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読評 「極夜行」(角幡唯介 著)

 

高緯度の極地に「白夜」があるのは知っていたが、反対に夜がずっと数ヶ月続くのを「極夜」というのは知らなかった。

この本は、その極夜の中を、グリーランドにあるイヌイットの最北の居住村から、犬1頭を相棒に橇を挽き、グリーランドを縦断し、旅の最後に北極海で極夜開けの太陽を体験しようという、約80日間の人類未知の極夜探検行を描いたもの。

 

図書館に借りたい本があり出かけたので、この本を最初から読もうと思っていたわけではない。目的の本は検索してたのだが、なぜか借り出されたあとだった。それで、そのまま帰るのもシャクなので新刊本コーナーを見た。

そこに、著者の最新刊『探険家とペネロペちゃん』があった。私は探検モノにあまり興味はない。したがって、著者が著名な探険家であることも、どんな作品があるかも知らなかった。だが、まるで内容が掴めないタイトルと、その表紙の写真に興味を魅かれて手に取った。

 

 

この本で、著者のプロフィールみたら、『極夜行』が第1回本屋大賞ノンフィクション本大賞になっていることを知り、『極夜行』はついでに借りて来たというわけで、本の内容に期待感があったわけではない。本屋大賞ならまあ読んでもいいか位の気持ちだった。

 

ところが、最初に読んだ『探険家とペネロペちゃん』が意外に面白い。ペネロペちゃんというのは著者の「あお」という娘のこと。本名のままに書くと、ひらがな文のなかにうまって分かりづらくなるので、本の中での呼称のために名付けた名前だという。スペインの女優の名に由来するそうだ。

この本では娘の出生から4歳までの、父と娘の関係性を描いている。読者には「親バカまるだし」と思わせながら、語り口や切り口がともかく面白く、一気に読ませる。

 

この本で著者に対する親近感が湧き、引き続き『極夜行』を読んだから、この探検物も格段に面白かった。久しぶりに本の世界=それは現実にあったノンフィクション世界を堪能することができた。

 

私は著者と一体の感覚で、闇夜の氷河やツンドラ氷原を道もなくコンパスを頼りに行く不安、強烈・猛烈に吹きまくるブリザードに閉じ込められる恐怖、デボしてあった食料を白熊に食われてしまっていた絶望感。生き抜く為にあらん限りを尽くしても、それを上回る自然の脅威。久しぶりに探検行の妙味を味わった。

 

もっとも、私は暖かいコタツや、ストーブの前でぬくぬくと、まるで生命の危険のないところで読んでいたのだが・・・かつて、赤城山からの夜景を見たくて、鍋割山に単独行で登り、足下の前橋から遠く関東平野を埋め尽くす光景に感動し、帰路は月も星もない、懐中電灯の光さえも届かない闇の中を、夢中で下山したときの恐怖を思い出していた。

author:u-junpei, category:読評, 22:22
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読評 「学校を変える いじめの科学」(和久田 学 著)

 

「科学」というと、いわゆる「自然科学」がイメージされる。それゆえ、当方に何の準備もなく、「いじめの科学」というタイトルが目に飛び込んで来て、おもわず手に取った。何で「いじめ」と「科学」が結びつくのだという素朴な疑問からだった。

 

ふだん子ども相手の仕事をしているので、「いじめ」には関心がある。

かつて、どこかの教育長が、『いじめは、加害者が悪いのはもちろんだが、いじめられる子どもの方にも問題がある』と言ったことがある。事実、そういうこともあるかもしれない。

 

おそらく、こうした考えは彼の経験則から述べられたものだろう。だから、そのような人は、いじめの解決にも自分の経験則で対応しようとするに違いない。

だが、この考えを前提にすると、いじめは学校から絶対になくならない。経験そのものに個人差があり、各人の経験則で個別対応するのはむしろ危険だ。過去の経験は、意識的にしろ無意識にしろ脚色があったりして、それでは加害者・被害者双方を納得させられない。状況に応じた対応策・解決策を導くことは困難だ。

 

