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読評 「死体は噓をつかない」(ヴィンセント・ディ・マイオ ロン・フランセル 満園真木 訳)

 

「全米トップ検死医が語る死と真実」という副題が付いている。10件の事例を挙げて、死体の状況や解剖から死の真相を追究したノンフィクション。

 

アメリカでは現在でも住民選挙で選ばれる検死官制度というのがあるそうだ。その検死官はたいていは葬儀屋だったり墓地職員だったりするのだが、全米の検死局の4割は検死官制度で、医者でないものでも検死をし、死因を判断しているという。そういうことでは専門の法医学者である検死医の方が、真実に近づけることはいうまでもない。

 

ところが、アメリカの刑事裁判は陪審員制度なので、検事も弁護士も彼等の心証を自分側に良くしようとする。また、司法取引という制度もあり、犯罪の真実が問われるべき裁判が、恣意的にゆがめられることもあるようだ。人種差別というアメリカ社会に根深い問題も、司法判断に影響を及ぼしてもいる。

この本でも、著者の解剖所見では被告人無罪であると思われても、有罪になったり司法取引(早く出所できる)で有罪を認めてしまう事件が取り上げられている。

 

本書では、著者が検死医として扱った数十年間の事例のなかから、特に印象深いものを取り上げたのだろう。口絵に実際の写真が数ページあるが、事件がらみの死体というのは気味の良いものではない。

 

私が興味深かった事例は、ケネディ大統領の暗殺者であるオズワルドが、実は偽者だったのではないかという問題が暗殺当初から提起されていて、彼の死から18年後になって、それを確かめるために彼の死体を掘り起こし、本人か否か検証した話や、自殺したとされる画家のゴッホが、実は他殺ではないかという著者の論証などだ。専門の検死医の目を通せば、『死体は噓を付かない』というのもうなづけた。

 

日本でも、東京都監察医務院長だった上野正彦の「死対は語る」という本が出ている。こちらは日本での出来事のなので、より身近な印象を持った記憶がある。

 

最近、新潟女児殺害の犯人が逮捕された。女児の遺体は司法解剖が行われて、電車に轢かれる前に扼殺されていたことが明らかにされた。もし、監察医の解剖所見がなかったら、犯人の思惑通り、電車に轢かれた不慮の事故で片付けられたかもしれない。

 

検死医や監察医制度には、こうした大きな成果がありながら、なり手が少ないのが現状だという。アメリカでさえ専門の検死医は500人足らずだそうだ。日本では監察医務院があって機能しているのは東京のほか2都市で、全国の監察医そのものも常勤・非常勤を含め100人くらいしかいない。

これは3Kのせいもあるが、フツウの医者や開業医に比べて待遇が低すぎるのが大きな要因らしい。医師の使命感に頼るばかりでなく、待遇改善を国家的事業として図る必要があろう。

 

ちなみに、この本では、著者に二人の名がある。検死医はヴィセント・ディ・マイオの方で、ロン・フランセルはジャーナリスト。この2人がどのような役割で著作に携わっているのかは、本書や「訳者あとがき」でも触れていないのは気になった。

また、医学や心理学の専門用語がカタカナで出ているが、簡単な説明や語注とかはない。知識に疎い私のような読者には、なんだか不親切な訳本だと思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:55
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読評 「天使のナイフ」(薬丸 岳 著)

 

死刑制度を必要とするか、あるいは廃止すべきか。それぞれ論拠がある。簡単に結論してしまえば、死刑は無い方が良い。

だが、残虐に殺害された被害者の肉親の、犯人に対する憎しみは、抑えがたいものがあるに違いない。犯人を自分の手で殺してやりたいとさえ思うだろう。

 

さらに、この殺人犯が少年法で守られてた中学生で、刑事罰は問えず、その処遇や更生の過程さえ被害者側には一切知らされないとしたら・・・

また、加害者の贖罪とは・・・

それが、この小説のモチーフにもなっている。

 

