RSS | ATOM | SEARCH
読評 「森林官が語る 山の不思議」(加藤博二 著)

 

タイトルの脇に小さく「飛騨の山小屋から」とある。この本は、1948年9月に刊行された「飛騨の山小屋」を改題し、2017年9月に再刊された、いわば復刻本で、表紙絵は元の本のままが使われているという。

だから、山小屋の中で囲炉裏の火にあたっている男は、ドテラのような着物姿で、煙草のキセルを手にしてる風情や、背後の壁に掛けてある蓑や藁沓やガンジキなども、まさに昭和前期の風俗そのものだ。

 

著者の加藤博二は、「昭和22年秋」で結ぶこの本の『自序』に、『森林官として十数年山で暮らしてきた』と述べている。森林官というのは、ネットで検索してみると、国有林を管理する林野庁の出先機関である森林事務所の責任者だそうだ。森林の伐採管理・調査保護や取締りの警察権限がある。

その『ながい山男の生活』の中で著者が見聞したことが、本書の短編やエッセイ風の小説になっているという。つまり、そうした昭和の初め頃の時代背景なくしては、全17編が収められているこの物語集はなりたちえない。

 

たとえば、物語にたびたび出てくる「山窩(さんか)」がいる。かつて存在し、深山を移動しながら外とは隔絶した暮らしをしている民だ。里人からは「山乞食」と呼ばれ、蔑まれながらも怖れられてもいた被差別民で、一族の頭の下に統率され、仲間内には厳しい掟があったという。『山窩の娘』や『密林の父』などでは、それゆえの男や女の情深く悲しい物語が語られている。

 

それはともあれ、タイトルが「山の不思議」とあるから、これを読む前の私は、「物の怪」などが登場するオドロオドロした話を予想していた。ところが全編を通して読むとそうでもなく、むしろ人間のサガとでもいうものが描かれている。

 

『猿の酒』のように、猿が作る果実酒を人間が横取りしたり、酔って寝ている間にキセルを猿に盗られたり、あるいは猿が子守をしてるような不思議な話しはあるが、まあ、怖いというほどの話ではない。

『雪和郎』という「雪男」をイメージするような話も、山男だと分かっている。『尾瀬の旅人』には昔の長蔵小屋が出て来て、「ハイキング」などという新しい言葉(?)が使われているが、昔の尾瀬沼の様子が描かれ、現在のように観光地化した尾瀬とはまるで違う雰囲気が漂う物語であった。

最後の編『雪の湯町』は、東京からやって来る作家と山の温泉の芸妓の交流が描かれた物語だ。まさかと思うが、川端康成の『雪国』の原案のような気さえした。

 

衛星画像で見つけた山奥の家を探訪するテレビ番組がある。とても人気があるようで、その一軒家に住む人も、やはり来たかと歓迎するような面持ちが面白い。確かに山奥にあるのだが、けっこう立派な家屋だったりし、その一軒家に行くにも、車一台がやっと通れるにしても、ちゃんと山道がある。したがって、山の一軒家に住む人たちが下界と隔絶した生活をしているワケではない。

 

だが、この本の物語の当時、歩いてでしか入って行けない山奥にも、山小屋のような温泉宿があったようだ。薪で鉱泉を沸かしてる、冷たい風が吹き込むような草葺の宿だったりするのだが、その侘しいたたずまいは、かつてはさもありなんと思え、現代の生活者からすると興味深いものがある。

 

そんな物語を紡ぐ著者の文体は、表現が豊かで情景が目に浮かぶようだから、その筆力は全くシロウトの域を超えている、と思う。今どきの文章のように句読点が多く読みやすいのは、もしかして、再刊ゆえに編集者の手が加えてあるのかも知れない。

ともあれ、懐かしい「昔し話」を聞いているような、そんな雰囲気がある。いわば、今はなき、古き世の物語集なのだが、全編を通して興味深く面白く読むことが出来た。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
comments(0), trackbacks(0), - -
読評「呼び覚まされる 霊性の震災学 3.11生と死のはざまで」(金菱清ゼミナール編)

 

最近は、小説が読めなくなった。新聞の書評欄で紹介されていた本を、図書館に予約し、数週間も待って手にするのだが、数ページ読んだだけでつまらないと思ってしまう。2週間の借り出し期間を手元に置いておくのだが、結局は読み終えずに返却してしまうことが、数回連続した。

