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読評 『安楽死で死なせてください』(橋田壽賀子 著)

 

一ヶ月ほど前、NHKの深夜の再放送で、安楽死のドキュメンタリーをやっていた。難病に冒され、安楽死を受けるためにスイスに行った若い女性(50代くらいだろうか)の話だった。

途中から見たので詳細は分からなかったが、彼女の最期の瞬間まで映像で映し出していたのがショックだった。それは、安楽死とはいえど、いわば自殺だったからだ。

それを見たことで、このごろは安楽死について考えている。終活を迎える私の歳では、少し遅いくらいだろう。

 

私は安楽死そのものの正確な知識がない。尊厳死とはどう違うのだろう。

それで、図書館を検索して読んだのが、実際に世界各国の安楽死事情をリポートした『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一 著)だった。宮下洋一は上のNHKのドキュメントに関わる『安楽死を遂げた日本人』という本を出しており、私はむしろこちらを読みたかったのだが、地元の図書館にはまだこの本が置いていなかった。

 

『安楽死を遂げるまで』は安楽死の情報を得るには最適だったと思う。内容は、各国での安楽死と尊厳死の違い、各国でそれが法的にどのように扱われているかを知ることができた。これをブログの読評に揚げるつもりだったが、返却してしまったので詳細に誤りがでるといけないので割愛している。

 

この本の中で、今回取り上げた、橋田壽賀子の『安楽死で死なせてください』に触れていた。橋田はテレビドラマの脚本家として有名だから、あまりテレビを見ない私も知っている。それで、彼女がなぜ安楽死したいのか興味が湧き、通販で購入した。

 

橋田は1925年生まれで、この本を出した2017年は92歳。彼女は申し分なく楽しい人生を送っていると書いている。それでも痴呆症になることを怖れているようだ。そうなる前に楽に死にたいと思っているそうだ。だから、安楽死を肯定し、外国人にも安楽死を施すスイスに行き、安楽死したいと書いている。

 

この本の時点では、スイスで安楽死した日本人女性はいなかった。しかし、もし橋田が実行すれば、すごいセンセーショナルな出来事になるだろう。

もちろん、これは橋田自身の願望であって、彼女の現在の恵まれた環境を考えると、たぶん実行はないと思う。彼女のこの本の主張の真意は、死の自己決定権であって、日本にも安楽死を認める法があっても良いということなのだ。

 

また、橋田はスイスでは安楽死を認めているといっているが、安楽死と尊厳死との違いについて、彼女の認識しているところが正確なのか若干疑問を持った。

宮下の上記の本によれば、スイスの安楽死はあくまでも「自殺幇助」なのだ。橋田自身はどんな場合でも自殺願望はなさそうだから、彼女がスイスに行くことはないだろうと、この本を読み終えて思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:44
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読評 「地球の履歴書」(大河内直彦 著)

 

本を書店で購入するときには、面白そうかどうかは、たいていは本の帯を参考にする。

いわば、本の帯は初対面の第一印象と同じく、そこに書かれてるコピーの影響は大きい。だが、それに紹介者の顔写真まであると、出版社はその人の知名度を当て込んでるのかと興ざめしないでもない。

私は、最初、この顔写真は著者かと思った。学者にしてはやけに笑顔の印象がし、本の内容は大丈夫だろうかと思ったほどだ。この笑顔は商売人のそれだ。

 

私は、ライフネット生命会長兼CEOと肩書きされた出口冶明なる人物を知らないし、興味の対象にもない。書店で見たら、購入したかどうか分からない。この本を通販で購入したのは、結果として幸いだった。内容は大変興味深かった。

 

通販の時は、手にとって見られない分、コメントを参考にする。この本の場合も見た。

私はふつう評価の低い方が気になる。納得できる理由なら買わない。

この本には、低い評価に『思ったより専門的な記述で難解』で『期待したほどワクワクさせる内容ではなかった』とあった。

しかし、最新の科学で事柄を説明するのに、ある程度専門的な言及になるのは当然だろう。期待したほどでなかったというのは参考にならない。ワクワクするかどうかは好奇心レベルの問題であるからだ。

