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読評 「終わった人」(内館牧子 著)

 

主人公の田代壮介は昭和24年生れ、岩手県盛岡市出身で東京大学法学部卒。高校では羅漢とあだ名されるほど優秀で、現役で東大に合格している。

卒業後メガバンクに入り、200人いる同期の内では最初に本部の部長になったが、役員に上りつめるもう一歩のところで、子会社に出向し、そこで専務取締役として63歳の定年を迎えた。この小説はここから始まる。

 

つまり、彼は定年の時点では、エリートとして銀行時代を過ごしたプライドがあり、「終わった人」になるには忸怩たるものがあった。にもかかわらず「終わった人」と認識し自覚せざるをえないところに、他の人には言えない彼の心の内での葛藤がある。

この辺は、自己評価が高い自負を持った者の、僻んだ根性が描かれるので、読んでいてもあまり面白くない。私がエリートでなかったことを置いてもだ。

 

壮介は、退職後の無気力な生活や、彼自身でも足が衰えたらなどと心配しだし、スポーツジムに通いだす。だが、そこにいるオジちゃんオバちゃん達と自分は違うのだと思い、彼等との会話や食事の誘いなども避け続ける。

また、何か生きがいを見つけようと、東大大学院を受験し、文学を学ぼうという計画を立てる。その受験準備の為にカルチャースクールの講座を申し込む。

 

だが、本当のところでは文学に深い関心があるわけではない。自信を持つために、何かしなければという焦りのようなものが彼を突き動かしている。私などは大学院などはどこでも良いと思うが、彼にとっては東大大学院というネームバリューこそが大事なのだ。

 

それゆえ、スクールの受付にいた久里という39歳のバツイチの秋田美人に魅かれ、彼女と受講についての話しをしているうちに、とっさの考えで、石川啄木の講座を申し込んでしまう。

その後、久里を高級レストランに誘ったりするようになるが・・・これは彼も自覚しているように、恋というほどでないとしても、若い女性となにかしらありたいという、下心ある高齢年配男のサガだろう。

 

娘の道子からは、それは「メシだけオヤジ」なんだよと、痛烈に言われたりする。このところの娘とのやり取りは、作家が女性だけあって容赦がない。だが、壮介がそうであるように、私にもそれでも可とするような気分は分かる。

 

そうしているうちに、たまたま、同じジムに通っていた若いIT企業の社長から、顧問に迎えたいという申し出を受ける。それは壮介の経歴を十分に生かせるもので、再び彼は充実した生活に戻っていく。

 

さて、長々と書いたが、これは田代壮介の人となりが分からないと、この小説は面白くない。エリートだった彼が本当の「終わった人」となるのはその後だからだ。

 

顧問になって数ヵ月後、IT会社の社長があっけなく急死してしまう。壮介は会社を引き継いで社長になることを、2,30代ばかりの若い社員たちから懇願される。最初は戸惑いながらも、それは彼にとっても望むところだった。自分の持てる力を発揮すれば、40人の若い社員の力になれると思ったからだ。

 

壮介は、妻の千草や道子らの反対を押し切り、小さいながら、将来は伸び盛りになるであろうIT企業を引き継ぐ。しばらくは社長として、心地よい疲労を伴う充実感のある生活が続く。久しぶりに出かけた銀座のバーのマダムからは、スーツが呼吸しているから、仕事や人生がうまく行っている証拠だと指摘されたりもする。

下り坂や不遇の男の着るスーツは、見た目に呼吸してないのだと言う。なるほど、銀座の一流マダムはそうやって人物を見抜くのかと感心した。

 

だが、案の定と言うか、小説ゆえのドラマ仕立てとでも言おうか、彼が入社する前から立ち上がっていたミャンマーの取引会社が、政治がらみの不正で倒産し、そのため壮介の会社も3億円の債権が回収できなくなった。銀行時代のつてをたよりに八方手を尽くすが、多額の負債を抱え、あえなく倒産してしまう。

彼は代表取締社長として連帯責任を負っている。結局のところ、彼が負担する分は9千万円になった。

 