薬丸岳の「夏目刑事シリーズ」をブックオフに探しに行ったのだが、本作は2005年の江戸川乱歩賞受賞作とあったので購入した。

”ついでに”のつもりだったが大当たりだった。読み終わり、久しぶりにミステリーの傑作に出会った感がした。

 

コーヒーショップを経営する主人公桧山貴志は、4歳になる娘愛美と2人の生活をあわただしく送っている。4年前に、妻祥子を13歳の中学生3人組に自宅で襲われ殺されたのだった。

その犯人だった一人が何者かに殺されて、桧山に疑いがかけられる。桧山は祥子が殺されたとき、少年たちを殺してやりたいとテレビ映像で泣き叫んでいた。

 

その気持ちは、今でも変わらないのだろうが、身の潔白と犯罪の真実を追って、桧山の犯人探しが始まる。その間に、祥子の事件につながる二重三重の殺人犯罪が明らかになっていく。

 

ミステリー小説だから、これ以上の種明かしはしないが、特に「終章」は、人権派弁護士の仮面を暴いたところで、全てが繋がる。それまでの緻密な構成は、この小説の完成度を高めている。

文庫本なので、解説(高野和明)がある。それによると、乱歩賞を決めるときに圧倒的な支持があったそうだ。なるほどとうなずけた。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「私の夢まで、会いに来てくれた」(金菱 清 著)

 

この本は、東北学院大学の金菱ゼミナールの学生が、震災記録として行った、3.11大地震被災者が見た「亡き人の夢」を記録したもの。

 

このゼミでは、2016年に「呼び覚まされる霊性の社会学」という、被災地で霊を乗せたタクシードライバーの幽霊体験などを記録した本を出している。当時、女子学生の特異な取材記録として新聞記事にもなり、私も読んで見たいと思った。だが、地元図書館には置いてなく、それっきりで忘れていた。

 

ところが、最近の新聞の書評欄でこの本が紹介されていて、同じ金菱ゼミの学生が取材した記録本ということで、前書を思い出し興味を持った。

 

私が、書評を読んで持った印象は、例えば、『津波で亡くなった親や子と、夢の中で会合する。それが、親子喧嘩したままで突然の災害で亡くしたとすれば、遺族には悔恨が募るばかりであろう。ところが、夢の中で愛情に満ちた日常生活の夢を見れば、亡くした悲しみも少しは慰めらるに違いない』ふうなものだった。

 

ところが、読み進めるうちに、私の中で湧いた疑問は、被災者でもなく災害とは無関係だった者が、肉親を亡くした被災者に『同苦』できるものだろうか、ということだった。

 

私も肉親を亡くした経験を持つので、想像はつく。しかし、それは同苦にはつながらない。どこか第三者の冷静な目で彼等の夢の体験記を読んでいる。遺族は夢の中の会話・さりげない日常風景に癒されるであろう。だが、その夢の内容は遺族だけのもので、読者の私には関係ない他人が見た夢にすぎない。

 

だが、夢を『見る』という発想ではなく、『見せられる』という被災者の言葉を読んだとき、なるほどと思った。

金菱教授の「あとがき」にもあるように、被災遺族にとって死者が出てくる夢は、フィクションではなくノンフィクションなのだ。死者が生者に語りかけ、生者に生きる力を与えているのだと、遺族はプラス思考で捕らえている。少なくとも、学生たちの取材に応じ、夢の内容を語った人たちはそのように思っている。

 

とすれば、読者である私が被災者遺族に『同苦』することなど、意味を持たない。つまり、この本の目的は別のことなのだ。学生にとっては取材を通して、命の大切さを学ぶ貴重な体験になった。遺族には自分の体験を語ることにより、震災の記憶を世の中に留め置くことになる。読者も大震災を忘却してはならないことを知る。それらが、この本を出版する意義でもあるのだろう。

author:u-junpei, category:読評, 17:17
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読評 「刑事のまなざし」(薬丸 岳 著)

