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三毳山の「ヤブラン」

 

”三毳山の”と冠したが、ヤブランは里山にはごくありふれた花だ。画像だけで分かる、どこそこのヤブランなどという特徴があるわけでもない。

 

ヤブランは「藪蘭」で、名は体を表すでもあるまいが、とりわけ美しいとも思えない。だが、群落で咲いていれば、それなりに見ごたえがある。

”三毳山の”というのも、実はそうした気持ちからで、さすがに三毳山は「花の百名山」だと言いたいということでもある。

 

三毳山には「キツネノカミソリ」の大きな群落が3か所あるそうだが、画像はその中の1つだという場所に咲いていたもの。ちょうど光があたっていたので撮ったのだが・・・それでも、とりわけ美しかったとは言いがたい。

 

そこでは、キツネノカミソリの花は咲き終わり、タネの果実をつけた寂しげな群落になっている。その斜面を縦に分ける木道階段のハイキング道がある。『三毳の関跡』から西の万葉園へ下る道と言えば、何回か来ている人には分かるだろう。ヤブランはその道の両サイドに群落になって咲いている。

 

道の直ぐ脇にある様子を見ると、もしかして、ここのヤブランは人の手にかかる群落かと疑いたくもなる。三毳山は全体が里山公園でもあるから、それは無きにしも非ずかもしれない。最も大きなキツネノカミソリ群落地も、公園管理者がシーズン前に草刈をしていることだし・・・

 

だが、かりにそんなふうに冷めた目で眺めたとしても、三毳山が貴重な自然を残してることに変わりはない。週に1度くらいのお山歩だが、登り道にふうふう言いながら汗を拭って見るのは、やはり格別なものがある。

たとえ、ヤブランが我が家の裏にも咲いているにしてもだ。

author:u-junpei, category:お山歩, 19:19
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三毳山 「キツネノカミソリ」

 

三毳山は、田中澄江の「花の百名山」(1980年版)にはないが、その後に出版された「新・花の百名山」(1995年版)には、カタクリが咲くことで入っている。2冊合わせてみれば百名山というより二百名山だろうが、2百数十メートル足らずしかない里山が取り上げられてることは珍しいだろう。

 

確かに、この山のカタクリの群落は見事で、この近辺では最大の規模だろうから、三毳山といえばカタクリとなるだろう。

だが、実はキツネノカミソリの群落もすばらしい。

 

 

群落の斜面の端をハイキング道がある。山の上から下ってきてここを通ると、突然のように、オレンジの色が広がるのだが、一瞬息をのむのは私だけではあるまい。

私は、この山のヤマユリの花や薫りが大好きだが、それに続いて咲き出すキツネノカミソリも見逃せないと思っている。

共に最盛期は1,2週間くらいで短いが、この後にはヒガンバナが咲きだすだろう。これはむしろ、三毳山を取り巻く田の縁などに咲いているのが好ましいかもしれない。

 

 

三毳山は山全体が公園地になっていて、どこも良く管理されている。その見回りの職員から聞いたことだが、カタクリとキツネノカミソリの球根の話で、カタクリの球根はキツネノカミソリの球根より深くにあって、キツネノカミソリがカタクリの生育を邪魔するのだという。

 

その口調がキツネノカミソリを非難しているかのようで、どちらの群落も気に入っている私には気になった。

そういえば、キツネノカミソリの群落のある場所では、カタクリは見なかったようにも思うが確かではない。この山のカタクリの大群落は別の場所にあるからだ。

 

しかし、この話は本当だろうか?

公園の管理下にある群落だから、球根を掘って、実際はどうなのか確かめるわけにはいかないのが残念ではある。

author:u-junpei, category:お山歩, 23:23
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天空回廊1445段

 

日光霧降高原にキスゲ平園地がある。ここはスキー場のあったところで、ニッコウキスゲの咲く時期にもリフトが動き、足元の花を楽しみながら、高原の最上部に行けるので人気があった。

 

現在は、スキー場は廃業し、リフトの跡に1445段の階段ができた。赤薙山(2010m)への登山コースにもなっていて、この山へ登るには、どうしてもクリアーしなければならない。

それで、山仲間が赤薙山登山のプランをたてたのだが、私は階段を登るのも苦手で、同行するのは尻込みしていたのだが・・・

 

 

100段ごとにプレートがあり、それぞれに短い励ましの言葉がある。

上の画像は1000段目で、『来た1000段目!』とある。あと3分の1だと思うと、頑張ろうという気になる。

 