 

で、私が読んでどうだったかというと、専門分野の記述は無視できる程度だった。というか、無視する。そうしても、テーマの大勢に影響はない。

例えば、この本では触れられていないが、最近ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。私の理解ではブラックホールは光も吸収してしまうのに、なぜ映像が撮れるのか分からない。だが、分からなくても興味深い。

 

この本では、「地球の履歴書」という視点から、8章にわたり我々が認知できる様々な地球の現象が、科学者の目から語られている。

8章の「地球からの手紙」では有馬温泉が取り上げられている。温泉は火山の近くにあるというのが常識だろうが、有馬温泉には付近に火山ない。

それなのに、90度を越える湯が1000年にも渡り噴出し続けているという。科学者魂をくすぐる「奇妙な例外」なのだそうだが、その説明にはなるほどと興味深いものがあった。

 

読者が興味を持つように説明を構築する。それは、著者が「まえがき」で取り上げた、夏目漱石の弟子で科学者であり文学者でもあった寺田虎彦の世界を、著者も追いかけたいということなのだろう。

科学者の目が捕らえたエッセイは、文学の香りもし、面白いものがあると思う。医者が小説世界を描くと、専門知識が生かされていのと同じだろう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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読評 「創価学会」(田原総一朗 著)

 

自民党と連立与党を組む公明党は、創価学会との関係なくしては語れない。当の学会は、かつてはその自民党からも野党からも、言論出版妨害事件や政教分離に関して激しい批判攻撃を受けている。私も当時の秋谷会長が国会喚問を受けたのをテレビ中継で見た記憶がある。

また、創価学会は日蓮正宗の信徒団体としてスタートしているが、1991年にはその宗門から破門され、宗教団体として存立が危ぶまれた。

 

そのたびごとにと、著者は当時を振り返り、ジャーナリズムの「われわれ」は、創価学会は衰退すると予想したという(本書まえがき)。

ところが、2018年現在、SGI(創価学会インターナショナル)は世界192ヵ国・地域に広がり、日本以外の国に240万人もの会員を擁している(p319)

 

いわば、創価学会は今や日本発の世界宗教であって、幾たびの危機的状況を乗り越え、なぜそのような発展をしているのか、「まえがき」で著者はジャーナリストとして、その実態をつかみたかったという動機を率直に述べている。

 

私も、とくに公明党との関係には強い関心がある。さらに、世界宗教であるキリスト教・イスラム教を信奉している人々と仏教がどう関わって、なぜ創価学会の信仰が受け入れられているのかにも興味をもって読んだ。

 

著者は、『おわりに』という「あとがき」で、次のように述べている。

 

『・・・他宗を一切認めないという立場を貫けば、いかに大きな宗教集団をいえども孤立する。しかも、それを乗り越えるのは至難の業である。

当然、民主主義国家では生きにくくなるだろう。なぜなら、民主主義とは自分の意見は持ちつつも、異なる意見を認めることで成り立つからである。宗教と民主主義は相容れないのではないかと私は感じていた。公明党が結党し、政界に進出したときにも、創価学会はこの矛盾にどう対処するのかと案じたものだ。

 

だが、池田大作氏は宗教における”排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も否定せず、他宗教の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼しあうことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している。

これは、どの宗教にも成し遂げられなかったことであり、私はそこに、創価学会としてのすごさを感じるのである・・・』

 

本書の内容は、このような結論に至ったことを、第1章「創価学会の誕生」〜第9章「特別インタビュー原田稔会長に聞く」まで、様々な場面で検証したもので構成されている。

著者は1934年生まれ。テレビで見る様子は、かつてほどには迫力がなくなっているようだ。だが、本書にはジャーナリストとしての生涯に恥じない魂があると思った。

 

本書に書かれた池田会長をはじめ、学会や公明党幹部へのインタビューには、かなりキツイ突っ込みを入れているが、偏見を排した公正な誠実さが感じらる。ジャーナリストの真骨頂とはこのようなものをいうのであろうか。

