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読評 「三体」(劉慈欣 著)

 

ニュートンの万有引力で、天体力学の問題に「三体問題」というのがある。それを私はこの本を読んだ後に知った。もし、読む前にその知識があれば、このSF小説をもっと興味深く楽しめたに違いない。

もし、この問題を知らない読者は、この本を読む前に知っておいた方が、小説の内容がずっとよく理解できると思う。これはネットを検索するとたくさん出ている。

 

小説では、地球から4光年離れたケンタウルス座アルファ星系に、3つの恒星に影響を受ける惑星がある。3つの太陽が互いに影響しあってめぐっているワケだから、とんでもない現象が起きる。

この惑星ではすでに200の文明が興亡し、現在の高度な文明を築いている「三体星人」も、いつかは存亡の危機にある。この状況がこの物語の前提となっている。

 

地球には、三体星人の存在を知り、連絡を取ろうとする者がいる。彼らは地球三体協会を創るのだが、この物語が中国の文化大革命の酷い描写から始まっているように、人類の俗悪で救いようのない現状に失望する者たちは、高いレベルにある三体星人に、人類を委ねようと考えている。

 

三体星人は地球の存在を知ると、地球に移住のための侵略艦隊を派遣する。だが、地球に到達するには450年かかる。その間に、地球の文明が三体星人より発達してしまうかもしれない。

それを阻止するために、三体星人は地球に智子と呼ばれる陽子をぶつけた。三体星人によって作られたこの陽子は、三体星を覆うほど巨大なAIで、それを、第十一次元まで折りたたむ手順で、原子核を回る陽子の大きさにしたものだ。

智子は自由意志を持ち、地球の最先端科学装置に入り込み、実験結果を混乱せしめて、それにより科学の発展を阻害する役割を担っている。

 

三体協会は降臨派と救済派に分裂するが、侵略艦隊を派遣した三体星人からの最後のメッセージは、『おまえたちは虫けらだ』というものだった・・・

 

原作は三部作で、この「三体」は第一部ということになる。2019年12月の発刊だが、第二部、第三部はまだ日本語では刊行されていない。

中国では、三部作合わせて2100万部を売る大ベストセラーになっているという。オバマ大統領も熱心な愛読者だったそうだ。ちなみに、2015年に英語圏以外では初めて、ヒューゴー賞を受賞している。

 

私は、最初に書いたように、万有引力に「三体問題」があることを知らずに読んだ。そのためかも知れないが、いかにも白髪三千丈をいいそうな、中国人作家らしい大袈裟なSFだなあ、という印象で読んだ。

作家は第一部では大変な大風呂敷を広げていると思うのだが、地球人はどうなったのか、第二部・第三部でどのように収束させたのか、日本語の刊行が楽しみではある。

author:u-junpei, category:読評, 00:03
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読評 「明智光秀は天海上人だった!」(大野富次 著)

 

ネットだけを見ると、「明智光秀=天海」説は大勢を占めているようだ。だが、証拠としてどれも同じような事例を挙げているので、「最初のモノ」が検証するでもなく拡散されているように思える。

 

例えば、この説では光秀が本能寺の変以後、生き延びていることが前提である。その証拠として、比叡山の松禅寺には『奉納光秀元和元年二月十七日』と刻まれた石灯籠があり、光秀生存の重要資料としている(139ページ)。つまり、光秀の山崎での死から33年後の日付になる。

だが、元和は7月13日から始まるので、2月17日はまだ慶長20年である。したがって、石灯籠には慶長二十年二月十七日と刻まれていなければならない。それゆえ、著者の記述は合理性がなく、この点で証拠能力は失われてしまうだろう。

 

だが、「慶長二十年二月十七日」と刻まれていたらどうか。この石灯籠は「比叡山 松禅寺 光秀 石灯籠」で検索するとヒットする。しかし、比叡山に「松禅寺」という寺が、そもそも存在してなかったらどうだろう。当然、松禅寺にある「石灯籠」の存在もない。比叡山・松禅寺で検索したがヒットしなかった。所在地を地図検索しても同様だった。おそらく、比叡山に松禅寺は実在しない。