 

4月18日のブログで、薬丸岳の「刑事の怒り」を取り上げた。最初、私はその本が刑事・夏目信人シリーズ4作目の短編連作集であることを知らなかった。

その中では、夏目の娘が4歳の時に犯罪被害にあったこと。娘はその後10年間、植物人間の状態で入院していること。それらは書かれているが、その犯罪がどんなものか、その事件の後で夏目が刑事になった動機、それ以前の夏目の職業が何であったかは書かれていなかった。

 

夏目は、私が刑事のイメージに持つのとは正反対で、こう言っては本物の刑事さんには失礼だが、ドラマであるように犯罪者の取調べで大声を出したり、机を叩いて脅すようなヤクザまがいの強面でなく、理知的で穏やかな雰囲気がある。

それが、私にシリーズ第1作目の「刑事のまなざし」を読もうと思った動機になった。

 

この本では、7つの短編が納められている。実際の発表順とは違うようだが、本の題名にもなっている第7編の「刑事のまなざし」で、娘が被害者になった犯罪と、その犯人が明らかになっている。夏目が少年鑑別所の法務技官をしていたことも、第1編の「黒い履歴書」で明らかにしている。

 

この法務技官というのは、少年犯罪者の犯罪にいたった事情などを、生い立ちや置かれている環境などを調査し、処遇を判別する仕事のようだ。夏目の刑事らしからぬたたずまいの様子も、なるほどそういうことかと納得できる。いわば、シリーズ第1作本からの薬丸フアンなら、そうした背景をよく承知のうえで短編シリーズを楽しめたに違いない。

 

この本に納められた7つの短編はどれもミステリーとしての視点が面白い。中でも印象深かったのは第5編の「オムライス」だった。これは看護師で中学生の息子のいるシングル家庭を描く。母親である看護師が入院患者だった男と、再婚前提で付き合うようになる。ところが、男は母子のアパートに転がり込み、ヒモ同然の暮らしを始める。

ここまでは、世間によくある話のように思えるが、その男がアパートの火事で焼死する。息子が犯人として名乗り出る・・・

事件の背景には、恐ろしいまでの性の快楽があるのだが、ミステリー小説だから、それ以上は言わないでおこう。

ちなみに、「オムライス」は2007年に日本推理作家協会賞(短編部門)候補になっている。

author:u-junpei, category:読評, 17:17
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読評 「刑事の怒り」(薬丸 岳 著)

 

新聞の書評欄に、

『犯罪被害で植物状態になった娘のいる刑事・夏目信人が直面する・・・見過ごされがちな犯人の心の奥底に迫り、事件の突破口を見出す。共感を誘われるヒューマンサスペンス』

と署名者もない、短い案内があった。

それで、刑事モノで『共感を誘われるヒューマンサスペンス』なんて、どんなものかしらと興味を覚えた。

 

4つの短編小説からなる。

「黄昏」・・・年金詐欺が疑われる死体遺棄事件だが、3年間死体と暮らした娘は母親の年金には手をつけていなかった。事件の謎の背景には、母親の代わりに詠んだ俳句があった。この短編は2017年に日本推理作家協会賞を受賞している。

 

「生贄」・・・レイプ加害者を、もみ合って殺してしまったとユーチューブで告白するが、実は・・・

レイプが被害女性に及ぼすダメージがどれほどのものか、男には真に分かるだろうか。そんな感慨をもって読んだ。

 

「異邦人」・・・ベトナム人留学生と強盗事件。貧しさゆえに日本に来て、さらに貧しくて・・・夏目刑事の通訳をするベトナム人の若者が、犯罪者になった同郷の若い女性から、あなたは日本人と同じ目をしていたと言われるのだが、日本人である私もギクッとなった。私にもどこかに差別意識がある。

 

