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太田市美術館・図書館 「ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展」

 

太田駅の北口前に、「太田市美術館・図書館」が完成した。

東京オリンピックのエンブレム疑惑のとばっちりを受けて、同じデザイナーの作品を使った、この施設の「bito」のロゴマークにもケチがついた。そんなのはイヤだと、市民の抗議があり、洒落ていたロゴも使われなくなったようだ。

 

太田市民でない私としては、どうでも良いことだが・・・美術館と図書館が併設された斬新なデザインの建物なのに、ありきたりの箱物の名称では、面白みがないような気がする。

 

 

その「太田市美術館・図書館」で、『杮落とし』というか、『開館事業』として、『ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展』が開かれている。

1月14日からやっていたのだが、いよいよ1月29日で終わりになるので、見逃さないうちにと出かけてきた。

 

展示作品は、3年がかりで描いたという細密な絵とか、単純な構図でもモダンで大胆な色使いなど、思わず目を奪われ見入ってしまうものが多かった。

知的障害のある者が描いているという予備知識がなかったら、どこかの巨匠の作などと紹介されても、さもありなんと信じてしまうだろう。

私は作品を見て回り、ねむの木学園の教育が、個々の才能を伸ばし開花させたのだろうが、それがかなりの多人数であることに驚きを禁じえなかった。

 

パンフと画集の表紙に使われている絵(上の画像)は、『雪だるまの赤ちゃん溶けちゃうよってエーン、エーンと泣いた/としみつ』というタイトルが付けられた作品。

もしかしたら、そんな題名はまり子さんが付けるのかも知れない。だが、絵そのものは、障害がある子のものとは思えない。

 

これらの絵の中には、「おかあさん」のまり子さんを描く作品も多い。そして、その作家である「こども」たちも、現在では、もう「おとな」だったりする人もいるかも。だが、まり子さんには、彼らはいつまでも「こども」なのだろう。

そのへんのところは、この美術展ではほとんど触れられていないが、そんな私のかんぐりには、偏見がありはしないだろうか。絵の鑑賞には余計なことに違いない。

 

宮城まり子さんは90歳を越えられたのだろうか。30代で始められた学園生とのかかわりは、『やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ』という信念でやってこられたようだ。

 

会場でサインされておられる様子は、やはり、単なる老女ではないよなあと思わせる雰囲気があった。彼女から感想を聞かれたのだが、私は『観に来て、良かったと思いました』としか答えられなかった。

まあ、『感動しました』などと、ありきたりの事を言うよりよかったと慰めている。

author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:00
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秋元別邸の雛人形展


館林は館林藩の城下町ではあるが、歴代藩主が幕府の転勤族で、せいぜい2代とか3代で交代している。したがって、代々一家で続いた藩にみられるような、伝統的な固有の文化や民俗はあまり見られない。

館林藩最後の藩主は、山形から転勤の秋元氏6万石だったが、2代目途中で明治維新を迎えている。つつじが岡第二公園は、その秋元氏の「旧秋元別邸」があるところで、わたしが子どもの頃は、「あきもとさま」と呼んでいたように思う。

その別邸で雛人形展をしている。それほど大きな建物ではないが、和室部屋や廊下まで使って、段飾りなどをところ狭しと飾ってある。
これらは市民から提供されたものだそうだ。明治から平成までのもので、江戸時代から伝わるといったものはないようだ。



メーンは7段飾りだが、私が気になった雛人形は上の画像だ。中を覗くと、お内裏様とお雛様がちゃんと並んでいる。

こうした雛人形の飾り方は、下の画像でもそうだが、「建物飾り」とでもいうのだろうか?
上の画像のものは、いつの時代ごろか分からないが、下の画像のものは「大正時代」の札が置かれてあった。フツウの段飾りとはずいぶん趣きがちがうが、この時代、このような雛人形飾りが流行ったのだろうか。



私がもうひとつ気になったのが、下の画像だ。



床の間のようなところに置いたのだろう。これには明治時代とある。2つ並べただけのシンプルな感じが私好みだが、人形はかなり繊細に出来ていて、高価な代物に思われる。
これは、男雛と女雛の位置が、明治以前の日本の伝統的な置き方になっている。いわゆる「天子は南面し東に座す」という左上位の考え方に基づく配置だ。
この雛人形以外は全て関東雛の置き方(お内裏様が向かって左、お雛様が向かって右)なので、私はとても新鮮に感じた。