いじめは100%加害者が悪い。その上で、加害者の行為の原因と対策、被害者が重大事態(自殺・不登校)に陥ることのない対応を見つけなければならない。その際には、いじめの現場にいる多数の傍観者こそが解決の糸口になるだろう。というのがこの本の主題であった。このところは、私も大いに共感できる。

 

そのためには、「いじめ対策プログラム」を科学の知見で開発するのが必要だ。それによって誰もが共通認識を持つことができるからだ。欧米ではこうした研究が進み、プログラムも開発されているという。

この本ではそうしたプログラムの具体的内容を詳しく紹介していないのが物足りなかった。もっとも、欧米の研究が即日本に適用できるとは著者も考えていない。

 

私がこの本で関心を持ったのは、「学校風土」という問題だった。最近、神戸の小学校で教師が教師を苛める事件が公になった。これはマスコミ取り上げられ、大騒ぎになっているが、教師同士間の苛めは珍しいものではないようだ。5〜6人に1人は何らかの形で苛められた経験があるという調査がネットにあげられている。

まあ、教師だからといって素晴らしい大人だとは言えない。悪いことがあれば、子どもに対しての影響(教師や大人への失望)はダメージが大きいに違いない。そうしたことでは、いじめに限らず学校風土の良し悪しは大事な視点だろう。

 

2011年に起きた大津中2自殺事件を契機にして、おそらく学校や教育委員会の保身からの、いじめの事実の隠蔽が問題になり、2013年に「いじめ防止対策推進法」が制定された。そこでは従来曖昧だった「いじめ」を定義をし、いじめ防止対策を学校や行政に求めている。

 

そのせいもあろうか、文科省発表によると、平成30年度のいじめ認知件数は54万4千件で過去最多となった。特に小学校での認知件数が急増していて、1000人あたり66件にのぼっているという(2019.10.17産経新聞)

 

この本は、2019年4月発刊なので、この文科省発表前だが、著者や彼のいう対策プログラムはこの認知件数にどう反応するのだろうか。学校風土という視点から、私の個人的な感想は、残念ながら、かなりマイナス思考になっている。

author:u-junpei, category:読評, 21:42
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読評 「犬と猫どっちが最強か決めようじゃないか」(今泉忠明 監修)

 

数年前まで、我が家には「りく」という名の犬がいた。迷子か捨てられたのか分からないが、子犬のときに母が拾い、15年を越えて生きていた。母が亡くなった後は彼も元気がなくなり、最期は私に撫ぜられてる中で息を止めた。

私も老齢になってしまったから、もう責任を持って犬の一生の面倒はみられないだろう。だから、飼いたいと思う犬種はあったのだが、再び飼うことはあきらめている。

 

まだ、我が家には「のら」という猫がいる。これは20年近くなるので、相当の婆さんだろう。人間のことなどお見通しの、「化け猫」候補かもしれない。

 

「りく」が生きていたときは、私はイヌ派だった。ところが、残っているのは猫だし、今ではもっぱらネコ派だ。猫とはお互いあまり干渉しないのがいい。トイレか何だかは、「にゃん」と鳴いたりして、外に出ることを要求するので出してやればよく、犬のように散歩に連れ出す世話もなく気楽だ。

 

この本は、犬と猫の習性というか、それを「知力」・「感情」・「運動能力」・「五感」・「生活」の五項目で、それぞれいくつかの具体的な場面(55番勝負)をあげて、それぞれの動物心理を背景に、『どっちが最強か』と比較考察されている(犬26勝・猫21勝・引き分け8)。それらは表紙絵にあるような、イラストやマンガが使われていて、たいへん面白く読める。

 

おそらく、この本に書かれていることは、犬や猫の飼い主には日常的に経験しているようなことだろう。だが、未経験の者にも興味深い内容に違いない。私もあっという間に読み終えた。

author:u-junpei, category:読評, 22:05
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読評 「ハートで感じる英文法」(大西泰斗/ポール・マクベイ 著)

 

「英語が話せる」という目的で勉強するなら、これまで学んだ英文法の丸暗記ではダメというのがこの本の趣旨となっている。

 

ネイティブが使う英語や英単語には、彼等の感覚が込められてあるのだから、まずはそれを掴まなければならないという主張だ。場面場面でネイティブが使う英語の感覚が分かるなら、中学や高校で学んだこれまでの英文法は、むしろ邪魔な知識だったとさえいえる・・・ということのようだ。

 

例えば、この本の最初の方で取り上げている

I like playing with my kids in the park.

