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読評 『中学生からの数学「超」入門』(永野裕之 著)

 

本の題名に「超」がついているので、思わず手に取った。「中学生からの」とあるのも、私のような老齢者が読んでも、興味をひかれる内容であるに違いない・・・そう思った。

 

それは、表紙に次のように書かれているせいでもある。

 

『―よく―数学が苦手だった人から―「社会に出てみたら、数学なんて必要なかったあんなに苦労したのに、算数は必要だけれど、数学なんて勉強させられて損した」という声を聞きます……仕方ないかなと、とも思います。だって、まだまだ知性も感情も未熟な中学生には数学を学ぶ意味や意義をつかむのは至難の業だからです。』

 

しかし、このコメントはおかしなことを言ってはいないだろうか。仮に、中学生時代には数学を学ぶ意義が分からなかったとしても、これは社会に出ている大人の発言として書かれている。だから、すんなり聞けるようでいて、やはり違和感がある。

 

それで、著者のプロフィールを見ると、著者は東大出身で、現在は個別指導の数学塾をしているという。本書の他にも数学関係の著書が複数ある。そんな著者が上のようなステレオタイプな表現を平気で使うのはなぜだろう。それとも、著者は本当にそのような発言を「よく」聞いているのだろうか。少なくとも、私の周りにはいない。

 

たかが義務教育レベルの数学なのに、苦労したので『勉強して損した』などと公言する大人がいたら、中学生だった時から成長がなく、社会人としても信用がおけない・・・と思う。仮に、この人が中学生の親だったら、自分の子どもにもそんなこと言うだろうか。

百歩譲って、本を売るべくの意図で著者が創作したコメントかもしれないが、この本が数学の入門書として、「超」が付くほど面白いのかどうかは読んでみないことには分からない。

それで、分かり易くて、面白かったら、私の塾にもいる数学が苦手な生徒たちに、紹介しても良いなと考えて購入した。

 

本書の解説の多くは、幾何や代数・関数などの分野ごとに、歴史過程の説明や代表的な設問があり、その解答方法を示すという構成になっている。

設問の中には、成蹊高や慶応義塾女子高、筑波大付高などの入試問題や、栃木県で受験者の正答率が5%だったという難問も取り上げている。まあ、私の塾生たちにはチンプンカンプンな問題だ。

 

それゆえ、タイトルに「超」が付けられてるのは、こういった難問を、分かり易く解説する為だったのだろう。だが、あえて言わせて貰うなら、設問が難しい必要性はあるのだろうか。

著者がやっている数学塾は、一流レベルを受験する生徒たちかもしれない。そういう生徒なら、どんな難問でも興味を持って挑戦するだろうし、上に取り上げたバカな大人のようなことは、最初から言わないだろう。

 

そうではなく、バカをいう大人にも買って読んで貰いたい入門書を目指していたのなら、数学という学問は、社会に出ても役立つことを証明するような問題はいくらでもあるだろう。それらを取り上げて、もうバカなことを言わせないようにしたら良かったに違いない・・・それが私の読後感だった。

もっとも、本書に収録してる難問に正解する喜びは別で、オレにも解けたという満足感はあったのでよしとしよう。

author:u-junpei, category:-, 00:44
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水仙と日照 植物の<知性>その2

 

水仙の種類によって、咲く時期の違いがあることは知っている。だが、冬のこの時期、我が家の北の路地に面して、全く日が当たらない場所にある水仙から、花が咲きだしてるワケは何だろう。

 

記憶は曖昧だが、今年1月の下旬、館林でも雪が降って10cm以上も積もり、この場所は日が当たらないからなかなか融けず、画像の水仙も長く雪に埋もれていた。

雪が融けた後に見ると、だいぶ葉っぱが折れたりして痛み、そのあとに、花もそれほど咲かなかったかと思う。

つまり、この水仙は、年明けに咲く、遅咲きの種であったように思うのだが・・・

 