私が、他の者が実地検証もなく誰かの記述を引用している、と疑うのはこういうことだ。

 

本書のように、これでもかというほど様々な証拠事例をつきつけられても、おそらく全てにおいて反論が可能だろう。なによりも私が納得できないのは、「明智光秀=天海」説では、天海の没年は分かっているので、光秀の生誕年に諸説あるが、一番有力だとされてる享禄元年(1528年)説を取ると、天海は116歳で没したことになる。医学が進歩した今日でさえ疑問となる高齢なのだ。

ちなみに、信長は48歳、秀吉は61歳、家康は73歳で亡くなっている。

 

「邪馬台国は九州にあった、いや、畿内だ」とかいうように、古代史の謎解きはかってな想像が許されて面白い。だが、こうだと決め付ける断定的な表現の多用は、論者の牽強付会が強く、何だか胡散臭さを感じてしまう。読了してみて、この本書とて例外ではなかった。

 

今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公が明智光秀でなかったなら、この本を手に取ることはなかっただろう。だが、ドラマの今後の展開は分からないが、明智光秀が天海ではなかったとしても、本書で信長との対比で描く光秀の人物ということでは十分に興味深かった。

author:u-junpei, category:読評, 22:44
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読評 「雪男は向こうからやって来た」(角幡唯介 著)

 

著名な登山家の高橋好輝を隊長とする雪男捜索隊は、1998、2003、2008年の3回実施され、著者は3回目に参加している。

本書はその様子と、事前にイエティ(雪男)と関係した人物(登山家の芳野清彦や田部井淳子などの目撃者)たちに、捜索に出かける事前に取材したことなどをドキュメンタリーにしたもの。

 

UFOや幽霊がそうであるように、実際に見たりした経験がないと、何かの見間違いだろうとか否定的に捉えるだろう(私もそのような1人だが)、それはイエティでも異ならない。

ところが、実際に体験したりすると、他人がどう言おうと本人はその存在を固く信じるし、なんとしても存在を証明しようとする者もいる。

残留日本兵小野田寛郎少尉をルバング島で発見し、日本に連れもどした冒険家鈴木紀夫もその1人で、最初に目撃したヒマラヤのコーネポン谷を全6回に亘り探索し、最期は雪崩にあって死んでいる。

いわば、イエティに完全にはまってしまう人もいる。私もその気持ちは分からないでもない。

 

著者の参加した第3回捜索隊は有力な手がかりとして、イエティと思われる足跡を撮影している。隊長はじめそれ以前の回に参加した隊員らは、足跡は何度も見ているので、もう足跡はさして重要なモノとは思っていない。だが、プレスの取材を受け報道されると、イエティの足跡の写真は世界的なセンセーションになった。

 

だが、他の動物のものだといわれれば、著者はそれを完全否定できないと考えている。いわば、著者は合理的思考の持ち主で、イエティの捜索隊に参加しているものの、存在の真偽には最後まで疑問符を抱いていた。

 

それゆえ「存在しない」という証明は、悪魔の証明で不可能だろうが、「存在する」という証明ならイエティそのものを映像に撮ればよい。捜索隊の目的もそれだったが失敗に終わっている。

ならばということで、著者は隊が引き上げる際に、1人現地に残り、20日間捜索テントでひたすら出現を待って証拠を撮ろうとした。だが、足跡は2度にわたり出現したが、いずれも他の動物と分かるものだった。結局、最後までイエティは出てこなかった。

 

ところが、この本のタイトルは「雪男は向こうからやって来た」という。私はタイトルから、『雪男が実際にいた』のだと思い、興味津々で一挙に最後まで読んでしまった。まあ、騙されたのだが、読後感は全く悪くない。

 

タイトルになったワードは、本書327ページに書かれている。まさに著者が本書を書いた意図もそこに集約されるのだろうが、私がその部分を書き抜いて載せてしまっては、これから読む者の興味を半減しかねないだろう。それゆえ、これは秘密にしておこう。

 

