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読評 「終わった人」(内館牧子 著)

 

主人公の田代壮介は昭和24年生れ、岩手県盛岡市出身で東京大学法学部卒。高校では羅漢とあだ名されるほど優秀で、現役で東大に合格している。

卒業後メガバンクに入り、200人いる同期の内では最初に本部の部長になったが、役員に上りつめるもう一歩のところで、子会社に出向し、そこで専務取締役として63歳の定年を迎えた。この小説はここから始まる。

 

つまり、彼は定年の時点では、エリートとして銀行時代を過ごしたプライドがあり、「終わった人」になるには忸怩たるものがあった。にもかかわらず「終わった人」と認識し自覚せざるをえないところに、他の人には言えない彼の心の内での葛藤がある。

この辺は、自己評価が高い自負を持った者の、僻んだ根性が描かれるので、読んでいてもあまり面白くない。私がエリートでなかったことを置いてもだ。

 

壮介は、退職後の無気力な生活や、彼自身でも足が衰えたらなどと心配しだし、スポーツジムに通いだす。だが、そこにいるオジちゃんオバちゃん達と自分は違うのだと思い、彼等との会話や食事の誘いなども避け続ける。

また、何か生きがいを見つけようと、東大大学院を受験し、文学を学ぼうという計画を立てる。その受験準備の為にカルチャースクールの講座を申し込む。

 

だが、本当のところでは文学に深い関心があるわけではない。自信を持つために、何かしなければという焦りのようなものが彼を突き動かしている。私などは大学院などはどこでも良いと思うが、彼にとっては東大大学院というネームバリューこそが大事なのだ。

 

それゆえ、スクールの受付にいた久里という39歳のバツイチの秋田美人に魅かれ、彼女と受講についての話しをしているうちに、とっさの考えで、石川啄木の講座を申し込んでしまう。

その後、久里を高級レストランに誘ったりするようになるが・・・これは彼も自覚しているように、恋というほどでないとしても、若い女性となにかしらありたいという、下心ある高齢年配男のサガだろう。

 

娘の道子からは、それは「メシだけオヤジ」なんだよと、痛烈に言われたりする。このところの娘とのやり取りは、作家が女性だけあって容赦がない。だが、壮介がそうであるように、私にもそれでも可とするような気分は分かる。

 

そうしているうちに、たまたま、同じジムに通っていた若いIT企業の社長から、顧問に迎えたいという申し出を受ける。それは壮介の経歴を十分に生かせるもので、再び彼は充実した生活に戻っていく。

 

さて、長々と書いたが、これは田代壮介の人となりが分からないと、この小説は面白くない。エリートだった彼が本当の「終わった人」となるのはその後だからだ。

 

顧問になって数ヵ月後、IT会社の社長があっけなく急死してしまう。壮介は会社を引き継いで社長になることを、2,30代ばかりの若い社員たちから懇願される。最初は戸惑いながらも、それは彼にとっても望むところだった。自分の持てる力を発揮すれば、40人の若い社員の力になれると思ったからだ。

 

壮介は、妻の千草や道子らの反対を押し切り、小さいながら、将来は伸び盛りになるであろうIT企業を引き継ぐ。しばらくは社長として、心地よい疲労を伴う充実感のある生活が続く。久しぶりに出かけた銀座のバーのマダムからは、スーツが呼吸しているから、仕事や人生がうまく行っている証拠だと指摘されたりもする。

下り坂や不遇の男の着るスーツは、見た目に呼吸してないのだと言う。なるほど、銀座の一流マダムはそうやって人物を見抜くのかと感心した。

 

だが、案の定と言うか、小説ゆえのドラマ仕立てとでも言おうか、彼が入社する前から立ち上がっていたミャンマーの取引会社が、政治がらみの不正で倒産し、そのため壮介の会社も3億円の債権が回収できなくなった。銀行時代のつてをたよりに八方手を尽くすが、多額の負債を抱え、あえなく倒産してしまう。