 

1445段の標高差237mの最高部に「小丸山展望台」がある。条件がよければ富士山やスカイツリーも見られるというが、この日は霧降高原らしく霧があって遠望はなかった。高原の斜面一帯にニッコウキスゲが咲いていて、「キスゲ平」なのだなと納得。

 

展望台の柵に「合言葉」が書かれたプレートがあり、それを、麓のレストハウスで言うと、踏破記念のカード(絵葉書大)がもらえる。私も胸張って申告し、もらえたのは嬉しかった。

 

階段の往復は90分が標準のようだが、赤薙山に登った帰りでは、下りの方が膝にくる。途中900段目くらいのところから、園地内に入る遊歩道がある。下りはこちらを選んだ。

 

 

遊歩道では、ニッコウキスゲはもちろん、シモツケ、ヨツバヒヨドリ、コオニユリ、ヤマブキショウマ、アヤメなどなど、まじかに見られて良い散策になる。

上の画像は、コバギボウシだろうが、花弁に筋が入っているのが珍しく美しいと思った。

author:u-junpei, category:お山歩, 19:19
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両崖山の「溶岩石」を確かめに、「本城1丁目コース」を登る

 

前回、足利市の両崖山から天狗山を廻るハイキングをした際、両崖山(251m)の山頂の肩で「溶岩石」を見た。だが、これは「本物」なのか、「なぜ」こんなところにあるのか? 

 

両崖山には16世紀以前から山城(足利城)があり、今ではハイキングで人気の里山ではあるが、「火山」とは全く関係ないはずだ。不思議に思ったが、山仲間と一緒だったので、詳しく観察するヒマが無かった。その時に写真は撮ったのだが、後で画像を見ても、イマイチ「溶岩石」と断定できない。

 

ネットで「これ」について触れているのがあるか探したが・・・無い。それで、それをもう一度良く見て、はたして溶岩の石に間違いないか確認したいと考えていた。

 

そんなわけで、今回のお山歩は目的が限定されているので、できるだけ速く簡単に両崖山頂の目的地に着くルートを探した。2万5千分の1地形図を見ていたら、足利市本城の『美人弁天』(厳島神社・明石弁天)から少し先の支尾根に破線があった。ここから登ると織姫山からのポピュラーなハイキングコースに出られ、かなり時間短縮になりそうだ。

 

車を走らせると神社前の道路は一方通行で、破線のある麓の墓地前にどう行こうか迷っているうちに、足利高校の西側を通り、高校の北にある病院前の丁字路に来てしまった。

ところが、そこに、両崖山への道標がある。「?」という気分だが、破線のところに出るのかなと最初は思った。

 

丁字路を左折して着いた山麓が上の画像で、両崖山頂まで0,7劼瞭刺犬あった。山裾の路肩に駐車できる場所もある。地形図の破線より北にある支尾根で、両崖山頂へは破線を登るよりずっと近い。どうやら、病院裏手の支尾根中腹にある雷電神社から、両崖山頂をぐるっと周回できるハイキングコースを整備したようだ。

 

 

道標のそばに案内図があった。このコースほとんど車道歩きしなくて周回できる、早い時間だったら歩いてみたいコースだ。本日はもう午後2時過ぎなので、回り道せず先を急ぐことにした。

 

 

今回のお山歩は「溶岩石」にしか用はない。それで道標の示す山頂まで0,7劼療仍穫に入ったのだが(上の画像)、その入り口にある洒落た洋風の家は、女性元市議会議員のお宅のようで、この家の人が設置したと思われる「両崖山の案内」板があった。

 

その記事によると、この入り口から50mほど入った左側に、かつて武家屋敷があったという平地があり、昭和40年ころまで年に1度、お年寄りが「長尾様」と呼んで供養したという祭壇跡があるという。

 

 

それがどうやら、上の場所のようだ。そこへは堰堤のある沢を渡らないと行けない。小さな沢で水はほとんどないが、道がないところを、ちょいと下りたり上がったりしなればならず、それが面倒に思われた。

 

杉林に囲まれている対岸の奥の方を見ると、どうやら石祠などがあるようだ。そうなると好奇心がうずき、見過ごすわけにはいかなくなってしまった。

 

 

ここには、少なくとも石祠が2つと石碑が3つ、その他、人工的に置かれたと思われる大石などが散在している。

石碑の1つに昭和9年の年号がある「長尾神社紀念碑」があった。これで、地元の人が「長尾様」と呼んでいたのは神社だと分かる。石祠の1つは名前のある額の部分が剥げていて分からないが、もしかして、これが長尾神社かも知れない。が、「長尾」の由来はなんだろう?