この時に、壮介は65歳になっている。まあ、彼の人生は「終り」だろうねえ、と読者は思うだろう。とすれば、作家はシメタと思うに違いない。なにしろ、この小説は新聞の連載で、最後になるまで読者をひきつけておかなければならないのだから。

 

ここまでの話が、本のページ数では約3分の2。この後、読者は壮介の家庭が崩壊するのかどうか、残り3分の1読むことに付き合うことになる。エリートでないフツウの読者にとっては、他人の不幸を喜ぶとまではないとしても、彼のその後が気にかかるはずだ。

 

私にも、エリートの人生を羨ましく思うことは、当然ながらある。だが、70年80年の長い人生が、幸せかどうかはそれだけでは決まらない、とは思いたいものだ。

 

いろいろあって最後には、夫婦は離婚ではなく、妻が申し出た「卒婚」をする。この卒婚というのは私にはどうも理解し難い。この2人の場合は、実質的に、法律上の離婚と変わらないのだから。

 

壮介は老母が一人で暮らす盛岡に帰ることを決める。そして、出身高校が高校野球の県予選で準優勝して盛り上がる宴席で、祐介はそれまで隠していた自分が置かれている現状を、ようやく、高校時代の親しい友人達に伝えることができた。仲間たちの状況を見ても、誰しも時が来れば「終わった人」になるのだと分かりあえたからだ。

 

受け入れてくれる故郷があるのは、彼にとっても誰にとっても幸せなことだろう。小説の最後の章で、この「エピローグ」があったおかげで、私の読後感は悪くなかった。

author:u-junpei, category:読評, 23:23
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思い込み=先入観

 

以前、上の画像は「ラッパおじさん」というタイトルで取り上げたことがある。

 

http://blog.kiriume.com/?eid=1222777

 

実は、上の記事を書いた2012年当時も、それより数年前も、以後何度もこの像を見ていたが、私はとんだ思い込みをしていたことに、最近になって気がついた。

それが下の画像。

 

 

この彫刻は「プリーズ・リクエスト」というのが正式な名称であるが、私は、その題名や手に持っている楽器の詳細さに注意が行き、彼が上半身裸であることには全く気付いていなかった。

太っちょな黒人で、ズボンを肩ベルトで吊るほど腹が出てるなとか、自分のと比較してどうかなどと余計なことを考えていたくらいだった。

 

よく見れば、ちゃんとヘソがある。

 

屋外のベンチで楽器を演奏するなら、半そでのT-シャツであろうと、あるいは下着であろうと、何かは身に着けているだろうという、勝手な思い込みがあった。

 

この思い込みはどうやって出てきたのだろう。思い込み=先入観だとすれば、これまでに受けてきた教育とか、あるいは思想とかが影響してるだろうとは察しがつく。

そう考えると、大袈裟に言えば、先入観を持って見てるというのは、見えてるものも見えなくなるという恐ろしさがあろう。例えば、サックス→ジャズ→黒人だと思ったのだろうが、そうでないかもしれないのだ。

 

最近、日韓関係がギクシャクし始めているが、そこには先入観が支配し・・・なんて思うのは飛躍し過ぎであろうか。

author:u-junpei, category:雑記, 22:44
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モグラハンター

 

飼い猫がモグラをとって来た。どこで捕まえたのか分からないが、彼女が自慢げに庭に持って来たときは既に死んでいた。

せっかくだがら、よく観察させてもらった。

 

円柱形の体型で丸々と太っていて、食に困っていなかったようだ。後足に比べ、前足が異常に大きい。前足の指は5本で鋭い大きな爪がある。地中にトンネルを掘るために発達したのだろう。目はどこにあるのか分からないほど退化しているようだ。突き出た鼻の下に口があるが、こじ開けてまで見たいとは思わないので、どのような歯なのかは確かめなかった。

 

モグラは漢字で土竜だが、もともとはミミズを意味していたそうだ。それが漢字の誤用でモグラの当て字になってしまったらしい。

だが、モグラの骨格標本を見ると、まさに小さな恐竜のようだ。もしかしたら、誤用だとする説自体が間違っているかも知れない。昔の人が、モグラを地中に棲む竜だと思ったとしても不思議ではあるまい。

