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読評 「ルポ 人は科学が苦手」(三井 誠 著)

 

題名を見たときに、その意味するところがすぐに分からなかった。現代社会や日常生活で、我々が科学の恩恵を受けないことはありえない。学問としての科学が、理解や知識の範囲を超えるというのであればともかく、なぜ『人』が『苦手』としなければならないのだろう。それが、この本を手にするきっかけになった。

 

副題に、”アメリカ「科学不信」の現場から” とある。したがって、タイトルに「人」とあるのは、人間一般を言うのではなくて、主にアメリカ人を指してのことだろう。

つまり、現代科学の最先端を行く科学大国のアメリカ人が、実は「科学不信」だというのだ。著者は科学を専門とするジャーナリストで、彼はこの本で何を言いたいのか、私の一番の関心はそこにあった。

 

私がこの本を読んで、特に興味をひかれたところは、次のようなところだ。

 

例えば、『宗教が人生で非常に重要な役割果たしているか』という質問を、世界50カ国の国民にした調査結果(米国民間調査機関ビュー・リサーチ・センターの2015年発表)が興味深い。それによると、共産国の中国が3%で一番低い。それについで低いのは日本で11%。GDPで見ると、経済力が高くなると宗教に頼る割合は低くなるという。

ところが、米国は例外で53%の高い割合で肯定している。ちなみに、英国やドイツでは21%、フランスで14%だった。アメリカ人は宗教心が飛びぬけて高いことが分かる。この結果は私には意外だった。平気で無宗教を標榜するような日本人には、とうてい分からないだろう。

 

米国で「進化論」を支持する人は国民全体の約2割に過ぎないという。なぜなら、聖書に基づく「創造説」によれば、人類の歴史は6000年より前に遡ることはないからだ。

学校で進化論を教えていても、家庭では親が子に伝えるのは聖書で、『猿から人間になるなんてありえない。デタラメだ』とか『犬の子は犬だ』と直感的な事実で進化論は否定される。大学生に10万年前の化石だといって見せても、それはありえないと教授にまじめに反論したりする。

 

聖書に基づいて考えれば、このような非科学的な結論がまかり通るだろう。だが、バカとかレベルが低いとかそういった問題ではない。米国は宗教大国でもあるのだ。特に保守傾向の強いキリスト教の福音派の勢力が、人口の25%を占める。この状況の下では、科学の合理性や事実などは簡単に覆され無視される。

 

科学不信が宗教を背景にした保守的な思考と合わさると、人工妊娠中絶に反対したり、地球温暖化と環境保護の関連性も否定される。経済活動で二酸化炭素の増加が地球温暖化をもたらしているというは、研究費が欲しい科学者のでっち上げで、気候変動に過ぎないと理解し、いわば理屈抜きに結論されてしまう。ここでは経済界と宗教が手をつないでいる。

 

それは、政界においても変わらない。泡沫候補と思われたトランプが大統領に選ばれ、彼の発言が科学の事実に反しても、彼の政策は共和党員に強く支持されている。それゆえ、米国がパリ協定から離脱する唯一の国になっても、アメリカ第一主義である彼と彼の支持者は当然だと考える。

 

著者は、米国に2013年〜2018年の間、前半はカリフォルニア大学の研究員、その後は、読売新聞のワシントン特派員として科学分野専門のジャーナリストとして活動している。そんな彼がトランプが大統領に選ばれるという、いわば歴史的転換を現場でつぶさに取材体験した。

おそらく、著者はトランプが大統領になるとは思っていなかったのではなかろうか。それが、米国社会に根強い「反科学」との関連を取材する動機になったように思われる。

なにしろ、米国には「フラット・アース国際会議」と呼ばれる、「地球は平ら」だと考える人々がいて、広範な活動を展開している。例の、アポロ宇宙計画での月面着陸は、ソ連に対抗する為にNASAがでっち上げたのだと主張しているのがこの団体だそうだ。

また、米国には創造説に基づいた博物館施設や、ノアの箱舟を聖書に書かれてる通りの、実物大(全長150m)の施設があったりする。まあ、模型のキリンの首が短くなっているそうだが、ちゃんとした理屈があるようだ。

