、『くずし字を多少でも学んだ者が、さらに理解を深めるための入門書』というのが正解なのだろう。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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クチナシの芋虫

 

館林城の土橋門へと入る道に、クチナシの植栽がある。数年前に、ここから新しい枝を2,3本拝借し、挿し木をしたら、思いのほか簡単に根付いた。それを庭に移植していたのだが、今年は次々に花を咲かせた。

 

私はクチナシの香りが好きで、八重咲の鉢植えを買ったことがある。ところが、期待していたほど匂いがない。調べてみると、八重咲は確かにバラのような花をしていて人気があるようだが、一重にくらべて、匂いはさほど強くないそうだ。

それに、八重は実がならないので、クチナシという名前のイワレを見ることができない。

私が挿し木したのも八重咲だったので、やはり匂いはさほどではなく、実が出来ないのは残念でいる。

 

 

花も終わりの頃、葉っぱが食われているので、消毒しようと思ったら、芋虫がいた。5センチ以上はある。

大きさからみて、庭にアゲハチョウが来るので、その幼虫かと思った。それで、薬を撒かないで放置することにした。

 

だが、アゲハチョウは柑橘系の葉に卵を産むはずだ。他にチョウの幼虫でクチナシを食卓にするものがいるのだろうか。それで思い出したのがオオスカシバだった。

 

オオスカシバはスズメガの仲間で、翅が3センチくらいの太った図体をした蛾だ。翅が透明なのでスカシバの名がある。蛾といっても昼間に花の蜜を求めて飛び回る。私の庭にも来ていたので、名前を調べたりしたので知識があった。

だが、その幼虫については実際を見てなく、どんな形をしてるヤツか、検索の際に確かめなかったのは迂闊だった。

 

そのオオスカシバの幼虫はクチナシを食草にしている。放っておくと、葉を丸裸にするほど食欲旺盛だという。上の画像のように、まさに芋虫型をしている。知らなければ、私のようにチョウの幼虫と思うかもしれない。

殺虫剤を撒いた方が良さそうだが、他に移動したのか、鳥に食われたのか見つからなかった。

author:u-junpei, category:雑記, 21:42
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読評 「本のエンドロール」(安藤祐介 著)

 

「エンドロール」といえば、映画などで最後に流れる出演者や制作者・協力者などの字幕をいう。

本には、著者が「あとがき」で編集者たちの名をあげて出版の謝意を表してることはある。それ以外は、「奥付」に発行所・印刷所・製本所名があっても、具体的な職掌の担当者は書かれていない。そういうことでは、本にはエンドロールはない。

 

それなのに、この小説が「本のエンドロール」という題名なのは、本を作っている裏方たちを描いて、いわば「お仕事小説」だからだろう。

もっとも、この本では、最後になる見開きの2ページで、実際に出版印刷製本に携わった各分野の35名を「STAFF」として紹介し、エンドロールの面目を施してはいる。

 

この小説では、本の出版業とその背後を支える印刷業は、電子書籍の登場でかつての盛況はなくなり、新時代の中で衰亡していく予感がある。それを、印刷会社の営業で働く主人公をはじめ、いわば本好きの連中が、危機感を持ちながら、それぞれの仕事に励む姿や家庭を描く。それはいわば、それそれが働くことの意味を問うことでもある。

 

福沢諭吉は、「世の中で一番楽しくて立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つと云う事です」という。いわば天職に携わる幸福を説いている。だが、これは私の天職ですと胸を張る人は、仕事人の割合ではどのくらいだろうか。私は特別な仕事に就いている人以外は、それほど多いとは思えないのだが・・・。

 

人々が働くのは、たいていは金を得るためで、それは当然ながら非難することではない。福沢諭吉風に言えば、そこから一歩踏み込んだところに、たとえば仕事を通した喜びが湧いてくれば、それは仮に天職でなくとも、十分に価値ある人生ではなかろうか。

 

この小説は私にそんな思いにさせた。それでいうなら、私のような老人ではなく、これから生きる若者に読んで欲しいと思う1冊だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「五年の梅」(乙川優三郎 著)