ところが、冬至が過ぎたところで、もう7,8分咲きになっている。我が家のよく日の当たるところにも、確か同じような種類の水仙(八重咲水仙)があるが、そちらはまだ花茎さえ出てきていない。

 

そこで、我が家の内では最も劣悪な条件下にあると思われる場所で、最初に咲きだした理由を考えてみた。

一番フツウの理由は、この冬に入る頃が暖冬だったことだろう。したがって、種類に応じるにしても、全体的に水仙の咲く時期が早くなっているのかもしれない。

だが、これは日の当たらないところから咲きだした理由にはなり難い。

 

それを踏まえると、この水仙は、前回雪に閉じ込められた苦い経験から、とりあえず今回は早く咲いてみる事にしたのではなかろうか。

植物に<知性>があるなら、それくらいのことは試してみるに違いない・・・と思うと納得がいく。もっとも、水仙は日の当たらない場所を好むというなら別だ。

 

ところが、いろいろ検索したが、日当たりの良い場所で育てるという記事は多くあったが、その反対はお目にかかっていない。光合成をする植物なら、日照を好むことは当然かも知れない。

 

   水仙の咲き始めたる冬至かな    嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 22:55
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柚子酒に変わる

 

22日は冬至だった。これからが寒くなるというのに、この日を境に日が伸びるとは、感覚では信じがたいものがある。

それはともかく、冬至ならユズ湯だろうと思い、数日前にユズを貰ってきた。ところが、匂いを嗅いでいるうちに、ユズ酒が欲しくなった。

自宅の風呂なら3個もあれば十分で、それしか貰ってない。また貰いに行くというのも、なにか意地汚い。

湯と酒とどちらにするか迷ったのだが・・・楽しみを先に延ばすことにした。呑み意地で生きてれば、数ヶ月は寿命も延びるだろう。

 

   冬至湯と貰ひし柚子は酒の中   嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 19:19
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蚊逃草の<知性>

 

前回、『植物は<知性>をもっている』という本を取り上げた。

今回は、これに関連する話。

 

上の画像は、我が家の蚊逃草から、刺し枝で増やした2世で、3本試した中で1本だけ根付いたもの。

蚊逃草は寒さに弱く、外で冬を越すのは難しいと、親を購入したときの説明札にあった。せっかく根付いたのだから、だんだん寒くなってきたので、親株と共に部屋の中に入れ、日差しが入るところに置いた。

 

数日すると、植物はこんなにも日の光が恋しいのかと思うくらい、葉が窓の外を向いている。葉が垂直になっている様子は異常なくらい・・・

 

それで、ちょいとイジワルをしてみた。

 

 

180度、鉢の向きを変えてみた。

それから、数日して・・・

 

 

彼は、またも日光が入る方向に向き始めている。

これはどうやって向きを変えているかというと、ウィキペディアでは次のように説明している。

 

『植物の地上部は光の影になる部分に、成長を促す植物ホルモン(オーキシン)を移動させ、日陰側の成長を促すことによって、日の当たる方向に向き、葉などが効率よく光合成できるよう成長する』

 

しかし、この説明は、1枚目の画像で、葉が光の来る方向を向いたときの説明にはなるが、2枚目から3枚目に変わるときの説明になるかは疑問だ。

なぜなら、彼は葉の「首」を反らしたのではなく、180度回転したようなのだ。

 

もちろん、私が観察したのは、数日間で言えば、ほんの一瞬を切り取っただけで、実際に「ぐるっと回った」のを見たわけではないから、本当のところは分からない。だが、「日陰側」の部分が成長して、葉を反らすような運動では説明できないと思う。

 

それに、植物の運動がどういうメカニズムなのかは、仮に「植物ホルモン」で説明できるとしても、「移動させ」たのは植物自身なのだ。

それを、植物の知性と言うか意思と言うかはともかく、人間でも動物でも全ての運動や行動が、いわゆる知性や意思に基づき、自律しているワケではない・・・と蚊逃草を見ながら思った。

