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タラの芽の天ぷら

 

山菜のタラの芽を採る木を「タラノキ」という。一般的に、例えば桜の木はサクラで、「サクラノキ」とは言わない。そこで、正しくは「タラの木」ではないかと思った。そうであるなら、若芽は「タラの芽」であろう。

 

そこで、タラノキを調べてみると漢字では「楤木」と書く。私の辞書(漢語林)には、楤の字義に「たら」とある。つづけて「ウコギ科の落葉小高木。若芽は食用になる」と書かれている。

つまりは、「タラの木」でもOKなのかもしれないが、図鑑の植物名は「タラノキ」で、天ぷらにする若芽は「タラノメ」ということで、オカシイと思わないのがフツウなのだろう。

もちろん、私とて絶対的異議を唱えるつもりはない。

 

上の画像は、我が家のタラノメであるが、このタラノキにトゲがない。どこかで購入したはずだが正確な記憶がないが、タラノメを採りたいと思って買ったには違わない。

だが、トゲがないタラノキはタラノキらしくない。そこで、ついでに調べてみたら、自然界にもトゲなしのタラノキがあり、「メダラ」と呼ぶそうだ。

若芽にも、味の違いはあるのだろうが、私のような舌音痴には分かるまい。

 

 

我が家のタラノメの採取は、これまでに3回ほど天ぷらにすることができた。だんだん揚げ方にも慣れてくるように思う。上の画像は初回のもの。衣が厚いのか、揚げすぎたのか、あまりうまいとは思わなかったが、揚げたてで食べるので、スーパーの冷えたタラノメ天ぷらを買い、チンして食するのよりはずっとよかった。

 

3回目は、今年最後だと思って味わったせいか、わずかながら甘みが感じられた。なるほど、これがタラノメが山菜として好まれる理由かも知れないと思った。

某山地に野生のタラノキが群生している場所を知っているのだが・・・残念ながら、旬の季節に行ったことがない。

author:u-junpei, category:雑記, 18:48
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アマドコロの天ぷら

 

アマドコロはユリ科で同じナルコユリと良く似ていて、共に山菜として食べられる。芽だしは上の画像のようで、これは我が家のアマドコロ。

 

芽だけ見ると、チゴユリやホウチャクソウとそっくりらしく、こちらは毒草だから間違えないようにと山菜の本にある。

 

漢字では甘野老。これはヤマノイモ科の鬼野老(オニドコロ)から来ている。地下茎が甘く形がオニドコロに似てるからだという。

 

 

天ぷらには、まだ葉が開く前のものを揚げる。葉には苦味があるからだそうだ。

揚げたてを食べてみると、ほんのりとわずかな苦味があった。山菜の風味だと思えば許容範囲だろう。

author:u-junpei, category:雑記, 19:19
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ギボウシの天ぷら

 

我が家の庭に生えるギボウシ。

まだ、葉が開く前の芽を選んで、天ぷらにしてみた。

 

 

ギボウシを東北地方ではウルイといい、人気の山菜だそうだ。

葉をさっと湯に通して、胡麻和えなどにすると美味らしい。

 

天ぷらにすると、いかにも天然らしい苦味とかが無くなるが、風味も欠けてしまうようだ。

この天ぷらは、興味本位でやってみたのだが・・・あまり旨いとは思わなかった。

 

このギボウシの群に、カメムシがたくさん越冬していて、思わず後先考えずに殺虫剤を撒いてしまった。

その数日後に芽を切り取ったので、まだ農薬が残っていて体に良くないはずだとか、心理的な影響があったかも。

author:u-junpei, category:雑記, 22:22
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読評 「早々不一」(朝井まかて 著)

 

この本の題名を見て「草々不一」が何だか分からなかった。それで興味をひかれたのがこの本を読む動機ではあった。

この本には8つの短編小説が収められていて、最後の短編の題名が本のタイトルになっている。その「草々不一」を読むまで、手紙の末尾に書く決まり文句だと、まるで気付かなかったのは不覚だった。

 

昔、というか私が小学生の時、授業で手紙の書き方を教わった。

「拝啓」で書き始めたら、「敬具」で終える。時候の挨拶抜きの「前略」で始めたら「草々」と書いて終えるのだと教わったのだ。それは、60年後の今でも忘れず、実際にも使っている。