 

だが、本書の眼目は、単にアメリカ社会の分析にあるのではないようだ。米国内が政治的に共和党と民主党の支持者に分離し、それが地球規模での経済活動に及ぶばかりでなく、アメリカ人自身を分断・対立させてる現実を、ジャーナリストの冷徹な目で見ている。

 

著者はこの本を全4章に構成し、第1章「自分が思うほど理性的でない私たち」で、人間一般について、米国での反科学的な理由を取材している。しかし、ここでは、米国と日本やその他の国との比較検証はなされていない。

だから、仮に、経済や風俗などでよく言われるように、日本が米国のあとを追いかけてるというのが真実だとしても、宗教風土は全く異なるという違いは無視できないのではなかろうか。そういう意味では、日本のほうが無軌道・無道徳に走ってしまう危惧があるように思うが・・・。

また、狩猟民族と農耕民族といったDNAの違いは、最後には国民の思考を左右するかも知れない。

 

ともあれ、第4章「科学をどう伝えるか」では、米国で起きている分断対立社会の『今後』=「科学不信」からの脱却について、米国だけの問題ではないという視点で書いている。米国の科学者自身がどう向き合おうとしているか、様々な活動や研究を取材していて興味深い。

ぞれが、著者をして、「人は科学が苦手」といわしめ、啓蒙活動としての取材活動を目指した・・・ように読了して思った。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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読評 「国境を越えたスクラム」(山川 徹 著)

 

副題に「ラグビー日本代表になった外国人選手たち」とある。タイトルよりも、これが私が読んでみようと思う動機になった。

 

W杯での日本代表の大活躍で、『にわかラグビーファン』が増えたという。私もファンになったというほどではないが、大いに関心が湧いたというのは本当だ。

 

私の最初の日本チームの印象は、多くの外国人が代表メンバーになっていることだった。それを見て、プロ野球のようにラグビーにも助っ人ガイジンがいるのかと思った。

そうだとすれば、私には、いわばガッカリすることだったが、代表チームのキャップテンが外国人で、しかも流暢な日本語を話すことも不思議だった。それは大変興味深いことで、さらに外国人選手は日本人選手以上に、日本代表であることに誇りを持っているようだったのには驚くとともに好感を持った。

この本を読む動機は、こうした何故?があったからだ。

 

この本で、ラクビーには独自の代表選抜があることを知った。

日本代表だけでなく、W杯に参加した代表チームは多国籍化しているという(アルゼンチンのみ同国人)。しかも、外国人が他のスポーツのように、いわば助っ人選手であることとは様相がちがっている。

 

その代表選手になれる条件は3つあって、国籍を問わず、そのいずれかを満たせばよい。

 ―仞乎呂その国

◆[梢董∩追稱譴里Δ前貎佑その国出身

 その国で3年以上継続して居住、または通算10年にわたり居住(3年居住要件は日本大会以後は5年)

 

これは、ラグビーがイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四国で構成されたイギリスが発祥の地であることや、ニュージーランドやオーストラリアなどのイギリス植民地に広まったことが歴史的背景にあるという。いわば多国籍チームになることを受け入れる素地は、もともとあったといえる。

 

日本の場合は、今から30年ほど前、2人のトンガ人の留学生(ソロバン習得をトンガ国王に命じられてだそうだ)が最初で、彼等が、後に代表入りするようになってからだ。

もちろん、先駆者の苦労が並大抵でないことは、ラグビーの世界に限ることではない。それは逆に日本から外国に渡った事例が如実に物語っている。先駆者が成功して道を開き、それに後輩たちが続くという図式は変わらない。

 

この本は、そうした事例を丹念に取材し、いわば”One for all, All for one”といわれるラグビーの世界で、外国人選手が受け入れられるようになった過程を描いている。その取材には、著者自身が高校・大学とラグビーに取り組んだことが大いに役立っている。

 

今、何かとお隣の韓国とはギクシャクしている。日本代表には韓国人もいて、今回のW杯でそうした雰囲気を吹き飛ばすような活躍をしているのは、将来の韓日関係に好材料になるに違いないと思う。若者の多くは私のような年配者と違い、過去にとらわれない柔軟さを持っているからだ。

