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読評 「屋上のウインドノーツ」(額賀 澪 著)

 

何か読書の候補はないかと、読書用のメモ帳をめくっていたら、「屋上のウインドノーツ」の題名と作者名があった。読みたいと思った動機がなんであったかは、思い出せない。

地元図書館の資料検索をしたら、松本清張賞(第22回 2015年)を受賞している。たぶん、その関連だったのだろう。

 

図書館の案内には、『友達がひとりもいない県立高校へ入学した、引っ込み思案の少女・給前志音は、ワケありの部長・日向寺大志に誘われ、吹奏楽部に入部する。やがて厳しい練習の日々が始まって…。爽やかな風を感じる熱血部活小説。』とある。

 

松本清張といえば、私のイメージは社会派推理小説。当然、その名前を冠した文学賞なら、そうした分野の作品が対象だろうが…。なぜ、青春小説が選ばれているのか不思議に思いサイトを見ると、『ジャンルを問わず、良質の長編エンターテイメント小説』に与えることに改めていた。

ちなみに、公募の文学賞で、賞金額が500万円は他の文学賞に比べてかなり高い。この22回には、600編を越える応募があったようだが、その中での受賞となれば、けっこう期待が持てそうだ。

 

それに、吹奏楽の部活を描いたという事では、武田綾乃原作のアニメ「響け! ユーフォニアム」を見てるし、こうした青春物には抵抗がない。また、中学時代に吹奏楽部(ブラスバンド)にはちょっと特別な思い出もある。

まあ、私の孫の世代の主人公が、よう頑張っている、と思って読書を楽しもうと借りてきた。

 

物語は、主人公の給前志音の幼稚園での風景から始まる。自分を「おれ」と言うので、私はこの子は男の子だと思って読み進めたら女の子だった。物語の背景にある茨城県では、女でも「おれ」という風習が残っているという。給前(きゅうまえ)という姓も珍しいと思ったら、これもフツウにあるのだという。

 

だが、苗字はともかく、女の子が高校生になっても「おれ」というのは、私には抵抗がある。地方の風俗にしても、わざわざ彼女だけそういうのはヘンに思える。どんなイントネーションで言うのかもあろうが、作家の意図がわからない。

 

分からないといえば、題名の「ウインドノーツ」の意味がなんなのか、興味深く読み進めたのだが、説明となるようなことは最後までなかった。

気になるので検索したが、ネットでは取り上げていない。ということは、読者はごく当たり前に知っているのだろう。

 

2017年に文庫本が出ていて、その出版に際して、著者は『三年前の原稿は、見るに耐えないもの』で、これでよく松本清張賞になったものだとして、文庫本では特にもう一人の主人公である男子生徒・日向寺大志の口調や行動の結末を書き換えたという(旭屋書店インタビュー)。

 

文庫本出版のときに、改稿するというのが一般的にあるのかどうかは知らない。だが、著者があえてするならば、そこには作家の数年間の成長のあとが見られるわけで、興味を持った私は文庫本を取り寄せてみた。

 

 

文庫本の帯に、「この風の音が 君にもきこえるか?」とあり、「風の音」の上に小文字で「ウインドノーツ」と振ってある。

つまり、この小説の題名は『屋上の風の音』ということになる。おそらく、単行本の帯にも似たようなことが書かれていて、読者はそれを知っているから、当然ながら誰も疑問にあげていなかったのだろう。

 

私は図書館の本を借りたので、帯はなく、それを知りえなかったわけで、私だけが「ウインドノーツ」の知識不足だったわけではあるまい・・・と思う。

まあ、若い人が好みそうな表紙でもあるし、この場合、外国語で表したほうが、題名としてカッコいいかも知れない。

 

私の時代、吹奏楽部はブラスバンドと言っていた。それで調べてみると、ブラスでは金管楽器を意味して、木管楽器が入らない。それで、今は「wind ensamble」とか「wind orchestra」というらしい。