関東雛でも、男雛女雛以外の「左大臣・右大臣」や「左近の桜・右近の橘」は、京雛と同じく向かって右に左大臣・左近の桜、向かって左に右大臣・右近の橘を置くのだから、右上位と左上位の思想が混在している。
男雛女雛の位置は、これは大正天皇の御成婚以来、西洋風の「右上位」の思想が取り入れられ、関東では雛人形もそれに準じて変えられたのだという。

やれ、焼き魚の頭をどちら向きに置くか、やれ、ご飯と味噌汁はどう並べるとかネットでもやかましい割には、雛人形に限っては、おしなべて寛容なのは何故だろう。
それは一般的日本人の西洋追従史観だとしたらいただけないな・・・などと思ったりするが、そんなに大袈裟に考えるまでもないのかも知れない。



秋元別邸の玄関を出たら、来たときには気づかなかった沈丁花の甘い香りがする。玄関は北側にあってこの沈丁花は半日陰になっているが、沈丁花にはそのくらいが良いのだろうか。

そう思うのは、私の自宅の前の家の沈丁花が、とても日当たりの良い庭にあって、花はまだ蕾みのままで、葉も黄色く日焼けしたようなので、よそ事ながら気になっていたからだ。我が家にあった沈丁花はそんなフウで、いつのまにか枯れてしまった。

雛祭りは桃の節句で桃の花を飾る。だが、大人が楽しむような、上の画像のように1対のお雛様だけが飾ってあるような、そんなお雛様にはむしろ沈丁花がふさわしいかもと思った。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:23
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星野遺跡地層たんけん館


栃木市星野の山あいに「星野遺跡」がある。ここに前期旧石器時代に人間がいたというのだが・・・。

その発見のきっかけは、この辺の畑には縄文時代の遺物がじゃらじゃら散らばっていて、その収集に興味を持っていた税理士の斉藤恒民氏が、チャート製ルドロワ石核を拾い上げたことに始まる。
彼が発見した「亀の子型石核」はネアンデルタール人が用いたとされる石器の作り方で、石を砕いてからその1片を石器にするのではなく、あらかじめ石核に石器の型を作ってから、その石器をはずし取るという特殊な方法で作られる。したがって、この石核が真実のものだとすれば、星野遺跡は8万年前に遡る前期旧石器時代が日本にあった証拠になる。

ところが、ここの遺跡発掘で多量に発見された珪岩製石器は自然の営為によってできた偽石器だという論争がある。発掘を指導した東北大学の芹沢長介教授は前期旧石器時代の石器だと主張し、それを否定する明治大学の杉原荘介教授と真っ向から対立した。この二人は、群馬の岩宿遺跡で旧石器発掘当時(1949年)は、明大の考古学教室でともに協力しているのだが、後に見解の相違とかあり袂を分かっている。

上の画像の「星野遺跡地層たんけん館」は、その発掘現場上に建てられていて、内部は深さ10mになるまでの地層が、明瞭に見られるように工夫されていて大変興味深い。



さて、この偽石器論争は完全には結論が出ていないようだが、その後、前期旧石器時代を示す遺跡が次々に三十数箇所も発見された。その発見者は「神の手」と称された藤原新一東北旧石器研究所副理事長だった。
ところが、2000年にこの発見がすべて捏造だったことがわかるが、彼の発見に25年間疑義を挟まず支持していた考古学会や文化庁・国立歴史民族博物館等の指導的立場の者の誰一人責任を取っていないようだ。

また、藤原新一は芹沢教授の薫陶を受けていたので、偽造事件発覚後の教授の立場も不味いことになったのではなかろうか。星野遺跡が前期旧石器時代と確定しないのも、そんな影響がないだろうか。一説によれば、芹沢教授は100万年前の石器を発見しろと発破をかけていたともいう。

この間の考古学会を見ると、旧石器発見に批判論者がいても、そうした者を学会八分(村八分)にして排除したという。藤原ひとりを責めるよりも、むしろそんな考古学会の学問体質そのものが問われてしかるべきだろう。