「刑事の怒り」・・・何年間もほとんど植物状態だった息子の介護中に起きた、不可解な2つの同様な事件は果たして自殺幇助か・・・

夏目には、4歳のとき犯罪被害にあい、その後10年間意識不明になっている入院中の娘がいる。妻の美奈代といつかは快方に向かうと信じ、それを希望にして娘の介護を続けている。

介護が絡んだ事件は、「黄昏」も同じだが、介護は夏目にとってさらに身近なテーマでもあった。それが単なる自殺幇助ではないと、犯人に真実を追及する動機になっている。

 

読書中ずっと気になった、夏目の4歳の娘の犯罪被害の内容や、犯人と夏目の関わりについての詳細は、4つの短編のどこにも書かれていない。そう思わせぶりに構成する作家の意図なのかと不信に思っていたら、読後にこの小説は、刑事・夏目信人のシリーズ4作目であることを知った。

 

この本は今年1月に出た新刊なので、図書館に予約を入れて借りたものだった。それゆえ宣伝コピーの帯もなく、手にとって早速読み始めたので、読み終えて、本の最後にあった宣伝のページでシリーズ物だと分かった次第。

 

どうやら、シリーズ1作目『刑事のまなざし』で、その事件の内容が描かれているらしい。夏目はその事件を機に刑事になったようでもあり、とても興味を引かれる。

図書館にあるなら借りてもと思うが、図書館の本は大切に扱わない人が多いようだ。栞の代わりにページの肩を折ったり、何かで汚したり、むしろ、ブックオフなどの古本よりも気になる。

『ヒューマンサスペンス』だと紹介されてる小説だが、読書人必ずしも良識的ヒューマンにあらずか・・・

author:u-junpei, category:読評, 20:02
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読評 「父子ゆえ」(梶よう子 著)

 

「摺師安次郎人情暦」という副題がついている。時代背景は水野忠邦の天保の改革の嵐が吹き荒れ、風紀が厳しく取り締まれた直後の江戸。副題の通り、錦絵版画の摺り職人安次郎と、その周囲の人々との関わりを、人情味あふれる語り口で描いている。したがって、読者は安心し、時にはホロリとしながら、作家の描く時代小説世界に浸ることが出来るに違いない。

 

この小説は、五話の短編連作で構成されている。本の題名の『父子(おやこ)』の様子がより豊かに描かれるのは第三話から。

5歳の息子信太は母親を知らない(出産後に死亡し、母の実家の祖父母に預けられていた)。父親安次郎との交流は2ヶ月に一度、父親が訪ねてくることだが、将来の夢は彫師になり、自分が彫ったものを摺師の父親が摺ることだった。

 

ところが、従兄弟と遊び中に右親指を骨折してしまい、それを機に、父親との生活をするようになる。この際の安次郎と義父母や義兄との心理が、ぎこちなくなる手前で抑えられる様子が良く描かれている。

信太は5歳にしては、気配りや言動がしっかりして、今どきの子と比べると賢すぎるような気がするが、江戸時代の子どもしつけは、庶民においてもしっかりしていたのかも知れない。

対して、安次郎の父親としての考えや振る舞い、一流職人としてのたたずまいの描かれ方も好感が持てる。

 

それらはいわば、作家世界であるから、その作風は梶よう子の人柄でもあるに違いない。また、錦絵の絵師から始まり、完成に至るまでの彫師や摺師についての作家の知識は、とても完成度が高いように思った。

私はこれまで彼女の小説は知らなかったが、歴史小説の分野に新たにフアンになる作家を見出したようで、読後感は爽やかだった。

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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読評 「アルカイダから古文書を守った図書館員」(ジョシュア・ハマー 著  梶山あゆみ 訳)

 

西アフリカにマリ共和国がある。首都バマコから東に1000kmほど行ったところに、トンブクトゥという古い都市があり、このノンフィクションはここから始まる。

 