 

もっとも、第二章「創価学会の拡大と救済論」で、著者自身も創価学会への懐疑と偏見があったことを、正直に次のように述べている。

『・・・実は創価学会に対して私は長い間、偏見を持っていた。というのも、私が20代だった1950年代、創価学会はきわめて戦闘的な集団と見られていたからだ。第2代会長に就いた戸田の指揮のもと、強引な折伏大行進を行い、他宗教を邪宗と決めつけるなど、排他的な集団としか思えなかった。また、その信仰観についても、いろいろな新興宗教が「難病が治った」「奇跡が起こった」というオカルトまがい話を喧伝するのと同列のうさん臭さを感じていた。』と

 

こうしたことでは、多くの人が著者と同様に思ったに違いない。いまだに偏頗な学会批判書が多いのもうなずける。

 

ところが、このような日本の創価学会の歴史と、海外では事情が全く異なるようだ。海外での布教活動は、池田会長のいわば手作りでスタートしている。上記の日本のような状況ではなく、その国や地域の文化を尊重し大事にしている点が、大いに違っているのではなかろうか。まさに、著者の「あとがき」に指摘されているとうりなのだろう。

また、本書に収められている海外の会員へのインタビューで語られている体験談を読むと、入信動機というのは人種を問わず同じようなものがあり、人間は同じなんだなと感慨深いものがあった。

 

本書は、一流ジャーナリストが忌憚なく客観的に見た創価学会の歴史を語っているということでは、学会批判者にはもちろん、、一般会員にも一読をお勧めしたい1冊だ。

author:u-junpei, category:読評, 18:00
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読評 「本と鍵の季節」(米澤穂信 著)

 

この小説は、高校2年の男子生徒2人が、図書委員となって知り合い、シャーロック・ホームズのように推理を重ねて、謎解きをする7つの連作短編集になっている。

 

例えば、最初の短編は「913」というタイトルで、やはり図書委員だった高3の女子から、祖父が残したというダイアル式金庫を開けて欲しいと頼まれる。祖父が急死し、祖父からは「大人になったら分かる」と聞かされていたものが、金庫の中にあるはずだというのだ。

 

小説の主人公である男子高校生2人は、依頼してきた女子高生の姉が急須に入れて2人に出したお茶の味と、なぜプロの金庫屋に頼まないのかという単純なことから、彼女の依頼の前提に疑いを抱く。開錠はできるのだが、そこではもっとシリアスに捻られた話が展開される。

 

7つあるそれぞれの短編に描かれる話は、身近にあるようなことで、複雑怪奇な事件を扱うような推理小説ではない。これらの短編の真骨頂は高校生2人がする推理の会話にある。作家はそこに2人それぞれの個性を描いている。

 

この本は推理小説であるから、細部を紹介してはルール違反になるからこれ以上は書かない。主人公と同年代の高校生が読んでももちろん、私のような老齢者が読んでも十分に楽しめる内容だったとだけ述べておこう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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読評 「すぐ死ぬんだから」(内館牧子 著)

 

すごいタイトルにひかれて借りようと思った。私もそうだが、いわば先のない高齢者の物語だろうと予想したが若干違っていた。

 

主人公の忍ハナは78歳。老人は歳相応にナチュラルではなく、オシャレや外見に気を配り、いかにもジジババに見える年寄り臭さを断固排除して生きるべきだという自論を実践している。

上の画像(表紙絵)のように、老人の特徴は、男も女も誰もがリュックを背負い、帽子をかぶっている、お決まりのジジババスタイルだという。

ハナはというと、下の画像(裏表紙絵)のようで、とても78歳には見えない。

 

 

1歳上の夫の岩蔵とは夫婦円満で、自他ともに素敵な夫婦だと認めている。岩蔵はハナにやかましくいわれて、外見(食べるものから着る物まで)をいわば強制されているのだが、日頃からハナと結婚して幸せだみたいな事を、臆面もなく言うような夫だった。