ノーツは「note」で音符や(楽器の)音を意味している。

つまり、作者の意図は知らないが、単純に「風の音」だけではなく、「吹奏楽」に掛け合わしたのだろうと思って合点した。

author:u-junpei, category:読評, 20:40
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読評 「これなら読める! くずし字・古文書入門」(小林正博 著)

 

タイトルに騙されてしまった、というのが読み終えた直後の実感。

 

石仏の調査をしていると、文字が流麗な草書体(?)で刻まれているのがある。その方面の知識がない私には、ほとんど読み取ることが出来ない。歌碑などはそのような文字で刻まれたものが多い。

当該物が公私の調査資料などに載っていれば、それを参考にできるが、客観的にそれが正しい解読かどうかは分からない。そうした時には、昔の人が書いた文字を勉強したいとか、古文書などがすらすら読めたら素敵だろうと思ったりする。だが、そう思うのも一時の願望で、ついつい心の中にしまわれてしまっている。

 

それが、新聞の本の広告で「古文書入門」とあるのを見た。新書版で安かったこともあって、実物を確かめようともせず、ネットで注文したのは、上のような状況があったのが原因だ。

 

この本の始めの方では、まず「ひらがな」の字体を覚えるようになっている。その「ひらがな」は、昔の「いろは数え歌」順と現在の「あいうえお」順とで、2度も掲載している。その結果、1つの「ひらがな」文字には、字母となっているのが複数あるのだが、その表示は重複されていて、ときにはそれぞれに分散されてしまっている。したがって、どちらか1つの方法でまとめてあった方が、あとで文字を確認するにも見易かったろう。

 

また、『ひらがなはもともと漢字をくずしてできています』とし、「ひらがな」の元となった「字母」との組み合わせが載せられている。

その「ひらがな」も昔の字体であるから、漢字を崩して書く手順は、知識として必要と思われる。だが、この本では、どう「崩し」て書いてるのか、書き順が全く説明されていないので、視覚的にも覚えるのが難しい。私のように、「くずし字」のイロハも知らず、古文書解読の入門書だと思って手に取った者は、困惑するに違いない。

 

著者は「古文書解読検定協会」の代表をしている。この本も受験用になるように、そうした立場から書かれたようだ。ところが、教える側の指導者というのは、その知識が当然で当たり前であったりすると、初心者がどこでつまずいているのか、得てして分からなかったりする。

 

あえて言えば、著者は入門書のつもりだろうが、初心者にとっては、説明が足らなくて入門書にならないこともあるのだ。この本で「くずし字」の書き順が無視されているのは、まさにそれであろう。

 

この本では、明治時代の小学生が学んだ教科書などを、初心者にとって古文書の入門にふさわしいとして使っている。だが、当時の教師は、「読み書き」を教えるのに、くずし字なども、黒板などに手本を書いて見せたに違いない。

子どもが使ったのだから、それゆえ易しいわけではあるまいと思う。

 

私は、古文書解読検定がどの程度のレベルを要求されているのか知らない。だが、著者がいうほどには、この本を読んだくらいでは、合格できるとは思えない。少なくとも、私は身についていない自覚がある。

 

そう思って改めて帯を見ると、『あなたの くずし字の知識が確実に レベルアップする一冊』というコピーがある。

「くずし字」の知識がなければ、そもそもレベルアップなどありえないはず。

つまりは、この本は入門書とうたっているが、ズブの素人のための入門書というより、『くずし字を多少でも学んだ者が、さらに理解を深めるための入門書』というのが正解なのだろう。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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読評 「本のエンドロール」(安藤祐介 著)

 

「エンドロール」といえば、映画などで最後に流れる出演者や制作者・協力者などの字幕をいう。

本には、著者が「あとがき」で編集者たちの名をあげて出版の謝意を表してることはある。それ以外は、「奥付」に発行所・印刷所・製本所名があっても、具体的な職掌の担当者は書かれていない。そういうことでは、本にはエンドロールはない。