彼は代表取締社長として連帯責任を負っている。結局のところ、彼が負担する分は9千万円になった。

 

この時に、壮介は65歳になっている。まあ、彼の人生は「終り」だろうねえ、と読者は思うだろう。とすれば、作家はシメタと思うに違いない。なにしろ、この小説は新聞の連載で、最後になるまで読者をひきつけておかなければならないのだから。

 

ここまでの話が、本のページ数では約3分の2。この後、読者は壮介の家庭が崩壊するのかどうか、残り3分の1読むことに付き合うことになる。エリートでないフツウの読者にとっては、他人の不幸を喜ぶとまではないとしても、彼のその後が気にかかるはずだ。

 

私にも、エリートの人生を羨ましく思うことは、当然ながらある。だが、70年80年の長い人生が、幸せかどうかはそれだけでは決まらない、とは思いたいものだ。

 

いろいろあって最後には、夫婦は離婚ではなく、妻が申し出た「卒婚」をする。この卒婚というのは私にはどうも理解し難い。この2人の場合は、実質的に、法律上の離婚と変わらないのだから。

 

壮介は老母が一人で暮らす盛岡に帰ることを決める。そして、出身高校が高校野球の県予選で準優勝して盛り上がる宴席で、祐介はそれまで隠していた自分が置かれている現状を、ようやく、高校時代の親しい友人達に伝えることができた。仲間たちの状況を見ても、誰しも時が来れば「終わった人」になるのだと分かりあえたからだ。

 

受け入れてくれる故郷があるのは、彼にとっても誰にとっても幸せなことだろう。小説の最後の章で、この「エピローグ」があったおかげで、私の読後感は悪くなかった。

author:u-junpei, category:読評, 23:23
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読評 「カゼヲキル」(増田明美 著)

 

図書館の書架を回っていたら、『増田明美』の著者名が目に飛び込んだ。背表紙が白なので、黒い印刷の著者名が目立っていた。

 

私は、マラソン解説者として有名な増田明美が、小説を書いているとは知らなかった。手に取り奥書を見て、間違いなく本人であることを確認したが、全3巻あるので借り出しをしばらく迷った。正直言えば、「シロウト」の小説だったら読んでも・・・と思った。「カゼヲキル」という片仮名の題名も、いかにもそれらしく思われた。

 

だが、マラソン解説者としての増田明美には、私は以前から好感をもっている。それで、まずは第1巻の「助走」だけを、試しに読むつもりで借りた。

 

この小説は、中学2年の山根美岬が主人公で、陸上競技を始めてまだ数ヶ月だが、荒削りながら抜群のバネとスピード力があるという設定だ。

 

私にとっては塾生や孫みたいな世代だが、読んでいて、美岬が成長していく様子に興味を持った。小説らしく色々な問題が生じるのだが、なにより美岬の明るい性格が良い。もちろん、落ち込んだり他の競技者を嫌いになるような多感な乙女でもある。

 

家族構成は、おしゃべりな祖母・専業農家の父母・運動はからしきだが成績優秀な弟がいる。彼等の描写は多少典型的な誇張表現があるものの、笑いが絶えない家庭の様子は好ましい。

 

小説の語り口は、TVでみる増田明美のそれで、物語としての構成力もある。若い人を対象にしたようで、私のような老齢では場違いかもと思ったが、結局、一気読みし、続編を借りることになった。

 

 

 

第2巻「激走」は高校生活から実業団に入るまで。第3巻「疾走」はマラソンのオリンピック代表選手に選考されるまで。

1巻から3巻まで通して、美岬の10年間にわたる選手生活が描かれる。

 

実際でも、マラソン選手というのは、いきなりマラソン競技に入るのではないようだ。世界に負けないスピード力をつけるために、短い距離から始め、3000mとか5000m、あるいは10000mなど、じっくり時間をかけて実力を養成するのだという。

 