 

この本は、2019年8月に刊行されている。当然ながらW杯の結果を知らない前の取材なのだが、日本代表の好成績が予想される内容だったのは、きちんとした良い取材に基づいて書かれていたからだろうと思う。日本の良いところも悪いところもちゃんと書いている。

 

また、ラグビーが15人で、それぞれ1〜15の番号に配置された選手ごとの役割があることは、『にわかファン』にもみたない私には新鮮な知識だった。

私は、ラグビーは図体が大きく頑丈にできている男たちのスポーツだと思っていた。が、決してそうではなく、ポジションの役割による総合力が問われるのだと知った。

 

著者の「あとがき」によれば、ラグビーとは『・・・チーム内で自分の存在意義を見出し、承認欲求が満たされる・・・』スポーツなのだという。

どおりで、京都伏見工高をモデルにしたという映画『スクール・ウォーズ』で、どうしょうもない不良生徒たちがラグビーを通して立ち直り、成長していく。この高校で起こった出来事は、監督と生徒の単なる根性モノではなく、各人が役割を通して、自己を肯定的に捉えられる、ラグビー本来の教育効果なのだと合点がいった。

author:u-junpei, category:読評, 21:12
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読評 「14歳からの数学」(佐治晴夫 著)

 

2019年8月に出版されたばかりで、図書館の新刊書コーナーにあった。

14歳といえば中学2年生だが、私の塾生にも何か役立つものでもあればと思い借り出した。

副題に「佐治博士と数のふしぎの1週間」とあるように、内容を月曜日から日曜日の7つの項目に分けてある。1日1項目なら読み終えやすいだろうと見当をつけたのも、借り出す理由になった。

 

だが、読み始めてまもなく、それが安易な考えだと分かった。書かれている数学の内容は、中学生どころか高校生、あるいはおそらく大学生の範囲まで含まれている。こうなると私の目的には合わなかったし、出てくる数式も分からないので読み飛ばしたりもした。

また、数学用語には、当然分かってるでしょうを前提にするのではなく、対象が中学生であるなら、もっと説明があっても良いと思った。例えば木曜日の『2次方程式』の項で、2次方程式を解く「根の公式」を導く過程を説明しているが、これは中学では「解の公式」と呼ばれている。公式の導き方も、私の使っている中学の教科書に出ている方法とは異なっている。現役の中学生には『えッ』となるのではないかと思った。

 

私は中学生に「根の公式」という言い方をしたことがない。ネットで調べたら、どうやら「根」と「解」では視点が異なるらしい。2次方程式では「解」の方を使うようなのだが、どうなのだろう。

 

内容は概して、14歳の中学生には、難しいだろうと思った。それでタイトルが『14歳からの』となっているのだろうが、思い切って14歳に限定して、分かり易い内容に限定していたらよいのにと思った。

そう思って、著者のプロフィールを改めて見ると、『14歳のための物理学』、『14歳のための時間論』、『14歳のための宇宙授業』というように、なぜか14歳に限定したタイトルの本を出している。

 

これを見て、なるほどと思った。この『14歳からの数学』は、これら『14歳のための・・・』の集積だったのかも知れない。だから、本書では、物理や時間や著者が専門とする宇宙の『ゆらぎ』理論に触れられていたのだろう。もっとも、その多くは私には理解不能だったのであるが・・・

 

「あとがき」の最後に

  ーー数学は論理の音楽であり、音楽は情緒の数学であるーー

とある。引用が無いところを見ると、これは著者自身の言葉なのだろう。

 

おそらく、含蓄深い言葉であるように思うのだが、私は音楽に疎いのでよく分からない。もしかして、これに共感できないと、高等数学は理解できないのかもしれない。

いくら『14歳から』とはいえ、高齢者の私には手遅れかと・・・残念ながら、若い人に期待するよりない。

author:u-junpei, category:読評, 16:16
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読評 「交通誘導員ヨレヨレ日記」(柏耕一 著)

 