 

もう1つの石祠が上の画像で、これには「天龍神」とある。建立年は分からない。その前の「境内」にあたるところに、石で囲われた小さな丸い窪のようなものがある。おそらくここには、龍神の池か泉、あるいは井戸のようなものがあったのかも知れないが、今は杉の落ち葉に埋もれている。

 

その他の石碑の1つに、神習教の「明治百年植林記念碑」(昭和42年)がある。両崖山山頂付近にあるたくさんの石祠や石碑は、神習教関連が多いようだ。

とすると、これから登るコース(本城1丁目コース)は、元来は両崖山への参拝道だったのだろうか? 大きな石碑などを山頂へ運ぶ労力などを考えると、できるだけ距離が短くて、しかも楽に運べるルートを選んだはずだ。

 

実は、私が確認したい「溶岩石」も、神習教関連の石碑のところにある。私は神習教がどんなものか全く知識がないが、この登山コースをとり、偶然にも長尾様の石祠や神習教の石碑などを見てしまったことに、なんだか因縁めいたものを思ってしまった。

 

 

模擬木の階段道が続き、やがて尾根に出ると「本城1丁目」と「両崖山頂」を分ける道標があり、その付近には紫のミツバツツジがそこかしこに見られた。

 

 

その分岐から、両崖山方面に進むと、直ぐに大岩がある。

 

 

上の画像では分かりにくいが、かなり大きい岩で、その向こうは絶壁になっているように思われた。私は高所恐怖症なので、恐ろしげなところへは最初から近づかないでいる。

帰宅してネットを見ると、この大岩にふれたサイトがあった。立ち入り禁止の表示があるが、登ることができて眺めが良いらしい。

このサイトでは、両崖山の山名由来になった大岩かもしれないとあった。ということなら、もっと近くで見てみたかった。

 

一般的には両崖山は「要害山」からきていて、それがなまったふうに「両崖山」になったという。しかし、私も、この要害説は納得できない。

確かに山城が築かれてるので「要害の山」だろう。だとしたら、要害山でよいはずだ。いくら桐生の方に「要害山」があるからといって、なにも遠慮することもなかろう・・・と思う。

 

両崖山方向にわずかに急斜面を登ると、にわかに、展望台の近くに飛び出した。すぐ先に両崖山頂の石段が見える。今回は寄り道や写真を撮ったりして時間がかかったが、わき目も降らず一生懸命汗をかげば、「本城1丁目コース」は30分くらいで登って来られただろう。

author:u-junpei, category:お山歩, 22:33
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八王子丘陵 「イノシシ君のトイレ事情」

 

八王子丘陵の茶臼山々頂から、西下の沢を挟んだ向かいの尾根筋を見ると、遠目には芝山のように禿げた斜面が広がり、そこに赤茶けた作業道が幾筋も交差するように見える。

昼食を食いながら、そんな様子を眺めていると、山火事でもあったのかとか、植林の予定地だったが、それが放棄されてしまったのかとか、その理由を知りたいほどに興味を引かれた。

 

今回の往路は樹徳幼稚園横から、『尾根コース(三堂の頭 経由)』という小さな案内表示に惹かれて北側から登ったので、山頂からの帰路は、山頂南側から『一木口コース』に下りついでに、沢を渡り、その禿尾根に上がってみた。

 

上の画像はその禿尾根の一部。画像は南方向を見ているが、ここから北方向の東側斜面が広く開けている。この斜面は雑木もほとんどなく、遠目に芝地に見えたのは低い篠竹の藪で、その中に間隔をあけて何本もの作業道がある。もとは植林地帯だったのかもしれない。あるいはこれから植林する為の整備段階なのだろうか・・・

 

樹木がなく、よく日が当たるせいか、その作業道のところどころに、日当たり地への最初の進入木になるというタラの若木が生育している。季節になればタラの芽を採取するのに手が届く手ごろな大きさだった。

 

その作業道には、登山靴ではない、平べったい大人の靴跡が1種類だけ見られた。他に靴跡がないので人はほとんど入ってこないようだ。私は支尾根上を麓へ下ろうと思ったが、深い篠竹の藪になり、やがて痩せ尾根で崖地になったところであきらめた。