著者が増田明美だからこそ描かれたシーンは多いと思われる。中でも高校駅伝や実業団駅伝の場面は、この小説の真骨頂だろう。

最近、女子実業団駅伝で、骨折して数百mを這って襷渡しをしたり、フラフラになり意識を失ってしまうようなことがあった。この小説でも、似たような事件があったりする。

 

物語のポイントとなるところでは、若いときに数々の記録を塗り替えた経歴のある、牧田明子というマラソン解説者が登場する。彼女はいわば、オリンピックで途中棄権という挫折経験もある著者自身なのだが、著者がふだん話しているような調子で、明子は美岬に声を掛けている。この雰囲気がいい。

 

また、この十年間という期間は、小説の表紙絵に表れている。第1巻のおかっぱで中学生のあどけないような顔立ちが、第2巻ではショートヘアの高校生らしく、そして第3巻では、オリンピックを目指す精悍な顔つきの女性へと描かれていて面白い。

 

各巻にある、著者の「あとがき」もいい。

特に3巻には、いかにも増田明美らしい、TV放送のマラソン解説などで聞くような、彼女をほうふつとする記述がある。

 

『美岬や恭子たちの活躍をきっかけに、一人でも多くの子どもたちが、陸上の長距離種目を志してくれることを願っています。そしてその子が選手になってマラソンや駅伝を走るようになり、私がテレビ中継で解説できたらうれしいな。「この本を読んで陸上を始めました」なんて選手用のアンケートに書いてくれたら、たっぷりコメントしますからね。』

 

「子供」と書かずに、「子ども」と表記しているのも、私には好感が持てる「あとがき」だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「つまをめとらば」(青山文平 著)

 

未体験のはずだが、過去に同じような体験をしたことがある感覚をデジャブという。前にもこんな風景を見たことがある気がするなどの、いわば既視感がそれだ。

 

私は、20年程前だが、一人で山歩きしていた足利の猪子峠で、この経験をしたのを鮮明に覚えている。峠にあった2本並んだ巨木の特異なたたずまいや、その下の小さな祠にも見覚えがある気がした。幼い頃、確かにここに来たことがあると実感し、とても懐かしく感じたのだ。

もちろん、初めてきた場所であるし、理性ではありえないと分かっていたが、その感覚を不思議に思った。もっとも、私に霊感などがあるはずもなく、そんな経験は以後はない。

 

ところが、たまたま行った書店で、「つまをめとらば」の新刊になった文庫本を目にした。手に取った感じは、既に読んでいるような気がした。表紙絵も覚えているような・・・。だが、どんな内容だったかはよく思い出せない。

 

読んでいたのに新たに買うのはもったいない。そこで、図書館に問い合わせたら、2015年発刊の単行本を借り出すことができた。

2015年と現在はわずか3年間だ。いくらなんでも、青山文平の小説を読んだ記憶くらいは残っているだろうに・・・読んでいて忘れているなら、ボケを疑った方が良い。

 

そんなわけで、この本を読む動機は、いわばデジャブというか、既視感ならぬ『既読感』を確かめるためにあった。

 

この本は、6つの短編で構成されている。これらを読むと、作家が江戸後期の武家社会の事情や描写に巧みであり、この小説で直木賞(154回、2015年)を受賞したことも頷けた。つまり、ベテランが糸を紡いでいるような、肩がこらずに安心して読める小説だった。

もっとも、これは短編集であるせいか、どの作品にも最後に「落ち」があるようなユーモア感が漂うのは、彼の作風なのかもしれない。

 

さて、私の『既読感』はどうしたことだろう。読んだことがあるようなないような・・・まあ細かなところは覚えていないのだから、年寄り耄碌の2度読みであろうと、楽しめたのだからよしとしよう。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「エーゲ海に強がりな月が」(楊逸 著)

 