それらを踏まえて、この星野遺跡は旧石器遺跡というよろも、日本で旧石器の調査が行われた記念碑的なものとして意義があるという(ウィキペディア)。
私は藤原が関わっていたら残念だと思いながら、ネットを検索したのだが、星野遺跡発掘(1965年〜1978年)は彼が捏造に関わるよりも前のことであるようだ。それで、なんだかホッとする気分になった。

ところで、この地に斉藤恒民氏が個人で建てた星野遺跡記念館は現在閉館になっているようだ。理由は分からないが展示物を見たい私には残念だ。
この地はセツブンソウが咲くので有名だ。私はこの花を見たことがないので、もう一度この地を訪れてみたいと思っている。その時は再び「たんけん館」にも行ってもよいなと思う。

ちなみに、「たんけん館」は月曜日休館で、受付とか無人で開放されていて入館料も無料。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:12
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群馬県立館林美術館 「古代エジプト美術の世界展ー魔術と神秘ー」


古代エジプトの墳墓に入れられた副葬品のコレクション展(スイス・ジュネーブのガンドゥール美術財団所蔵品)。
パンフレットの案内文を見ると
『本展は、古代エジプト美術の魅力を「魔術」をキーワードに紐解こうとするものです。魔術的な力を帯びるとされたヒエログリフ、神性をそなえた石や貴金属などの素材、象徴的な意味と結び付けられた色に着目することで、永遠に命が続くことを渇望したエジプトの人々の強い来世信仰と世界観が浮き彫りになることでしょう』とある。

出品作品は約150点。いづれも本邦初公開ということで見に出かけた。
美術館に着いたのが3時過ぎ、閉館は5時。まあ、2時間もあれば十分鑑賞できるだろうと考えたのが甘かった。1作品1分だとしても150分かかるわけで、それではタイムアウトしてしまう。まさに時間との勝負になってしまった。

説明を読みながら進むのだが、これが知らないことばかり。エジプト神話や古代エジプトの歴史を少しでも知っていれば違うのだろうけど、私の知識なんて、王様のことをファラオというくらいの程度だ。
だから、トト神は鳥のトキの頭をしているなんて説明を見ても、日本語で発音が似てるなあ・・・なんて始末だから、何が魔術で神秘と結びつくのか、肝心なことが鑑賞していてもなかなか頭に入らない。

結局、閉館30分前ですのアナウンスを聞いて、高い図録を思い切って買って帰ることになってしまった。
3月21日までやっているので、図録で勉強したら、もう1度行ってみようかと思っている。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:00
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県立館林美術館「舟越桂 私の中のスフィンクス展」


10月28日は群馬県民の日で、県立館林美術館も観覧料が無料になる。そんなわけで駐車場がとても混んでいた。

舟越桂という彫刻家の特別展「私の中のスフィンクス」をやっているのだが、展示されている作品全部が胴体から上の人物像で、大体皆同じような顔つきで首が太くてとても長い。一見したときの西洋顔の印象は女みたいだが男性かも・・・で、美輪明宏に似ていると思った。
もちろん、私がそんな程度の感想でしかないのは、無料だから見に行くというほどのド素人であるからにほかならず、駐車場が混んでいることに文句は言えない。

スフィンクスといえば、エジプトの巨大ピラミッドの前にドーンとある半人半獣(人間の顔でライオンの体)のやつだろう。私が子どもの頃に初めてスフィンクスという存在を知った時の記憶では、旅人がその前を通ると、彼は旅人になぞなぞを吹っかける。
『はじめは四本足で、次に2本足になり、やがて3本足になるものはな〜んだ』と問い、旅人が正解を答えられないと食ってしまうという話だった。

スフィンクスのことを「彼」と書いたが、実は雌雄同体だということを、この展覧会で初めて知った。私はスフィンクスは男だとばかり、ずっと疑いも無く思い込んでいたのだ。
だから、「私の中のスフインクス」という題名も、何を言いたいのかさっぱり分からずに見に出かけたのだった。

舟越桂は1952年生まれで、今も現役で活躍している。展覧会ではその彫刻を3時代の章の部屋に分けていた。「2000年代初め〜現在」がその3章で、それまでに製作していなかった裸体で、雌雄同体の様子が描かれている。いうなれば、西洋女性のような端正な顔と豊満な乳房をしている体なのに男根がある。

展示室に次のような文があった。

『「人間の存在」は外から見えているものと、見えていないものとの両方で成り立っているはずだ。そういう考えから、ここ二十数年作品を作って来た。それらの作品を人によっては「異形」と呼ぶ人たちもいる。 舟越桂』

つまり、舟越桂はそれを「異形」ではないのだと言いたいのだろうか?