ちなみに、本書が出版された2011年以後にも雪男捜索隊が組まれたか調べてみたが、2008年で最後になっている。2017年12月にアメリカのイエティ研究チームが、イギリス王立協会紀要に発表しているのが興味深い。それでは、博物館などに保管されているイエティ関連物のDNAを調べたという。結果を言うと、イエティとされるのは「クマ」のものだった。

 

しかし、UFOを見た者は、それをUFOだというだろう。もしかしたら、イエティを見たという人や捜索する人も、これからも出てくるかもしれない。

author:u-junpei, category:読評, 22:22
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読評 「空白の五マイル」(角幡唯介 著)

 

著者の作品にはまってしまったようで、このところ続いて4作目になる。かつて若い頃は登山小説とかを好んで読んだ時期があるが、老齢にもなって、自分とは縁遠い冒険物のノンフィクションを読むとは思っても見なかった。まあ、続けて読んでいるくらいだから、自分の歳を忘れるほどに面白い。

 

どう面白いかというと、ただ単に著者自身の冒険行動をノンフィクションとして語るだけではなく、探検場所の歴史背景や事実、そこに生きた、あるいは今も生きている人物の描写=生き様などを、活写するのに巧みな点だ。

 

著者がかつて朝日新聞の記者をした経験があり、取材能力や事実を適切に記事にする=ノンフィクションに描くセンスがあるだけでなく、一流の小説家のように、読者を冒険世界に引き込む文才や、読者を楽しませるユーモアのセンスにも恵まれていると思う。

 

この本は副題に、『チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』とあるように、著者が人跡未踏の空白区に挑んだ、2002〜2003年の探検と、2009年冬の単独行からなっている。どちらの回もほとんど絶体絶命の状況に遭遇している。それでもなおかつ、その後の『極夜行』にもあった大ピンチも凌ぎ生還しているところを見ると、体力プラスよほどの強運の持ち主なのかもしれない。

 

私はチベットの秘境にツアンポーという峡谷があること自体を知らなかったが、表紙絵の写真や中綴じにも著者が撮った写真が数ページあり、グランドキャニオンなども足元に及ばないという景観に興味をひかれた。写真集でもあったら欲しいくらいだ。

 

また、この本には、チベットの民に伝わる伝説の理想郷(ベユル・ペマコ)に通じているような、500人くらい収容できそうな巨大な洞窟を発見(表紙写真は洞窟の中から峡谷を写したもの)したシーンがある。私はワクワクしながら読んで、昔、チベットの民は外敵に襲われて逃げ込んだこともあろうかと、しばし空想にひたった。

 

ちなみに、本作品は2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞している。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「極夜行前」(角幡唯介 著)

 

前回取り上げた「極夜行」は2018.2刊。今回の「極夜行前」は2019.2刊で、内容はタイトルの通り、極夜探検の準備やそれに費やした、前後3回に及ぶ旅のあれこれになっている。したがって、著者の探検行の時系列はタイトル通り「極夜行前」→「極夜行」となる。

 

時系列通りに読むなら、探検の背景が理解し易いだろう。例えば、「極夜行」では働き手として一人前になった犬と一緒に橇を挽いて行くのだが、「前」では、訓練前の犬との葛藤が描かれていて興味深い。

 

また、「極夜行」では旅の開始直後のブリザードで、天文観測の六分儀を失ってしまう。その観測器は現在位置を知るのに準備したもので、「前」では準備旅で習熟し改良が加えられた様子が描かれている。したがって、その喪失がどんな意味を持つか、「前」を読んでいると読者にも切実に分かる。

 

「極夜行」実施前に1年間の空白がある。これは旅券切れによる国外退去命令を受けたからだが、「前」にはその経緯が詳しい。

再入国には3年と最初に警察から伝えられたときの、著者の怒りと失望が伝わる。

 

「前」の最後は、著者が極夜行本番のためにデポした食料が、白熊に荒らされたという連絡が入ったところで終わる。これはカヤックで海伝いに運ぶ途中、海象(セイウチ)に襲われ死ぬ寸前で逃れたり、氷海が開けなかったり、テント泊中にカヤックが流されたりがあってようやくデポした、極夜行の旅の成否に関わるものだ。