著者の名前は楊逸でヤンイーと読む。中国籍の作家で芥川賞を受賞している(2008年、第139回)。

この本を読むきっかけは、「これなら読める! くずし字・古文書入門」(潮新書)の最後にある既刊書の紹介に、『親子ほど年の離れた男女の駆け引き・・・芥川賞作家が初めて放った本格的恋愛小説! 現代に生きる女性の幸せのあり方を等身大に描く!』というコピーに興味を持ったからだった。

 

この本は2017年に刊行しているので、図書館に紹介したが置いてなかった。それで通販で取り寄せたのだが、楊逸の読みは手にとって初めて知った。ところが、男性なのか女性なのか、ウカツにも調べていなかった。中国人は名前の漢字を見ただけで、性別が分かるのだろうか。

 

私も老齢だが若い女性と・・・とスケベ根性があるわけでもないが、年齢差のある男女関係は、なんとなくイヤラシさを感じる。もちろん、小説の中で見事に生かされた作品はある。川上弘美の「センセイの鞄」はそれだろう。

そこで、この作品に匹敵するようなら、取り寄せた甲斐があるというものだ、と思って読み始めた。

 

結論を言えば、「センセイの鞄」には、とうてい及ばなかった。30代で目立つほど美人の桂子が、株投資でアドバイスを受けている老齢の男性を、『カレチがあたしのことを好きで好きで仕方ない』と「カレチ」と呼ぶ感覚に、読み始めの最初に違和感を持ってしまったのが、評価が低くなった原因かも知れない。

 

小説では、桂子を主人公にして、現代女性らしい感性と行動を描こうとしたのかもしれない。だが、作家の視点は、物語りを進行する桂子と同世代の、中国人女性の「私」であって、彼女の日常生活の中で関わる桂子という自由に生きている女性を描く物語として構成されている。

いわば「私」は作家の分身だろう。物語に織り込まれている中国人らしい感覚の生活と思想が、物語の進行の端々に垣間見られるようで、むしろ私はそちらの方に興味を持った。

 

したがって、ストリーはさほど取り上げるものはないが、桂子がカレチと訪れたエーゲ海のサントリーニという島の描写の中で、この島には数えきれないほど多くの個人教会があるというくだりは、私には新発見だった。セレブの島なのであろうが、あらためて表紙カバーの絵を見て、欧米のキリスト教が今でも生活に根付いていることに、たいしたもんだと思った。日本では、今どきは個人で仏教寺院を持つことなどあるまいと思うが・・・

 

ちなみに、題名の「強がりな月」はどうやら桂子の生き方を表現しているらしい。「月は欠けても、また満ちていく・・・」と言うのだろう。桂子のような女性が、現代の若い女性として魅力的なのか分からない。読み終わってしばらく考えたのだが、まあ、自分には関係ないと思うことにした。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「Aではない君と」(薬丸 岳 著)

 

少年Aは、中学2年生で14歳。両親は彼が小学4年生のとき離婚し、母親と同居。回りからは仲が良いと思われていた友人を殺害。死体遺棄罪で逮捕されるが、犯罪事実等一切を黙秘している。面会に来た両親にも何も語ろうとしない。この状況では、父親が最初に依頼した弁護士はお手上げになり、次に女性弁護士を紹介されるが、やはり少年は一切黙ったまま。

 

殺人罪を犯しても、少年法で保護される年令だが、黙秘したまま犯罪事実が明らかにならないと、少年審判でなく、逆送されて公開の刑事裁判になる可能性がある。これは少年保護の対象から外れることを意味する。

もちろん、小説では「少年A]ではなく、青葉翼として登場している。また、犯罪の真相は徐々に明らかになるのだが、彼が一切をしゃべらない状況を読んでいるときは、私もイライラさせられた。

 

少年犯罪の実態では、少年法で加害者が保護され過ぎ、被害者側が気の毒ではないかということが指摘されている。私もそのように思うことがある。したがって、小説でも被害者側に立ったものは、一般受けしやすいだろう。

この小説は、犯罪加害者側から描く、いわば珍しい視点の小説といえる。もし、犯罪事実が極悪非道のものだけだったら、読み終えても暗い気持ちが維持され、読後感は良くなかったかもしれない。