口にバッタを咥えているかなり大きな裸体像があって、足がない代わりに4本の長い棒で空間に支えられているのだが、私にはそれは異形でしか見えなかった。作家に同感するのはなかなか難しい。

作家の初期の頃のから現在まで共通しているのは、楠に彫刻し大理石で作られた精巧な目が入れてあることで、これが彼の作品の特徴のようだ。しかも、その瞳はやや外側に向けられていて、鑑賞者が正面に立って見ても、目が合わないように工夫されている。それは、彫刻の人物自身の心が、内面に向いていることを現しているのだそうだ。

そういわれてみて、もう一度展示品を回ってみたのだが、いずれも内省的で、彼もしくは彼女が何を考えているのか分からない印象を受けたのは興味深かった。

ちなみに、この特別展は12月6日までやっている。観覧料一般820円。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:21
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鉄道博物館


私は小学校へ上がる前、5,6歳の頃、踏切に汽車を見に行き、2日続けて迷子になったことがある。
伯母の家から踏切まで、距離にして2〜300mくらい、真っ直ぐの一本道だが、真ん中あたりに変形の十字路がある。今にして思えば、おそらくその辺で迷ってしまうのだろうと思う。
館林駅前の交番のお巡りさんに、おうちはと聞かれて、千葉県長生郡長南町○○と答えたそうだから、さぞかし面食らったことだろう。
2日目は婦警さんが覚えていて、すんなり帰宅できた。

「踏切に汽車を見に行き」と書いたが、まさにその通りで、当時は貨物列車を蒸気機関車がひいていた。その踏切は館林駅の直ぐ隣で、ほとんど駅構内というような場所にあった。
そこで貨物の入れ替えをするので、踏み切りを蒸気機関車が行ったり来たりする。そんな開かずの踏み切りのときは、用事のある人には迷惑だろうが、小さな子どもは機関車やその音に夢中になり、時間を忘れて見入ってしまう。
踏み切りの遮断機は人力で上げ下げする仕組みで、踏み切りに汽車や貨車がないわずかな間に遮断機を上げて、人を通したりするのを見るのも面白かった。
そんなくらいだから、帰り道を間違えて、行きは良い良い帰りは怖いとなるのも、あながち私が愚かなうえ方向音痴だからとはいえない・・・と思う。

そんな子どもの頃の体験では、鉄道に夢中な鉄男になってもおかしくはないが、迷子になったトラウマだろうか、今では新幹線にもさほど興味を持たない大人になっている。

にもかかわらず今回、大宮にある鉄道博物館に行ったのは、館の中に機関車の方向回転台があり、機関車を回すときに館中に鳴り響くような大音量の汽笛を鳴らすのだと聞いたからだ。
私はその汽笛を「蒸気機関車」のだとすっかり思い込んだ。それで、子どもの聞いた汽笛が無性に懐かしく思われ、その汽笛を再び聞きたいと思ったのだ。

ところが、機関車は機関車でもそれは「電気機関車」だった。上の画像がそれで、めずらしい形をしている。古い形の電気機関車だそうだが、鉄男君にとっては夢中になる回転シーンだろう。
だが、子どもの頃、蒸気機関車が回転しているところも見ている私にとっては、迫力もいまいちで、なんか拍子抜けするものだった。



もう1つの目的は、お召し列車を見ることだった。現在は天皇陛下の特別列車がどうなっているか知らないが、戦前のものなどが展示されていると聞き、天上人が乗った列車とはどんなものか、ぜひ見て見たいと思ったからだ。