表紙に『当年73歳、本日も炎天下、朝っぱらから 現場に立ちます』とある。ちなみに、著者のプロフィールには

『1946年生まれ、出版社勤務後編集プロダクションを設立。出版編集・ライター業に従事していたが、ワケあって数年前から某警備会社に勤務。七三歳を迎える現在も交通誘導員として日々現場に立ちながら、本書のベストセラー化により、警備員卒業の日を夢見ている』そうだ。

『ワケあって』とあるが、その「ワケ」なるものは、家族構成を含めて本文に率直に書かれている。警備員をしているのは、この業界は人手不足で、かなりの高齢者でも採用されるからだそうだ。その辺のいきさつにも興味深いものがある。

ともあれ、私がこの本を読もうと思ったのは、私も高齢者の一員であることが一番の理由であった。

 

タイトルが「日記」とある。それで、著者が警備員として体験した「業務日記」でもあろうと見当つけてはいたが、その内容は私の予想を超えて、もっと興味深く面白かった。いわば警備員の仕事を通して経験した人間模様を描き、その観察眼や文章には、さすがに出版編集者である経歴が生かされている。

 

「日記」としたのは、「まえがき」に次のようにある。

『本書は正確には日記ではない。といって小説でもない。日記の体裁をとりいれた警備員のドキュメントであり、生活と意見である。全文27項目はテーマごとに分類している。読者に興味を持っていただくためであり、面白く読んでいただく工夫でもある』と。

 

著者によれば、警備員を扱ったノンフィクションはこれまでなかったという。ただし、この本は交通誘導警備員の仕事を書いているが、出版目的は著者の『生活と意見』なのだ。高齢者になってこそ得られる人生のいろいろがあるのだと思う。私自身はこの本を”ドキュメンタリーエッセイ”として読んだ。

 

付け加えるならば、著者=高齢者=ヨレヨレでは決してなかった。「ヨレヨレ日記」としたのは、多少の自虐が混じってのことだろう。

でも、私がこの仕事をしたら、トイレ事情ひとつをとっても、あっという間にヨレヨレになっているに違いない。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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読評 「森林官が語る 山の不思議」(加藤博二 著)

 

タイトルの脇に小さく「飛騨の山小屋から」とある。この本は、1948年9月に刊行された「飛騨の山小屋」を改題し、2017年9月に再刊された、いわば復刻本で、表紙絵は元の本のままが使われているという。

だから、山小屋の中で囲炉裏の火にあたっている男は、ドテラのような着物姿で、煙草のキセルを手にしてる風情や、背後の壁に掛けてある蓑や藁沓やガンジキなども、まさに昭和前期の風俗そのものだ。

 

著者の加藤博二は、「昭和22年秋」で結ぶこの本の『自序』に、『森林官として十数年山で暮らしてきた』と述べている。森林官というのは、ネットで検索してみると、国有林を管理する林野庁の出先機関である森林事務所の責任者だそうだ。森林の伐採管理・調査保護や取締りの警察権限がある。

その『ながい山男の生活』の中で著者が見聞したことが、本書の短編やエッセイ風の小説になっているという。つまり、そうした昭和の初め頃の時代背景なくしては、全17編が収められているこの物語集はなりたちえない。

 

たとえば、物語にたびたび出てくる「山窩(さんか)」がいる。かつて存在し、深山を移動しながら外とは隔絶した暮らしをしている民だ。里人からは「山乞食」と呼ばれ、蔑まれながらも怖れられてもいた被差別民で、一族の頭の下に統率され、仲間内には厳しい掟があったという。『山窩の娘』や『密林の父』などでは、それゆえの男や女の情深く悲しい物語が語られている。

 

それはともあれ、タイトルが「山の不思議」とあるから、これを読む前の私は、「物の怪」などが登場するオドロオドロした話を予想していた。ところが全編を通して読むとそうでもなく、むしろ人間のサガとでもいうものが描かれている。

 

『猿の酒』のように、猿が作る果実酒を人間が横取りしたり、酔って寝ている間にキセルを猿に盗られたり、あるいは猿が子守をしてるような不思議な話しはあるが、まあ、怖いというほどの話ではない。