 

また、加害者側の親なども、社会から厳しい指弾を受けて、生活の場を失うなどの大変な場面に立たされることもある。また、少年が更生し社会に出てきても、過去が暴かれれば、職場や人間関係などを失うこともあろう。

あれやこれやを考えると、犯罪に関わることは、並大抵なことではない。自分が少年の親だったらと思うと、身につまされる思いで読んだ。

 

ちなみに、この小説は吉川英治文学新人賞(2016年、第37回)を受賞している。また、テレビ東京の開局55周年記念ドラマとして、来月放映されるという。佐藤浩一が犯罪少年の父親役、天海祐希が女性弁護士役で出演する。

author:u-junpei, category:読評, 20:40
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読評 「屋上のウインドノーツ」(額賀 澪 著)

 

何か読書の候補はないかと、読書用のメモ帳をめくっていたら、「屋上のウインドノーツ」の題名と作者名があった。読みたいと思った動機がなんであったかは、思い出せない。

地元図書館の資料検索をしたら、松本清張賞(第22回 2015年)を受賞している。たぶん、その関連だったのだろう。

 

図書館の案内には、『友達がひとりもいない県立高校へ入学した、引っ込み思案の少女・給前志音は、ワケありの部長・日向寺大志に誘われ、吹奏楽部に入部する。やがて厳しい練習の日々が始まって…。爽やかな風を感じる熱血部活小説。』とある。

 

松本清張といえば、私のイメージは社会派推理小説。当然、その名前を冠した文学賞なら、そうした分野の作品が対象だろうが…。なぜ、青春小説が選ばれているのか不思議に思いサイトを見ると、『ジャンルを問わず、良質の長編エンターテイメント小説』に与えることに改めていた。

ちなみに、公募の文学賞で、賞金額が500万円は他の文学賞に比べてかなり高い。この22回には、600編を越える応募があったようだが、その中での受賞となれば、けっこう期待が持てそうだ。

 

それに、吹奏楽の部活を描いたという事では、武田綾乃原作のアニメ「響け! ユーフォニアム」を見てるし、こうした青春物には抵抗がない。また、中学時代に吹奏楽部(ブラスバンド)にはちょっと特別な思い出もある。

まあ、私の孫の世代の主人公が、よう頑張っている、と思って読書を楽しもうと借りてきた。

 

物語は、主人公の給前志音の幼稚園での風景から始まる。自分を「おれ」と言うので、私はこの子は男の子だと思って読み進めたら女の子だった。物語の背景にある茨城県では、女でも「おれ」という風習が残っているという。給前(きゅうまえ)という姓も珍しいと思ったら、これもフツウにあるのだという。

 

だが、苗字はともかく、女の子が高校生になっても「おれ」というのは、私には抵抗がある。地方の風俗にしても、わざわざ彼女だけそういうのはヘンに思える。どんなイントネーションで言うのかもあろうが、作家の意図がわからない。

 

分からないといえば、題名の「ウインドノーツ」の意味がなんなのか、興味深く読み進めたのだが、説明となるようなことは最後までなかった。

気になるので検索したが、ネットでは取り上げていない。ということは、読者はごく当たり前に知っているのだろう。

 

2017年に文庫本が出ていて、その出版に際して、著者は『三年前の原稿は、見るに耐えないもの』で、これでよく松本清張賞になったものだとして、文庫本では特にもう一人の主人公である男子生徒・日向寺大志の口調や行動の結末を書き換えたという(旭屋書店インタビュー)。

 

文庫本出版のときに、改稿するというのが一般的にあるのかどうかは知らない。だが、著者があえてするならば、そこには作家の数年間の成長のあとが見られるわけで、興味を持った私は文庫本を取り寄せてみた。

 

 