だが、私が教わったのは、「草々」であって、「草々不一」と書くのだというのは、この小説を読むまで知らなかった。

 

「草々不一」の小説では、武士に学問は不要だと馬鹿にし、文字も読むことができず、武辺一辺倒で生きてきた御家人の前原忠左衛門は、武道はからきしダメで、学問に精を出す跡取り息子の清秀に不満があった。

ところが、その清秀は優秀で、だんだんと頭角をあらわして出世し、嫁も旗本から迎えるようになる。

 

忠左衛門は家督を清秀に譲り、妻との余生を送っていたが、麻疹に罹った妻に急死されてしまう。忠左衛門は気力もなく悄然とした生活を送るようになった。

すると、清秀が遺品を整理していて、妻が忠左衛門宛に書いた手紙が出てきたと見せにくる。忠左衛門は清秀に手紙を読んでもらうのだが、清秀のことで、お詫びしなければないことがあると続く。まるで、これまで極秘にしてきた、妻の不義を思わせるような内容が書かれているかのようなのだ。あわてた忠左衛門は、息子が手紙を読むのをストップする。

 

ところが、忠左衛門は自分では手紙を読めない。内容が内容だけに、他人に読んでもらうわけにもいかず、悶々としていたところ、ひょんなことで子ども相手の手習い塾とかかわり、妻の手紙を自分で読みたい一心で入塾する決断をする。忠左衛門は54歳だから五十の手習いということだ。

 

きっかけは、次のようなシーンだ。忠左衛門は自分宛の手紙であることは秘して、片仮名は読めるのだと胸を張り、「不一」を「フトイチ」と読んで、次のように諭される。

『これは漢字の二文字にて、不一と読みます。意を尽くしきっておりませぬが、そこは忖度なさってくださいとの決まり文句です。このお方はかなり達筆でおられるので少々てこずるやもしれませぬが、さほど難しい漢字を使うておられるわけではわりません。それは内容をよまずとも、見て判別できます」

恐るべしと、忠左衛門は目の前の女師匠をみかえした。

『ですから、ぜひ、ご自分でお読みになれるようお学びなさいませ。前原様」

 

なるほど〜。「不一」とはそのような意味かと、私もこの歳になって始めて知り、納得。

 

妻の三回忌が済んだ後、塾の子ども達に親分と言われながらも猛勉強した忠左衛門は、ついに妻の手紙を読む。さて、何が書かれていたか、それを言っては、読書人のマナー違反だろう。

だだ、私は思わず目頭が熱くなったとだけは・・・

 

他の7編も良かった。さすが直木賞作家の「朝井まかて」だなと思う内容だった。とりわけ「妻の一分」という短編は、唐之介という犬が語っているのだが、飼われている赤穂浪士の大石家にまつわる物語で、趣向は夏目漱石の「我輩は猫である」風で面白い。

 

私は最初、犬がしゃべっているとは分からず読んでいたのだが、犬だと分かってからは俄然面白くなった。唐之介の次のセリフには、我が家にいた犬を思い出して、なんだか親近感さえ覚えた。

大石内蔵助は寒がりで、寒い寒いと背を丸め、綿入れを重ね着している。それを三歳の娘が蓑虫のようだといい、家族皆で笑っているシーンで、

『一緒に笑いましたですよ。え、犬が笑うかって。侮ってもらっちゃあ困りますよ。犬だって笑いも泣きもするし、しようと思えば愛想笑いも噓泣きもできまさ。』

 

さて、我が家の「リク」もそうであったかどうか・・・

author:u-junpei, category:-, 23:11
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全身緑色したクモ

 

全身緑色のクモがいた。場所は我が家の食卓となっているテーブルの上。おそらく迷い込んだのではなく、私が庭から持ち込んだものに付いていたのだろう。

 

緑色が美しいので、どこかに逃げないうちにと急いでカメラを構えた。撮ったあとは放っておいたら、どこかに行ってしまった。家の中では生息していけないだろうから、外に出してやれば良かったが、このクモには気の毒だった。

 

調べてみると、「ワカバグモ」というようだ。北海道から九州にかけてフツウに生息しているというから、私が初めて目にしただけで、そう珍しいわけではなさそうだ。5月辺りから見られるらしいから、ちょっと早めのお出ましかも知れない。