 

小説を読むときに、本屋に出向くことがあれば、パラパラめっくって読書意欲が湧くかどうかをみる。そうでなければ、新聞の書評を参考にしている。最近は図書館で借りることが多く、後者が断然多くなった。

 

ところが、この本は私が留守のときに、山友が置いていった。したがって、全く前知識がない。作家も知らないし作品を読んだこともない。もし、帯のコピーにある『人生に近道などなかった』に興味をひかれなければ、この本を読むのも、それこそ「遠回り」したかも知れない。

 

この本には時代小説の短編が5編納められている。本の題名になっている「五年の梅」はその中の1つ。本は2001年に山本周五郎賞(第14回)を受賞している。賞としてどの作品が評価されたのかは分からないが、帯は「五年の梅」をあげているから、おそらくこれが主編なのだろう。

後で知ったことだが、時代小説家の山本周五郎の名を冠した賞でありながら、時代小説で受賞したのはこの作家が初めてだったという。

 

私は、時代小説フアンというほどではないが、嫌いではない。特にいえば、藤沢周平の「蝉しぐれ」や、山本一力の「あかね空」は好きな小説だ。それで、これらを読んだ後では、時代小説を読んで面白かったどうかは、これらが私の比較基準になっている。

 

「五年の梅」は最後まで読まないと、なぜ「五年」で「梅」なのか分からなかった。そういう意味では、他の短編も題名の付け方は、最後まで読んでなるほどと思うようになっているようだ。

 

たとえば、最初に納められた短編は「後瀬の花」という。「後瀬」は「のちせ」と読ましているが、私は「ごせ」って何だろうと思って読み始めた。

これは、いがみ合う男女が登場人物で、金を着服して逃亡している責任を押し付けあっている。私はこういう話は嫌いで、この作家はこういう醜さを描くのかと、危うく先入観に陥るところだった。

ところが、この2人は、追っ手から逃げて、崖から飛び降りていた。物語の最後に来て読者は初めて、この2人は亡霊なのだと知る構成だ。2人はお互いをののしりあったあとで、ふと冷たい体温を感じ、まだ生きているかも知れないと、2人して崖下に下りてみようとする。それで、作家は、ちっぽけだが、どうにもならない人生の悲哀を描いたのだと分かる。

 

最後に収録されている「五年の梅」は、他の4編とはちょいと毛色が違っている。猪突猛進型の若侍が主人公で、どうやら、正義感ばかりがはやり、体力勝負で頭はあまり良くないのだろうなと思わせる。

藩主に直情的に諫言したことから蟄居生活を命じられるが、だんだんと生きる為にはどうしたらよいかを学び始める。さらに好きだった女が不幸な結婚生活に沈んでいるのを知り、それを助け出すために知恵を絞るようになる。この辺りから、物語の真骨頂になるのだが、作家は若者が落ち着いた大人の男になっていくのを描き、読者に安心感を持たせるのが良かった。

 

この作家の特徴は、この本に限るのかどうか、他の作品(「行き場」・「小田原鰹」・「蟹」)の登場人物もけっこう醜い性格や情況に描かれる。それは生来の環境からだったり、人生の途中のふとした行き違いだったりするのだが、いずれもどうにもならないふうにまで描かれる。

それが物語の最後には、生きるにせよ死ぬにせよ、読者がホッとするように変える結末がある。私には、これが作家の持ち味のように思えた。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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読評 「そして、バトンは渡された」(瀬尾まいこ 著)

 

本書の冒頭シーン、主人公森宮優子は高校2年生で、担任の向井先生との進路相談の場面から始まる。

先生は「困っていることや、つらいことはないか」と優子に尋ねる。

 

読者は、優子が3歳で実母を亡くし、小学2年生のときに2人目の母や、実父を含め3人の父親に育てられた来たという知識があるから、先生が聞きたいところも分かる。

優子は困っていることなどは全くないと答えている。一般的に見ればフツウでなく、さぞかし辛いこともあるだろうと思うような状況設定だ。

ところが、優子はウソをついている様子ではない。となると、私としては、物語がこれからまともな展開をするのか心配になる。この小説が、作家の思いつきの面白さだけで底が浅く、読書の時間を浪費するだけではないかという心配だった。