 

ちなみに、「蚊逃草」とは人間が勝手に言ってるだけで、彼自身は蚊を追いやる理由はないのだろう。我が家の蚊逃草は、すぐそばに蚊がいても知らん振りで、まるで役に立っていなかった。

author:u-junpei, category:雑記, 22:44
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読評 「植物は<知性>をもっている」(ステファノ・マングーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ 久保耕司 訳)

 

我々人間は、全ての生物の頂点に立ち、地球の支配者だと思っているところがある。欧米人では特にかも知れない。なにしろ、神様は御自分の姿形に似せて人間を作った。それゆえに、人間は彼が創った世界(=自然)を支配することを肯定されていると考えるからだ。

 

これは、キリスト教のような一神教の思想であって、日本のように八百万の神がいるのとは違うかも知れない。だが、人間と他の生物との比較では、人間を上位に見るところは同じだろう。

 

したがって、フツウの人であれば、自分より下位にある動物に人間と同じ知性を肯定したり、ましてや植物に知性を認めるなんてことはとんでもなく、ありえないことだと思うだろう。19世紀以前には、動物さえも知性を否定されていたのだ。

私も最初、「植物は<知性>をもっている」という題名を見たとき、知性という言葉に引っかかりを覚えた。が、同時に大変に興味を持った。

 

宗教的な思想はさておき、ホモサピエンスの歴史は20万年を遡らないし、それに対し、植物は30億年の長大な歴史がある。つまり、それぞれには時間の流れが違うのだから、進化のあり方も違ってたはずだ。

その考えに立つと、進化論で有名なダーウィンが、『植物の運動力』という著書で、植物の根の根端に優れた感覚能力があると主張し、後に「根=脳」仮説に進む実験データを集積していた事実は興味深い。

 

それが、植物研究の大きな潮流にならなかったのは、当時やそれ以後も伝統的な主流派の権威者から、ダーウィンや同じ立場の研究者たちが否定されてきたからだ。いわば、権威者である者たちは先入観や偏見に支配されていて、自己を守るためには、いくらでも守旧派になる。新しい学説を立てる者が、そのような「白い巨塔」に立ち向かうのは、今でもそうだろうし、過去の時代においてはなおさらだっただろう。あのガリレオでさえ天動説の権力に抗し切れなかったのは有名な話だ。

最近になり、ようやく植物神経生物学などの進歩によって、植物についての様々な認識が科学的に実証されるようになってきたという。

 

そこで、本書でいうように、知性とは広く『問題を解決する能力』と定義すれば、人間や動物の「脳」だけを知性の場とする、これまでの考えは色あせてくる。

著者は『すでに本書で見てきたが、あらゆる植物は、大量の環境変数(光、湿度、化学物質の濃度、ほかの植物や動物の存在、磁場、重力など)を記録し、そのデータをもとにして、養分の探索、競争、防御行動、ほかの植物や動物との関係など、さまざまな活動にまつわる決定をたえずくださなければならない。植物のこうした能力を知性といわずしてなんといえばいいのだろう?』という。

 

すなわち、本書では、人間や動物が持つのと同じ五感などの知覚・運動能力のほかに、さらに多様で豊富な能力の事例をあげ、植物に知性があることが、説得力をもって述べられる。

例えば、トマトは虫に襲われると、化学物質を放出して周囲数百mの仲間に危険を知らせるとか、ハエトリグサやウツボカズラなどの食虫(食肉)植物などは、単に条件反射しているのではなく、まさに動物狩りをしているという。

さらには、植物も睡眠するというのは、私も落花生で観察しているので頷けるものがあった(http://blog.kiriume.com/?eid=1223475)。また、植物も歳をとると、人間と同じように睡眠が浅くなるというのは興味深かった。

 