 

大きさは1cmくらい。♀は全身が緑だが、♂は脚先が赤く色づくという。画像のクモは、脚先の緑色が抜け、少し赤みが差しはじめているようだから♂かもしれない。

画像では分かりにくいかも知れないが、頭部に目がある。拡大してみると、なんと8個もあって八方を睨んでいるので驚いた。

 

クモがダメと言う子は多い。生徒が教室で突然大きな声をあげたりするのは、たいていはクモなど小さな虫がいるといって騒いでいる。こんなことで、災害の多い時代を生きていけるのかと心配に思うことがある。

 

だが、虫を怖がったり気持ち悪く感じるのは、生理的なものだから仕方ないのかも・・・と、私は情けないと思いながらも、ややあきらめている。

author:u-junpei, category:雑記, 21:39
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読評 「創価学会」(田原総一朗 著)

 

自民党と連立与党を組む公明党は、創価学会との関係なくしては語れない。当の学会は、かつてはその自民党からも野党からも、言論出版妨害事件や政教分離に関して激しい批判攻撃を受けている。私も当時の秋谷会長が国会喚問を受けたのをテレビ中継で見た記憶がある。

また、創価学会は日蓮正宗の信徒団体としてスタートしているが、1991年にはその宗門から破門され、宗教団体として存立が危ぶまれた。

 

そのたびごとにと、著者は当時を振り返り、ジャーナリズムの「われわれ」は、創価学会は衰退すると予想したという(本書まえがき)。

ところが、2018年現在、SGI(創価学会インターナショナル)は世界192ヵ国・地域に広がり、日本以外の国に240万人もの会員を擁している(p319)

 

いわば、創価学会は今や日本発の世界宗教であって、幾たびの危機的状況を乗り越え、なぜそのような発展をしているのか、「まえがき」で著者はジャーナリストとして、その実態をつかみたかったという動機を率直に述べている。

 

私も、とくに公明党との関係には強い関心がある。さらに、世界宗教であるキリスト教・イスラム教を信奉している人々と仏教がどう関わって、なぜ創価学会の信仰が受け入れられているのかにも興味をもって読んだ。

 

著者は、『おわりに』という「あとがき」で、次のように述べている。

 

『・・・他宗を一切認めないという立場を貫けば、いかに大きな宗教集団をいえども孤立する。しかも、それを乗り越えるのは至難の業である。

当然、民主主義国家では生きにくくなるだろう。なぜなら、民主主義とは自分の意見は持ちつつも、異なる意見を認めることで成り立つからである。宗教と民主主義は相容れないのではないかと私は感じていた。公明党が結党し、政界に進出したときにも、創価学会はこの矛盾にどう対処するのかと案じたものだ。

 

だが、池田大作氏は宗教における”排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も否定せず、他宗教の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼しあうことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している。

これは、どの宗教にも成し遂げられなかったことであり、私はそこに、創価学会としてのすごさを感じるのである・・・』

 

本書の内容は、このような結論に至ったことを、第1章「創価学会の誕生」〜第9章「特別インタビュー原田稔会長に聞く」まで、様々な場面で検証したもので構成されている。

著者は1934年生まれ。テレビで見る様子は、かつてほどには迫力がなくなっているようだ。だが、本書にはジャーナリストとしての生涯に恥じない魂があると思った。

 

本書に書かれた池田会長をはじめ、学会や公明党幹部へのインタビューには、かなりキツイ突っ込みを入れているが、偏見を排した公正な誠実さが感じらる。ジャーナリストの真骨頂とはこのようなものをいうのであろうか。

 

もっとも、第二章「創価学会の拡大と救済論」で、著者自身も創価学会への懐疑と偏見があったことを、正直に次のように述べている。

『・・・実は創価学会に対して私は長い間、偏見を持っていた。というのも、私が20代だった1950年代、創価学会はきわめて戦闘的な集団と見られていたからだ。第2代会長に就いた戸田の指揮のもと、強引な折伏大行進を行い、他宗教を邪宗と決めつけるなど、排他的な集団としか思えなかった。また、その信仰観についても、いろいろな新興宗教が「難病が治った」「奇跡が起こった」というオカルトまがい話を喧伝するのと同列のうさん臭さを感じていた。』と

 