 

 

前置きが長くなったが、その藪を突っ切って一段下の作業道に下りると、そこが十数メートルにわたって糞だらけだった。彼か彼等か分からないが、どれもイノシシの特徴的な糞で、トイレ場所になっているのは明らかだ。中でも、上の画像のものは、まだ湿り気が残っていて新しい。この場所は現在形で使われていると思う。

 

こうした観察から分かるのことは、イノシシはやたらとどこでもかまわずに糞をするわけではないようだ。彼らはけっこうデリケートな神経をして、トイレとなる場所を定めていると思われる。

 

私はそこら中に糞がある場所を、栃木県佐野市の里山が続く安蘇山中でも見ている。あまりに糞が多いので、その一画をクソ尾根と名付けたくらいだ。そこもやはり日当たりが良く、見晴らしも良いところだった。もちろん、人間はあまり入らず、用事中に邪魔されたりしないところだと思う。

 

そんな開放的なところを、彼らが常設のトイレ場所にしている気分は、私にも分かる気がする。私は山歩きで腹が痛くなるたちなのだが、誰にも気兼ねしなくてすむなら、隠れて雉撃ちなんぞしたくはない・・・と思う。

 

私は鈴を鳴らしながら歩いていたのだが、このトイレを見てからは、携帯ラジオもオンにした。なんだか、イノシシ君がどこかで私を見張っているかも知れないと思った。

author:u-junpei, category:お山歩, 21:42
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三毳山の岩穴

 

上の画像では、大岩に穴が穿かれているのだが、洞窟というほど大きくはない。それで、タイトルでは『岩穴』とした。

 

山のなだらかな斜面で、地に半分埋もれているような大岩がある。この斜面前はトレインバスが走る専用車道で、私は何度もここを歩いている。

ヤマユリの咲く季節には、この斜面も眺めていたかも知れないが、大岩の存在には気にも留めていなかった。ましてや、穴が開いているとは思いもしていない。

 

 

今回は、ウォーキング中かハイカーのおっさんが、『ナンデモナイ』と言いながら下りてくるのを偶然目にし、私は何だろうと野次馬根性で見に行ったのだ。

場所は、車道から2mくらいひょいと上がったところから数メートル先で、確かに穴の規模は小さく特に何ということはない。

 

 

穴が2つあることには、最初上がった時には気付かず、車道から再び眺めて、もう1つある事が分かった。

 

2つあるとなれば話が違う。私はもう一度上がって仔細に観察することにした。

右の穴(2枚目の画像)は大人一人が座っていられるくらい。左の穴(上の画像)はもう少し広くて、大人2人が座るか、1人が寝そべるくらいの大きさ。

 

 

上の画像は左の穴だが、2つの穴は内部でつながってはいないようだ。もっとも、地面が平らになっているのだが、埋められてそうなっているのであれば分からない。

 

この穴は、何の為に掘られたのだろうか?

現在は三毳山全体が公園になっているが、それ以前も山中に居住地があったわけではなかろうし、この場所にもそんな雰囲気は全くない。したがって、貯蔵庫や防空壕というのは考えづらい。

埼玉県吉見町の「吉見百穴」のように、古代人の墓というのはどうか。穴の規模は同じくらいだろうと思うのだが・・・だが、もしそうであれば、どんな出土品があったとか、何か案内板があっても良いだろう。

 

私の結論では、マンガン鉱の採掘で、戦時中くらいに試掘した跡というのが妥当のように思われる。

しかし、だとすれば、三毳山全体のどこかに、他にも採掘跡があってもよさそうだが・・・そのような案内を見たことはないし、私自身も、ずいぶん歩き回っているが、そのような岩窟や岩穴を他に見ていない。

ちなみに、私のホームグランドの大小山には、マンガン鉱を採掘した洞穴が何ヶ所もある。

 

それゆえ、これは謎のままであるが、このくらいの穴なら、放置しても危険はないと思われる。多くのウォーカーやハイカーやトレインバス車道脇だから、熊君はもちろん猪君も巣穴にする気になれないだろう。

まあ、いるとすれば蛇君くらいだろう。私はヘビは苦手なので、さっさと「調査」を終えることにした。

author:u-junpei, category:お山歩, 22:55
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足利の梅林「西渓園」

 