I like to play with my kids in the park.

の違いについて、私が関わっている中学レベルでは、動名詞と不定詞の質感の違いなどには触れていない。どちらも「公園で遊ぶのが好き」と訳されて、高校受験ではそれで必要十分なのだ。

 

ところが、日本人が英語を話せないのは、ネイティブの感覚の違いが分からないから、あるいは分かる学習をしていないからで、この本のこだわりは、そうではないでしょうということだ。

 

それゆえ、willとbe going toにみられるような、ネイティブの「未来表現」の感覚や、Will you ~?をWould you ~?と「過去形」を使うと、なぜ丁寧な表現になるのかとかが理解されるべきで、それが分かれば従来の丸暗記文法はいらないということになる。

この本では、そういう言葉の背景にあるネイティブの感覚=こころを学ぶべきだとして、「ハートで感じる」というタイトルになっている。

 

本の帯に、”目からうろこ”の英文法とあるが、内容も文体も読者の興味をひくように書かれていて、私は文法本としてではなく、フツウに読書をしている感覚で読めておもしろかった。

 

ただし、文法は不要だといっても、中学・高校で学ぶ基本的・基礎的な文法知識は必要であろう。この本でも従来の英文法を前提に解説しているから、そういう知識のある者を相手にして書かれている。それゆえ、一通り学んだ高校生や大学生が読むと興味深いかも知れない。

さらに言えば、勉強に楽はない。日本人がネイティブスピーカーのような話者になるには、やはり、文法丸暗記と同じような努力が必要だと思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:02
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読評 「ルポ 人は科学が苦手」(三井 誠 著)

 

題名を見たときに、その意味するところがすぐに分からなかった。現代社会や日常生活で、我々が科学の恩恵を受けないことはありえない。学問としての科学が、理解や知識の範囲を超えるというのであればともかく、なぜ『人』が『苦手』としなければならないのだろう。それが、この本を手にするきっかけになった。

 

副題に、”アメリカ「科学不信」の現場から” とある。したがって、タイトルに「人」とあるのは、人間一般を言うのではなくて、主にアメリカ人を指してのことだろう。

つまり、現代科学の最先端を行く科学大国のアメリカ人が、実は「科学不信」だというのだ。著者は科学を専門とするジャーナリストで、彼はこの本で何を言いたいのか、私の一番の関心はそこにあった。

 

私がこの本を読んで、特に興味をひかれたところは、次のような内容が書かれたところだった。

 

例えば、『宗教が人生で非常に重要な役割果たしているか』という質問を、世界50カ国の国民にした調査結果(米国民間調査機関ビュー・リサーチ・センターの2015年発表)が興味深い。それによると、共産国の中国が3%で一番低い。それについで低いのは日本で11%。GDPで見ると、経済力が高くなると宗教に頼る割合は低くなるという。

ところが、米国は例外で53%の高い割合で肯定している。ちなみに、英国やドイツでは21%、フランスで14%だった。アメリカ人は宗教心が飛びぬけて高いことが分かる。この結果は私には意外だった。平気で無宗教を標榜するような日本人には、とうてい分からないだろう。

 

米国で「進化論」を支持する人は国民全体の約2割に過ぎないという。なぜなら、聖書に基づく「創造説」によれば、人類の歴史は6000年より前に遡ることはないからだ。

学校で進化論を教えていても、家庭では親が子に伝えるのは聖書で、『猿から人間になるなんてありえない。デタラメだ』とか『犬の子は犬だ』と直感的な事実で進化論は否定される。大学生に10万年前の化石だといって見せても、それはありえないと教授にまじめに反論したりする。