それというのも、夫婦して浮き沈みの激しかった自営の酒屋経営をきりもりし、人生の苦楽を共にしてきたからでもあった。今は長男に店を譲り、夫婦はマンションで悠々自適に暮らしている。

 

ここまでが第1章で、ハナの高校時代の同窓会に出席した時の様子などで描写されている。

ところが、第2章の最後で岩蔵が硬膜下血腫が原因で突然亡くなる。

 

この物語の本題は第3章からだ。岩蔵の自筆遺言書が見つかり、家庭裁判所で検認を受けると、認知していない息子がいるという、家族の誰もが思いもしなかった、晴天の霹靂のような事実が書かれていた。

2号というか妾というかはともかく、ハナには極秘に40年間も他所で続けらていた生活があったことが明らかになる。

そんな事実は、私だったら遺言書に残さず、秘密のままに墓場に持っていけばよいと思うが、岩蔵はそうしなかった。

 

まあ、それで『物語り』になるのであろうが、作家の前作である定年退職後の男を描いた「終わっ人」に比べると、不自然な展開で釈然としない。

今作は主人公が老女であるから、ハナの考え方も作家自身の投影なのかも知れないが、岩蔵のようにそんなバカなことするだろうかという気分が、第8章まである最後まで抜けなかった。

 

だが、高齢者がどのように日常を生きるべきかという視点でみると、大変参考になる作品ではあった。「終わった人」はドラマ化されたようだが、この「すぐ死ぬんだから」も映像になったら、小説とは違う面白さがあるかもしれない。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「植物は<知性>をもっている」(ステファノ・マングーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ 久保耕司 訳)

 

我々人間は、全ての生物の頂点に立ち、地球の支配者だと思っているところがある。欧米人では特にかも知れない。なにしろ、神様は御自分の姿形に似せて人間を作った。それゆえに、人間は彼が創った世界(=自然)を支配することを肯定されていると考えるからだ。

 

これは、キリスト教のような一神教の思想であって、日本のように八百万の神がいるのとは違うかも知れない。だが、人間と他の生物との比較では、人間を上位に見るところは同じだろう。

 

したがって、フツウの人であれば、自分より下位にある動物に人間と同じ知性を肯定したり、ましてや植物に知性を認めるなんてことはとんでもなく、ありえないことだと思うだろう。19世紀以前には、動物さえも知性を否定されていたのだ。

私も最初、「植物は<知性>をもっている」という題名を見たとき、知性という言葉に引っかかりを覚えた。が、同時に大変に興味を持った。

 

宗教的な思想はさておき、ホモサピエンスの歴史は20万年を遡らないし、それに対し、植物は30億年の長大な歴史がある。つまり、それぞれには時間の流れが違うのだから、進化のあり方も違ってたはずだ。

その考えに立つと、進化論で有名なダーウィンが、『植物の運動力』という著書で、植物の根の根端に優れた感覚能力があると主張し、後に「根=脳」仮説に進む実験データを集積していた事実は興味深い。

 

それが、植物研究の大きな潮流にならなかったのは、当時やそれ以後も伝統的な主流派の権威者から、ダーウィンや同じ立場の研究者たちが否定されてきたからだ。いわば、権威者である者たちは先入観や偏見に支配されていて、自己を守るためには、いくらでも守旧派になる。新しい学説を立てる者が、そのような「白い巨塔」に立ち向かうのは、今でもそうだろうし、過去の時代においてはなおさらだっただろう。あのガリレオでさえ天動説の権力に抗し切れなかったのは有名な話だ。

最近になり、ようやく植物神経生物学などの進歩によって、植物についての様々な認識が科学的に実証されるようになってきたという。

 

そこで、本書でいうように、知性とは広く『問題を解決する能力』と定義すれば、人間や動物の「脳」だけを知性の場とする、これまでの考えは色あせてくる。

著者は『すでに本書で見てきたが、あらゆる植物は、大量の環境変数(光、湿度、化学物質の濃度、ほかの植物や動物の存在、磁場、重力など)を記録し、そのデータをもとにして、養分の探索、競争、防御行動、ほかの植物や動物との関係など、さまざまな活動にまつわる決定をたえずくださなければならない。植物のこうした能力を知性といわずしてなんといえばいいのだろう?』という。