ちなみに、ミミズは漢方薬になり、地竜という名もあるようだ。

 

モグラはあちこち掘るので、農地やゴルフ場ではもっぱら害獣でしかないが、絶滅危惧種もあるので捕獲には許可がいるという。忌避剤や音波を利用する器具とか市販されているようだが、猫を飼うという手もあるかもしれない。

author:u-junpei, category:雑記, 23:00
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シャコバサボテン

 

シャコバは蝦蛄葉で、サボテンの葉(=茎)がシャコに似ているからだという。私は寿司ネタになる生きたシャコを見たことがないので、そうなんだと思うしかない。

 

花がよく似た同類に、カニバサボテンがある。これは蟹葉でシャコバとは葉の様子で区別する。私も蟹なら姿形はわかるが、シャコバは葉に一対のトゲのような突起があるという微妙な区別なので、実際には並べてみないと分からないかも。

もっとも、花の時期が違うので、咲いているときはそれで判断できる。

 

上の画像はシャコバサボテンで、今の時期に咲くので、海外ではクリスマス・カクタスとも呼ばれているそうだ。カニバサボテンの花は2,3月頃に咲く。

どちらも、ブラジルリオデジャネイロ州の高山が原産地で、日本には明治時代に入ってきたそうだ。その当時の栽培種は絶滅したというがどうしてだろう。

 

私のシャコバは春から秋の間は外に出していて、水遣りも適当だった。11月になって花の芽が大きくなりだしたので、寒さには弱いだろうと、部屋の中の日の当たるところに移動した。

ネットを見ると、このサボテンは環境の変化には神経質らしく、ヘタに移動すると花芽が落ちてしまうのだという。知らないというのは大抵は間違いの元だが、我が家の場合は画像のように良く咲いていて花数も多く、結果オーライだったようだ。

近頃は、この隣で日向ぼっこして楽しんでいる。

 

   炎吐くシャコサボテンとタンゴ聴く    嘆潤子

 

author:u-junpei, category:俳句, 23:23
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「野菊の墓」の野菊とは?

 

伊藤左千夫「野菊の墓」に出てくる野菊は、「ノギク」という名の菊はないので、物好きたちの従来の検証では、いわゆる野菊であるカントウヨメナ『関東嫁菜)・ユウガギク(柚香菊)・ノコンギク(野紺菊)に集約されているようだ。

ところが、これらの「野菊」は皆同じようで、どこが違うのだというほど良く似ている。

 

従来の分類では、カントウヨメナやユウガギクはキク科ヨメナ属、ノコンギクはキク科シオン属に分類されていたが、最近のAPG分類靴任蓮△い鼎譴皀轡ン属に分類されているという。

ネットで、これらの花の画像を見比べても、個体差や地域差があるのか、いろいろな画像があり混乱してしまう。区別方法は、葉がどうの、冠毛がどうのと、いろいろ言われているが、ちゃんと間違いなく判別するには、どうやらシロウトには難しいようだ。

 

そこで、学問的にはともかく、小説の設定に沿って判定することになろう。最初に野菊が出てくるのは次のような場面で、正夫が道端に咲いている野菊を採る。

 

『・・・両側の田についているところは露にしとしとに濡れて、野菊がよろよろと咲いている・・・』

 

つまりは、この野菊は湿性地に咲いていることを理由に、その適性があるカントウヨメナやユウガギクだとする者が多い。

 

ところが、私は、むしろ乾いた土地に適性があるという、ノコンギクであるような気がしてならない。

理由は二つある。

まず、正夫は民子を『野菊のような人だ』としているが、その民子は次のように描写されている。

 

『真に民子は野菊のような児であった。民子は全くの田舎ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくて、そうして品格があった。厭味とか憎気とかという所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。』

 

ここでは、「品格」という言葉に注目したい。少なくとも『・・・よろよろと咲いている』イメージではない。「よろよろ」と表現したのは、朝露に濡れていたからだと思われる。