 

聖書に基づいて考えれば、このような非科学的な結論がまかり通るだろう。だが、バカとかレベルが低いとかそういった問題ではない。米国は宗教大国でもあるのだ。特に保守傾向の強いキリスト教の福音派の勢力が、人口の25%を占める。この状況の下では、科学の合理性や事実などは簡単に覆され無視される。

 

科学不信が宗教を背景にした保守的な思考と合わさると、人工妊娠中絶に反対したり、地球温暖化と環境保護の関連性も否定される。経済活動で二酸化炭素の増加が地球温暖化をもたらしているというは、研究費が欲しい科学者のでっち上げで、気候変動に過ぎないと理解し、いわば理屈抜きに結論されてしまう。ここでは経済界と宗教が手をつないでいる。

 

それは、政界においても変わらない。泡沫候補と思われたトランプが大統領に選ばれ、彼の発言が科学の事実に反しても、彼の政策は共和党員に強く支持されている。それゆえ、米国がパリ協定から離脱する唯一の国になっても、アメリカ第一主義である彼と彼の支持者は当然だと考える。

 

著者は、米国に2013年〜2018年の間、前半はカリフォルニア大学の研究員、その後は、読売新聞のワシントン特派員として科学分野専門のジャーナリストとして活動している。そんな彼がトランプが大統領に選ばれるという、いわば歴史的転換を現場でつぶさに取材体験した。

おそらく、著者はトランプが大統領になるとは思っていなかったのではなかろうか。それが、米国社会に根強い「反科学」との関連を取材する動機になったように思われる。

なにしろ、米国には「フラット・アース国際会議」と呼ばれる、「地球は平ら」だと考える人々がいて、広範な活動を展開している。例の、アポロ宇宙計画での月面着陸は、ソ連に対抗する為にNASAがでっち上げたのだと主張しているのがこの団体だそうだ。

また、米国には創造説に基づいた博物館施設や、ノアの箱舟を聖書に書かれてる通りの、実物大(全長150m)の施設があったりする。まあ、模型のキリンの首が短くなっているそうだが、ちゃんとした理屈があるようだ。

 

だが、本書の眼目は、単にアメリカ社会の分析にあるのではないようだ。米国内が政治的に共和党と民主党の支持者に分離し、それが地球規模での経済活動に及ぶばかりでなく、アメリカ人自身を分断・対立させてる現実を、ジャーナリストの冷徹な目で見ている。

 

著者はこの本を全4章に構成し、第1章「自分が思うほど理性的でない私たち」で、人間一般について、米国での反科学的な理由を取材している。しかし、ここでは、米国と日本やその他の国との比較検証はなされていない。

だから、仮に、経済や風俗などでよく言われるように、日本が米国のあとを追いかけてるというのが真実だとしても、宗教風土は全く異なるという違いは無視できないのではなかろうか。そういう意味では、日本のほうが無軌道・無道徳に走ってしまう危惧があるように思うが・・・。

また、狩猟民族と農耕民族といったDNAの違いは、最後には国民の思考を左右するかも知れない。

 

ともあれ、第4章「科学をどう伝えるか」では、米国で起きている分断対立社会の『今後』=「科学不信」からの脱却について、米国だけの問題ではないという視点で書いている。米国の科学者自身がどう向き合おうとしているか、様々な活動や研究を取材していて興味深い。

ぞれが、著者をして、「人は科学が苦手」といわしめ、啓蒙活動としての取材活動を目指した・・・ように読了して思った。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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読評 「国境を越えたスクラム」(山川 徹 著)

 

副題に「ラグビー日本代表になった外国人選手たち」とある。タイトルよりも、これが私が読んでみようと思う動機になった。

 

W杯での日本代表の大活躍で、『にわかラグビーファン』が増えたという。私もファンになったというほどではないが、大いに関心が湧いたというのは本当だ。

 