それでも、本を読めないのは歳のせいにしたくない。それで、ノンフィクションならば興味深く読めるのではと思いつくまま、この「霊性の震災学」を通販で求めた。

 

この本は、東北学院大学の金菱清ゼミの学生による、東日本大震災の記録プロジェクトとして、2016年に出版された。

当時、タクシードライバーが体験した『幽霊現象』を、女子学生が聞き取り調査をしたとして、マスコミを賑わしたこともあり、私もこの本の存在を知っていた。

 

また、私は同じく金菱清ゼミの「私の夢まで、会いに来てくれた 3.11 亡き人とのそれから」(2018.2刊)を読んでおり、ゼミ学生が学問の一環としてフィールドワークで取材し、それを本にしたものだということで関心があった。

 

この「霊性の震災学」を読み終えた今では、むしろ、「夢まで会いに来てくれた」の本の方が、ゼミ学生たちがいわんとする”霊性の現象”に近いのではないかと思う。

というのも、2016年刊である「霊性の震災学」では、幽霊現象=霊性とする傾向が強くあるようだ。それが、2016年の出版から2018年の出版になる間、ゼミ指導者である編者を含め、学生達のゼミ活動としての震災学が、だんだんと、より深化してきたのではと思う。

 

この本を通販で求める際にコメントを見たのだが、☆1つをつけた者があった。『タクシードライバーの幽霊体験は、ネットで読めるので、本を買う必要はなかった』というものだ。

私は、ネットにあるというのが、どの程度に本と同じなのか、ネットを確認していないので分からない。だが、この☆1つのコメントは、次の理由からも浅慮だろうとは思う。

 

「霊性の震災学」は、全8章に編集されている。8人のゼミ学生がそれぞれのテーマでフィールドワークしたものだ。女子学生がタクシードライバーの体験した幽霊現象をテーマにしているのは、その中の1章に過ぎない。

 

その第1章『死者たちが通う街ータクシードライバーの幽霊現』には、フィールドワーク中に、取材者の女子学生が被取材者達から受けたという、批判を含めさまざまな発言や出来事が書かれている。

だが、なぜ彼女がこの現象に取り組もうとしたのか、そもそもの『動機』が書かれていない。もしかしたら、最初は若者らしく、幽霊現象への単なる好奇心だったのかも知れない。

私はそれでも良いと思う。それが”霊性の震災学”へと発展し深化すればよいのだから・・・だが、彼女が幽霊現象を”霊魂”と結びつけた考察はいただけなかった。

それは、私が幽霊現象を体験したこともなく、見たこともないUFOと同様に、信じられないというだけではない。あくまでも、彼女のフィールド調査は宗教学ではなく、学生としての震災学=社会学へのアプローチだったはずだと思うからだ。

もっとも、指導者である編者も霊性=霊魂とする気配が感じられるので、ゼミ学生である彼女の考察は仕方ないかも知れない。

 

この本で私の印象に残ったのは、第6章の『672ご遺体の掘り起こし』だった。葬儀社の9人のチームが、緊急処置でいったん土葬された遺体を、火葬するために掘り起こして納棺するという作業だった。

遺体は、夏場のことでもあり、腐敗が進んでいるから、通常の神経ではとうてい作業はできないだろう。にもかかわらず、チームの誰一人として最後まで離脱しなかったという。

それは、単に職業として収入を得るためではなかろう。まさに、この本でいわんとする『霊性』への畏敬があったに違いない、と私は思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 『安楽死で死なせてください』(橋田壽賀子 著)

 

一ヶ月ほど前、NHKの深夜の再放送で、安楽死のドキュメンタリーをやっていた。難病に冒され、安楽死を受けるためにスイスに行った若い女性(50代くらいだろうか)の話だった。

途中から見たので詳細は分からなかったが、彼女の最期の瞬間まで映像で映し出していたのがショックだった。それは、安楽死とはいえど、いわば自殺だったからだ。

それを見たことで、このごろは安楽死について考えている。終活を迎える私の歳では、少し遅いくらいだろう。

 

私は安楽死そのものの正確な知識がない。尊厳死とはどう違うのだろう。

それで、図書館を検索して読んだのが、実際に世界各国の安楽死事情をリポートした『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一 著)だった。宮下洋一は上のNHKのドキュメントに関わる『安楽死を遂げた日本人』という本を出しており、私はむしろこちらを読みたかったのだが、地元の図書館にはまだこの本が置いていなかった。