『雪和郎』という「雪男」をイメージするような話も、山男だと分かっている。『尾瀬の旅人』には昔の長蔵小屋が出て来て、「ハイキング」などという新しい言葉(?)が使われているが、昔の尾瀬沼の様子が描かれ、現在のように観光地化した尾瀬とはまるで違う雰囲気が漂う物語であった。

最後の編『雪の湯町』は、東京からやって来る作家と山の温泉の芸妓の交流が描かれた物語だ。まさかと思うが、川端康成の『雪国』の原案のような気さえした。

 

衛星画像で見つけた山奥の家を探訪するテレビ番組がある。とても人気があるようで、その一軒家に住む人も、やはり来たかと歓迎するような面持ちが面白い。確かに山奥にあるのだが、けっこう立派な家屋だったりし、その一軒家に行くにも、車一台がやっと通れるにしても、ちゃんと山道がある。したがって、山の一軒家に住む人たちが下界と隔絶した生活をしているワケではない。

 

だが、この本の物語の当時、歩いてでしか入って行けない山奥にも、山小屋のような温泉宿があったようだ。薪で鉱泉を沸かしてる、冷たい風が吹き込むような草葺の宿だったりするのだが、その侘しいたたずまいは、かつてはさもありなんと思え、現代の生活者からすると興味深いものがある。

 

そんな物語を紡ぐ著者の文体は、表現が豊かで情景が目に浮かぶようだから、その筆力は全くシロウトの域を超えている、と思う。今どきの文章のように句読点が多く読みやすいのは、もしかして、再刊ゆえに編集者の手が加えてあるのかも知れない。

ともあれ、懐かしい「昔し話」を聞いているような、そんな雰囲気がある。いわば、今はなき、古き世の物語集なのだが、全編を通して興味深く面白く読むことが出来た。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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読評「呼び覚まされる 霊性の震災学 3.11生と死のはざまで」(金菱清ゼミナール編)

 

最近は、小説が読めなくなった。新聞の書評欄で紹介されていた本を、図書館に予約し、数週間も待って手にするのだが、数ページ読んだだけでつまらないと思ってしまう。2週間の借り出し期間を手元に置いておくのだが、結局は読み終えずに返却してしまうことが、数回連続した。

それでも、本を読めないのは歳のせいにしたくない。それで、ノンフィクションならば興味深く読めるのではと思いつくまま、この「霊性の震災学」を通販で求めた。

 

この本は、東北学院大学の金菱清ゼミの学生による、東日本大震災の記録プロジェクトとして、2016年に出版された。

当時、タクシードライバーが体験した『幽霊現象』を、女子学生が聞き取り調査をしたとして、マスコミを賑わしたこともあり、私もこの本の存在を知っていた。

 

また、私は同じく金菱清ゼミの「私の夢まで、会いに来てくれた 3.11 亡き人とのそれから」(2018.2刊)を読んでおり、ゼミ学生が学問の一環としてフィールドワークで取材し、それを本にしたものだということで関心があった。

 

この「霊性の震災学」を読み終えた今では、むしろ、「夢まで会いに来てくれた」の本の方が、ゼミ学生たちがいわんとする”霊性の現象”に近いのではないかと思う。

というのも、2016年刊である「霊性の震災学」では、幽霊現象=霊性とする傾向が強くあるようだ。それが、2016年の出版から2018年の出版になる間、ゼミ指導者である編者を含め、学生達のゼミ活動としての震災学が、だんだんと、より深化してきたのではと思う。

 

この本を通販で求める際にコメントを見たのだが、☆1つをつけた者があった。『タクシードライバーの幽霊体験は、ネットで読めるので、本を買う必要はなかった』というものだ。

私は、ネットにあるというのが、どの程度に本と同じなのか、ネットを確認していないので分からない。だが、この☆1つのコメントは、次の理由からも浅慮だろうとは思う。

 

「霊性の震災学」は、全8章に編集されている。8人のゼミ学生がそれぞれのテーマでフィールドワークしたものだ。女子学生がタクシードライバーの体験した幽霊現象をテーマにしているのは、その中の1章に過ぎない。

 

その第1章『死者たちが通う街ータクシードライバーの幽霊現』には、フィールドワーク中に、取材者の女子学生が被取材者達から受けたという、批判を含めさまざまな発言や出来事が書かれている。