読者には、著者が呆然としている様子がありありと目に浮かび、「極夜行」を読んでいない読者は、ぜひ続きを読んでみたいと思うだろう。

 

「前」を読むと、著者がこの探検行にGPSを携行しないという理由も納得できる。その上で「極夜行」を読むと読者には合点することが多いかもしれない。

だが、私のように「極夜行」を読んだ後に「前」を読んでも、なるほどそういうことだったのかと分かるのも面白かった。

author:u-junpei, category:読評, 17:30
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読評 「極夜行」(角幡唯介 著)

 

高緯度の極地に「白夜」があるのは知っていたが、反対に夜がずっと数ヶ月続くのを「極夜」というのは知らなかった。

この本は、その極夜の中を、グリーランドにあるイヌイットの最北の居住村から、犬1頭を相棒に橇を挽き、グリーランドを縦断し、旅の最後に北極海で極夜開けの太陽を体験しようという、約80日間の人類未知の極夜探検行を描いたもの。

 

図書館に借りたい本があり出かけたので、この本を最初から読もうと思っていたわけではない。目的の本は検索してたのだが、なぜか借り出されたあとだった。それで、そのまま帰るのもシャクなので新刊本コーナーを見た。

そこに、著者の最新刊『探険家とペネロペちゃん』があった。私は探検モノにあまり興味はない。したがって、著者が著名な探険家であることも、どんな作品があるかも知らなかった。だが、まるで内容が掴めないタイトルと、その表紙の写真に興味を魅かれて手に取った。

 

 

この本で、著者のプロフィールみたら、『極夜行』が第1回本屋大賞ノンフィクション本大賞になっていることを知り、『極夜行』はついでに借りて来たというわけで、本の内容に期待感があったわけではない。本屋大賞ならまあ読んでもいいか位の気持ちだった。

 

ところが、最初に読んだ『探険家とペネロペちゃん』が意外に面白い。ペネロペちゃんというのは著者の「あお」という娘のこと。本名のままに書くと、ひらがな文のなかにうまって分かりづらくなるので、本の中での呼称のために名付けた名前だという。スペインの女優の名に由来するそうだ。

この本では娘の出生から4歳までの、父と娘の関係性を描いている。読者には「親バカまるだし」と思わせながら、語り口や切り口がともかく面白く、一気に読ませる。

 

この本で著者に対する親近感が湧き、引き続き『極夜行』を読んだから、この探検物も格段に面白かった。久しぶりに本の世界=それは現実にあったノンフィクション世界を堪能することができた。

 

私は著者と一体の感覚で、闇夜の氷河やツンドラ氷原を道もなくコンパスを頼りに行く不安、強烈・猛烈に吹きまくるブリザードに閉じ込められる恐怖、デボしてあった食料を白熊に食われてしまっていた絶望感。生き抜く為にあらん限りを尽くしても、それを上回る自然の脅威。久しぶりに探検行の妙味を味わった。

 

もっとも、私は暖かいコタツや、ストーブの前でぬくぬくと、まるで生命の危険のないところで読んでいたのだが・・・かつて、赤城山からの夜景を見たくて、鍋割山に単独行で登り、足下の前橋から遠く関東平野を埋め尽くす光景に感動し、帰路は月も星もない、懐中電灯の光さえも届かない闇の中を、夢中で下山したときの恐怖を思い出していた。

author:u-junpei, category:読評, 22:22
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読評 「学校を変える いじめの科学」(和久田 学 著)

 

「科学」というと、いわゆる「自然科学」がイメージされる。それゆえ、当方に何の準備もなく、「いじめの科学」というタイトルが目に飛び込んで来て、おもわず手に取った。何で「いじめ」と「科学」が結びつくのだという素朴な疑問からだった。

 

ふだん子ども相手の仕事をしているので、「いじめ」には関心がある。

かつて、どこかの教育長が、『いじめは、加害者が悪いのはもちろんだが、いじめられる子どもの方にも問題がある』と言ったことがある。事実、そういうこともあるかもしれない。