文庫本の帯に、「この風の音が 君にもきこえるか?」とあり、「風の音」の上に小文字で「ウインドノーツ」と振ってある。

つまり、この小説の題名は『屋上の風の音』ということになる。おそらく、単行本の帯にも似たようなことが書かれていて、読者はそれを知っているから、当然ながら誰も疑問にあげていなかったのだろう。

 

私は図書館の本を借りたので、帯はなく、それを知りえなかったわけで、私だけが「ウインドノーツ」の知識不足だったわけではあるまい・・・と思う。

まあ、若い人が好みそうな表紙でもあるし、この場合、外国語で表したほうが、題名としてカッコいいかも知れない。

 

私の時代、吹奏楽部はブラスバンドと言っていた。それで調べてみると、ブラスでは金管楽器を意味して、木管楽器が入らない。それで、今は「wind ensamble」とか「wind orchestra」というらしい。

ノーツは「note」で音符や(楽器の)音を意味している。

つまり、作者の意図は知らないが、単純に「風の音」だけではなく、「吹奏楽」に掛け合わしたのだろうと思って合点した。

author:u-junpei, category:読評, 20:40
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読評 「これなら読める! くずし字・古文書入門」(小林正博 著)

 

タイトルに騙されてしまった、というのが読み終えた直後の実感。

 

石仏の調査をしていると、文字が流麗な草書体(?)で刻まれているのがある。その方面の知識がない私には、ほとんど読み取ることが出来ない。歌碑などはそのような文字で刻まれたものが多い。

当該物が公私の調査資料などに載っていれば、それを参考にできるが、客観的にそれが正しい解読かどうかは分からない。そうした時には、昔の人が書いた文字を勉強したいとか、古文書などがすらすら読めたら素敵だろうと思ったりする。だが、そう思うのも一時の願望で、ついつい心の中にしまわれてしまっている。

 

それが、新聞の本の広告で「古文書入門」とあるのを見た。新書版で安かったこともあって、実物を確かめようともせず、ネットで注文したのは、上のような状況があったのが原因だ。

 

この本の始めの方では、まず「ひらがな」の字体を覚えるようになっている。その「ひらがな」は、昔の「いろは数え歌」順と現在の「あいうえお」順とで、2度も掲載している。その結果、1つの「ひらがな」文字には、字母となっているのが複数あるのだが、その表示は重複されていて、ときにはそれぞれに分散されてしまっている。したがって、どちらか1つの方法でまとめてあった方が、あとで文字を確認するにも見易かったろう。

 

また、『ひらがなはもともと漢字をくずしてできています』とし、「ひらがな」の元となった「字母」との組み合わせが載せられている。

その「ひらがな」も昔の字体であるから、漢字を崩して書く手順は、知識として必要と思われる。だが、この本では、どう「崩し」て書いてるのか、書き順が全く説明されていないので、視覚的にも覚えるのが難しい。私のように、「くずし字」のイロハも知らず、古文書解読の入門書だと思って手に取った者は、困惑するに違いない。

 

著者は「古文書解読検定協会」の代表をしている。この本も受験用になるように、そうした立場から書かれたようだ。ところが、教える側の指導者というのは、その知識が当然で当たり前であったりすると、初心者がどこでつまずいているのか、得てして分からなかったりする。

 

あえて言えば、著者は入門書のつもりだろうが、初心者にとっては、説明が足らなくて入門書にならないこともあるのだ。この本で「くずし字」の書き順が無視されているのは、まさにそれであろう。

 

この本では、明治時代の小学生が学んだ教科書などを、初心者にとって古文書の入門にふさわしいとして使っている。だが、当時の教師は、「読み書き」を教えるのに、くずし字なども、黒板などに手本を書いて見せたに違いない。

子どもが使ったのだから、それゆえ易しいわけではあるまいと思う。

 

私は、古文書解読検定がどの程度のレベルを要求されているのか知らない。だが、著者がいうほどには、この本を読んだくらいでは、合格できるとは思えない。少なくとも、私は身についていない自覚がある。

 