 

それなのに、この小説が「本のエンドロール」という題名なのは、本を作っている裏方たちを描いて、いわば「お仕事小説」だからだろう。

もっとも、この本では、最後になる見開きの2ページで、実際に出版印刷製本に携わった各分野の35名を「STAFF」として紹介し、エンドロールの面目を施してはいる。

 

この小説では、本の出版業とその背後を支える印刷業は、電子書籍の登場でかつての盛況はなくなり、新時代の中で衰亡していく予感がある。それを、印刷会社の営業で働く主人公をはじめ、いわば本好きの連中が、危機感を持ちながら、それぞれの仕事に励む姿や家庭を描く。それはいわば、それそれが働くことの意味を問うことでもある。

 

福沢諭吉は、「世の中で一番楽しくて立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つと云う事です」という。いわば天職に携わる幸福を説いている。だが、これは私の天職ですと胸を張る人は、仕事人の割合ではどのくらいだろうか。私は特別な仕事に就いている人以外は、それほど多いとは思えないのだが・・・。

 

人々が働くのは、たいていは金を得るためで、それは当然ながら非難することではない。福沢諭吉風に言えば、そこから一歩踏み込んだところに、たとえば仕事を通した喜びが湧いてくれば、それは仮に天職でなくとも、十分に価値ある人生ではなかろうか。

 

この小説は私にそんな思いにさせた。それでいうなら、私のような老人ではなく、これから生きる若者に読んで欲しいと思う1冊だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 「五年の梅」(乙川優三郎 著)

 

小説を読むときに、本屋に出向くことがあれば、パラパラめっくって読書意欲が湧くかどうかをみる。そうでなければ、新聞の書評を参考にしている。最近は図書館で借りることが多く、後者が断然多くなった。

 

ところが、この本は私が留守のときに、山友が置いていった。したがって、全く前知識がない。作家も知らないし作品を読んだこともない。もし、帯のコピーにある『人生に近道などなかった』に興味をひかれなければ、この本を読むのも、それこそ「遠回り」したかも知れない。

 

この本には時代小説の短編が5編納められている。本の題名になっている「五年の梅」はその中の1つ。本は2001年に山本周五郎賞(第14回)を受賞している。賞としてどの作品が評価されたのかは分からないが、帯は「五年の梅」をあげているから、おそらくこれが主編なのだろう。

後で知ったことだが、時代小説家の山本周五郎の名を冠した賞でありながら、時代小説で受賞したのはこの作家が初めてだったという。

 

私は、時代小説フアンというほどではないが、嫌いではない。特にいえば、藤沢周平の「蝉しぐれ」や、山本一力の「あかね空」は好きな小説だ。それで、これらを読んだ後では、時代小説を読んで面白かったどうかは、これらが私の比較基準になっている。

 

「五年の梅」は最後まで読まないと、なぜ「五年」で「梅」なのか分からなかった。そういう意味では、他の短編も題名の付け方は、最後まで読んでなるほどと思うようになっているようだ。

 

たとえば、最初に納められた短編は「後瀬の花」という。「後瀬」は「のちせ」と読ましているが、私は「ごせ」って何だろうと思って読み始めた。

これは、いがみ合う男女が登場人物で、金を着服して逃亡している責任を押し付けあっている。私はこういう話は嫌いで、この作家はこういう醜さを描くのかと、危うく先入観に陥るところだった。

ところが、この2人は、追っ手から逃げて、崖から飛び降りていた。物語の最後に来て読者は初めて、この2人は亡霊なのだと知る構成だ。2人はお互いをののしりあったあとで、ふと冷たい体温を感じ、まだ生きているかも知れないと、2人して崖下に下りてみようとする。それで、作家は、ちっぽけだが、どうにもならない人生の悲哀を描いたのだと分かる。