 

すなわち、本書では、人間や動物が持つのと同じ五感などの知覚・運動能力のほかに、さらに多様で豊富な能力の事例をあげ、植物に知性があることが、説得力をもって述べられる。

例えば、トマトは虫に襲われると、化学物質を放出して周囲数百mの仲間に危険を知らせるとか、ハエトリグサやウツボカズラなどの食虫(食肉)植物などは、単に条件反射しているのではなく、まさに動物狩りをしているという。

さらには、植物も睡眠するというのは、私も落花生で観察しているので頷けるものがあった(http://blog.kiriume.com/?eid=1223475)。また、植物も歳をとると、人間と同じように睡眠が浅くなるというのは興味深かった。

 

私が本書を読んで納得したのは、知性を人間のような動物の脳でしかありえないとする考えが、今日の学問やテクノロジーの発展によって、これからは急激に変化を遂げるだろうということだ。

著者は『ここ数年、植物のコミュニケーションと社会化のシステムについての研究が進んだおかげで、これまで考えられなかったような新しい応用技術を発展させられるようになるかもしれない』とし、『人間型ロボット(いわゆる「アンドロイド」)と動物型ロボットのあとに続く新世代ロボット、「プラントイド」(植物型ロボット)』や『植物をベースにしたネットワークを構築するプロジェクトがすでにはじまっている。』という。

 

私はこの本で、新しい知見の興味深い事実を知り、大袈裟なようだが知的感動を覚えている。植物に知性を認める考えは、人間と植物の関わりに、新たな展開をもたらしていくに違いない。

author:u-junpei, category:読評, 14:41
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読評 「終わった人」(内館牧子 著)

 

主人公の田代壮介は昭和24年生れ、岩手県盛岡市出身で東京大学法学部卒。高校では羅漢とあだ名されるほど優秀で、現役で東大に合格している。

卒業後メガバンクに入り、200人いる同期の内では最初に本部の部長になったが、役員に上りつめるもう一歩のところで、子会社に出向し、そこで専務取締役として63歳の定年を迎えた。この小説はここから始まる。

 

つまり、彼は定年の時点では、エリートとして銀行時代を過ごしたプライドがあり、「終わった人」になるには忸怩たるものがあった。にもかかわらず「終わった人」と認識し自覚せざるをえないところに、他の人には言えない彼の心の内での葛藤がある。

この辺は、自己評価が高い自負を持った者の、僻んだ根性が描かれるので、読んでいてもあまり面白くない。私がエリートでなかったことを置いてもだ。

 

壮介は、退職後の無気力な生活や、彼自身でも足が衰えたらなどと心配しだし、スポーツジムに通いだす。だが、そこにいるオジちゃんオバちゃん達と自分は違うのだと思い、彼等との会話や食事の誘いなども避け続ける。

また、何か生きがいを見つけようと、東大大学院を受験し、文学を学ぼうという計画を立てる。その受験準備の為にカルチャースクールの講座を申し込む。

 

だが、本当のところでは文学に深い関心があるわけではない。自信を持つために、何かしなければという焦りのようなものが彼を突き動かしている。私などは大学院などはどこでも良いと思うが、彼にとっては東大大学院というネームバリューこそが大事なのだ。

 

それゆえ、スクールの受付にいた久里という39歳のバツイチの秋田美人に魅かれ、彼女と受講についての話しをしているうちに、とっさの考えで、石川啄木の講座を申し込んでしまう。

その後、久里を高級レストランに誘ったりするようになるが・・・これは彼も自覚しているように、恋というほどでないとしても、若い女性となにかしらありたいという、下心ある高齢年配男のサガだろう。

 

娘の道子からは、それは「メシだけオヤジ」なんだよと、痛烈に言われたりする。このところの娘とのやり取りは、作家が女性だけあって容赦がない。だが、壮介がそうであるように、私にもそれでも可とするような気分は分かる。

 