こうしたことでは、多くの人が著者と同様に思ったに違いない。いまだに偏頗な学会批判書が多いのもうなずける。

 

ところが、このような日本の創価学会の歴史と、海外では事情が全く異なるようだ。海外での布教活動は、池田会長のいわば手作りでスタートしている。上記の日本のような状況ではなく、その国や地域の文化を尊重し大事にしている点が、大いに違っているのではなかろうか。まさに、著者の「あとがき」に指摘されているとうりなのだろう。

また、本書に収められている海外の会員へのインタビューで語られている体験談を読むと、入信動機というのは人種を問わず同じようなものがあり、人間は同じなんだなと感慨深いものがあった。

 

本書は、一流ジャーナリストが忌憚なく客観的に見た創価学会の歴史を語っているということでは、学会批判者にはもちろん、、一般会員にも一読をお勧めしたい1冊だ。

author:u-junpei, category:読評, 18:00
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読評 「本と鍵の季節」(米澤穂信 著)

 

この小説は、高校2年の男子生徒2人が、図書委員となって知り合い、シャーロック・ホームズのように推理を重ねて、謎解きをする7つの連作短編集になっている。

 

例えば、最初の短編は「913」というタイトルで、やはり図書委員だった高3の女子から、祖父が残したというダイアル式金庫を開けて欲しいと頼まれる。祖父が急死し、祖父からは「大人になったら分かる」と聞かされていたものが、金庫の中にあるはずだというのだ。

 

小説の主人公である男子高校生2人は、依頼してきた女子高生の姉が急須に入れて2人に出したお茶の味と、なぜプロの金庫屋に頼まないのかという単純なことから、彼女の依頼の前提に疑いを抱く。開錠はできるのだが、そこではもっとシリアスに捻られた話が展開される。

 

7つあるそれぞれの短編に描かれる話は、身近にあるようなことで、複雑怪奇な事件を扱うような推理小説ではない。これらの短編の真骨頂は高校生2人がする推理の会話にある。作家はそこに2人それぞれの個性を描いている。

 

この本は推理小説であるから、細部を紹介してはルール違反になるからこれ以上は書かない。主人公と同年代の高校生が読んでももちろん、私のような老齢者が読んでも十分に楽しめる内容だったとだけ述べておこう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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ヤブカンゾウの天ぷら

 

自宅の庭にヤブカンゾウが生える。母が健在のころ、彼女の友人が数株持ってきたのだが、今では困るほど増えている。

それで、私は食って減らそうと試みているのだが、成長が早く1日に1cm以上も伸びる。したがって、上の画像のような食べどきは限られているので、いっこうに減らずにますます増える。

 

 

ノカンゾウを山菜として食べるレシピはいろいろある。私はもっぱら天ぷらにする。

天ぷらだと青臭さが抜け、少し甘みもあって結構美味しい・・・と思う。

味噌汁の具にしてみたが、わずかに青臭さが残る。それが山菜らしくていいのだと言う人もいるかもしれない。

 

 

ちなみに、ヤブカンゾウはユリ科で、上の画像が花。

同類にノカンゾウがあるが、それとの違いはヤブカンゾウの花は、画像のような八重咲きになる。

 

また、ヤブカンゾウは「ワスレグサ」とも呼ばれる(「和名抄」平安時代)。『若芽を食べると美味しくて憂いを忘れる』からだそうだ。

author:u-junpei, category:雑記, 22:11
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読評 「すぐ死ぬんだから」(内館牧子 著)

 

すごいタイトルにひかれて借りようと思った。私もそうだが、いわば先のない高齢者の物語だろうと予想したが若干違っていた。

 

主人公の忍ハナは78歳。老人は歳相応にナチュラルではなく、オシャレや外見に気を配り、いかにもジジババに見える年寄り臭さを断固排除して生きるべきだという自論を実践している。

上の画像(表紙絵)のように、老人の特徴は、男も女も誰もがリュックを背負い、帽子をかぶっている、お決まりのジジババスタイルだという。

ハナはというと、下の画像(裏表紙絵)のようで、とても78歳には見えない。

 

 

1歳上の夫の岩蔵とは夫婦円満で、自他ともに素敵な夫婦だと認めている。岩蔵はハナにやかましくいわれて、外見(食べるものから着る物まで)をいわば強制されているのだが、日頃からハナと結婚して幸せだみたいな事を、臆面もなく言うような夫だった。