 

『安楽死を遂げるまで』は安楽死の情報を得るには最適だったと思う。内容は、各国での安楽死と尊厳死の違い、各国でそれが法的にどのように扱われているかを知ることができた。これをブログの読評に揚げるつもりだったが、返却してしまったので詳細に誤りがでるといけないので割愛している。

 

この本の中で、今回取り上げた、橋田壽賀子の『安楽死で死なせてください』に触れていた。橋田はテレビドラマの脚本家として有名だから、あまりテレビを見ない私も知っている。それで、彼女がなぜ安楽死したいのか興味が湧き、通販で購入した。

 

橋田は1925年生まれで、この本を出した2017年は92歳。彼女は申し分なく楽しい人生を送っていると書いている。それでも痴呆症になることを怖れているようだ。そうなる前に楽に死にたいと思っているそうだ。だから、安楽死を肯定し、外国人にも安楽死を施すスイスに行き、安楽死したいと書いている。

 

この本の時点では、スイスで安楽死した日本人女性はいなかった。しかし、もし橋田が実行すれば、すごいセンセーショナルな出来事になるだろう。

もちろん、これは橋田自身の願望であって、彼女の現在の恵まれた環境を考えると、たぶん実行はないと思う。彼女のこの本の主張の真意は、死の自己決定権であって、日本にも安楽死を認める法があっても良いということなのだ。

 

また、橋田はスイスでは安楽死を認めているといっているが、安楽死と尊厳死との違いについて、彼女の認識しているところが正確なのか若干疑問を持った。

宮下の上記の本によれば、スイスの安楽死はあくまでも「自殺幇助」なのだ。橋田自身はどんな場合でも自殺願望はなさそうだから、彼女がスイスに行くことはないだろうと、この本を読み終えて思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:44
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「地球の履歴書」(大河内直彦 著)

 

本を書店で購入するときには、面白そうかどうかは、たいていは本の帯を参考にする。

いわば、本の帯は初対面の第一印象と同じく、そこに書かれてるコピーの影響は大きい。だが、それに紹介者の顔写真まであると、出版社はその人の知名度を当て込んでるのかと興ざめしないでもない。

私は、最初、この顔写真は著者かと思った。学者にしてはやけに笑顔の印象がし、本の内容は大丈夫だろうかと思ったほどだ。この笑顔は商売人のそれだ。

 

私は、ライフネット生命会長兼CEOと肩書きされた出口冶明なる人物を知らないし、興味の対象にもない。書店で見たら、購入したかどうか分からない。この本を通販で購入したのは、結果として幸いだった。内容は大変興味深かった。

 

通販の時は、手にとって見られない分、コメントを参考にする。この本の場合も見た。

私はふつう評価の低い方が気になる。納得できる理由なら買わない。

この本には、低い評価に『思ったより専門的な記述で難解』で『期待したほどワクワクさせる内容ではなかった』とあった。

しかし、最新の科学で事柄を説明するのに、ある程度専門的な言及になるのは当然だろう。期待したほどでなかったというのは参考にならない。ワクワクするかどうかは好奇心レベルの問題であるからだ。

 

で、私が読んでどうだったかというと、専門分野の記述は無視できる程度だった。というか、無視する。そうしても、テーマの大勢に影響はない。

例えば、この本では触れられていないが、最近ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。私の理解ではブラックホールは光も吸収してしまうのに、なぜ映像が撮れるのか分からない。だが、分からなくても興味深い。

 

この本では、「地球の履歴書」という視点から、8章にわたり我々が認知できる様々な地球の現象が、科学者の目から語られている。

8章の「地球からの手紙」では有馬温泉が取り上げられている。温泉は火山の近くにあるというのが常識だろうが、有馬温泉には付近に火山ない。

それなのに、90度を越える湯が1000年にも渡り噴出し続けているという。科学者魂をくすぐる「奇妙な例外」なのだそうだが、その説明にはなるほどと興味深いものがあった。

 

読者が興味を持つように説明を構築する。それは、著者が「まえがき」で取り上げた、夏目漱石の弟子で科学者であり文学者でもあった寺田虎彦の世界を、著者も追いかけたいということなのだろう。

科学者の目が捕らえたエッセイは、文学の香りもし、面白いものがあると思う。医者が小説世界を描くと、専門知識が生かされていのと同じだろう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「創価学会」(田原総一朗 著)

 