そうしているうちに、たまたま、同じジムに通っていた若いIT企業の社長から、顧問に迎えたいという申し出を受ける。それは壮介の経歴を十分に生かせるもので、再び彼は充実した生活に戻っていく。

 

さて、長々と書いたが、これは田代壮介の人となりが分からないと、この小説は面白くない。エリートだった彼が本当の「終わった人」となるのはその後だからだ。

 

顧問になって数ヵ月後、IT会社の社長があっけなく急死してしまう。壮介は会社を引き継いで社長になることを、2,30代ばかりの若い社員たちから懇願される。最初は戸惑いながらも、それは彼にとっても望むところだった。自分の持てる力を発揮すれば、40人の若い社員の力になれると思ったからだ。

 

壮介は、妻の千草や道子らの反対を押し切り、小さいながら、将来は伸び盛りになるであろうIT企業を引き継ぐ。しばらくは社長として、心地よい疲労を伴う充実感のある生活が続く。久しぶりに出かけた銀座のバーのマダムからは、スーツが呼吸しているから、仕事や人生がうまく行っている証拠だと指摘されたりもする。

下り坂や不遇の男の着るスーツは、見た目に呼吸してないのだと言う。なるほど、銀座の一流マダムはそうやって人物を見抜くのかと感心した。

 

だが、案の定と言うか、小説ゆえのドラマ仕立てとでも言おうか、彼が入社する前から立ち上がっていたミャンマーの取引会社が、政治がらみの不正で倒産し、そのため壮介の会社も3億円の債権が回収できなくなった。銀行時代のつてをたよりに八方手を尽くすが、多額の負債を抱え、あえなく倒産してしまう。

彼は代表取締社長として連帯責任を負っている。結局のところ、彼が負担する分は9千万円になった。

 

この時に、壮介は65歳になっている。まあ、彼の人生は「終り」だろうねえ、と読者は思うだろう。とすれば、作家はシメタと思うに違いない。なにしろ、この小説は新聞の連載で、最後になるまで読者をひきつけておかなければならないのだから。

 

ここまでの話が、本のページ数では約3分の2。この後、読者は壮介の家庭が崩壊するのかどうか、残り3分の1読むことに付き合うことになる。エリートでないフツウの読者にとっては、他人の不幸を喜ぶとまではないとしても、彼のその後が気にかかるはずだ。

 

私にも、エリートの人生を羨ましく思うことは、当然ながらある。だが、70年80年の長い人生が、幸せかどうかはそれだけでは決まらない、とは思いたいものだ。

 

いろいろあって最後には、夫婦は離婚ではなく、妻が申し出た「卒婚」をする。この卒婚というのは私にはどうも理解し難い。この2人の場合は、実質的に、法律上の離婚と変わらないのだから。

 

壮介は老母が一人で暮らす盛岡に帰ることを決める。そして、出身高校が高校野球の県予選で準優勝して盛り上がる宴席で、祐介はそれまで隠していた自分が置かれている現状を、ようやく、高校時代の親しい友人達に伝えることができた。仲間たちの状況を見ても、誰しも時が来れば「終わった人」になるのだと分かりあえたからだ。

 

受け入れてくれる故郷があるのは、彼にとっても誰にとっても幸せなことだろう。小説の最後の章で、この「エピローグ」があったおかげで、私の読後感は悪くなかった。

author:u-junpei, category:読評, 23:23
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読評 「カゼヲキル」(増田明美 著)

 

図書館の書架を回っていたら、『増田明美』の著者名が目に飛び込んだ。背表紙が白なので、黒い印刷の著者名が目立っていた。

 

私は、マラソン解説者として有名な増田明美が、小説を書いているとは知らなかった。手に取り奥書を見て、間違いなく本人であることを確認したが、全3巻あるので借り出しをしばらく迷った。正直言えば、「シロウト」の小説だったら読んでも・・・と思った。「カゼヲキル」という片仮名の題名も、いかにもそれらしく思われた。

 

だが、マラソン解説者としての増田明美には、私は以前から好感をもっている。それで、まずは第1巻の「助走」だけを、試しに読むつもりで借りた。

 