 

5人の父母の関係で、優子が17歳になるまで4回も苗字が変わったというのは、フツウの実生活にはありえないような筋立てだろう。作家は、それを2度目の母「梨花さん」の個性的な生き様を描くことでカバーしている。

梨花さんは、2度目の再婚相手の森宮さんに優子を託して森宮さんとは離婚してしまう。その後は、これまでと違い全く連絡が途絶えてしまう。

この間の事情は物語の最終章になって明かされる。そこで語られる優子に対する梨花さんの思いは、そういう人物がいてもよいかもと、妙に納得させられてしまう。

 

物語は3人目の父親「森宮さん」と高校生の優子が織り成す日常生活が中心になってる。若いのに(優子とは20歳の年令差)懸命に父親役をする森宮さんと優子との会話は軽妙だ。

 

ムリ筋の設定は、作家の力量が試されるところだろうが、最後まで読んで私の心配は杞憂に終わったと言っていい。作家の得意とする青春小説に、ユニークな1冊が加わったと思う。このままドラマ化しても、中高生には受けそうな雰囲気があった。

 

あえて言えば、ジジイの私には、世間はそんなんではないとかなんとか、多少の突っ込みどころがあってる読んでるのだが、優子にイジワルな女子高生以外は、悪人が登場しない良質のエンタテイメントで面白かった。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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蚊逃草

 

夏になると、庭に出るのが憂鬱になる。蚊が寄ってくるからだ。

長くいるときは、蚊取り線香を腰にぶら下げたり、蚊除けスプレーの対策をするが、大きな藪蚊が平気で吸血に来る。そう分かっているのに、ほんのちょっとのときは、つい面倒で何もしないで出てしまう。すると、あっという間に数ヶ所は確実にやられ、自分の懲りない甘さが嫌になる。

 

花苗を求めるつもりでホームセンターに行ったら、「蚊逃草(かにげそう)」という名札のついたポットが売られていた。置いておくだけで蚊が逃げていくなんて、こんな便利な植物があるとは知らなかった。

早速購入し、鉢に植え替えて庭に置いた。ところが、蚊は一向に逃げる様子はなく、やはり刺されて痒い思いをした。この原因は鉢の数が足りないのかと思い、増やし方をネットで検索したのだが・・・

 

ネットでは、「蚊連草」とか「蚊嫌草」という名で出ている。これは香りハーブのゼラニウムとシトロネラールの勾配種で、どうやら、私の「蚊逃げ草」はローズゼラニウムという種らしい。  

蚊除けのメカニズムは、葉からでる香り成分が、蚊の二酸化炭素をかぎ分ける能力を失わせ、人間が出す二酸化炭素を分からなくさせ、それで蚊に刺されなくなるということのようだ。

 

しかし、蚊が二酸化炭素発生源に寄って来るというのは、これまでのいわば通説だが、最近、高校生が研究し、蚊の被害にあう原因は、足の裏にいる細菌と判明したようだ。これは学者には目から鱗のようで、学会でも高く評価しているらしい。

だとすれば、蚊逃草といおうと蚊嫌草といおうが、前提になっている蚊の二酸化炭素効力云々自体が、かなりアヤシイということになるのではないか。

どうやら、蚊逃草を増やしたとしても、あまり効果は期待できないかもしれない。

 

それにしても、「蚊連草(かれんそう)」というのが、この植物を指す一般的な和名のようだが、私の目下の関心は、この名前の由来に移っている。

「蚊が連ねる」なのか「蚊を連ねる」なのか、どちらにしても「連」のイメージが分からない。先賢に学ぼうといろいろ検索を試みているが、答えはまだ見つからないでいる。

author:u-junpei, category:雑記, 19:00
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読評 「キラキラ共和国」(小川 糸 著)

 

NHKラジオの新日曜名作座は、夜7時20分から30分間放送している。西田敏行と竹下景子がそれぞれ男女役になり、数人の登場人物を演じ分けているのだが、二人の個性のせいか、けっこう面白い朗読劇になっている。