サハラ砂漠のオアシスにあるこの町は、15,6世紀にはマリ帝国などの中心地として大いに栄えた。西洋人があこがれて、黄金境とも呼ばれたらしい。大学がありイスラムの学問が発展し、多くの図書が写本されていた。この本でいうところの「古文書」で、イスラムの宗教・歴史分野のみならず、地理や天文にも及び、その数は現存するもので38万冊以上にのぼるという。

 

それらはアラビア語など多言語で手書きされ、美しく装飾された古文書は、砂漠の民が密かに、あるいは宝物のように家蔵していた。だが、砂漠の砂にまみれ、あるいはシロアリに食われ、いずれ朽ち果ててしまう運命だった。

 

20世紀後半ごろ、古文書の保存活動が始まった。のちに個人でも古文書図書館を設立する、アブデル・カデル・ハイダラもそ重要な一員だった。

 

2010年代の一時期、イスラムの過激テロ組織がこの町を支配した。自分たちの原理主義に反すると思えば、手加減なく暴力で支配し、逆らう者の手足を切り落とし、命を奪うことさえ何のためらいもない。

彼等は自分らの原理主義に反する一切を認めなかったから、古文書の価値など、さらさら理解するつもりはなかったろう。実際彼等が退却するときに、古文書の一部を燃やしている。

 

古文書を守るために、図書館員とその協力者は、トンブクトゥから比較的安全な首都バマコまで1000kmの道のりを、舟や車を使って秘密裏に避難させることにした。途中、過激集団やマリ政府軍さえからも妨害される命がけの行動だった。

 

彼等は最終的に、20数万冊を無傷で避難させることに成功した。それに用した何十万ドルという多額の費用は、欧米の財団などからの寄付金でまかなわれている。そういう点でもアフリカと日本は遠いと思った。

 

しかし、2013年にはアルジェリアで、日本の技術者10人を含む外国人37人がイスラム過激派に殺害されている。イスラム過激テロはアフリカや欧米の出来事だけではない。日本にもいくらでも関係してくるし、対岸の火事視するのは誤りなのだ。

 

この本が書かれた動機は、古文書の避難がどのように行われたを描くのがメインだったろう。だが、当時のトンブクトゥをめぐるイスラム過激派の動向が詳しく描かれ、むしろその方面で多くのページが割かれており、そこにジャーナリストとしての著者の真骨頂があるように思えた。

 

訳者のあとがきに、著者の次のような言葉が引用されている。

『私たちは、一部の暴力的なイスラム教徒の行動を見てイスラム全体に反感を抱きがちだが、イスラムの中には、知性や多様性や世俗的な思想を肯定し、詩や愛や人間の美しさを賛美する宗派もたくさんある。本書を通じてそれを知ってほしい』

 

訳者は、これに続き訳者の感慨を述べている。

『日本から見るとマリもイスラムも、私たちの日常と接点の薄い遠い世界でしかない。しかし、もし日本の歴史的な建造物や貴重な考古資料が、いきなり乗り込んできた武装勢力に破壊されたら、あるいは破壊されそうになったら、私たちはどうするだろうか。おまけに理不尽としか思えない罰則を押しつけられて、それに従うことを強制されたら、そうやって置き換えて考えてみると、ハイダラや仲間たちの勇敢さと情熱にあらためて感嘆させられると同時に、今も異国の地で続いている過激派の蛮行ももう少し身に迫って感じられるのではないか。この本は、そうしたニュースの裏側を想像し、イスラムへの理解を多少とも深めるための、手がかりをくれる一冊ともいえるだろう』

 

読み終わって、まったくその通りだなと思った。だが、相互理解が出来る間と出来ない間とがあるだろう。

 

最近、北朝鮮とアメリカの間で、これまでの戦争前夜のような激しい言動とは180度異なる外交が展開されようとしている。トランプ大統領は大いに乗り気のようだ。

だが、私は懐疑的に思う。独裁という国家体制はイスラム原理主義と同じような気がしてならないのだが・・・

author:u-junpei, category:読評, 17:17
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読評 「西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか」(仁科邦男 著)

 