 

おそらく、こうした考えは彼の経験則から述べられたものだろう。だから、そのような人は、いじめの解決にも自分の経験則で対応しようとするに違いない。

だが、この考えを前提にすると、いじめは学校から絶対になくならない。経験そのものに個人差があり、各人の経験則で個別対応するのはむしろ危険だ。過去の経験は、意識的にしろ無意識にしろ脚色があったりして、それでは加害者・被害者双方を納得させられない。状況に応じた対応策・解決策を導くことは困難だ。

 

いじめは100%加害者が悪い。その上で、加害者の行為の原因と対策、被害者が重大事態(自殺・不登校)に陥ることのない対応を見つけなければならない。その際には、いじめの現場にいる多数の傍観者こそが解決の糸口になるだろう。というのがこの本の主題であった。このところは、私も大いに共感できる。

 

そのためには、「いじめ対策プログラム」を科学の知見で開発するのが必要だ。それによって誰もが共通認識を持つことができるからだ。欧米ではこうした研究が進み、プログラムも開発されているという。

この本ではそうしたプログラムの具体的内容を詳しく紹介していないのが物足りなかった。もっとも、欧米の研究が即日本に適用できるとは著者も考えていない。

 

私がこの本で関心を持ったのは、「学校風土」という問題だった。最近、神戸の小学校で教師が教師を苛める事件が公になった。これはマスコミ取り上げられ、大騒ぎになっているが、教師同士間の苛めは珍しいものではないようだ。5〜6人に1人は何らかの形で苛められた経験があるという調査がネットにあげられている。

まあ、教師だからといって素晴らしい大人だとは言えない。悪いことがあれば、子どもに対しての影響(教師や大人への失望)はダメージが大きいに違いない。そうしたことでは、いじめに限らず学校風土の良し悪しは大事な視点だろう。

 

2011年に起きた大津中2自殺事件を契機にして、おそらく学校や教育委員会の保身からの、いじめの事実の隠蔽が問題になり、2013年に「いじめ防止対策推進法」が制定された。そこでは従来曖昧だった「いじめ」を定義をし、いじめ防止対策を学校や行政に求めている。

 

そのせいもあろうか、文科省発表によると、平成30年度のいじめ認知件数は54万4千件で過去最多となった。特に小学校での認知件数が急増していて、1000人あたり66件にのぼっているという(2019.10.17産経新聞)

 

この本は、2019年4月発刊なので、この文科省発表前だが、著者や彼のいう対策プログラムはこの認知件数にどう反応するのだろうか。学校風土という視点から、私の個人的な感想は、残念ながら、かなりマイナス思考になっている。

author:u-junpei, category:読評, 21:42
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読評 「犬と猫どっちが最強か決めようじゃないか」(今泉忠明 監修)

 

数年前まで、我が家には「りく」という名の犬がいた。迷子か捨てられたのか分からないが、子犬のときに母が拾い、15年を越えて生きていた。母が亡くなった後は彼も元気がなくなり、最期は私に撫ぜられてる中で息を止めた。

私も老齢になってしまったから、もう責任を持って犬の一生の面倒はみられないだろう。だから、飼いたいと思う犬種はあったのだが、再び飼うことはあきらめている。

 

まだ、我が家には「のら」という猫がいる。これは20年近くなるので、相当の婆さんだろう。人間のことなどお見通しの、「化け猫」候補かもしれない。

 

「りく」が生きていたときは、私はイヌ派だった。ところが、残っているのは猫だし、今ではもっぱらネコ派だ。猫とはお互いあまり干渉しないのがいい。トイレか何だかは、「にゃん」と鳴いたりして、外に出ることを要求するので出してやればよく、犬のように散歩に連れ出す世話もなく気楽だ。

 

この本は、犬と猫の習性というか、それを「知力」・「感情」・「運動能力」・「五感」・「生活」の五項目で、それぞれいくつかの具体的な場面(55番勝負)をあげて、それぞれの動物心理を背景に、『どっちが最強か』と比較考察されている(犬26勝・猫21勝・引き分け8)。それらは表紙絵にあるような、イラストやマンガが使われていて、たいへん面白く読める。