自民党と連立与党を組む公明党は、創価学会との関係なくしては語れない。当の学会は、かつてはその自民党からも野党からも、言論出版妨害事件や政教分離に関して激しい批判攻撃を受けている。私も当時の秋谷会長が国会喚問を受けたのをテレビ中継で見た記憶がある。

また、創価学会は日蓮正宗の信徒団体としてスタートしているが、1991年にはその宗門から破門され、宗教団体として存立が危ぶまれた。

 

そのたびごとにと、著者は当時を振り返り、ジャーナリズムの「われわれ」は、創価学会は衰退すると予想したという(本書まえがき)。

ところが、2018年現在、SGI(創価学会インターナショナル)は世界192ヵ国・地域に広がり、日本以外の国に240万人もの会員を擁している(p319)

 

いわば、創価学会は今や日本発の世界宗教であって、幾たびの危機的状況を乗り越え、なぜそのような発展をしているのか、「まえがき」で著者はジャーナリストとして、その実態をつかみたかったという動機を率直に述べている。

 

私も、とくに公明党との関係には強い関心がある。さらに、世界宗教であるキリスト教・イスラム教を信奉している人々と仏教がどう関わって、なぜ創価学会の信仰が受け入れられているのかにも興味をもって読んだ。

 

著者は、『おわりに』という「あとがき」で、次のように述べている。

 

『・・・他宗を一切認めないという立場を貫けば、いかに大きな宗教集団をいえども孤立する。しかも、それを乗り越えるのは至難の業である。

当然、民主主義国家では生きにくくなるだろう。なぜなら、民主主義とは自分の意見は持ちつつも、異なる意見を認めることで成り立つからである。宗教と民主主義は相容れないのではないかと私は感じていた。公明党が結党し、政界に進出したときにも、創価学会はこの矛盾にどう対処するのかと案じたものだ。

 

だが、池田大作氏は宗教における”排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も否定せず、他宗教の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼しあうことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している。

これは、どの宗教にも成し遂げられなかったことであり、私はそこに、創価学会としてのすごさを感じるのである・・・』

 

本書の内容は、このような結論に至ったことを、第1章「創価学会の誕生」〜第9章「特別インタビュー原田稔会長に聞く」まで、様々な場面で検証したもので構成されている。

著者は1934年生まれ。テレビで見る様子は、かつてほどには迫力がなくなっているようだ。だが、本書にはジャーナリストとしての生涯に恥じない魂があると思った。

 

本書に書かれた池田会長をはじめ、学会や公明党幹部へのインタビューには、かなりキツイ突っ込みを入れているが、偏見を排した公正な誠実さが感じらる。ジャーナリストの真骨頂とはこのようなものをいうのであろうか。

 

もっとも、第二章「創価学会の拡大と救済論」で、著者自身も創価学会への懐疑と偏見があったことを、正直に次のように述べている。

『・・・実は創価学会に対して私は長い間、偏見を持っていた。というのも、私が20代だった1950年代、創価学会はきわめて戦闘的な集団と見られていたからだ。第2代会長に就いた戸田の指揮のもと、強引な折伏大行進を行い、他宗教を邪宗と決めつけるなど、排他的な集団としか思えなかった。また、その信仰観についても、いろいろな新興宗教が「難病が治った」「奇跡が起こった」というオカルトまがい話を喧伝するのと同列のうさん臭さを感じていた。』と

 

こうしたことでは、多くの人が著者と同様に思ったに違いない。いまだに偏頗な学会批判書が多いのもうなずける。

 

ところが、このような日本の創価学会の歴史と、海外では事情が全く異なるようだ。海外での布教活動は、池田会長のいわば手作りでスタートしている。上記の日本のような状況ではなく、その国や地域の文化を尊重し大事にしている点が、大いに違っているのではなかろうか。まさに、著者の「あとがき」に指摘されているとうりなのだろう。

また、本書に収められている海外の会員へのインタビューで語られている体験談を読むと、入信動機というのは人種を問わず同じようなものがあり、人間は同じなんだなと感慨深いものがあった。

 

本書は、一流ジャーナリストが忌憚なく客観的に見た創価学会の歴史を語っているということでは、学会批判者にはもちろん、、一般会員にも一読をお勧めしたい1冊だ。

author:u-junpei, category:読評, 18:00
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「本と鍵の季節」(米澤穂信 著)

 