 

次に、物語の最後のシーンは民子の墓だが、その墓は民子の家の裏門を出て、向かった松林の片すみの「雑木の森」にある。

いわば、山すそのような高台の場所にあるように思われ、少なくとも湿地ではなかろう。

正夫は墓のある周りを見渡し、踏まれたような野菊が咲いていることを知る。そして、7日間通い、その野菊を民子の墓の周囲一面に植える。

 

これらの状況を検証すると、カントウヨメナやユウガギクではなく、山野に広く適性があるノコンギクが相応しく思われる。「野にあって紺色をした菊」という意味だが、私は他の野菊以上に可憐な品格を感じる。

 

上の画像は、我が家に咲いていたもので、私は今年初めて確認した。

これまでは、この菊の前には通りに面して、夏以来オシロイバナ(夕化粧)が茂り、植え込みに山茶花の下枝も這っていたので、その奥に菊が生えているさえ知らなかった。

西日しか当たらないせいか、背丈が低く花も5,6個くらいしか咲いていないが、細長い花弁の紫色は、はっとするほど美しい。

 

私は、この菊の花を見たときに、なぜか「野菊の墓」を思い出した。改めて読んでみると、正夫15歳と民子17歳の青春が胸に迫ってきて、思わずこみあげるものがあった。

時代を越えても、若いというのは良いものだ。たとえ、それがほろ苦いものであったも・・・

 

ちなみに、私は画像の菊を、ノコンギクと同定している。自然に生えた野菊ではなく、花弁が長いので栽培種かもしれない。

author:u-junpei, category:雑記, 20:30
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出来過ぎた話「モズの生贄」

 

前回、『モズの生贄』の話を書いた。

すると、今日の午後、教室にきてみると、カマキリの死骸のあった鉢植えバラのほぼ同じ場所に、アマガエルとおぼしきカエルが刺されていた。

これはモズの仕業だろうか。それとも、人為的に行われたのだろうか。

モズによるものだとすると、とてつもなく変な感じがする。私は前回カマキリについては、モズの生贄説を否定していたからだ。

 

人為的なものだとすると、このカエルの乾燥具合の様子では、この一両日中に行われたように思われる。仮に前からあったとしたら、カマキリの画像を撮ったときなどに気づかないわけがない。

 

すると、塾生とか教室関係者の行為だろうか。

近頃の生徒は、教室に入ってきた小さな虫でさえ大騒ぎする。カエルも入ってくるが、平気でつかめる子はまずいない。さらに、カエルを捕まえてきて、バラの枝に刺す行為が可能である子は、少なくとも現役の塾生には皆無と言ってよい。

私自身はカエルは平気だが、モズの生贄を真似してみるなどという感性は持ち合わせていない。むろん、ブログにあげるためになどという、ヤラセなことは考えたこともない。

 

その他に考えられる者は、『モズの生贄を見たことがない』という私のブログをみて、では教えてやろうじゃないかという好意者(?)の存在だろう。

だが、これには私のブログを読み、かつ、教室まで簡単にこられる地域にいて、この季節になっても、カエルを捕まえられる環境にいる者という限定がつくだろう。

だが、この行為を好意と受け止めるには、私自身はかなりムリをしなくてはならない。それに今どき、こんなヒマ人がいるのだろうか・・・

 

それゆえ、私は、このカエルの生贄は、限りなく人為説ではあるのだが、その対象者が思い浮かばないので、モズの仕業も逆説的にあるのではないかと思い始めてはいる。

 

     怪しさや百舌鳥の生け贄刺し蛙    嘆潤子

author:u-junpei, category:雑記, 16:44
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カマキリの死

 

教室前にバラの鉢植えがある。夏の猛暑はすでに遠く、近頃は頻繁な水遣りはいらなくなった。

それで、花もないので取り立てて注意もせず、上の画像も、枯れた葉があるくらいにしか思っていなかった。

ところが、枯葉を取り除こうと思ったら、なんと、よく見るとカマキリの死骸だった。それも、なんとも微妙な体勢で死んでいる。

 