私が本書を読んで納得したのは、知性を人間のような動物の脳でしかありえないとする考えが、今日の学問やテクノロジーの発展によって、これからは急激に変化を遂げるだろうということだ。

著者は『ここ数年、植物のコミュニケーションと社会化のシステムについての研究が進んだおかげで、これまで考えられなかったような新しい応用技術を発展させられるようになるかもしれない』とし、『人間型ロボット(いわゆる「アンドロイド」)と動物型ロボットのあとに続く新世代ロボット、「プラントイド」(植物型ロボット)』や『植物をベースにしたネットワークを構築するプロジェクトがすでにはじまっている。』という。

 

私はこの本で、新しい知見の興味深い事実を知り、大袈裟なようだが知的感動を覚えている。植物に知性を認める考えは、人間と植物の関わりに、新たな展開をもたらしていくに違いない。

author:u-junpei, category:読評, 14:41
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金柑酒

 

塾仲間から金柑をもらった。自宅に生ったものだという。

我が家の鉢植えの金柑に比べると、粒が大きいし、皮も柔らかそうだ。だから、最初は金柑だと思わなかった。

家の金柑を金柑酒にするプランでいたが、どれほど採れるか分からないので、もらったのを金柑酒にしてしまった。

まあ、家のがだいぶ採れるようだったら、また金柑酒にすればいい。酒はいくらあっても困らない。   

 

   金柑酒冬眠させて春を待つ   嘆潤子

 

author:u-junpei, category:俳句, 18:18
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読評 「終わった人」(内館牧子 著)

 

主人公の田代壮介は昭和24年生れ、岩手県盛岡市出身で東京大学法学部卒。高校では羅漢とあだ名されるほど優秀で、現役で東大に合格している。

卒業後メガバンクに入り、200人いる同期の内では最初に本部の部長になったが、役員に上りつめるもう一歩のところで、子会社に出向し、そこで専務取締役として63歳の定年を迎えた。この小説はここから始まる。

 

つまり、彼は定年の時点では、エリートとして銀行時代を過ごしたプライドがあり、「終わった人」になるには忸怩たるものがあった。にもかかわらず「終わった人」と認識し自覚せざるをえないところに、他の人には言えない彼の心の内での葛藤がある。

この辺は、自己評価が高い自負を持った者の、僻んだ根性が描かれるので、読んでいてもあまり面白くない。私がエリートでなかったことを置いてもだ。

 

壮介は、退職後の無気力な生活や、彼自身でも足が衰えたらなどと心配しだし、スポーツジムに通いだす。だが、そこにいるオジちゃんオバちゃん達と自分は違うのだと思い、彼等との会話や食事の誘いなども避け続ける。

また、何か生きがいを見つけようと、東大大学院を受験し、文学を学ぼうという計画を立てる。その受験準備の為にカルチャースクールの講座を申し込む。

 

だが、本当のところでは文学に深い関心があるわけではない。自信を持つために、何かしなければという焦りのようなものが彼を突き動かしている。私などは大学院などはどこでも良いと思うが、彼にとっては東大大学院というネームバリューこそが大事なのだ。

 

それゆえ、スクールの受付にいた久里という39歳のバツイチの秋田美人に魅かれ、彼女と受講についての話しをしているうちに、とっさの考えで、石川啄木の講座を申し込んでしまう。

その後、久里を高級レストランに誘ったりするようになるが・・・これは彼も自覚しているように、恋というほどでないとしても、若い女性となにかしらありたいという、下心ある高齢年配男のサガだろう。

 

娘の道子からは、それは「メシだけオヤジ」なんだよと、痛烈に言われたりする。このところの娘とのやり取りは、作家が女性だけあって容赦がない。だが、壮介がそうであるように、私にもそれでも可とするような気分は分かる。

 

そうしているうちに、たまたま、同じジムに通っていた若いIT企業の社長から、顧問に迎えたいという申し出を受ける。それは壮介の経歴を十分に生かせるもので、再び彼は充実した生活に戻っていく。