この小説は、中学2年の山根美岬が主人公で、陸上競技を始めてまだ数ヶ月だが、荒削りながら抜群のバネとスピード力があるという設定だ。

 

私にとっては塾生や孫みたいな世代だが、読んでいて、美岬が成長していく様子に興味を持った。小説らしく色々な問題が生じるのだが、なにより美岬の明るい性格が良い。もちろん、落ち込んだり他の競技者を嫌いになるような多感な乙女でもある。

 

家族構成は、おしゃべりな祖母・専業農家の父母・運動はからしきだが成績優秀な弟がいる。彼等の描写は多少典型的な誇張表現があるものの、笑いが絶えない家庭の様子は好ましい。

 

小説の語り口は、TVでみる増田明美のそれで、物語としての構成力もある。若い人を対象にしたようで、私のような老齢では場違いかもと思ったが、結局、一気読みし、続編を借りることになった。

 

 

 

第2巻「激走」は高校生活から実業団に入るまで。第3巻「疾走」はマラソンのオリンピック代表選手に選考されるまで。

1巻から3巻まで通して、美岬の10年間にわたる選手生活が描かれる。

 

実際でも、マラソン選手というのは、いきなりマラソン競技に入るのではないようだ。世界に負けないスピード力をつけるために、短い距離から始め、3000mとか5000m、あるいは10000mなど、じっくり時間をかけて実力を養成するのだという。

 

著者が増田明美だからこそ描かれたシーンは多いと思われる。中でも高校駅伝や実業団駅伝の場面は、この小説の真骨頂だろう。

最近、女子実業団駅伝で、骨折して数百mを這って襷渡しをしたり、フラフラになり意識を失ってしまうようなことがあった。この小説でも、似たような事件があったりする。

 

物語のポイントとなるところでは、若いときに数々の記録を塗り替えた経歴のある、牧田明子というマラソン解説者が登場する。彼女はいわば、オリンピックで途中棄権という挫折経験もある著者自身なのだが、著者がふだん話しているような調子で、明子は美岬に声を掛けている。この雰囲気がいい。

 

また、この十年間という期間は、小説の表紙絵に表れている。第1巻のおかっぱで中学生のあどけないような顔立ちが、第2巻ではショートヘアの高校生らしく、そして第3巻では、オリンピックを目指す精悍な顔つきの女性へと描かれていて面白い。

 

各巻にある、著者の「あとがき」もいい。

特に3巻には、いかにも増田明美らしい、TV放送のマラソン解説などで聞くような、彼女をほうふつとする記述がある。

 

『美岬や恭子たちの活躍をきっかけに、一人でも多くの子どもたちが、陸上の長距離種目を志してくれることを願っています。そしてその子が選手になってマラソンや駅伝を走るようになり、私がテレビ中継で解説できたらうれしいな。「この本を読んで陸上を始めました」なんて選手用のアンケートに書いてくれたら、たっぷりコメントしますからね。』

 

「子供」と書かずに、「子ども」と表記しているのも、私には好感が持てる「あとがき」だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「つまをめとらば」(青山文平 著)

 

未体験のはずだが、過去に同じような体験をしたことがある感覚をデジャブという。前にもこんな風景を見たことがある気がするなどの、いわば既視感がそれだ。

 

私は、20年程前だが、一人で山歩きしていた足利の猪子峠で、この経験をしたのを鮮明に覚えている。峠にあった2本並んだ巨木の特異なたたずまいや、その下の小さな祠にも見覚えがある気がした。幼い頃、確かにここに来たことがあると実感し、とても懐かしく感じたのだ。

もちろん、初めてきた場所であるし、理性ではありえないと分かっていたが、その感覚を不思議に思った。もっとも、私に霊感などがあるはずもなく、そんな経験は以後はない。

 

ところが、たまたま行った書店で、「つまをめとらば」の新刊になった文庫本を目にした。手に取った感じは、既に読んでいるような気がした。表紙絵も覚えているような・・・。だが、どんな内容だったかはよく思い出せない。