 

先月、買い物途中の車中で、たまたま聴いていたら、西田が「ポッポちゃん」と呼びかけたり、竹下が「QPちゃんのお手紙」とか言うセリフで、『ツバキ文具店』だと分かった。

ところが、内容が私の知っているのとは違うようだ。

http://blog.kiriume.com/?eid=1223420

聴いている途中でスーパーに着いてしまったが、続編が出たのかと思い、ならば、本で読めばいいと、買い物を済ますことにした。

 

『続・ツバキ文具店』だろうと検討をつけて検索したら、該当するものがない。念のため番組をチェックしたら、やはり『続・ツバキ文具店』になっている。色々しているうちに、続編の題名は『キラキラ共和国』だと分かった。

作家は何故、今までとは無関係のような、とっぴもない(?)タイトルにしたのだろう。そんな興味もあって、図書館に予約を入れた。

 

前作の『ツバキ文具店』が手元にはないので、しっかりした比較ではないが、この『キラキラ共和国』では、作家の文章がこれまでより弾んでいるようだ。陰影のあった鳩子も、明るく饒舌になっているような気がする。

この新作では、雨宮鳩子が結婚し守景鳩子になったところからスタートするので、いわば文体も新婚風にというわけだろうか。

 

前作と同様、鳩子が手紙の代書を商売にしているのは変わらない。ところが、前作では依頼を受けた手紙の後日談が必ず語られていたが、今作ではそれがない。

これは、結末を読者の想像に任せることにしたのか、あるいは後日談を3作目に予定しているのだろうか。

 

鳩子の母親が、レディ・ババとして異常(?)な登場をするが、これは唐突感を免れなかった。しかも、この話も中途半端に終わっている。やはり次回作がないと、小説としても完結しないだろう。それにしても、これを出版戦略にしているなら、なんだかな〜とは思う。

 

『キラキラ共和国』の「キラキラ」については、最初と終わりの方の2ヵ所で触れられている。なるほど〜ではあるが、未読の読者の為にここでは触れないでおこう。

ちなみに、続編を楽しもうと思ってる読者なら、ラジオ番組のように『続・ツバキ文具店』の方がしっくり来ると思うのだが・・・

author:u-junpei, category:読評, 20:20
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トリの交尾?

 

最近、渡良瀬遊水地に桑の実採りに出かけたことは、このブログで「アメリカシロヒトリ」の画像で紹介した。

そのとき、桑の木にやはり大量に見たのが、繁殖期を迎えている画像の昆虫だった。

 

運良く(?)相手を見つけたのも、そうでないものもいて、自然界のオキテは厳しいものがあるなとか、人も例外ではないなと思いながら写真を撮った。

 

この昆虫はコガネムシで、緑色した金属光沢が美しいが、ガーデナーにとっては根や葉を食い荒らす害虫で、嫌われ者になっている。

♂♀は外見では分からないが、上になっているのが♂だろう。昆虫に限らず、たいていはそうだ。

 

 

そんな昆虫の観察をした後日、館林パークゴルフ場で休憩していたとき、上の画像の様子を眺めていた仲間が、トリが交尾しているようだと言った。

私は鳥が交尾しているのを見たことはないが、そう言われてみると妙に納得できる。クチバシのある頭も体も羽も、ありありとそのように想像できるところが面白い。

 

これは、もともと2本の木で、パークゴルフ場と隣り合うフツウのゴルフ場との境で、2.30mほどの帯状に夏草が繁茂している中に立っている。

 

春先には白い花が咲いていて、ニセアカシアだろうと思っていた木だ。今ではツル性クズが樹木全体を覆ってしまい、樹木にとっては気の毒な状態ではある。

 

河川敷で、誰が植えたわけでもなく、自然に生え大きくなったのだろう。深い下草の中は、ケンケン鳴いている雉の棲み家であったり、イタチがちょろちょろしているのを見たこともある。

まあ、ヘビもいるだろうから、あまり近づきたくはない場所ではある。

author:u-junpei, category:雑記, 19:26
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