 

おそらく、この本に書かれていることは、犬や猫の飼い主には日常的に経験しているようなことだろう。だが、未経験の者にも興味深い内容に違いない。私もあっという間に読み終えた。

author:u-junpei, category:読評, 22:05
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読評 「ハートで感じる英文法」(大西泰斗/ポール・マクベイ 著)

 

「英語が話せる」という目的で勉強するなら、これまで学んだ英文法の丸暗記ではダメというのがこの本の趣旨となっている。

 

ネイティブが使う英語や英単語には、彼等の感覚が込められてあるのだから、まずはそれを掴まなければならないという主張だ。場面場面でネイティブが使う英語の感覚が分かるなら、中学や高校で学んだこれまでの英文法は、むしろ邪魔な知識だったとさえいえる・・・ということのようだ。

 

例えば、この本の最初の方で取り上げている

I like playing with my kids in the park.

I like to play with my kids in the park.

の違いについて、私が関わっている中学レベルでは、動名詞と不定詞の質感の違いなどには触れていない。どちらも「公園で遊ぶのが好き」と訳されて、高校受験ではそれで必要十分なのだ。

 

ところが、日本人が英語を話せないのは、ネイティブの感覚の違いが分からないから、あるいは分かる学習をしていないからで、この本のこだわりは、そうではないでしょうということだ。

 

それゆえ、willとbe going toにみられるような、ネイティブの「未来表現」の感覚や、Will you ~?をWould you ~?と「過去形」を使うと、なぜ丁寧な表現になるのかとかが理解されるべきで、それが分かれば従来の丸暗記文法はいらないということになる。

この本では、そういう言葉の背景にあるネイティブの感覚=こころを学ぶべきだとして、「ハートで感じる」というタイトルになっている。

 

本の帯に、”目からうろこ”の英文法とあるが、内容も文体も読者の興味をひくように書かれていて、私は文法本としてではなく、フツウに読書をしている感覚で読めておもしろかった。

 

ただし、文法は不要だといっても、中学・高校で学ぶ基本的・基礎的な文法知識は必要であろう。この本でも従来の英文法を前提に解説しているから、そういう知識のある者を相手にして書かれている。それゆえ、一通り学んだ高校生や大学生が読むと興味深いかも知れない。

さらに言えば、勉強に楽はない。日本人がネイティブスピーカーのような話者になるには、やはり、文法丸暗記と同じような努力が必要だと思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:02
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読評 「ルポ 人は科学が苦手」(三井 誠 著)

 

題名を見たときに、その意味するところがすぐに分からなかった。現代社会や日常生活で、我々が科学の恩恵を受けないことはありえない。学問としての科学が、理解や知識の範囲を超えるというのであればともかく、なぜ『人』が『苦手』としなければならないのだろう。それが、この本を手にするきっかけになった。

 

副題に、”アメリカ「科学不信」の現場から” とある。したがって、タイトルに「人」とあるのは、人間一般を言うのではなくて、主にアメリカ人を指してのことだろう。

つまり、現代科学の最先端を行く科学大国のアメリカ人が、実は「科学不信」だというのだ。著者は科学を専門とするジャーナリストで、彼はこの本で何を言いたいのか、私の一番の関心はそこにあった。

 

私がこの本を読んで、特に興味をひかれたところは、次のような内容が書かれたところだった。

 

例えば、『宗教が人生で非常に重要な役割果たしているか』という質問を、世界50カ国の国民にした調査結果(米国民間調査機関ビュー・リサーチ・センターの2015年発表)が興味深い。それによると、共産国の中国が3%で一番低い。それについで低いのは日本で11%。GDPで見ると、経済力が高くなると宗教に頼る割合は低くなるという。

ところが、米国は例外で53%の高い割合で肯定している。ちなみに、英国やドイツでは21%、フランスで14%だった。アメリカ人は宗教心が飛びぬけて高いことが分かる。この結果は私には意外だった。平気で無宗教を標榜するような日本人には、とうてい分からないだろう。