私は実際を見たことはないが、「百舌(モズ)の生贄」は、捕らえたカエルやトカゲなどを木の枝に刺し置き、冬の保存食にするという。モズはカマキリも生贄にすることがあるのだろうか。

仮にあるとしても、ここは人の出入りもあり、背丈もない鉢植えのバラの木では具合が悪いに違いない。私がモズなら、他の場所を探すだろう。

 

つい先日、自宅でのことだが、水を入れたままのジョウロにバッタが落ちていた。まだわずかにもがき動いているように見え、救い出してみたが間に合わなかった。

この場合は、明らかに事故死と思われる。バッタには気の毒だが、そういう不運な死に方もある。

 

画像のカマキリの場合も事故死だろうか。バラの枝を歩き回っていて、あるいは、羽を広げてる様子から推測すると、飛んで来たとたんにバラのトゲに刺さったという、かなり不運な状況の事故死であるやも知れない。

だが、枝の上という特異な状況ではあるが、季節的に考えると、やはり自然死と考えた方が、妥当な検死判断に思われる。

 

ちなみに、古今、カマキリを詠んだ俳句は多い。

とりわけ、山口青邨はカマキリに特別な興味があったのか、多くの句を作っている。中には次の句のように、画像のカマキリを思わせるものがある。

    

   蟷螂の首かたむけしまま死き

 

カマキリの死骸は、そう頻繁に見られるものではないと思うが、このとき、作者は何を考えたのやら・・・

 

        カマキリの枯葉のように死ににけり    嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 17:17
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蜜柑は恋の味?

 

山友からミカンをもらった。彼の自宅でとれたもので、去年はほんの数個しか生らなかったのが、今年は鈴生りで、その重さで枝がたわんでいるという。

こういう現象がどうして起きるのか知らないが、自然状態の植物には、不作と豊作と交代期のようなものがあるのかも知れない。

 

多くできた反面、一個ずつは小さい。しかし、採りたてをもらったので、新鮮さは申し分ない。小さいが味も悪くない。

 

   小蜜柑を丸ごと噛めば青き恋     嘆潤子

 

author:u-junpei, category:俳句, 22:56
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柿を吊るす

 

パークゴルフ仲間から、百目柿をもらって来た。

彼のところで柿を吊るしてあるのを見て、私も干し柿を作ってみたくなった。

 

試しだから、2,3個もあれば十分だと言ったのだが、持ってけとご覧のように。

レシピというほどのこともない。皮をむき、35度の焼酎をスプレーした。

乾燥してきたら、指で揉むというのだが・・・

 

私ひとりでは、こんなにあっても困ると思うのだが、干し柿は保存がきくという。

暮れには、食べられるだろうか。

 

  ひと月も先の楽しみ柿吊るす    嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 18:18
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おんぶバッタ

 

「おんぶバッタ」は小さな♂が大きな♀の背中に乗っている。

幼い子どもの頃は、母バッタが子バッタをおんぶしているのだとばかり思っていた。やがて、ノミの夫婦という言葉を覚えるころになると、♂と♀が交尾しているシーンだと知るようになった。

だが、「おんぶバッタ」というのは俗称で、ショウリョウバッタによく似ているから、それの交尾くらいに考えていた。

 

上の画像を撮ったのは本日午後のことで、画像をよく見ると交尾している雰囲気はある。それにしても交尾時期が長すぎはしないかと、あらためて「おんぶバッタ」を調べてみた。これまでなら私にはどうでもよいことだが、その動機の前に、次のような俳句を作ってみたからだ。

 

   もうじきに冬となるのにおんぶバッタ

 

すると、なんとビックリ、「オンブバッタ」は正真正銘の名前だった。私は、子どものときからこの老齢になるまで、「おんぶバッタ」だとばかり思って来たのだ。

 

さらに困ったことに、オンブバッタが「おんぶバッタ」で見られるのは11月頃までとある。ならば、この俳句の狙いは・・・まあ、知らなかったことにしよう。

author:u-junpei, category:俳句, 18:18
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