 

最後に収録されている「五年の梅」は、他の4編とはちょいと毛色が違っている。猪突猛進型の若侍が主人公で、どうやら、正義感ばかりがはやり、体力勝負で頭はあまり良くないのだろうなと思わせる。

藩主に直情的に諫言したことから蟄居生活を命じられるが、だんだんと生きる為にはどうしたらよいかを学び始める。さらに好きだった女が不幸な結婚生活に沈んでいるのを知り、それを助け出すために知恵を絞るようになる。この辺りから、物語の真骨頂になるのだが、作家は若者が落ち着いた大人の男になっていくのを描き、読者に安心感を持たせるのが良かった。

 

この作家の特徴は、この本に限るのかどうか、他の作品(「行き場」・「小田原鰹」・「蟹」)の登場人物もけっこう醜い性格や情況に描かれる。それは生来の環境からだったり、人生の途中のふとした行き違いだったりするのだが、いずれもどうにもならないふうにまで描かれる。

それが物語の最後には、生きるにせよ死ぬにせよ、読者がホッとするように変える結末がある。私には、これが作家の持ち味のように思えた。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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読評 「そして、バトンは渡された」(瀬尾まいこ 著)

 

本書の冒頭シーン、主人公森宮優子は高校2年生で、担任の向井先生との進路相談の場面から始まる。

先生は「困っていることや、つらいことはないか」と優子に尋ねる。

 

読者は、優子が3歳で実母を亡くし、小学2年生のときに2人目の母や、実父を含め3人の父親に育てられた来たという知識があるから、先生が聞きたいところも分かる。

優子は困っていることなどは全くないと答えている。一般的に見ればフツウでなく、さぞかし辛いこともあるだろうと思うような状況設定だ。

ところが、優子はウソをついている様子ではない。となると、私としては、物語がこれからまともな展開をするのか心配になる。この小説が、作家の思いつきの面白さだけで底が浅く、読書の時間を浪費するだけではないかという心配だった。

 

5人の父母の関係で、優子が17歳になるまで4回も苗字が変わったというのは、フツウの実生活にはありえないような筋立てだろう。作家は、それを2度目の母「梨花さん」の個性的な生き様を描くことでカバーしている。

梨花さんは、2度目の再婚相手の森宮さんに優子を託して森宮さんとは離婚してしまう。その後は、これまでと違い全く連絡が途絶えてしまう。

この間の事情は物語の最終章になって明かされる。そこで語られる優子に対する梨花さんの思いは、そういう人物がいてもよいかもと、妙に納得させられてしまう。

 

物語は3人目の父親「森宮さん」と高校生の優子が織り成す日常生活が中心になってる。若いのに(優子とは20歳の年令差)懸命に父親役をする森宮さんと優子との会話は軽妙だ。

 

ムリ筋の設定は、作家の力量が試されるところだろうが、最後まで読んで私の心配は杞憂に終わったと言っていい。作家の得意とする青春小説に、ユニークな1冊が加わったと思う。このままドラマ化しても、中高生には受けそうな雰囲気があった。

 

あえて言えば、ジジイの私には、世間はそんなんではないとかなんとか、多少の突っ込みどころがあってる読んでるのだが、優子にイジワルな女子高生以外は、悪人が登場しない良質のエンタテイメントで面白かった。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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読評 「キラキラ共和国」(小川 糸 著)

 

NHKラジオの新日曜名作座は、夜7時20分から30分間放送している。西田敏行と竹下景子がそれぞれ男女役になり、数人の登場人物を演じ分けているのだが、二人の個性のせいか、けっこう面白い朗読劇になっている。

 

先月、買い物途中の車中で、たまたま聴いていたら、西田が「ポッポちゃん」と呼びかけたり、竹下が「QPちゃんのお手紙」とか言うセリフで、『ツバキ文具店』だと分かった。