 

米国で「進化論」を支持する人は国民全体の約2割に過ぎないという。なぜなら、聖書に基づく「創造説」によれば、人類の歴史は6000年より前に遡ることはないからだ。

学校で進化論を教えていても、家庭では親が子に伝えるのは聖書で、『猿から人間になるなんてありえない。デタラメだ』とか『犬の子は犬だ』と直感的な事実で進化論は否定される。大学生に10万年前の化石だといって見せても、それはありえないと教授にまじめに反論したりする。

 

聖書に基づいて考えれば、このような非科学的な結論がまかり通るだろう。だが、バカとかレベルが低いとかそういった問題ではない。米国は宗教大国でもあるのだ。特に保守傾向の強いキリスト教の福音派の勢力が、人口の25%を占める。この状況の下では、科学の合理性や事実などは簡単に覆され無視される。

 

科学不信が宗教を背景にした保守的な思考と合わさると、人工妊娠中絶に反対したり、地球温暖化と環境保護の関連性も否定される。経済活動で二酸化炭素の増加が地球温暖化をもたらしているというは、研究費が欲しい科学者のでっち上げで、気候変動に過ぎないと理解し、いわば理屈抜きに結論されてしまう。ここでは経済界と宗教が手をつないでいる。

 

それは、政界においても変わらない。泡沫候補と思われたトランプが大統領に選ばれ、彼の発言が科学の事実に反しても、彼の政策は共和党員に強く支持されている。それゆえ、米国がパリ協定から離脱する唯一の国になっても、アメリカ第一主義である彼と彼の支持者は当然だと考える。

 

著者は、米国に2013年〜2018年の間、前半はカリフォルニア大学の研究員、その後は、読売新聞のワシントン特派員として科学分野専門のジャーナリストとして活動している。そんな彼がトランプが大統領に選ばれるという、いわば歴史的転換を現場でつぶさに取材体験した。

おそらく、著者はトランプが大統領になるとは思っていなかったのではなかろうか。それが、米国社会に根強い「反科学」との関連を取材する動機になったように思われる。

なにしろ、米国には「フラット・アース国際会議」と呼ばれる、「地球は平ら」だと考える人々がいて、広範な活動を展開している。例の、アポロ宇宙計画での月面着陸は、ソ連に対抗する為にNASAがでっち上げたのだと主張しているのがこの団体だそうだ。

また、米国には創造説に基づいた博物館施設や、ノアの箱舟を聖書に書かれてる通りの、実物大(全長150m)の施設があったりする。まあ、模型のキリンの首が短くなっているそうだが、ちゃんとした理屈があるようだ。

 

だが、本書の眼目は、単にアメリカ社会の分析にあるのではないようだ。米国内が政治的に共和党と民主党の支持者に分離し、それが地球規模での経済活動に及ぶばかりでなく、アメリカ人自身を分断・対立させてる現実を、ジャーナリストの冷徹な目で見ている。

 

著者はこの本を全4章に構成し、第1章「自分が思うほど理性的でない私たち」で、人間一般について、米国での反科学的な理由を取材している。しかし、ここでは、米国と日本やその他の国との比較検証はなされていない。

だから、仮に、経済や風俗などでよく言われるように、日本が米国のあとを追いかけてるというのが真実だとしても、宗教風土は全く異なるという違いは無視できないのではなかろうか。そういう意味では、日本のほうが無軌道・無道徳に走ってしまう危惧があるように思うが・・・。

また、狩猟民族と農耕民族といったDNAの違いは、最後には国民の思考を左右するかも知れない。

 

ともあれ、第4章「科学をどう伝えるか」では、米国で起きている分断対立社会の『今後』=「科学不信」からの脱却について、米国だけの問題ではないという視点で書いている。米国の科学者自身がどう向き合おうとしているか、様々な活動や研究を取材していて興味深い。

ぞれが、著者をして、「人は科学が苦手」といわしめ、啓蒙活動としての取材活動を目指した・・・ように読了して思った。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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