だが、なぜ彼女がこの現象に取り組もうとしたのか、そもそもの『動機』が書かれていない。もしかしたら、最初は若者らしく、幽霊現象への単なる好奇心だったのかも知れない。

私はそれでも良いと思う。それが”霊性の震災学”へと発展し深化すればよいのだから・・・だが、彼女が幽霊現象を”霊魂”と結びつけた考察はいただけなかった。

それは、私が幽霊現象を体験したこともなく、見たこともないUFOと同様に、信じられないというだけではない。あくまでも、彼女のフィールド調査は宗教学ではなく、学生としての震災学=社会学へのアプローチだったはずだと思うからだ。

もっとも、指導者である編者も霊性=霊魂とする気配が感じられるので、ゼミ学生である彼女の考察は仕方ないかも知れない。

 

この本で私の印象に残ったのは、第6章の『672ご遺体の掘り起こし』だった。葬儀社の9人のチームが、緊急処置でいったん土葬された遺体を、火葬するために掘り起こして納棺するという作業だった。

遺体は、夏場のことでもあり、腐敗が進んでいるから、通常の神経ではとうてい作業はできないだろう。にもかかわらず、チームの誰一人として最後まで離脱しなかったという。

それは、単に職業として収入を得るためではなかろう。まさに、この本でいわんとする『霊性』への畏敬があったに違いない、と私は思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
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読評 『安楽死で死なせてください』(橋田壽賀子 著)

 

一ヶ月ほど前、NHKの深夜の再放送で、安楽死のドキュメンタリーをやっていた。難病に冒され、安楽死を受けるためにスイスに行った若い女性(50代くらいだろうか)の話だった。

途中から見たので詳細は分からなかったが、彼女の最期の瞬間まで映像で映し出していたのがショックだった。それは、安楽死とはいえど、いわば自殺だったからだ。

それを見たことで、このごろは安楽死について考えている。終活を迎える私の歳では、少し遅いくらいだろう。

 

私は安楽死そのものの正確な知識がない。尊厳死とはどう違うのだろう。

それで、図書館を検索して読んだのが、実際に世界各国の安楽死事情をリポートした『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一 著)だった。宮下洋一は上のNHKのドキュメントに関わる『安楽死を遂げた日本人』という本を出しており、私はむしろこちらを読みたかったのだが、地元の図書館にはまだこの本が置いていなかった。

 

『安楽死を遂げるまで』は安楽死の情報を得るには最適だったと思う。内容は、各国での安楽死と尊厳死の違い、各国でそれが法的にどのように扱われているかを知ることができた。これをブログの読評に揚げるつもりだったが、返却してしまったので詳細に誤りがでるといけないので割愛している。

 

この本の中で、今回取り上げた、橋田壽賀子の『安楽死で死なせてください』に触れていた。橋田はテレビドラマの脚本家として有名だから、あまりテレビを見ない私も知っている。それで、彼女がなぜ安楽死したいのか興味が湧き、通販で購入した。

 

橋田は1925年生まれで、この本を出した2017年は92歳。彼女は申し分なく楽しい人生を送っていると書いている。それでも痴呆症になることを怖れているようだ。そうなる前に楽に死にたいと思っているそうだ。だから、安楽死を肯定し、外国人にも安楽死を施すスイスに行き、安楽死したいと書いている。

 

この本の時点では、スイスで安楽死した日本人女性はいなかった。しかし、もし橋田が実行すれば、すごいセンセーショナルな出来事になるだろう。

もちろん、これは橋田自身の願望であって、彼女の現在の恵まれた環境を考えると、たぶん実行はないと思う。彼女のこの本の主張の真意は、死の自己決定権であって、日本にも安楽死を認める法があっても良いということなのだ。

 

また、橋田はスイスでは安楽死を認めているといっているが、安楽死と尊厳死との違いについて、彼女の認識しているところが正確なのか若干疑問を持った。

宮下の上記の本によれば、スイスの安楽死はあくまでも「自殺幇助」なのだ。橋田自身はどんな場合でも自殺願望はなさそうだから、彼女がスイスに行くことはないだろうと、この本を読み終えて思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:44
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読評 「地球の履歴書」(大河内直彦 著)