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の番宣だろう、西郷隆盛に扮した芸人が、上野公園の西郷像の前で、連れていた犬を抱きあげ、ドラマの主役より自分の方が似てるだろうなどとおどけているのを見た。

それ自体はあまり面白いと思わなかったが、渋谷駅前の「ハチ」公とおなじく、上野の銅像の犬にも名前があるのか気になった。

上野公園のHPを見ると、西郷の像は高村光雲が作成し、犬の方は後藤貞行の作で、犬の名は「ツン」だとある。

 

ところが、本書によれば、薩摩犬の「ツン」モデル説があるが、誤りだという。銅像の除幕は明治31年、西郷が西南戦争で亡くなったのは明治10年、当然ながら明治31年にはツンは生存していないから、銅像の犬のモデルにはなりえない。

 

その上、後藤貞行は写実主義者で、高村光雲が言う彫刻の芸術的な誇張表現も断固として拒否したらしい。だから、西郷像が実際の身長の2倍の大きさで作られていても、後藤は犬の大きさは実物と等倍にこだわったという。しかし、それではいかにもバランスを崩し、滑稽にさえなってしまうという光雲の主張には妥協せざるを得ず、今に見る犬の大きさになったという。

 

つまりは、後藤が写実した犬のモデルは当然いて、その名前は「サワ」という。薩摩出身の海軍中将・仁礼景範が飼っていた桜島産のオス犬だという。このサワは薩摩犬の特徴を良く備えていて、それを見た古老が、西郷が飼っていた薩摩犬の「ツン」がモデルだと言ったそうだ。それが伝え残り、公園のHPにも「ツン」にされているというわけだろう。

ちなみに、銅像の犬はオスだが、西郷が猟犬に貰い受けたという「ツン」はメス犬だったそうだ。

 

本書は西郷と薩摩犬とのかかわりを、文献や史実の綿密な調査を元に描き出していて興味深い。去年の12月刊であるが、上野公園HPは書き換えられて良いのではと思う。

 

西郷はこうした薩摩犬を兎猟に使っていて、本書によれば西南戦争中にも兎猟を続けていた。西郷最期の城山にも3匹連れていて、最後に放たれたそうだが、1匹は行方不明、2匹は官軍に保護されたという。

 

こうした西郷の犬連れを、作家の司馬遼太郎は評論家・尾崎秀樹との対談で、戦争は桐野利秋がしきっていて西郷は犬を相手にしている他になかったと語っているそうだ。

 

これに対し、著者は

『敗色濃厚になったころ、最後は犬へ行ってしまったという話は、西郷の心象風景としては確かに面白い。しかし、気まずいことがあり、やることがないから、最後は犬というのは、現実の事象の理解の仕方として単純すぎる。

西郷は最後に犬に行ってしまったのではない。最初からずっと犬と一緒にいたのだ。』

と反論する。

 

西郷は薩摩犬を兎猟に使っていたが、それは最初の奄美大島への配流から始まる。犬と行う兎猟は西郷の無聊を慰めるものだった。それ以後、西郷の趣味というか体力運動でもあったのは兎猟で、明治維新の中心者となって多忙のときにも頻繁に行っている。

愛犬家としての面では、京都の祇園で犬にウナギの蒲焼を食わせていたという。それを「粋」であったと祇園の名妓が語っていたそうだが、当時と今では感覚が違うのだろうか・・・

 

まあ、ただの愛犬家ではないのだろうが、本書を読むと西南戦争や西郷の謎の一面がわかるような気がする。今回の大河ドラマは見ていないが、『犬連れの西郷隆盛』をちゃんと描いているのだろうか?

author:u-junpei, category:読評, 18:18
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読評 「櫛挽道守」(木内 昇 著)

 

前回の読評で取り上げた、東野圭吾著「ナミヤ雑貨店の奇蹟」が本屋大賞的に面白かった。それで、少なくともノミネートくらいはされているだろうと思って検索してみたのだが、どうやら同賞からは無視されたようだ。