上のように、車体に菊の紋章があるのはさもありなんと思ったが、この時代はまだ冷房設備はなく、車内にしゃれた卓上扇風機が備えられていたのが面白い。
説明版によると、草薙剣(くさなぎのつるぎ)や八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の神剣神璽を安置する部屋もあり、これらは天皇と行動を共にするものなのかと興味深かった。



上の画像は、更に古い年代のお召し車両の屋根下部分に付けられているモノだが、間をあけて3個くらいだったかある。おそらく反対側にもあると思われる。
この像の説明はなかったのだが、なんとも不思議な顔つきをしているから、おそらく想像上の動物で魔除けなのかもしれない。

これらのお召し列車はガラス越しに見るのだが、保存保護のためなのか照明が落とされていて、暗くて中の様子が良く分からなかったのはいささか残念だった。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:23
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大偶俊平美術館 「作刀実演」
 

大偶俊平(おおすみとしひら 1932−2009)は群馬県太田市出身の刀匠で人間国宝(1997年指定)。仕事場のあった自宅を改装し、彼が作刀した太刀などを展示する市立美術館になっている。
先ごろ、刀匠の生前のままに残されている仕事場で、お弟子さん(高野、本田の両刀匠)による作刀実演があった。

作刀の作業は鉄を鍛え始めて、約2週間で刀の姿になるそうだが、今回は心鉄(しんがね:刀の芯になり、炭素含有量が多いので柔らかく、刀が折れにくくする)と皮鉄(かわがね:刀の表面になり、炭素量が少ないので堅く鋭い刃になる)をそれぞれの素材になるように、何度も熱しては打って鍛え、心鉄に皮鉄をU字型に曲げて組み合わせる行程を見せてもらった。

そこまでの行程で長さが十数センチくらいの分厚い塊なのだが、これを打ち伸ばし2尺3寸の標準の日本刀の形になるというのが、なんとも不思議でならない。むしろ、そちらの作業を見てみたいと思った。

実演を見るために訪れた人が多く、私は美術館の駐車場に停めることができなかった。だいぶ遠くから歩いたので、仕事場の窓の外(よく見えるように、2箇所の窓や出入り口の戸は外されている)は見学者で一杯だった。最初は前の人たちの隙間や背伸びして見ていたのだが、途中で前後の交代があり、後半は前の方でしっかり見ることができた。それでも2時間あまり立ちっぱなしだったので、歩くともつれてしまうほど疲れた^^;

私が立っていた場所はその前に腰掛けている人たちがいて、鍛造の作業している所とは6,7mは離れていただろう。だが、1度火花が私のいるところまで飛んで来たことがあった。後で気付いたのだが、フリースの上着に2mmほどの小さな穴があいていた。
美術館内に刀匠のツギハギだらけでボロのような作業着(上着と袴)が展示してあるが、こうなるというのも頷けるというものだ。

モーターで動かす鍛造機(画像左の機械)が、電源の故障で動かないというハプニングがあり、若い本田刀匠が向こう槌で行うことになった。大きな鉄製の槌(金槌のバケモノみたいな大きさ)を振り挙げて打つという、昔ながらの伝統の鍛造法だ。
これは息が切れるほどの重労働(1度の向こう槌で、おおよそ26,7回は打ち下ろす)だが、現在では珍しくなったという作業が見られ、なんだか儲けたように思った^^;

ちなみに、日本には作刀の免許を受けている者は300人ほどいるそうで、そのうち100人位が刀鍛冶にたずさわっているという。しかし、その中でも作刀で生活出来るのは、ほんの一握りの刀匠に限られているらしい。

大偶師の弟子の内、作刀の免許を取れた者は5人。かなり辛い修行だから途中でやめてしまう者も多かったようだ。しかも、独立しても収入不安定な職業環境では、日本の伝統文化を担う若者も、先行きに不安を持つだろう。

作刀1本の鍛造には、高価な松の木の炭を30俵も使うそうだ。しかも松喰い虫の被害で、松そのものが少なくなっている。それで、刀匠の中には、昔ながらのフイゴと炭ではなく、ガスを使うことも試みられているというが、伝統技術に根ざしている作刀鍛冶には、やはり炭の方が良いらしい。