ところが、内容が私の知っているのとは違うようだ。

http://blog.kiriume.com/?eid=1223420

聴いている途中でスーパーに着いてしまったが、続編が出たのかと思い、ならば、本で読めばいいと、買い物を済ますことにした。

 

『続・ツバキ文具店』だろうと検討をつけて検索したら、該当するものがない。念のため番組をチェックしたら、やはり『続・ツバキ文具店』になっている。色々しているうちに、続編の題名は『キラキラ共和国』だと分かった。

作家は何故、今までとは無関係のような、とっぴもない(?)タイトルにしたのだろう。そんな興味もあって、図書館に予約を入れた。

 

前作の『ツバキ文具店』が手元にはないので、しっかりした比較ではないが、この『キラキラ共和国』では、作家の文章がこれまでより弾んでいるようだ。陰影のあった鳩子も、明るく饒舌になっているような気がする。

この新作では、雨宮鳩子が結婚し守景鳩子になったところからスタートするので、いわば文体も新婚風にというわけだろうか。

 

前作と同様、鳩子が手紙の代書を商売にしているのは変わらない。ところが、前作では依頼を受けた手紙の後日談が必ず語られていたが、今作ではそれがない。

これは、結末を読者の想像に任せることにしたのか、あるいは後日談を3作目に予定しているのだろうか。

 

鳩子の母親が、レディ・ババとして異常(?)な登場をするが、これは唐突感を免れなかった。しかも、この話も中途半端に終わっている。やはり次回作がないと、小説としても完結しないだろう。それにしても、これを出版戦略にしているなら、なんだかな〜とは思う。

 

『キラキラ共和国』の「キラキラ」については、最初と終わりの方の2ヵ所で触れられている。なるほど〜ではあるが、未読の読者の為にここでは触れないでおこう。

ちなみに、続編を楽しもうと思ってる読者なら、ラジオ番組のように『続・ツバキ文具店』の方がしっくり来ると思うのだが・・・

author:u-junpei, category:読評, 20:20
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読評 「草花たちの静かな誓い」(宮本 輝 著)

 

図書館で借りたい本があって、前もって検索し、貸し出しOKを確認して出かけた。ところが、着いてみると既に貸し出されていた。

こういうこともあろうと、さして腹は立たなかったが、せっかく来たのだから書棚を見て回った。

 

宮本輝の棚にまだ読んでない本があった。それが今回取り上げた「草花たちの静かな誓い」という小説。彼の作品にしては、やけに長い題名で、しかも草花を擬人化してるようなのが気になった。

 

これは新聞に連載(2014年3月〜2016年8月)されたのを単行本にしたもの。

内容は、米国人の実業家と日本人の妻がいて、彼等の娘が六歳の時に誘拐されてしまう。アメリカでは年間百万人が行方不明になり、その内の85%が子どもだという。これ自体驚きの数字だが、さらにアメリカ社会は貧富の差が激しく、それは夫婦の豪邸ひとつを例にあげても日本の比ではない。だが、彼等はいわば勝ち組だろうが、それが常に幸せを伴うわけではなさそうだ。

 

事件から二十数年の月日が経ち、その間に夫は癌で先立ち、妻もその数年後に日本での旅行中に突然亡くなる。前もって遺言が作られていて、自殺かと思われたが病死だった。妻の甥の小畑弦矢が大豪邸を含む四十数億円の遺産を相続する。その遺言書には、娘が見つかったなら、その7割を娘に渡してくれとあった。これがこの小説の発端になっている。

 

したがって、この物語の主人公は小畑弦矢(夫婦の援助を受け、南カリフォルニア大学の大学院卒でMBAを取得し、日本に帰国していた)で、叔母の死後、病気で亡くなったとされていた娘が、実は誘拐されていたことを初めて知る。