 

さて、長々と書いたが、これは田代壮介の人となりが分からないと、この小説は面白くない。エリートだった彼が本当の「終わった人」となるのはその後だからだ。

 

顧問になって数ヵ月後、IT会社の社長があっけなく急死してしまう。壮介は会社を引き継いで社長になることを、2,30代ばかりの若い社員たちから懇願される。最初は戸惑いながらも、それは彼にとっても望むところだった。自分の持てる力を発揮すれば、40人の若い社員の力になれると思ったからだ。

 

壮介は、妻の千草や道子らの反対を押し切り、小さいながら、将来は伸び盛りになるであろうIT企業を引き継ぐ。しばらくは社長として、心地よい疲労を伴う充実感のある生活が続く。久しぶりに出かけた銀座のバーのマダムからは、スーツが呼吸しているから、仕事や人生がうまく行っている証拠だと指摘されたりもする。

下り坂や不遇の男の着るスーツは、見た目に呼吸してないのだと言う。なるほど、銀座の一流マダムはそうやって人物を見抜くのかと感心した。

 

だが、案の定と言うか、小説ゆえのドラマ仕立てとでも言おうか、彼が入社する前から立ち上がっていたミャンマーの取引会社が、政治がらみの不正で倒産し、そのため壮介の会社も3億円の債権が回収できなくなった。銀行時代のつてをたよりに八方手を尽くすが、多額の負債を抱え、あえなく倒産してしまう。

彼は代表取締社長として連帯責任を負っている。結局のところ、彼が負担する分は9千万円になった。

 

この時に、壮介は65歳になっている。まあ、彼の人生は「終り」だろうねえ、と読者は思うだろう。とすれば、作家はシメタと思うに違いない。なにしろ、この小説は新聞の連載で、最後になるまで読者をひきつけておかなければならないのだから。

 

ここまでの話が、本のページ数では約3分の2。この後、読者は壮介の家庭が崩壊するのかどうか、残り3分の1読むことに付き合うことになる。エリートでないフツウの読者にとっては、他人の不幸を喜ぶとまではないとしても、彼のその後が気にかかるはずだ。

 

私にも、エリートの人生を羨ましく思うことは、当然ながらある。だが、70年80年の長い人生が、幸せかどうかはそれだけでは決まらない、とは思いたいものだ。

 

いろいろあって最後には、夫婦は離婚ではなく、妻が申し出た「卒婚」をする。この卒婚というのは私にはどうも理解し難い。この2人の場合は、実質的に、法律上の離婚と変わらないのだから。

 

壮介は老母が一人で暮らす盛岡に帰ることを決める。そして、出身高校が高校野球の県予選で準優勝して盛り上がる宴席で、祐介はそれまで隠していた自分が置かれている現状を、ようやく、高校時代の親しい友人達に伝えることができた。仲間たちの状況を見ても、誰しも時が来れば「終わった人」になるのだと分かりあえたからだ。

 

受け入れてくれる故郷があるのは、彼にとっても誰にとっても幸せなことだろう。小説の最後の章で、この「エピローグ」があったおかげで、私の読後感は悪くなかった。

author:u-junpei, category:読評, 23:23
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思い込み=先入観

 

以前、上の画像は「ラッパおじさん」というタイトルで取り上げたことがある。

 

http://blog.kiriume.com/?eid=1222777

 

実は、上の記事を書いた2012年当時も、それより数年前も、以後何度もこの像を見ていたが、私はとんだ思い込みをしていたことに、最近になって気がついた。

それが下の画像。

 

 

この彫刻は「プリーズ・リクエスト」というのが正式な名称であるが、私は、その題名や手に持っている楽器の詳細さに注意が行き、彼が上半身裸であることには全く気付いていなかった。

太っちょな黒人で、ズボンを肩ベルトで吊るほど腹が出てるなとか、自分のと比較してどうかなどと余計なことを考えていたくらいだった。

 