 

本を書店で購入するときには、面白そうかどうかは、たいていは本の帯を参考にする。

いわば、本の帯は初対面の第一印象と同じく、そこに書かれてるコピーの影響は大きい。だが、それに紹介者の顔写真まであると、出版社はその人の知名度を当て込んでるのかと興ざめしないでもない。

私は、最初、この顔写真は著者かと思った。学者にしてはやけに笑顔の印象がし、本の内容は大丈夫だろうかと思ったほどだ。この笑顔は商売人のそれだ。

 

私は、ライフネット生命会長兼CEOと肩書きされた出口冶明なる人物を知らないし、興味の対象にもない。書店で見たら、購入したかどうか分からない。この本を通販で購入したのは、結果として幸いだった。内容は大変興味深かった。

 

通販の時は、手にとって見られない分、コメントを参考にする。この本の場合も見た。

私はふつう評価の低い方が気になる。納得できる理由なら買わない。

この本には、低い評価に『思ったより専門的な記述で難解』で『期待したほどワクワクさせる内容ではなかった』とあった。

しかし、最新の科学で事柄を説明するのに、ある程度専門的な言及になるのは当然だろう。期待したほどでなかったというのは参考にならない。ワクワクするかどうかは好奇心レベルの問題であるからだ。

 

で、私が読んでどうだったかというと、専門分野の記述は無視できる程度だった。というか、無視する。そうしても、テーマの大勢に影響はない。

例えば、この本では触れられていないが、最近ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。私の理解ではブラックホールは光も吸収してしまうのに、なぜ映像が撮れるのか分からない。だが、分からなくても興味深い。

 

この本では、「地球の履歴書」という視点から、8章にわたり我々が認知できる様々な地球の現象が、科学者の目から語られている。

8章の「地球からの手紙」では有馬温泉が取り上げられている。温泉は火山の近くにあるというのが常識だろうが、有馬温泉には付近に火山ない。

それなのに、90度を越える湯が1000年にも渡り噴出し続けているという。科学者魂をくすぐる「奇妙な例外」なのだそうだが、その説明にはなるほどと興味深いものがあった。

 

読者が興味を持つように説明を構築する。それは、著者が「まえがき」で取り上げた、夏目漱石の弟子で科学者であり文学者でもあった寺田虎彦の世界を、著者も追いかけたいということなのだろう。

科学者の目が捕らえたエッセイは、文学の香りもし、面白いものがあると思う。医者が小説世界を描くと、専門知識が生かされていのと同じだろう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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読評 「創価学会」(田原総一朗 著)

 

自民党と連立与党を組む公明党は、創価学会との関係なくしては語れない。当の学会は、かつてはその自民党からも野党からも、言論出版妨害事件や政教分離に関して激しい批判攻撃を受けている。私も当時の秋谷会長が国会喚問を受けたのをテレビ中継で見た記憶がある。

また、創価学会は日蓮正宗の信徒団体としてスタートしているが、1991年にはその宗門から破門され、宗教団体として存立が危ぶまれた。

 

そのたびごとにと、著者は当時を振り返り、ジャーナリズムの「われわれ」は、創価学会は衰退すると予想したという(本書まえがき)。

ところが、2018年現在、SGI(創価学会インターナショナル)は世界192ヵ国・地域に広がり、日本以外の国に240万人もの会員を擁している(p319)

 

いわば、創価学会は今や日本発の世界宗教であって、幾たびの危機的状況を乗り越え、なぜそのような発展をしているのか、「まえがき」で著者はジャーナリストとして、その実態をつかみたかったという動機を率直に述べている。

 

私も、とくに公明党との関係には強い関心がある。さらに、世界宗教であるキリスト教・イスラム教を信奉している人々と仏教がどう関わって、なぜ創価学会の信仰が受け入れられているのかにも興味をもって読んだ。

 

著者は、『おわりに』という「あとがき」で、次のように述べている。

 