この辺は話の筋に違和感を覚えるが、ともかく、彼はその娘探しを、偶然知りあった私立探偵に依頼する。

案外なことに、探偵は娘が生きていることを、事件当時のビデオフィルムから割りと簡単に発見する。これまで夫婦が莫大な費用を掛けて、さんざん探していたにもかかわらずにだ。

 

実は、誘拐を仕組んだのは妻の仕業だった。彼女は二十数年間それを秘匿する。それは何故だったか。誘拐事件には当然ながら協力者がいたわけだが、物語は俄然ミステリー小説の趣で、その謎解きの様相になる・・・

 

読後感を、あえて断定してしまえば、作家の他の作品と比べると、あまり優れた作品とは思えない。

着想は面白い。だが、題名につながるモチーフがイマイチはっきりしない。弦矢と叔母に共通する逸話があるのだが、どうして「草花の誓い」になるのか、私には納得できなかった。

おそらく、作家が題名で意図したものは、彼の得意とする宗教的な暗示の類なのかも・・・興味ある読書人のために、ここには書かないでおこう。

 

作家の他の作品のように、この小説が上下卷になるような長編物だったら、もっとディテールが生かされて、面白いものになったのではと思われた。

たとえば、作家が作品ごとにテーマにして語る薀蓄は、この小説では叔母の作る「スープ」だ。しかもそれを、弦矢と探偵は、企業を立ち上げて商品化しようとする。ところが、その計画の具体性は、弦矢がMBA取得者であるにしては、かなり端折られている。

また、この小説では、最も大事であろう誘拐者と娘の生きざまや、その間の叔母夫婦とのかかわりにも、同様な物足りないなさがあった。叔母夫婦と誘拐者夫婦は親しい間柄で、特に夫同士は商売上のつながりもあるのに、全く没交渉というのはありえないだろう。

宮本輝作品としては、新聞小説であるにしても、それらを描くには短かすぎたのかも知れない。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「山の霊異記」(安曇潤平 著)

 

図書館の新刊本の棚に、この本があった。この著者の本は初めてだが、名が私のペンネームと同じだったので、思わず手に取った。

それに、山の怪異譚は、幽霊話など怖いものみたさもあって、そう嫌いではない。

 

この「山の霊異記」は22の話が納められている。副題に「ケルンは語らず」とあるのは、その中の1話で、雪山でケルンの傍らで遭難死した男が、婚約者に渡そうとした指輪を、ケルンに隠し置いたのではないか・・・という話。男のザックの中に指輪の箱だけが残されていたからだ。

夏になって、追悼登山した婚約者はそう思い、ケルンをなでるようにして探すのだが見つからない。

 

その話の最後で著者は、男が死んだのは雪山だから、ケルンは雪の中に頭だけのぞかしていたのでは推理する。とすると、指輪は天辺のほうにあるかも・・・悲哀が込められた話になっている。

 

他には幽霊譚が多いが、怖いものもそうでないものもある。幽霊を見るのは男が多いのは、著者が男だからだろう。

 

男がテントで寝ようとしていると、絶世の美女が現れる。もちろん幽霊なのだが、交わりを持ってしまう。

男はその経験が忘れられず、それ以後何度も北アルプスの同じ場所でテント泊し、その女と会うようになる。男の友人は生気を吸われて死んでしまうからやめろと忠告するのだが・・・

どうやら、女のほうが、このごろ生気(?)を失いつつあるようで、実は心配しているのだと男は友人に話す。

「美人霊の憂鬱」という話だが、これには思わず噴出してしまった。

 

作者がどうやってネタを仕入れているか分かる話もある。

京都長岡京殺人事件がそれで、1979年にワラビ採りにきた主婦二人が山中で惨殺された。犯人が分からないまま1994年時効になった。私はネットで検索し、本当に起きた事件だと知った。

 

話では、2人の若い山ガールが、気味の悪い男にしつこく話しかけられる。ところが、その直ぐ後を登って行く著者は、なぜ彼女たちが急に早足になったのか分からない。山頂で著者は事情を聞き、下山を共にする。