私の最初の日本チームの印象は、多くの外国人が代表メンバーになっていることだった。それを見て、プロ野球のようにラグビーにも助っ人ガイジンがいるのかと思った。

そうだとすれば、私には、いわばガッカリすることだったが、代表チームのキャップテンが外国人で、しかも流暢な日本語を話すことも不思議だった。それは大変興味深いことで、さらに外国人選手は日本人選手以上に、日本代表であることに誇りを持っているようだったのには驚くとともに好感を持った。

この本を読む動機は、こうした何故?があったからだ。

 

この本で、ラクビーには独自の代表選抜があることを知った。

日本代表だけでなく、W杯に参加した代表チームは多国籍化しているという(アルゼンチンのみ同国人)。しかも、外国人が他のスポーツのように、いわば助っ人選手であることとは様相がちがっている。

 

その代表選手になれる条件は3つあって、国籍を問わず、そのいずれかを満たせばよい。

 ―仞乎呂その国

◆[梢董∩追稱譴里Δ前貎佑その国出身

 その国で3年以上継続して居住、または通算10年にわたり居住(3年居住要件は日本大会以後は5年)

 

これは、ラグビーがイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四国で構成されたイギリスが発祥の地であることや、ニュージーランドやオーストラリアなどのイギリス植民地に広まったことが歴史的背景にあるという。いわば多国籍チームになることを受け入れる素地は、もともとあったといえる。

 

日本の場合は、今から30年ほど前、2人のトンガ人の留学生(ソロバン習得をトンガ国王に命じられてだそうだ)が最初で、彼等が、後に代表入りするようになってからだ。

もちろん、先駆者の苦労が並大抵でないことは、ラグビーの世界に限ることではない。それは逆に日本から外国に渡った事例が如実に物語っている。先駆者が成功して道を開き、それに後輩たちが続くという図式は変わらない。

 

この本は、そうした事例を丹念に取材し、いわば”One for all, All for one”といわれるラグビーの世界で、外国人選手が受け入れられるようになった過程を描いている。その取材には、著者自身が高校・大学とラグビーに取り組んだことが大いに役立っている。

 

今、何かとお隣の韓国とはギクシャクしている。日本代表には韓国人もいて、今回のW杯でそうした雰囲気を吹き飛ばすような活躍をしているのは、将来の韓日関係に好材料になるに違いないと思う。若者の多くは私のような年配者と違い、過去にとらわれない柔軟さを持っているからだ。

 

この本は、2019年8月に刊行されている。当然ながらW杯の結果を知らない前の取材なのだが、日本代表の好成績が予想される内容だったのは、きちんとした良い取材に基づいて書かれていたからだろうと思う。日本の良いところも悪いところもちゃんと書いている。

 

また、ラグビーが15人で、それぞれ1〜15の番号に配置された選手ごとの役割があることは、『にわかファン』にもみたない私には新鮮な知識だった。

私は、ラグビーは図体が大きく頑丈にできている男たちのスポーツだと思っていた。が、決してそうではなく、ポジションの役割による総合力が問われるのだと知った。

 

著者の「あとがき」によれば、ラグビーとは『・・・チーム内で自分の存在意義を見出し、承認欲求が満たされる・・・』スポーツなのだという。

どおりで、京都伏見工高をモデルにしたという映画『スクール・ウォーズ』で、どうしょうもない不良生徒たちがラグビーを通して立ち直り、成長していく。この高校で起こった出来事は、監督と生徒の単なる根性モノではなく、各人が役割を通して、自己を肯定的に捉えられる、ラグビー本来の教育効果なのだと合点がいった。

author:u-junpei, category:読評, 21:12
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読評 「14歳からの数学」(佐治晴夫 著)

 

2019年8月に出版されたばかりで、図書館の新刊書コーナーにあった。

14歳といえば中学2年生だが、私の塾生にも何か役立つものでもあればと思い借り出した。

副題に「佐治博士と数のふしぎの1週間」とあるように、内容を月曜日から日曜日の7つの項目に分けてある。1日1項目なら読み終えやすいだろうと見当をつけたのも、借り出す理由になった。

 