そう思って改めて帯を見ると、『あなたの くずし字の知識が確実に レベルアップする一冊』というコピーがある。

「くずし字」の知識がなければ、そもそもレベルアップなどありえないはず。

つまりは、この本は入門書とうたっているが、ズブの素人のための入門書というより、『くずし字を多少でも学んだ者が、さらに理解を深めるための入門書』というのが正解なのだろう。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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読評 「本のエンドロール」(安藤祐介 著)

 

「エンドロール」といえば、映画などで最後に流れる出演者や制作者・協力者などの字幕をいう。

本には、著者が「あとがき」で編集者たちの名をあげて出版の謝意を表してることはある。それ以外は、「奥付」に発行所・印刷所・製本所名があっても、具体的な職掌の担当者は書かれていない。そういうことでは、本にはエンドロールはない。

 

それなのに、この小説が「本のエンドロール」という題名なのは、本を作っている裏方たちを描いて、いわば「お仕事小説」だからだろう。

もっとも、この本では、最後になる見開きの2ページで、実際に出版印刷製本に携わった各分野の35名を「STAFF」として紹介し、エンドロールの面目を施してはいる。

 

この小説では、本の出版業とその背後を支える印刷業は、電子書籍の登場でかつての盛況はなくなり、新時代の中で衰亡していく予感がある。それを、印刷会社の営業で働く主人公をはじめ、いわば本好きの連中が、危機感を持ちながら、それぞれの仕事に励む姿や家庭を描く。それはいわば、それそれが働くことの意味を問うことでもある。

 

福沢諭吉は、「世の中で一番楽しくて立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つと云う事です」という。いわば天職に携わる幸福を説いている。だが、これは私の天職ですと胸を張る人は、仕事人の割合ではどのくらいだろうか。私は特別な仕事に就いている人以外は、それほど多いとは思えないのだが・・・。

 

人々が働くのは、たいていは金を得るためで、それは当然ながら非難することではない。福沢諭吉風に言えば、そこから一歩踏み込んだところに、たとえば仕事を通した喜びが湧いてくれば、それは仮に天職でなくとも、十分に価値ある人生ではなかろうか。

 

この小説は私にそんな思いにさせた。それでいうなら、私のような老人ではなく、これから生きる若者に読んで欲しいと思う1冊だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「五年の梅」(乙川優三郎 著)

 

小説を読むときに、本屋に出向くことがあれば、パラパラめっくって読書意欲が湧くかどうかをみる。そうでなければ、新聞の書評を参考にしている。最近は図書館で借りることが多く、後者が断然多くなった。

 

ところが、この本は私が留守のときに、山友が置いていった。したがって、全く前知識がない。作家も知らないし作品を読んだこともない。もし、帯のコピーにある『人生に近道などなかった』に興味をひかれなければ、この本を読むのも、それこそ「遠回り」したかも知れない。

 

この本には時代小説の短編が5編納められている。本の題名になっている「五年の梅」はその中の1つ。本は2001年に山本周五郎賞(第14回)を受賞している。賞としてどの作品が評価されたのかは分からないが、帯は「五年の梅」をあげているから、おそらくこれが主編なのだろう。

後で知ったことだが、時代小説家の山本周五郎の名を冠した賞でありながら、時代小説で受賞したのはこの作家が初めてだったという。

 

私は、時代小説フアンというほどではないが、嫌いではない。特にいえば、藤沢周平の「蝉しぐれ」や、山本一力の「あかね空」は好きな小説だ。それで、これらを読んだ後では、時代小説を読んで面白かったどうかは、これらが私の比較基準になっている。

 

「五年の梅」は最後まで読まないと、なぜ「五年」で「梅」なのか分からなかった。そういう意味では、他の短編も題名の付け方は、最後まで読んでなるほどと思うようになっているようだ。

 