『・・・他宗を一切認めないという立場を貫けば、いかに大きな宗教集団をいえども孤立する。しかも、それを乗り越えるのは至難の業である。

当然、民主主義国家では生きにくくなるだろう。なぜなら、民主主義とは自分の意見は持ちつつも、異なる意見を認めることで成り立つからである。宗教と民主主義は相容れないのではないかと私は感じていた。公明党が結党し、政界に進出したときにも、創価学会はこの矛盾にどう対処するのかと案じたものだ。

 

だが、池田大作氏は宗教における”排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も否定せず、他宗教の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼しあうことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している。

これは、どの宗教にも成し遂げられなかったことであり、私はそこに、創価学会としてのすごさを感じるのである・・・』

 

本書の内容は、このような結論に至ったことを、第1章「創価学会の誕生」〜第9章「特別インタビュー原田稔会長に聞く」まで、様々な場面で検証したもので構成されている。

著者は1934年生まれ。テレビで見る様子は、かつてほどには迫力がなくなっているようだ。だが、本書にはジャーナリストとしての生涯に恥じない魂があると思った。

 

本書に書かれた池田会長をはじめ、学会や公明党幹部へのインタビューには、かなりキツイ突っ込みを入れているが、偏見を排した公正な誠実さが感じらる。ジャーナリストの真骨頂とはこのようなものをいうのであろうか。

 

もっとも、第二章「創価学会の拡大と救済論」で、著者自身も創価学会への懐疑と偏見があったことを、正直に次のように述べている。

『・・・実は創価学会に対して私は長い間、偏見を持っていた。というのも、私が20代だった1950年代、創価学会はきわめて戦闘的な集団と見られていたからだ。第2代会長に就いた戸田の指揮のもと、強引な折伏大行進を行い、他宗教を邪宗と決めつけるなど、排他的な集団としか思えなかった。また、その信仰観についても、いろいろな新興宗教が「難病が治った」「奇跡が起こった」というオカルトまがい話を喧伝するのと同列のうさん臭さを感じていた。』と

 

こうしたことでは、多くの人が著者と同様に思ったに違いない。いまだに偏頗な学会批判書が多いのもうなずける。

 

ところが、このような日本の創価学会の歴史と、海外では事情が全く異なるようだ。海外での布教活動は、池田会長のいわば手作りでスタートしている。上記の日本のような状況ではなく、その国や地域の文化を尊重し大事にしている点が、大いに違っているのではなかろうか。まさに、著者の「あとがき」に指摘されているとうりなのだろう。

また、本書に収められている海外の会員へのインタビューで語られている体験談を読むと、入信動機というのは人種を問わず同じようなものがあり、人間は同じなんだなと感慨深いものがあった。

 

本書は、一流ジャーナリストが忌憚なく客観的に見た創価学会の歴史を語っているということでは、学会批判者にはもちろん、、一般会員にも一読をお勧めしたい1冊だ。

author:u-junpei, category:読評, 18:00
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読評 「本と鍵の季節」(米澤穂信 著)

 

この小説は、高校2年の男子生徒2人が、図書委員となって知り合い、シャーロック・ホームズのように推理を重ねて、謎解きをする7つの連作短編集になっている。

 

例えば、最初の短編は「913」というタイトルで、やはり図書委員だった高3の女子から、祖父が残したというダイアル式金庫を開けて欲しいと頼まれる。祖父が急死し、祖父からは「大人になったら分かる」と聞かされていたものが、金庫の中にあるはずだというのだ。

 

小説の主人公である男子高校生2人は、依頼してきた女子高生の姉が急須に入れて2人に出したお茶の味と、なぜプロの金庫屋に頼まないのかという単純なことから、彼女の依頼の前提に疑いを抱く。開錠はできるのだが、そこではもっとシリアスに捻られた話が展開される。

 

7つあるそれぞれの短編に描かれる話は、身近にあるようなことで、複雑怪奇な事件を扱うような推理小説ではない。これらの短編の真骨頂は高校生2人がする推理の会話にある。作家はそこに2人それぞれの個性を描いている。

 

この本は推理小説であるから、細部を紹介してはルール違反になるからこれ以上は書かない。主人公と同年代の高校生が読んでももちろん、私のような老齢者が読んでも十分に楽しめる内容だったとだけ述べておこう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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