だが、読み始めてまもなく、それが安易な考えだと分かった。書かれている数学の内容は、中学生どころか高校生、あるいはおそらく大学生の範囲まで含まれている。こうなると私の目的には合わなかったし、出てくる数式も分からないので読み飛ばしたりもした。

また、数学用語には、当然分かってるでしょうを前提にするのではなく、対象が中学生であるなら、もっと説明があっても良いと思った。例えば木曜日の『2次方程式』の項で、2次方程式を解く「根の公式」を導く過程を説明しているが、これは中学では「解の公式」と呼ばれている。公式の導き方も、私の使っている中学の教科書に出ている方法とは異なっている。現役の中学生には『えッ』となるのではないかと思った。

 

私は中学生に「根の公式」という言い方をしたことがない。ネットで調べたら、どうやら「根」と「解」では視点が異なるらしい。2次方程式では「解」の方を使うようなのだが、どうなのだろう。

 

内容は概して、14歳の中学生には、難しいだろうと思った。それでタイトルが『14歳からの』となっているのだろうが、思い切って14歳に限定して、分かり易い内容に限定していたらよいのにと思った。

そう思って、著者のプロフィールを改めて見ると、『14歳のための物理学』、『14歳のための時間論』、『14歳のための宇宙授業』というように、なぜか14歳に限定したタイトルの本を出している。

 

これを見て、なるほどと思った。この『14歳からの数学』は、これら『14歳のための・・・』の集積だったのかも知れない。だから、本書では、物理や時間や著者が専門とする宇宙の『ゆらぎ』理論に触れられていたのだろう。もっとも、その多くは私には理解不能だったのであるが・・・

 

「あとがき」の最後に

  ーー数学は論理の音楽であり、音楽は情緒の数学であるーー

とある。引用が無いところを見ると、これは著者自身の言葉なのだろう。

 

おそらく、含蓄深い言葉であるように思うのだが、私は音楽に疎いのでよく分からない。もしかして、これに共感できないと、高等数学は理解できないのかもしれない。

いくら『14歳から』とはいえ、高齢者の私には手遅れかと・・・残念ながら、若い人に期待するよりない。

author:u-junpei, category:読評, 16:16
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読評 「交通誘導員ヨレヨレ日記」(柏耕一 著)

 

表紙に『当年73歳、本日も炎天下、朝っぱらから 現場に立ちます』とある。ちなみに、著者のプロフィールには

『1946年生まれ、出版社勤務後編集プロダクションを設立。出版編集・ライター業に従事していたが、ワケあって数年前から某警備会社に勤務。七三歳を迎える現在も交通誘導員として日々現場に立ちながら、本書のベストセラー化により、警備員卒業の日を夢見ている』そうだ。

『ワケあって』とあるが、その「ワケ」なるものは、家族構成を含めて本文に率直に書かれている。警備員をしているのは、この業界は人手不足で、かなりの高齢者でも採用されるからだそうだ。その辺のいきさつにも興味深いものがある。

ともあれ、私がこの本を読もうと思ったのは、私も高齢者の一員であることが一番の理由であった。

 

タイトルが「日記」とある。それで、著者が警備員として体験した「業務日記」でもあろうと見当つけてはいたが、その内容は私の予想を超えて、もっと興味深く面白かった。いわば警備員の仕事を通して経験した人間模様を描き、その観察眼や文章には、さすがに出版編集者である経歴が生かされている。

 

「日記」としたのは、「まえがき」に次のようにある。

『本書は正確には日記ではない。といって小説でもない。日記の体裁をとりいれた警備員のドキュメントであり、生活と意見である。全文27項目はテーマごとに分類している。読者に興味を持っていただくためであり、面白く読んでいただく工夫でもある』と。

 

著者によれば、警備員を扱ったノンフィクションはこれまでなかったという。ただし、この本は交通誘導警備員の仕事を書いているが、出版目的は著者の『生活と意見』なのだ。高齢者になってこそ得られる人生のいろいろがあるのだと思う。私自身はこの本を”ドキュメンタリーエッセイ”として読んだ。