よく見れば、ちゃんとヘソがある。

 

屋外のベンチで楽器を演奏するなら、半そでのT-シャツであろうと、あるいは下着であろうと、何かは身に着けているだろうという、勝手な思い込みがあった。

 

この思い込みはどうやって出てきたのだろう。思い込み=先入観だとすれば、これまでに受けてきた教育とか、あるいは思想とかが影響してるだろうとは察しがつく。

そう考えると、大袈裟に言えば、先入観を持って見てるというのは、見えてるものも見えなくなるという恐ろしさがあろう。例えば、サックス→ジャズ→黒人だと思ったのだろうが、そうでないかもしれないのだ。

 

最近、日韓関係がギクシャクし始めているが、そこには先入観が支配し・・・なんて思うのは飛躍し過ぎであろうか。

author:u-junpei, category:雑記, 22:44
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モグラハンター

 

飼い猫がモグラをとって来た。どこで捕まえたのか分からないが、彼女が自慢げに庭に持って来たときは既に死んでいた。

せっかくだがら、よく観察させてもらった。

 

円柱形の体型で丸々と太っていて、食に困っていなかったようだ。後足に比べ、前足が異常に大きい。前足の指は5本で鋭い大きな爪がある。地中にトンネルを掘るために発達したのだろう。目はどこにあるのか分からないほど退化しているようだ。突き出た鼻の下に口があるが、こじ開けてまで見たいとは思わないので、どのような歯なのかは確かめなかった。

 

モグラは漢字で土竜だが、もともとはミミズを意味していたそうだ。それが漢字の誤用でモグラの当て字になってしまったらしい。

だが、モグラの骨格標本を見ると、まさに小さな恐竜のようだ。もしかしたら、誤用だとする説自体が間違っているかも知れない。昔の人が、モグラを地中に棲む竜だと思ったとしても不思議ではあるまい。

ちなみに、ミミズは漢方薬になり、地竜という名もあるようだ。

 

モグラはあちこち掘るので、農地やゴルフ場ではもっぱら害獣でしかないが、絶滅危惧種もあるので捕獲には許可がいるという。忌避剤や音波を利用する器具とか市販されているようだが、猫を飼うという手もあるかもしれない。

author:u-junpei, category:雑記, 23:00
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シャコバサボテン

 

シャコバは蝦蛄葉で、サボテンの葉(=茎)がシャコに似ているからだという。私は寿司ネタになる生きたシャコを見たことがないので、そうなんだと思うしかない。

 

花がよく似た同類に、カニバサボテンがある。これは蟹葉でシャコバとは葉の様子で区別する。私も蟹なら姿形はわかるが、シャコバは葉に一対のトゲのような突起があるという微妙な区別なので、実際には並べてみないと分からないかも。

もっとも、花の時期が違うので、咲いているときはそれで判断できる。

 

上の画像はシャコバサボテンで、今の時期に咲くので、海外ではクリスマス・カクタスとも呼ばれているそうだ。カニバサボテンの花は2,3月頃に咲く。

どちらも、ブラジルリオデジャネイロ州の高山が原産地で、日本には明治時代に入ってきたそうだ。その当時の栽培種は絶滅したというがどうしてだろう。

 

私のシャコバは春から秋の間は外に出していて、水遣りも適当だった。11月になって花の芽が大きくなりだしたので、寒さには弱いだろうと、部屋の中の日の当たるところに移動した。

ネットを見ると、このサボテンは環境の変化には神経質らしく、ヘタに移動すると花芽が落ちてしまうのだという。知らないというのは大抵は間違いの元だが、我が家の場合は画像のように良く咲いていて花数も多く、結果オーライだったようだ。

近頃は、この隣で日向ぼっこして楽しんでいる。

 

   炎吐くシャコサボテンとタンゴ聴く    嘆潤子

 

author:u-junpei, category:俳句, 23:23
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