だが、この小説は第7回中央公論文芸賞(2012年)を受賞している。その検索で知ったのが、同賞の第9回(2014年)の受賞作で、今回取り上げた「櫛挽道守」だった。

 

題名が変わっていて興味を持った。図書館に予約を入れて借り出したが、その際に初めて、作品名を「くしひきちもり」と読むことを知った。おまけに、作家名も私は「きうちのぼる」という男性名だと思っていたが、「きうちのぼり」という女性作家だった。

彼女は「漂砂のうたう」で144回直木賞受賞(2011年)していて、男性作家と思ったのはウカツだった。

 

物語の時代背景は、黒船の来襲から安政の大獄や井伊直弼の暗殺、天狗党の蜂起など、明治維新直前に至るときで、騒然とする世の中の気配が、中山道木曽路の山深い藪原宿にも及んでくる。

 

この村で作られている櫛=「お六櫛」という、髪や地肌の汚れを梳るのに用いる櫛がある。ふつうの髪梳かし用の櫛ではなく、これは1寸の幅に30もの櫛歯があり、全長4寸のサイズに120本の歯が挽かれている。

小説では、この櫛挽きの技が神業で、かつ、仕上がった櫛の様子や使い勝手が素晴らしく、村一番どころか神州一だという櫛挽き名人の父親と、幼いときからそんな父を尊敬し、手伝いながら技を習得しようとする長女(主人公・登瀬)や、彼等を取り巻く家族や世間の物語になっている。

 

私が最初に気になった小説の題名で、なぜ「道守」を「ちもり」と読ませるのかは、最後まで書かれていなかった。もしかしたら、「ち」はこの小説でも多用されてる中山道薮原宿の方言なのだろうか。

この小説では、上に述べたように、櫛挽き職人のなかでも飛び抜けて卓越した技を持つ親方=父がいて、いわば「櫛挽道」とでもいうべき技を、娘の登瀬が女だてらにと周囲から非難の目を浴びながらも、受け継ぎ守るようになる。

 

ともあれ、「櫛挽道守」で作家の意図するところは、職人の優れた技術は個人だけの存在で終わらない、あるいは終わらせてはならないということかもしれない。

ただし、そうではあっても、説教臭くはない小説に仕立てられている。むしろ、人生の各場面での、特に女の狭量さが由縁の人間臭さは、作家の女の目を通して、かなり冷徹に描かれている。

 

加えて、江戸末期の木曽路の宿場という狭い世間ではあるが、登瀬の家族が受けざるを得なかった村八分のような軋轢や好奇など、そこで描かれる世間の人情は、今でもさして変わらないだろう。

さらに言えば、この作品が4年かけて発表されたせいかとも思うが、小説の最初の頃より後半にかけての方が、登場人物に仮託した作家の眼差しは、次第に温かくなり、より人間味が感じられ、私の読後感にはほっとするものがあった。

 

友人に、自分の歳より若い作家は読まないという人物がいる。若造に説教垂れられても面白くないというのが主たる理由のようだ。そうすると、私達は既に老齢になっていて、作家達はたいてい年下だから、もう小説なんか読まないとなってしまう。私としては返答のしようがない。もちろん、私も説教臭い小説はゴメンこうむる。

そういうことでは、木内昇は1967年生れ。今は作家として油の乗った頃かも知れない。少なくともこの小説はその歳で描いた佳作であろうし、私は楽しめた。

 

こういう○○賞受賞作は、たいてい映画化されるものだ。だが、この小説は、題材が櫛作りで今様ではないし、職人の天才技を描いたという点では、実写の映画化は難しいかもしれない。

 

ちなみに、「お六櫛」は今でも木曽路の伝統品になっている。実用品というよりは土産品として作られているようだ。

ご参考までに ↓

http://issay.lovepop.jp/orokugushi.html

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(東野圭吾 著)

 