 

付け加えるならば、著者=高齢者=ヨレヨレでは決してなかった。「ヨレヨレ日記」としたのは、多少の自虐が混じってのことだろう。

でも、私がこの仕事をしたら、トイレ事情ひとつをとっても、あっという間にヨレヨレになっているに違いない。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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読評 「森林官が語る 山の不思議」(加藤博二 著)

 

タイトルの脇に小さく「飛騨の山小屋から」とある。この本は、1948年9月に刊行された「飛騨の山小屋」を改題し、2017年9月に再刊された、いわば復刻本で、表紙絵は元の本のままが使われているという。

だから、山小屋の中で囲炉裏の火にあたっている男は、ドテラのような着物姿で、煙草のキセルを手にしてる風情や、背後の壁に掛けてある蓑や藁沓やガンジキなども、まさに昭和前期の風俗そのものだ。

 

著者の加藤博二は、「昭和22年秋」で結ぶこの本の『自序』に、『森林官として十数年山で暮らしてきた』と述べている。森林官というのは、ネットで検索してみると、国有林を管理する林野庁の出先機関である森林事務所の責任者だそうだ。森林の伐採管理・調査保護や取締りの警察権限がある。

その『ながい山男の生活』の中で著者が見聞したことが、本書の短編やエッセイ風の小説になっているという。つまり、そうした昭和の初め頃の時代背景なくしては、全17編が収められているこの物語集はなりたちえない。

 

たとえば、物語にたびたび出てくる「山窩(さんか)」がいる。かつて存在し、深山を移動しながら外とは隔絶した暮らしをしている民だ。里人からは「山乞食」と呼ばれ、蔑まれながらも怖れられてもいた被差別民で、一族の頭の下に統率され、仲間内には厳しい掟があったという。『山窩の娘』や『密林の父』などでは、それゆえの男や女の情深く悲しい物語が語られている。

 

それはともあれ、タイトルが「山の不思議」とあるから、これを読む前の私は、「物の怪」などが登場するオドロオドロした話を予想していた。ところが全編を通して読むとそうでもなく、むしろ人間のサガとでもいうものが描かれている。

 

『猿の酒』のように、猿が作る果実酒を人間が横取りしたり、酔って寝ている間にキセルを猿に盗られたり、あるいは猿が子守をしてるような不思議な話しはあるが、まあ、怖いというほどの話ではない。

『雪和郎』という「雪男」をイメージするような話も、山男だと分かっている。『尾瀬の旅人』には昔の長蔵小屋が出て来て、「ハイキング」などという新しい言葉(?)が使われているが、昔の尾瀬沼の様子が描かれ、現在のように観光地化した尾瀬とはまるで違う雰囲気が漂う物語であった。

最後の編『雪の湯町』は、東京からやって来る作家と山の温泉の芸妓の交流が描かれた物語だ。まさかと思うが、川端康成の『雪国』の原案のような気さえした。

 

衛星画像で見つけた山奥の家を探訪するテレビ番組がある。とても人気があるようで、その一軒家に住む人も、やはり来たかと歓迎するような面持ちが面白い。確かに山奥にあるのだが、けっこう立派な家屋だったりし、その一軒家に行くにも、車一台がやっと通れるにしても、ちゃんと山道がある。したがって、山の一軒家に住む人たちが下界と隔絶した生活をしているワケではない。

 

だが、この本の物語の当時、歩いてでしか入って行けない山奥にも、山小屋のような温泉宿があったようだ。薪で鉱泉を沸かしてる、冷たい風が吹き込むような草葺の宿だったりするのだが、その侘しいたたずまいは、かつてはさもありなんと思え、現代の生活者からすると興味深いものがある。

 

そんな物語を紡ぐ著者の文体は、表現が豊かで情景が目に浮かぶようだから、その筆力は全くシロウトの域を超えている、と思う。今どきの文章のように句読点が多く読みやすいのは、もしかして、再刊ゆえに編集者の手が加えてあるのかも知れない。