 

読んでいたのに新たに買うのはもったいない。そこで、図書館に問い合わせたら、2015年発刊の単行本を借り出すことができた。

2015年と現在はわずか3年間だ。いくらなんでも、青山文平の小説を読んだ記憶くらいは残っているだろうに・・・読んでいて忘れているなら、ボケを疑った方が良い。

 

そんなわけで、この本を読む動機は、いわばデジャブというか、既視感ならぬ『既読感』を確かめるためにあった。

 

この本は、6つの短編で構成されている。これらを読むと、作家が江戸後期の武家社会の事情や描写に巧みであり、この小説で直木賞(154回、2015年)を受賞したことも頷けた。つまり、ベテランが糸を紡いでいるような、肩がこらずに安心して読める小説だった。

もっとも、これは短編集であるせいか、どの作品にも最後に「落ち」があるようなユーモア感が漂うのは、彼の作風なのかもしれない。

 

さて、私の『既読感』はどうしたことだろう。読んだことがあるようなないような・・・まあ細かなところは覚えていないのだから、年寄り耄碌の2度読みであろうと、楽しめたのだからよしとしよう。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「エーゲ海に強がりな月が」(楊逸 著)

 

著者の名前は楊逸でヤンイーと読む。中国籍の作家で芥川賞を受賞している(2008年、第139回)。

この本を読むきっかけは、「これなら読める! くずし字・古文書入門」(潮新書)の最後にある既刊書の紹介に、『親子ほど年の離れた男女の駆け引き・・・芥川賞作家が初めて放った本格的恋愛小説! 現代に生きる女性の幸せのあり方を等身大に描く!』というコピーに興味を持ったからだった。

 

この本は2017年に刊行しているので、図書館に紹介したが置いてなかった。それで通販で取り寄せたのだが、楊逸の読みは手にとって初めて知った。ところが、男性なのか女性なのか、ウカツにも調べていなかった。中国人は名前の漢字を見ただけで、性別が分かるのだろうか。

 

私も老齢だが若い女性と・・・とスケベ根性があるわけでもないが、年齢差のある男女関係は、なんとなくイヤラシさを感じる。もちろん、小説の中で見事に生かされた作品はある。川上弘美の「センセイの鞄」はそれだろう。

そこで、この作品に匹敵するようなら、取り寄せた甲斐があるというものだ、と思って読み始めた。

 

結論を言えば、「センセイの鞄」には、とうてい及ばなかった。30代で目立つほど美人の桂子が、株投資でアドバイスを受けている老齢の男性を、『カレチがあたしのことを好きで好きで仕方ない』と「カレチ」と呼ぶ感覚に、読み始めの最初に違和感を持ってしまったのが、評価が低くなった原因かも知れない。

 

小説では、桂子を主人公にして、現代女性らしい感性と行動を描こうとしたのかもしれない。だが、作家の視点は、物語りを進行する桂子と同世代の、中国人女性の「私」であって、彼女の日常生活の中で関わる桂子という自由に生きている女性を描く物語として構成されている。

いわば「私」は作家の分身だろう。物語に織り込まれている中国人らしい感覚の生活と思想が、物語の進行の端々に垣間見られるようで、むしろ私はそちらの方に興味を持った。

 

したがって、ストリーはさほど取り上げるものはないが、桂子がカレチと訪れたエーゲ海のサントリーニという島の描写の中で、この島には数えきれないほど多くの個人教会があるというくだりは、私には新発見だった。セレブの島なのであろうが、あらためて表紙カバーの絵を見て、欧米のキリスト教が今でも生活に根付いていることに、たいしたもんだと思った。日本では、今どきは個人で仏教寺院を持つことなどあるまいと思うが・・・

 

ちなみに、題名の「強がりな月」はどうやら桂子の生き方を表現しているらしい。「月は欠けても、また満ちていく・・・」と言うのだろう。桂子のような女性が、現代の若い女性として魅力的なのか分からない。読み終わってしばらく考えたのだが、まあ、自分には関係ないと思うことにした。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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