この小説は、高校2年の男子生徒2人が、図書委員となって知り合い、シャーロック・ホームズのように推理を重ねて、謎解きをする7つの連作短編集になっている。

 

例えば、最初の短編は「913」というタイトルで、やはり図書委員だった高3の女子から、祖父が残したというダイアル式金庫を開けて欲しいと頼まれる。祖父が急死し、祖父からは「大人になったら分かる」と聞かされていたものが、金庫の中にあるはずだというのだ。

 

小説の主人公である男子高校生2人は、依頼してきた女子高生の姉が急須に入れて2人に出したお茶の味と、なぜプロの金庫屋に頼まないのかという単純なことから、彼女の依頼の前提に疑いを抱く。開錠はできるのだが、そこではもっとシリアスに捻られた話が展開される。

 

7つあるそれぞれの短編に描かれる話は、身近にあるようなことで、複雑怪奇な事件を扱うような推理小説ではない。これらの短編の真骨頂は高校生2人がする推理の会話にある。作家はそこに2人それぞれの個性を描いている。

 

この本は推理小説であるから、細部を紹介してはルール違反になるからこれ以上は書かない。主人公と同年代の高校生が読んでももちろん、私のような老齢者が読んでも十分に楽しめる内容だったとだけ述べておこう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「すぐ死ぬんだから」(内館牧子 著)

 

すごいタイトルにひかれて借りようと思った。私もそうだが、いわば先のない高齢者の物語だろうと予想したが若干違っていた。

 

主人公の忍ハナは78歳。老人は歳相応にナチュラルではなく、オシャレや外見に気を配り、いかにもジジババに見える年寄り臭さを断固排除して生きるべきだという自論を実践している。

上の画像(表紙絵)のように、老人の特徴は、男も女も誰もがリュックを背負い、帽子をかぶっている、お決まりのジジババスタイルだという。

ハナはというと、下の画像(裏表紙絵)のようで、とても78歳には見えない。

 

 

1歳上の夫の岩蔵とは夫婦円満で、自他ともに素敵な夫婦だと認めている。岩蔵はハナにやかましくいわれて、外見(食べるものから着る物まで)をいわば強制されているのだが、日頃からハナと結婚して幸せだみたいな事を、臆面もなく言うような夫だった。

それというのも、夫婦して浮き沈みの激しかった自営の酒屋経営をきりもりし、人生の苦楽を共にしてきたからでもあった。今は長男に店を譲り、夫婦はマンションで悠々自適に暮らしている。

 

ここまでが第1章で、ハナの高校時代の同窓会に出席した時の様子などで描写されている。

ところが、第2章の最後で岩蔵が硬膜下血腫が原因で突然亡くなる。

 

この物語の本題は第3章からだ。岩蔵の自筆遺言書が見つかり、家庭裁判所で検認を受けると、認知していない息子がいるという、家族の誰もが思いもしなかった、晴天の霹靂のような事実が書かれていた。

2号というか妾というかはともかく、ハナには極秘に40年間も他所で続けらていた生活があったことが明らかになる。

そんな事実は、私だったら遺言書に残さず、秘密のままに墓場に持っていけばよいと思うが、岩蔵はそうしなかった。

 

まあ、それで『物語り』になるのであろうが、作家の前作である定年退職後の男を描いた「終わっ人」に比べると、不自然な展開で釈然としない。

今作は主人公が老女であるから、ハナの考え方も作家自身の投影なのかも知れないが、岩蔵のようにそんなバカなことするだろうかという気分が、第8章まである最後まで抜けなかった。

 

だが、高齢者がどのように日常を生きるべきかという視点でみると、大変参考になる作品ではあった。「終わった人」はドラマ化されたようだが、この「すぐ死ぬんだから」も映像になったら、小説とは違う面白さがあるかもしれない。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「植物は<知性>をもっている」(ステファノ・マングーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ 久保耕司 訳)

 

我々人間は、全ての生物の頂点に立ち、地球の支配者だと思っているところがある。欧米人では特にかも知れない。なにしろ、神様は御自分の姿形に似せて人間を作った。それゆえに、人間は彼が創った世界(=自然)を支配することを肯定されていると考えるからだ。

 

これは、キリスト教のような一神教の思想であって、日本のように八百万の神がいるのとは違うかも知れない。だが、人間と他の生物との比較では、人間を上位に見るところは同じだろう。

 