ともあれ、懐かしい「昔し話」を聞いているような、そんな雰囲気がある。いわば、今はなき、古き世の物語集なのだが、全編を通して興味深く面白く読むことが出来た。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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読評「呼び覚まされる 霊性の震災学 3.11生と死のはざまで」(金菱清ゼミナール編)

 

最近は、小説が読めなくなった。新聞の書評欄で紹介されていた本を、図書館に予約し、数週間も待って手にするのだが、数ページ読んだだけでつまらないと思ってしまう。2週間の借り出し期間を手元に置いておくのだが、結局は読み終えずに返却してしまうことが、数回連続した。

それでも、本を読めないのは歳のせいにしたくない。それで、ノンフィクションならば興味深く読めるのではと思いつくまま、この「霊性の震災学」を通販で求めた。

 

この本は、東北学院大学の金菱清ゼミの学生による、東日本大震災の記録プロジェクトとして、2016年に出版された。

当時、タクシードライバーが体験した『幽霊現象』を、女子学生が聞き取り調査をしたとして、マスコミを賑わしたこともあり、私もこの本の存在を知っていた。

 

また、私は同じく金菱清ゼミの「私の夢まで、会いに来てくれた 3.11 亡き人とのそれから」(2018.2刊)を読んでおり、ゼミ学生が学問の一環としてフィールドワークで取材し、それを本にしたものだということで関心があった。

 

この「霊性の震災学」を読み終えた今では、むしろ、「夢まで会いに来てくれた」の本の方が、ゼミ学生たちがいわんとする”霊性の現象”に近いのではないかと思う。

というのも、2016年刊である「霊性の震災学」では、幽霊現象=霊性とする傾向が強くあるようだ。それが、2016年の出版から2018年の出版になる間、ゼミ指導者である編者を含め、学生達のゼミ活動としての震災学が、だんだんと、より深化してきたのではと思う。

 

この本を通販で求める際にコメントを見たのだが、☆1つをつけた者があった。『タクシードライバーの幽霊体験は、ネットで読めるので、本を買う必要はなかった』というものだ。

私は、ネットにあるというのが、どの程度に本と同じなのか、ネットを確認していないので分からない。だが、この☆1つのコメントは、次の理由からも浅慮だろうとは思う。

 

「霊性の震災学」は、全8章に編集されている。8人のゼミ学生がそれぞれのテーマでフィールドワークしたものだ。女子学生がタクシードライバーの体験した幽霊現象をテーマにしているのは、その中の1章に過ぎない。

 

その第1章『死者たちが通う街ータクシードライバーの幽霊現』には、フィールドワーク中に、取材者の女子学生が被取材者達から受けたという、批判を含めさまざまな発言や出来事が書かれている。

だが、なぜ彼女がこの現象に取り組もうとしたのか、そもそもの『動機』が書かれていない。もしかしたら、最初は若者らしく、幽霊現象への単なる好奇心だったのかも知れない。

私はそれでも良いと思う。それが”霊性の震災学”へと発展し深化すればよいのだから・・・だが、彼女が幽霊現象を”霊魂”と結びつけた考察はいただけなかった。

それは、私が幽霊現象を体験したこともなく、見たこともないUFOと同様に、信じられないというだけではない。あくまでも、彼女のフィールド調査は宗教学ではなく、学生としての震災学=社会学へのアプローチだったはずだと思うからだ。

もっとも、指導者である編者も霊性=霊魂とする気配が感じられるので、ゼミ学生である彼女の考察は仕方ないかも知れない。

 

この本で私の印象に残ったのは、第6章の『672ご遺体の掘り起こし』だった。葬儀社の9人のチームが、緊急処置でいったん土葬された遺体を、火葬するために掘り起こして納棺するという作業だった。

遺体は、夏場のことでもあり、腐敗が進んでいるから、通常の神経ではとうてい作業はできないだろう。にもかかわらず、チームの誰一人として最後まで離脱しなかったという。

それは、単に職業として収入を得るためではなかろう。まさに、この本でいわんとする『霊性』への畏敬があったに違いない、と私は思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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