 

この「悪い人」という話の最後に、事件のことを書いている。殺された主婦Aのポケットから、『オワレている たすけて下さい この男の人はわるい人です』と書かれた買い物レシートが出てきた。この走り書きも、検索して本当だと知ったときは、かなりゾッとした。

 

山の怪談や幽霊話は、私はある程度は信じている。幽霊の正体見たり枯れ尾花ということもあろうが、説明できない現象というのは実際にはあるのだ。

 

登山家の田部井淳子さんの話だが、前を行く先輩たちが、次々に誰かと挨拶をしている。ところが、彼女は誰と挨拶を交わしてるのか分からない。それで聞いてみると、さっきすれ違ったでしょうといわれた。彼女はすれ違っていない・・・

 

ちなみに、私も、山の経験といえば里山くらいで、霊感もないほうだが、不可思議な事(人)に遭遇した経験が何度かある。私一人で登っているので、遭遇した事実の証明ができないのだが・・・それって、いつまで経っても鮮明に覚えていて、始末がわるい。

author:u-junpei, category:読評, 23:59
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読評 「いのちの姿」(宮本 輝 著)

 

私は30代後半の頃、人生の岐路にあった。その頃、何気無く手にした宮本輝の「錦繍」を読み、人生捨てたものじゃないなと思うことができた。それ以来、私は宮本輝の大ファンで、彼の小説とのお付き合いは長い。

 

「いのちの姿」は2014年刊の単行本を図書館で借りて読んだ。宮本輝の久しぶりのエッセイ集で、14編収められている。どれもが面白く興味深かった。もう読書本はできるだけ買わないようにしているが、この本は手元に置くべき1冊だと思った。

 

それで、購入すべく通販ネットを探したら、新たに5編を収録した「完全版」という文庫本(2017年刊)が出ていた。完全版というわけは、京都の料亭「高台寺 和久傳」の大女将が、エッセイ誌を年2回無料発行していて、彼女が目標とした10年間の発行を達成し、終刊になったからだった。著者はこれに発刊から最後の刊まで、全19編の作品を寄稿している。

 

それらのエッセイの中には、「いのちの姿」と題するものはない。だが、文庫本に収録した19編のいずれにも、そのどこかしらに「いのちの姿」を描き出している。それゆえ、全体を通じるテーマとして本の題名にしたのだろう。

私は、「いのちの形」ではなく「いのちの姿」としてるところに、著者が描き出す「いのち」の不思議さがあるように思った。

 

私は、そんなエッセイのうち、「世界、時間、距離」と題するものに、大変興味をひかれた。

それは、著者がシルクロードを旅したとき、すさまじいほどの満天の星空に出遭った話だ。著者は『空の黒い部分より星の光のほうが多い瞬間にでくわした』と表現している。

そして、その星空を見上げていると、『夜空は巨大な鏡で、そこに自分が映し出されている。あの星々はみんな俺だ……。』と一瞬の想念に浸ったという。

 

私は、20代前半のころ、秩父の三峰山から雲取山へ、夜間の縦走をしたことがある。そのとき、今にも雨が降りそうなほど黒かった空が、一瞬のうちだけ雲間が開けたことがあった。驚くほどたくさんの星が輝いていて、まるで手が届くと思うほど近くあった。

私は著者のような体験をしたわけではないが、心が純粋な喜びで満ちたような記憶がある。それ以来、あのような星空には出会っていない。

 

私はこのエッセイを読みながら、最近夢がないような生活をしているおのれを振り返り、日本各地を星空だけを目的に訪ねる旅をする晩年が送れたら、などと突拍子もないことを思った。

しかし、まんざらでもなく、そういう意味では、私にとって「いのちの姿」は「いきる希望」と同じように思える。

 