また、作刀作業がすべて成功するわけではなく、人間国宝の大偶刀匠でさえも6割位だという。だから、日本刀が美術工芸品とはいえ、1本のお値段が何百万あるいは何千万(?)かしても、ある意味当然なのだ。
このくらいの出費など屁とも思わないお金持ちはたくさんいるだろう。1本とは言わず10本でも20本でも購入し、若い刀匠たちを応援して欲しいものだ。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 19:19
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足利市立美術館 『魚藍観音像』


画像は足利市立美術館の入り口で、美術館のガラスに映っている大きな書店から、注文していた足利関係の書籍が届いたという連絡があった。
受け取るだけで用事はすぐに済み、時間の余裕があったので美術館に行ってみた。企画展の際はそれなりに入場料を取るそうだが、今回やっていたのは、「足利市民文化財団所蔵品展」と「足利市民文化祭優秀作品展」だったので入場無料だった。

市民文化祭展は書・日本画・洋画・写真・工芸などが展示されている。絵画の優秀作品については、プロの画家が描いたかと思うほど優れているように思われた。もしかして、絵とはそのようなものだろうか? 

しかし、下の絵は誰が見ても、やはり、紛れもなくプロの作品だと思うだろう。技量の差は歴然としている。私はこの作品が見られただけでも、立ち寄った甲斐があったと思った。



これは足利文化財団所蔵品で、題名は「魚藍観音像」という(画像は、ミュージアムショップで購入した絵葉書)。
足利出身の牧島如鳩(にょきゅう 1892−1975)とその息子純の合作で、縦136×横205もある大きなもので、展示室の入り口正面にある。

観音の性別はフツウは男なのだろうが、魚藍観音は三十三観音の1つで、馬郎婦観音と同じく女性だとされている。したがって、画像のように美しい乳房があり、羽織っている魚網から透けて見える肢体はとても官能的だ。
しかし、エロチックな視線で眺めていると、観音様のお顔はとても厳しく、睨まれているように見えるだろう^^;

この作品は、小名浜漁業組合の求めによって1952年(昭和27年)に描かれ、完成時にはトラックの荷台に乗せられて、小名浜の人々に披露されたそうだ。豊漁を祈る宗教画でもあり、組合長の部屋に掛けられていたという。

小名浜は東日本大震災で甚大な被害を受けた。そのとき、この絵がどこにあったのか聞き漏らしたが、震災の翌4月に足利市民財団が購入している。したがって、無傷ということは震災時には小名浜の漁業組合には置いてなかったのだろう。素晴らしい芸術品が失われずにすんだことは、不幸中の幸いとでもいうべきか。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 22:00
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コノドント館


旧大間々町の「みどり市大間々博物館」は、「コノドント館」の名称がつけられている。この博物館の存在やコノドントという名前はかなり以前から知っていた。
ところが、この前を通るのは大間々経由で他に行く目的があるときで、これまで博物館の訪問を予定にいれる機会がなかった。このたびは銅山街道の日光坂を調べた際に時間が余ったので、ようやくにということだが見学することができた。

群馬県で最初の私設銀行(大間々銀行)だったという大正10年の建物は、木骨石積レンガタイル造りだそうだ。世界遺産の富岡製糸場がやはり木骨レンガ造りでできている。富岡では当時の大工職人の技術力がいかに優れていたの説明を受けたが、こちらも木骨ということでは、優とも劣らない職人の技があったのだろう。

この建物を設計したのは、我が館林出身の小林力雄(1873〜1927年)という人物で、工学校時代の青年期には小説家を志し、同じ郷土の先輩、田山花袋に原稿を送り批評を受けたりしたという(当館にあったプリント紙)。
彼は、洋風建物の建築家として大変な名声を得たというが、52歳の若さで急逝しているのは惜しまれる。桐生にあった四十銀行本店は写真で見るとたいそう美しい洋風建物だが、建て替えして現存していないというのも惜しまれる。彼の設計で現存する建物は、コノドント館だけだというから、人も物も盛者必衰の理は今も昔も変わらないということか。

正面入り口を入ると、受付があって入館料は大人200円。すぐ右が展示室の入り口で、「⇒手動ドア」の表示がある^^;
中に入ると自然展示室で、恐竜コーナーや大間々の丘陵地のジオラマがある。ツキノワグマの剥製があり近づいてよく見ようとしたら、突然うなり声をあげられてビックリした^^;
私は、栃木の某里山で休憩中に、15mくらいの近距離でクマさんと遭遇した経験がある。このときはお互いに顔を見合わせただけで紳士的にサヨナラをしたのだが、もしこんなふうに唸られたら、きっと腰を抜かしていただろうと思った。