織姫神社がある織姫山(118m)の西麓に、約3haの広さだという梅林がある。「西渓園」という。

白梅7割・紅梅3割で1200本あるそうだが、ざっと見たところでは、ほとんどが白梅のようだった。

上の画像は、織姫山から両崖山(251m、足利城跡)へのハキングコースの尾根上から眺めたもの。

 

 

足利市のHPによると、この梅林は昭和39年にある実業家が開園し、梅の実を収穫して、女子工員が夜間高校に通う育英資金に当てたという。

現在は市に寄贈され、すぐ近くにある中学校の生徒が、自分が世話する木をそれぞれ定めて管理し、PTAや地元の人たちの応援を得て、「共汗共育」という活動に役立てているそうだ。

 

尾根上からの眺めは、斜面一帯が白く見えるような景色だったが、園内を歩いてみると、それぞれの木の花付きはイマイチだった。

 

『桜切るバカ 梅切らぬバカ』というが、梅は枝を剪定しないと花付きが悪く、梅の実の収穫にも影響する。この梅林の花が少なく見えるのは、1200本あるという全てに手が回らないせいかもしれない。あるいは、生徒が管理してるといっても、ほんの一画だけなのかもしれない。

 

この中学校では、梅の実を採取しているのだろうか?

そうだとしても、今の状況では、豊かな収益をあげるほどの生産性は望めないかも知れない。

また、群馬の有名な箕郷梅林でも、原発事故のあとでは汚染がどうのこうと、収穫した梅を業者に引き取ってもらえず、大量に廃棄したという。

私はそんな苦労話を生産農家から聞いていたから、この中学校の生徒らが収益を上げようとしたら、それは大変なことだろうと思いながら梅林を歩いた。

author:u-junpei, category:お山歩, 02:02
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三毳山の「雪割草」

 

三毳山の雪割草は、公園南口の駐車場の直ぐ上に、ロープで囲った自生地がある。

数は少なくなっているそうだが、それでも白やピンクの可憐な花が、なるほどこれが雪割草かと確認するくらいは咲いている。

 

去年の今頃、シュンランがそこかしこ咲いていた雑木林の斜面に行って見た。まだというのか、もうというのか分からないが、花を見つけることはできなかった。

 

三毳山でも赤松が軒並みというほど枯れてしまっている。自然倒木だけでなく、それを伐採に入ったりするだろうから、シュンランの咲く条件も変わってしまうのかもしれない。

author:u-junpei, category:お山歩, 23:23
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八王子丘陵「黒石峠」

 

東西に細長い八王子丘陵には、北の桐生側と南の薮塚側を結ぶ峠道が5本あったという。上の画像は、それらの中で一番西にある「黒石峠」。画像の上方向が西で、峠から西側に少し上ったピークが、峠名の由来になった「黒石山」と思われる。

 

 

黒石山の山頂には、薮塚村○○が明和九年(1780年)に建立した石祠がある。尾根道を挟んだ南側には、以前は灯籠だったような石柱がある。

 

 

この石柱には、奉納御宝前と刻まれている。その向かって右側面に寛政四年(1792年)の建立年がある。「奉納御宝前」が正面だとすると、画像の右側にここに上ってくる参道があったのだろうか。

 

篠竹の藪の中に、イノシシが掘ったと思われる跡がいくつもあるが、昔の参道らしいものは藪に覆われて確認できなかった。少し藪に突入すれば、道跡が残っているやも知れないが、そこまでする酔狂な勇気はなかった。

 

この石祠は何を祀ってあるのか気になるが、石祠や石柱には刻まれていない。地図を見ると、この黒石山の南麓に白山神社と愛宕神社がある。とすると、この石祠はいづれかの奥宮でもあるのだろうか。

 

 

この石祠の回りに大石がいくつかある。

この石の正体は、ネットで見た群馬県立自然史博物館の地質調査資料から推測すると、『黒色安山岩質岩』と呼ばれているものだろうと思う。

 

 

また、上の画像は石祠が置かれている丸みのある岩の表面をクローズアップしたものだが、石祠の後ろの回りにあるいくつかの大きな岩石(おそらく、黒色安山岩質岩と呼ばれるもの)とは違うように思われる。こちらは見た目には、黒い小石を含んだ溶岩か、八王子丘陵を構成するという凝灰岩が溶結したものではないか。

 

私は、地質には全くの素人で岩石の種類は分からない。だが、昔の村人がこれらの黒い大石がピーク上にあるのを見て、何かスピリチュアルを感じて石祠を置いたのだとしたら、それは大いに同感できる。