したがって、フツウの人であれば、自分より下位にある動物に人間と同じ知性を肯定したり、ましてや植物に知性を認めるなんてことはとんでもなく、ありえないことだと思うだろう。19世紀以前には、動物さえも知性を否定されていたのだ。

私も最初、「植物は<知性>をもっている」という題名を見たとき、知性という言葉に引っかかりを覚えた。が、同時に大変に興味を持った。

 

宗教的な思想はさておき、ホモサピエンスの歴史は20万年を遡らないし、それに対し、植物は30億年の長大な歴史がある。つまり、それぞれには時間の流れが違うのだから、進化のあり方も違ってたはずだ。

その考えに立つと、進化論で有名なダーウィンが、『植物の運動力』という著書で、植物の根の根端に優れた感覚能力があると主張し、後に「根=脳」仮説に進む実験データを集積していた事実は興味深い。

 

それが、植物研究の大きな潮流にならなかったのは、当時やそれ以後も伝統的な主流派の権威者から、ダーウィンや同じ立場の研究者たちが否定されてきたからだ。いわば、権威者である者たちは先入観や偏見に支配されていて、自己を守るためには、いくらでも守旧派になる。新しい学説を立てる者が、そのような「白い巨塔」に立ち向かうのは、今でもそうだろうし、過去の時代においてはなおさらだっただろう。あのガリレオでさえ天動説の権力に抗し切れなかったのは有名な話だ。

最近になり、ようやく植物神経生物学などの進歩によって、植物についての様々な認識が科学的に実証されるようになってきたという。

 

そこで、本書でいうように、知性とは広く『問題を解決する能力』と定義すれば、人間や動物の「脳」だけを知性の場とする、これまでの考えは色あせてくる。

著者は『すでに本書で見てきたが、あらゆる植物は、大量の環境変数(光、湿度、化学物質の濃度、ほかの植物や動物の存在、磁場、重力など)を記録し、そのデータをもとにして、養分の探索、競争、防御行動、ほかの植物や動物との関係など、さまざまな活動にまつわる決定をたえずくださなければならない。植物のこうした能力を知性といわずしてなんといえばいいのだろう?』という。

 

すなわち、本書では、人間や動物が持つのと同じ五感などの知覚・運動能力のほかに、さらに多様で豊富な能力の事例をあげ、植物に知性があることが、説得力をもって述べられる。

例えば、トマトは虫に襲われると、化学物質を放出して周囲数百mの仲間に危険を知らせるとか、ハエトリグサやウツボカズラなどの食虫(食肉)植物などは、単に条件反射しているのではなく、まさに動物狩りをしているという。

さらには、植物も睡眠するというのは、私も落花生で観察しているので頷けるものがあった(http://blog.kiriume.com/?eid=1223475)。また、植物も歳をとると、人間と同じように睡眠が浅くなるというのは興味深かった。

 

私が本書を読んで納得したのは、知性を人間のような動物の脳でしかありえないとする考えが、今日の学問やテクノロジーの発展によって、これからは急激に変化を遂げるだろうということだ。

著者は『ここ数年、植物のコミュニケーションと社会化のシステムについての研究が進んだおかげで、これまで考えられなかったような新しい応用技術を発展させられるようになるかもしれない』とし、『人間型ロボット(いわゆる「アンドロイド」)と動物型ロボットのあとに続く新世代ロボット、「プラントイド」(植物型ロボット)』や『植物をベースにしたネットワークを構築するプロジェクトがすでにはじまっている。』という。

 

私はこの本で、新しい知見の興味深い事実を知り、大袈裟なようだが知的感動を覚えている。植物に知性を認める考えは、人間と植物の関わりに、新たな展開をもたらしていくに違いない。

author:u-junpei, category:読評, 14:41
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「終わった人」(内館牧子 著)

 

主人公の田代壮介は昭和24年生れ、岩手県盛岡市出身で東京大学法学部卒。高校では羅漢とあだ名されるほど優秀で、現役で東大に合格している。

卒業後メガバンクに入り、200人いる同期の内では最初に本部の部長になったが、役員に上りつめるもう一歩のところで、子会社に出向し、そこで専務取締役として63歳の定年を迎えた。この小説はここから始まる。

 

つまり、彼は定年の時点では、エリートとして銀行時代を過ごしたプライドがあり、「終わった人」になるには忸怩たるものがあった。にもかかわらず「終わった人」と認識し自覚せざるをえないところに、他の人には言えない彼の心の内での葛藤がある。