そんな「いのち」について、著者は「あとがき」で、次のように述べている。

『人間も植物も虫も、みんないのちであり、一個の石ころさえもいのちに見えるときがある。風にも大気にも雨にも、いのちの姿を感じる。いのち以上に不思議なものはない』と。

同感である。私もそんな感性の持ち主でありたい。

 

ちなみに、文庫本には最後に「解説」があり、映画監督の行定勲が書いている。彼は「泥の川」の映画を見て衝撃をうけたという。

それが宮本輝作品との最初の出会いなのだが、小学6年だったという。まさに、その後の彼の人生を決めたかも知れず、ここにも「いのちの姿」があると思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 22:55
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読評 「死体は噓をつかない」(ヴィンセント・ディ・マイオ ロン・フランセル 満園真木 訳)

 

「全米トップ検死医が語る死と真実」という副題が付いている。10件の事例を挙げて、死体の状況や解剖から死の真相を追究したノンフィクション。

 

アメリカでは現在でも住民選挙で選ばれる検死官制度というのがあるそうだ。その検死官はたいていは葬儀屋だったり墓地職員だったりするのだが、全米の検死局の4割は検死官制度で、医者でないものでも検死をし、死因を判断しているという。そういうことでは専門の法医学者である検死医の方が、真実に近づけることはいうまでもない。

 

ところが、アメリカの刑事裁判は陪審員制度なので、検事も弁護士も彼等の心証を自分側に良くしようとする。また、司法取引という制度もあり、犯罪の真実が問われるべき裁判が、恣意的にゆがめられることもあるようだ。人種差別というアメリカ社会に根深い問題も、司法判断に影響を及ぼしてもいる。

この本でも、著者の解剖所見では被告人無罪であると思われても、有罪になったり司法取引(早く出所できる)で有罪を認めてしまう事件が取り上げられている。

 

本書では、著者が検死医として扱った数十年間の事例のなかから、特に印象深いものを取り上げたのだろう。口絵に実際の写真が数ページあるが、事件がらみの死体というのは気味の良いものではない。

 

私が興味深かった事例は、ケネディ大統領の暗殺者であるオズワルドが、実は偽者だったのではないかという問題が暗殺当初から提起されていて、彼の死から18年後になって、それを確かめるために彼の死体を掘り起こし、本人か否か検証した話や、自殺したとされる画家のゴッホが、実は他殺ではないかという著者の論証などだ。専門の検死医の目を通せば、『死体は噓を付かない』というのもうなづけた。

 

日本でも、東京都監察医務院長だった上野正彦の「死体は語る」という本が出ている。こちらは日本での出来事のなので、より身近な印象を持った記憶がある。

 

最近、新潟女児殺害の犯人が逮捕された。女児の遺体は司法解剖が行われて、電車に轢かれる前に扼殺されていたことが明らかにされた。もし、監察医の解剖所見がなかったら、犯人の思惑通り、電車に轢かれた不慮の事故で片付けられたかもしれない。

 

検死医や監察医制度には、こうした大きな成果がありながら、なり手が少ないのが現状だという。アメリカでさえ専門の検死医は500人足らずだそうだ。日本では監察医務院があって機能しているのは東京のほか2都市で、全国の監察医そのものも常勤・非常勤を含め100人くらいしかいない。

これは3Kのせいもあるが、フツウの医者や開業医に比べて待遇が低すぎるのが大きな要因らしい。医師の使命感に頼るばかりでなく、待遇改善を国家的事業として図る必要があろう。

 

ちなみに、この本では、著者に二人の名がある。検死医はヴィセント・ディ・マイオの方で、ロン・フランセルはジャーナリスト。この2人がどのような役割で著作に携わっているのかは、本書や「訳者あとがき」でも触れていないのは気になった。

また、医学や心理学の専門用語がカタカナで出ているが、簡単な説明や語注とかはない。知識に疎い私のような読者には、なんだか不親切な訳本だと思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:55
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