「ナミヤ雑貨店の奇蹟」という映画が去年9月ころ封切された。その予告編を見て面白そうだと思ったのだが、店名がなんでカタカナなのか分からなかった。それが、この本の5章で構成される物語の最初の章から徐々に分かる仕組みになっている。

それを明かしてしまうと、ナミヤは浪矢という店主の姓から来ている。物語では老店主が手紙で「悩み相談」に応じているという設定だから、そのナヤミに掛けた作家のオヤジギャクなのだろう。

 

もっとも、予告編を見た時点では、原作者が東野圭吾だと分かってはいなかった。それというのも、映画を見に行く余裕がなく、図書館に原作本があるか検索したら、借り出すには予約が必要だった。それで初めて、人気作家の東野圭吾の作品では仕方ないと思った。

出版は2012年。図書館の本にしては、ずいぶんとよれよれになっていた。もしかして、私のように映画を見ずに、手っ取り早く本で済まそうという読者も多かったのかもしれない。いずれにしても、この本を手にしたのは、年が明けてからで、私にとっては今年最初の読書になった。

 

映画では老店主の役を西田敏行がやっている。原作と映画では構成や内容が違うかどうか分からないが、西田の出演なら間違いなく面白かったに違いない。

本の方は、一気読みするほど面白かった。物語は、手紙という媒体を通して、33年余りの時間差がある過去と現在が絡み合う。雑貨店の建物内部が、いわばタイムマシンのように、過去と現在での手紙のやり取りを可能にしている。それゆえ「奇蹟」という題名が付けられたのだろう。

 

ちなみに、33年という数字は、老店主の33回忌で、その日に一日だけ、ナミヤ雑貨店のいつも手紙が投げ込まれるシャッターの投かん口で、手紙を受け付ける。そういう趣旨のことを老人の孫はインターネットで通告して欲しいと老人から頼まれていた。孫は、とても正気ではありえないことだと逡巡しながらも、それをインターネットに書き込んだ。

老人は自分がした回答が、相談依頼者の未来(33年後の現在)に、どんな影響があったかを気にしており、彼等の人生がどうであったかを知りたいと思っていたのだ。

死後にそんなことが可能かどうか、それは気にしてはダメだろう。この物語は、そもそも「奇蹟」なのだから、エンタテイメントとして楽しめば良い。

 

物語の第1章は「回答は牛乳箱に」というタイトルになっている。チンケなコソ泥の三人組の若者たちが、偶然に33回忌の当日に、雑貨店に忍び込んだ。

そこで過去とやり取りされる手紙を受け取った若者らは、手紙を投かんしてきた者のナヤミに答えようと、仲間内で激しい葛藤をしながらも、相談依頼者にアドバイスをしようと返事の手紙を書く。相談依頼者は回答しているのはナミヤ雑貨店の老店主だと思っている。

その依頼者と若者との数回にわたるやり取りの過程が面白い。彼等はそこからは未来となる現在で判断して回答を苦心して書く。それは過去から見れば、ある意味では預言をすることにもなろう。


その手紙のやり取りでは、良くも悪くもある各自の人生を見つめて、その生き様への、大袈裟にいうと「人生哲学」があるわけだが、それはイコール作家自身の哲学だろう。そこには、彼が単なる人気作家ではないことがうかがわれた。私は彼ら登場人物のやり取りに好感を持ちながら、この本を読み進めた。

 

5章までの構成は、主役を代えながら、1章に登場した若者達とはつかず離れず物語りされて、最終章では過去と現在のつながりが、かつて三人の若者もいた「丸光園」という養護施設の存在で結ばれていく。

そこに至るまでの登場人物の様々な人生の展開が、この小説の一番の面白さだろう。それこそが作家が描こうとした「奇蹟」であって、たんなるSF物語を越えたエンタテイメントになっている。私はまさにそれが、東野圭吾を人気作家たらしめている由縁なのだと思って読み終えた。

author:u-junpei, category:読評, 20:20
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