この辺は、自己評価が高い自負を持った者の、僻んだ根性が描かれるので、読んでいてもあまり面白くない。私がエリートでなかったことを置いてもだ。

 

壮介は、退職後の無気力な生活や、彼自身でも足が衰えたらなどと心配しだし、スポーツジムに通いだす。だが、そこにいるオジちゃんオバちゃん達と自分は違うのだと思い、彼等との会話や食事の誘いなども避け続ける。

また、何か生きがいを見つけようと、東大大学院を受験し、文学を学ぼうという計画を立てる。その受験準備の為にカルチャースクールの講座を申し込む。

 

だが、本当のところでは文学に深い関心があるわけではない。自信を持つために、何かしなければという焦りのようなものが彼を突き動かしている。私などは大学院などはどこでも良いと思うが、彼にとっては東大大学院というネームバリューこそが大事なのだ。

 

それゆえ、スクールの受付にいた久里という39歳のバツイチの秋田美人に魅かれ、彼女と受講についての話しをしているうちに、とっさの考えで、石川啄木の講座を申し込んでしまう。

その後、久里を高級レストランに誘ったりするようになるが・・・これは彼も自覚しているように、恋というほどでないとしても、若い女性となにかしらありたいという、下心ある高齢年配男のサガだろう。

 

娘の道子からは、それは「メシだけオヤジ」なんだよと、痛烈に言われたりする。このところの娘とのやり取りは、作家が女性だけあって容赦がない。だが、壮介がそうであるように、私にもそれでも可とするような気分は分かる。

 

そうしているうちに、たまたま、同じジムに通っていた若いIT企業の社長から、顧問に迎えたいという申し出を受ける。それは壮介の経歴を十分に生かせるもので、再び彼は充実した生活に戻っていく。

 

さて、長々と書いたが、これは田代壮介の人となりが分からないと、この小説は面白くない。エリートだった彼が本当の「終わった人」となるのはその後だからだ。

 

顧問になって数ヵ月後、IT会社の社長があっけなく急死してしまう。壮介は会社を引き継いで社長になることを、2,30代ばかりの若い社員たちから懇願される。最初は戸惑いながらも、それは彼にとっても望むところだった。自分の持てる力を発揮すれば、40人の若い社員の力になれると思ったからだ。

 

壮介は、妻の千草や道子らの反対を押し切り、小さいながら、将来は伸び盛りになるであろうIT企業を引き継ぐ。しばらくは社長として、心地よい疲労を伴う充実感のある生活が続く。久しぶりに出かけた銀座のバーのマダムからは、スーツが呼吸しているから、仕事や人生がうまく行っている証拠だと指摘されたりもする。

下り坂や不遇の男の着るスーツは、見た目に呼吸してないのだと言う。なるほど、銀座の一流マダムはそうやって人物を見抜くのかと感心した。

 

だが、案の定と言うか、小説ゆえのドラマ仕立てとでも言おうか、彼が入社する前から立ち上がっていたミャンマーの取引会社が、政治がらみの不正で倒産し、そのため壮介の会社も3億円の債権が回収できなくなった。銀行時代のつてをたよりに八方手を尽くすが、多額の負債を抱え、あえなく倒産してしまう。

彼は代表取締社長として連帯責任を負っている。結局のところ、彼が負担する分は9千万円になった。

 

この時に、壮介は65歳になっている。まあ、彼の人生は「終り」だろうねえ、と読者は思うだろう。とすれば、作家はシメタと思うに違いない。なにしろ、この小説は新聞の連載で、最後になるまで読者をひきつけておかなければならないのだから。

 

ここまでの話が、本のページ数では約3分の2。この後、読者は壮介の家庭が崩壊するのかどうか、残り3分の1読むことに付き合うことになる。エリートでないフツウの読者にとっては、他人の不幸を喜ぶとまではないとしても、彼のその後が気にかかるはずだ。

 

私にも、エリートの人生を羨ましく思うことは、当然ながらある。だが、70年80年の長い人生が、幸せかどうかはそれだけでは決まらない、とは思いたいものだ。

 

いろいろあって最後には、夫婦は離婚ではなく、妻が申し出た「卒婚」をする。この卒婚というのは私にはどうも理解し難い。この2人の場合は、実質的に、法律上の離婚と変わらないのだから。

 