たとえば、最初に納められた短編は「後瀬の花」という。「後瀬」は「のちせ」と読ましているが、私は「ごせ」って何だろうと思って読み始めた。

これは、いがみ合う男女が登場人物で、金を着服して逃亡している責任を押し付けあっている。私はこういう話は嫌いで、この作家はこういう醜さを描くのかと、危うく先入観に陥るところだった。

ところが、この2人は、追っ手から逃げて、崖から飛び降りていた。物語の最後に来て読者は初めて、この2人は亡霊なのだと知る構成だ。2人はお互いをののしりあったあとで、ふと冷たい体温を感じ、まだ生きているかも知れないと、2人して崖下に下りてみようとする。それで、作家は、ちっぽけだが、どうにもならない人生の悲哀を描いたのだと分かる。

 

最後に収録されている「五年の梅」は、他の4編とはちょいと毛色が違っている。猪突猛進型の若侍が主人公で、どうやら、正義感ばかりがはやり、体力勝負で頭はあまり良くないのだろうなと思わせる。

藩主に直情的に諫言したことから蟄居生活を命じられるが、だんだんと生きる為にはどうしたらよいかを学び始める。さらに好きだった女が不幸な結婚生活に沈んでいるのを知り、それを助け出すために知恵を絞るようになる。この辺りから、物語の真骨頂になるのだが、作家は若者が落ち着いた大人の男になっていくのを描き、読者に安心感を持たせるのが良かった。

 

この作家の特徴は、この本に限るのかどうか、他の作品(「行き場」・「小田原鰹」・「蟹」)の登場人物もけっこう醜い性格や情況に描かれる。それは生来の環境からだったり、人生の途中のふとした行き違いだったりするのだが、いずれもどうにもならないふうにまで描かれる。

それが物語の最後には、生きるにせよ死ぬにせよ、読者がホッとするように変える結末がある。私には、これが作家の持ち味のように思えた。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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読評 「そして、バトンは渡された」(瀬尾まいこ 著)

 

本書の冒頭シーン、主人公森宮優子は高校2年生で、担任の向井先生との進路相談の場面から始まる。

先生は「困っていることや、つらいことはないか」と優子に尋ねる。

 

読者は、優子が3歳で実母を亡くし、小学2年生のときに2人目の母や、実父を含め3人の父親に育てられた来たという知識があるから、先生が聞きたいところも分かる。

優子は困っていることなどは全くないと答えている。一般的に見ればフツウでなく、さぞかし辛いこともあるだろうと思うような状況設定だ。

ところが、優子はウソをついている様子ではない。となると、私としては、物語がこれからまともな展開をするのか心配になる。この小説が、作家の思いつきの面白さだけで底が浅く、読書の時間を浪費するだけではないかという心配だった。

 

5人の父母の関係で、優子が17歳になるまで4回も苗字が変わったというのは、フツウの実生活にはありえないような筋立てだろう。作家は、それを2度目の母「梨花さん」の個性的な生き様を描くことでカバーしている。

梨花さんは、2度目の再婚相手の森宮さんに優子を託して森宮さんとは離婚してしまう。その後は、これまでと違い全く連絡が途絶えてしまう。

この間の事情は物語の最終章になって明かされる。そこで語られる優子に対する梨花さんの思いは、そういう人物がいてもよいかもと、妙に納得させられてしまう。

 

物語は3人目の父親「森宮さん」と高校生の優子が織り成す日常生活が中心になってる。若いのに(優子とは20歳の年令差)懸命に父親役をする森宮さんと優子との会話は軽妙だ。

 

ムリ筋の設定は、作家の力量が試されるところだろうが、最後まで読んで私の心配は杞憂に終わったと言っていい。作家の得意とする青春小説に、ユニークな1冊が加わったと思う。このままドラマ化しても、中高生には受けそうな雰囲気があった。

 

あえて言えば、ジジイの私には、世間はそんなんではないとかなんとか、多少の突っ込みどころがあってる読んでるのだが、優子にイジワルな女子高生以外は、悪人が登場しない良質のエンタテイメントで面白かった。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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