コノドントというのは1mmにも満たない微小化石で、19世紀半ばの発見当時は何の化石か分からず、円錐状の歯=コノドントとされたのだそうだ。カンブリア紀(6億年前)から三畳紀(1億8千年前)の地層に見られるので示準化石になっている。画像のような動物だと分かるようになったのは近年のことだという。
日本では大間々在住の林信悟が1958年に発見したのが最初で、その後注目されるようになった。その化石が常設展示されているので、「コノドント館」というわけだ。

コノドントの想像図はウナギのようだが、長さは10cmくらいだという。脊椎動物の祖先だそうだから、私達人間のご先祖さまかも。それで敬意を持って顕微鏡を覗いたのだが、私の老眼では判別不能だった^^;



2階の企画展示室で、「ひげ仙人の宝箱―岩沢正作と博物学―」展をしている。岩沢正作は群馬の博物学(植物学・地質学・考古学)の草分けの人物で、前橋や高崎、最後に大間々で教員生活を送り昭和19年に亡くなっている。
素晴らしいアゴヒゲを蓄えた風貌や、式に出席した後のモーニング姿でも、そのまま遺跡調査に出かけて、そのポケットに発掘片を入れて泥だらけにしても無頓着だったとか、特に赤城山のすべてを把握していたこともあって、ひげ仙人と呼ばれたようだ。

展示室で、群馬テレビが収録した、彼を知る人達が思い出を語る番組をビデオで放映していた。変人かといえばやはり変人なのだろうが、生徒にもたいへん人気のあった先生だったようだ。
また、収集品を納めた宝箱といってもそこらにある小箱の利用だったり、タバコが好きでその箱を裏返してメモ紙に使っていたりしているのだが、それらも興味深かった。

この企画展は12月7日までやっている。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:12
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館林市第一資料館 「徳川綱吉ー館林城主から将軍へー」


徳川綱吉は家光の四男で、館林宰相と呼ばれました。もっとも、彼自身はもっぱら江戸の神田館に住み、館林城には日光参拝の折に4.5日間滞在したことがあったに過ぎなかったそうです。

五代将軍になってから、「生類憐れみの令」を出し、それが天下の悪法といわれて、あまり芳しくはない評判をとっています。この特別展には、一日に3030石もの食を与えた御犬小屋(これでも小規模な小屋のひとつ)の資料も展示されています。

犬ばかりが目立ちますが、病気の牛馬のみならず野鳥なども保護するように命じている資料もあります。今日では、調査捕鯨とかが世界各国から責められますが、我が国はかつては動物保護の最先進国だったのです。綱吉は世界的にも再評価されて良いのではないでしょうか^^;

私がこの特別展で関心をもったのは、綱吉自筆の書画でした。 特に「母不敬」という書や中庸から引かれた掛け軸などは、上手かどうか私には分かりませんが、生真面目な雰囲気があります。馬を描いた「松下走馬図」や白鷺を描く「芦鷺図」などは、名前を伏せてプロの絵だといわれても頷いてしまうと思いました。

綱吉の頃、館林領は25万石の大藩だったわけですが、これまで私は館林周辺で25万石だとばかり思っていました。ところが、上野国館林の領地は11万石余で、残りは下野国・甲斐国・美濃国・近江国にあったということです。

館林藩は幕末では6万石ですから、これでは明治の廃藩置県以後の統合で、群馬県にはなっても、館林県にはならなかったはずです。館林は『鶴舞う形の群馬県』(上毛カルタ)でクチバシ辺りになりますが、県庁所在地の前橋に行くより、東京に出るのがずっと速くて便利です。地元民である私は、群馬県民としては、群馬の中心地から遠い僻地にいるような気がします。

しかし、もし、綱吉の頃の規模で明治維新まで続いていたら、領地だった下野国の佐野市域も範囲で館林県が成立し、全国48都道府県だったかもしれません^^;
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 22:22
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