壮介は老母が一人で暮らす盛岡に帰ることを決める。そして、出身高校が高校野球の県予選で準優勝して盛り上がる宴席で、祐介はそれまで隠していた自分が置かれている現状を、ようやく、高校時代の親しい友人達に伝えることができた。仲間たちの状況を見ても、誰しも時が来れば「終わった人」になるのだと分かりあえたからだ。

 

受け入れてくれる故郷があるのは、彼にとっても誰にとっても幸せなことだろう。小説の最後の章で、この「エピローグ」があったおかげで、私の読後感は悪くなかった。

author:u-junpei, category:読評, 23:23
comments(0), trackbacks(0), - -
読評 「カゼヲキル」(増田明美 著)

 

図書館の書架を回っていたら、『増田明美』の著者名が目に飛び込んだ。背表紙が白なので、黒い印刷の著者名が目立っていた。

 

私は、マラソン解説者として有名な増田明美が、小説を書いているとは知らなかった。手に取り奥書を見て、間違いなく本人であることを確認したが、全3巻あるので借り出しをしばらく迷った。正直言えば、「シロウト」の小説だったら読んでも・・・と思った。「カゼヲキル」という片仮名の題名も、いかにもそれらしく思われた。

 

だが、マラソン解説者としての増田明美には、私は以前から好感をもっている。それで、まずは第1巻の「助走」だけを、試しに読むつもりで借りた。

 

この小説は、中学2年の山根美岬が主人公で、陸上競技を始めてまだ数ヶ月だが、荒削りながら抜群のバネとスピード力があるという設定だ。

 

私にとっては塾生や孫みたいな世代だが、読んでいて、美岬が成長していく様子に興味を持った。小説らしく色々な問題が生じるのだが、なにより美岬の明るい性格が良い。もちろん、落ち込んだり他の競技者を嫌いになるような多感な乙女でもある。

 

家族構成は、おしゃべりな祖母・専業農家の父母・運動はからしきだが成績優秀な弟がいる。彼等の描写は多少典型的な誇張表現があるものの、笑いが絶えない家庭の様子は好ましい。

 

小説の語り口は、TVでみる増田明美のそれで、物語としての構成力もある。若い人を対象にしたようで、私のような老齢では場違いかもと思ったが、結局、一気読みし、続編を借りることになった。

 

 

 

第2巻「激走」は高校生活から実業団に入るまで。第3巻「疾走」はマラソンのオリンピック代表選手に選考されるまで。

1巻から3巻まで通して、美岬の10年間にわたる選手生活が描かれる。

 

実際でも、マラソン選手というのは、いきなりマラソン競技に入るのではないようだ。世界に負けないスピード力をつけるために、短い距離から始め、3000mとか5000m、あるいは10000mなど、じっくり時間をかけて実力を養成するのだという。

 

著者が増田明美だからこそ描かれたシーンは多いと思われる。中でも高校駅伝や実業団駅伝の場面は、この小説の真骨頂だろう。

最近、女子実業団駅伝で、骨折して数百mを這って襷渡しをしたり、フラフラになり意識を失ってしまうようなことがあった。この小説でも、似たような事件があったりする。

 

物語のポイントとなるところでは、若いときに数々の記録を塗り替えた経歴のある、牧田明子というマラソン解説者が登場する。彼女はいわば、オリンピックで途中棄権という挫折経験もある著者自身なのだが、著者がふだん話しているような調子で、明子は美岬に声を掛けている。この雰囲気がいい。

 

また、この十年間という期間は、小説の表紙絵に表れている。第1巻のおかっぱで中学生のあどけないような顔立ちが、第2巻ではショートヘアの高校生らしく、そして第3巻では、オリンピックを目指す精悍な顔つきの女性へと描かれていて面白い。

 

各巻にある、著者の「あとがき」もいい。

特に3巻には、いかにも増田明美らしい、TV放送のマラソン解説などで聞くような、彼女をほうふつとする記述がある。

 

『美岬や恭子たちの活躍をきっかけに、一人でも多くの子どもたちが、陸上の長距離種目を志してくれることを願っています。そしてその子が選手になってマラソンや駅伝を走るようになり、私がテレビ中継で解説できたらうれしいな。「この本を読んで陸上を始めました」なんて選手用のアンケートに書いてくれたら、たっぷりコメントしますからね。』

 

「子供」と書かずに、「子ども」と表記しているのも、私には好感が持てる「あとがき」だった。

author:u-junpei, category:読評, 23:32
comments(0), trackbacks(0), - -