それゆえ、黒石山の下を通る峠ということで、村人は「黒石峠」と名付けたに違いないと納得したのだが・・・

author:u-junpei, category:お山歩, 16:42
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八王子丘陵・宝珠院口〜

 

八王子丘陵は「八王子山脈」という表現もあるほどで、桐生市と太田市とみどり市を境界とする東西10劼曚匹猟禹海力△覆蠅澄

私は山歩きを始めて間もない99年3月、東毛少年自然の家から、山脈の主峰「茶臼山」(294m)に登り、小学生になった気分で、尾根道をぐるりと周回したことがあった。

この時の山道の雰囲気が気分良く、ギリシア宮殿のような石切り場も興味深く印象的で、その後、何回かこの山中をさ迷うように歩いたことがある。

 

この東西に長い丘陵には、南北を結ぶ昔からの峠が5本あったという。東西に分ける真ん中の峠が籾山峠で、今でも桐生の広沢と太田の薮塚をつなぐ幹線道路になっている。

 

上の画像の庚申塔は、丘陵の西側にある峠のひとつ、姥沢峠(八王子峠)に立っている。

最初に来た時、この峠も通過しているのだが、山行記録に庚申塔の記載がない。この頃は、まだ青面金剛などの庚申塔に興味がなく、この庚申塔を見ていたとしても記憶に残らなかったのだろう。

今回は、この庚申塔を確認することを目的にしてきた。

 

 

桐生市広沢の宝珠院口から尾根伝いのコースをとった。この登山口は水道施設の入り口になっていて、施設の手前から山道に入る道標がある。

私は、尾根伝いに「水道山」を経由するという知識を仕入れてあるので、迷わず山道に入った。

最初のピークがその水道施設の裏手になっているようだが、山名標はなかった。

 

次のピークは、ベンチが置かれて見晴らしが良く、もうひとつ向こうの尾根に茶臼山の電波塔が眺められる。ここはピークらしいピークだし、これが水道山かと思ったが、ここにも山名標はなかった。

 

最後のピークは、下ったところが、目的の庚申塔があるところだったが、やはり「水道山」の山名標はなかった。だが、下りたところに水道山を示す小さな道標があり、小広場のような辻に庚申塔がある。ここが姥沢峠だから、一番高い最後のピークが水道山だったのだろう。

 

 

庚申塔の向かって右側面に、「萬延庚申 十二月」と、きれいな草書体で彫られていて、なれない私には読み取りにくい。萬延の年は元年だけだが、ちょうど庚申の年(1860年)にあたっている。庚申年の西暦は60で割り切れるので覚えやすい。

 

左側面に「荻野氏」とある。つまり、講中とかでなく、個人か一族で建てたのだろう。この庚申塔についてもう少し知りたくてネットを探したら、荻野は広沢側の人だろうという記述がある下記のサイトがとても参考になった。桐生の広沢には荻野姓が多いのだろうか?

http://akanekopn.web.fc2.com/yama/sanyaken/sanyaken101.html

 

 

姥沢峠から茶臼山へ行く途中に、古井戸跡や「八王子」と刻まれた古い石柱などがある八王子山がある。ここはかつて八王子神社の奥宮があったところだそうだ。

それで、姥沢峠はこの奥宮に至る峠道だったことから、「八王子峠」が正しいのではないかとも言われている。

 

この八王子山を茶臼山側に下る途中に、上の画像の庚申塔があった。これは小さなもので、建立年月日等も分からない。

ご覧のように、新しい水が備えられているのが、不思議に思えた。酔狂とも思えないから、信心深い人がいるのだろう。

それにしても、姥沢峠の庚申塔にはお供えはなかった。荻野氏と建立者がいるので、構わずにいるということだろうか?

 

 

上の画像は、茶臼山頂から赤城山の展望。左に目をやると榛名山、さらに左の山並みの中に、荒船山の特徴的な山容が眺められた。

茶臼山は太田の金山城に属する見晴らし台があったというが、さもありなんとうなづける好展望だ。

 

ちなみに、山頂から北へ広沢の八王子神社方面に下るとまもなく、「馬場跡」という場所がある。私はなぜ「姥沢」峠なのか疑問に思っていたが、参考にした上のサイトには、「馬場沢」が転じて「姥沢」になったとの記述があった(「上野国郡村誌」より)。

 

この郡村誌の記述は、なるほどとは思わせるものの、なんだか眉唾のような・・・

author:u-junpei, category:お山歩, 22:00
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