それというのも、夫婦して浮き沈みの激しかった自営の酒屋経営をきりもりし、人生の苦楽を共にしてきたからでもあった。今は長男に店を譲り、夫婦はマンションで悠々自適に暮らしている。

 

ここまでが第1章で、ハナの高校時代の同窓会に出席した時の様子などで描写されている。

ところが、第2章の最後で岩蔵が硬膜下血腫が原因で突然亡くなる。

 

この物語の本題は第3章からだ。岩蔵の自筆遺言書が見つかり、家庭裁判所で検認を受けると、認知していない息子がいるという、家族の誰もが思いもしなかった、晴天の霹靂のような事実が書かれていた。

2号というか妾というかはともかく、ハナには極秘に40年間も他所で続けらていた生活があったことが明らかになる。

そんな事実は、私だったら遺言書に残さず、秘密のままに墓場に持っていけばよいと思うが、岩蔵はそうしなかった。

 

まあ、それで『物語り』になるのであろうが、作家の前作である定年退職後の男を描いた「終わっ人」に比べると、不自然な展開で釈然としない。

今作は主人公が老女であるから、ハナの考え方も作家自身の投影なのかも知れないが、岩蔵のようにそんなバカなことするだろうかという気分が、第8章まである最後まで抜けなかった。

 

だが、高齢者がどのように日常を生きるべきかという視点でみると、大変参考になる作品ではあった。「終わった人」はドラマ化されたようだが、この「すぐ死ぬんだから」も映像になったら、小説とは違う面白さがあるかもしれない。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「人魚の眠る家」(東野圭吾 著)

 

今年初めての読書。こんなに長い間、一冊の本も読まないでいたのは初めてかもしれない。

未読の本は友人の蔵書を引き受けたのでいくらでもあるのだが、やはり自分で読みたいと思った動機がないと、なかなか読了に至らず、中途でやめてる本も何冊かある。だから、読書から遠ざかっていたのは、まさか、歳のせいではあるまいと・・・

 

この「人魚の眠る家」は映画の予告か何かを、テレビでチラッと見た程度であるが、直感的に面白そうと思った。

ただ、映画館へ見に行く余裕がないので、小説で読むことにした。2015年の作品なのだが、人気作家の小説で、しかも映画化になったばかりだったせいか、すぐに借りれなく順番待ちで今になってしまった。

 

読み始めて、重いテーマの作品だと知った。プールで溺れ、脳死状態になった6歳の女児が、まだ生きていると信じる母親の懸命な介護に加え、父親の会社の研究者により電磁的な工学システムで横隔膜を動かして呼吸し、電気的に脊髄反射を使い手足も動かす。外見だけ見れば眠っているようにも見える。結局のところ小学4年になる直前まで成長し、医師の間では密かに奇蹟の少女と呼ばれていたようだ。

題名の人魚と言うのは、自分の足で歩けないことから来ていて、いわば眠れる人形ということなのだろう。

 

この脳死状態というのが、いわゆる植物人間とは違う。法律の要件に従い、脳死判定を受ければ「脳死」となり、一切の延命措置を施さず心臓停止するまで臓器移植提供ができることになる。いわば法律上の死ということだ。だが、その状態でも親が脳死判定を拒否すれば、自然に心停止するまで人工呼吸器を続け、栄養補給もすることになる。

 

その脳死状態がどれくらい続き自然死するかは分からない。特に子どもの場合は確定的なことはいえないのだそうだ。もちろん、脳は死んでる状態なので、復活するということは100%ない。

 

したがって、この脳死状態はいわば眠っている状態とは違う。小説の女児の場合は、いわば電気的な手法を施して生きているのだが、他人の目で見れば死んでいるのと異ならないのだ。だが、誰しもそれを親の狂気やエゴなどと批判できないだろう。

 

この小説は脳死と臓器移植という医療の現状を背景に、人の死とは何かを問う重いテーマであったが、小説としては、さすがに東野圭吾だけあって手馴れているとはいえ、エンターテイメントとして成功している。最後のシーンはここには書かないが、ホッとし読後感は良かった。改めて、映画も見て見たいと思った。

author:u-junpei, category:-, 20:50
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