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庚申塔邪鬼の傑作


青面金剛像庚申塔に描かれるものや描き方には大方決まった図柄がある。ところが、中には製作者の遊び心とでもいうのが見られたりする。
私が青面金剛像庚申塔に惹かれるのも、そんな石工職人の個性的な創意工夫に出会ったときだ。よく出来た像では表情や動きもよく彫られていて、中でも邪鬼が痛めつけられている顔の表情は、気の毒にと思って見るのだが、やはり面白い。



これまで私が見た邪鬼には、青面金剛に踏みつけられているのではなく、しゃがんだ邪鬼が両肩に青面金剛を乗せて、踏ん張っている顔が自慢げなものや、二匹の邪鬼が並んで正面を向いていて、青面金剛が1本足ずつ踏みつけているのだが、ちっとも痛そうにしてないニヤニヤ顔のものとかがあった。

上の画像では、邪鬼は腕を広げて這いつくばるだけでなく、左足を跳ね上げている。邪鬼の表情のあきらめ顔もいいが、手足に躍動感があふれていて、邪鬼の面白さでいえば、私が見た中では5指に入るだろう。
また。三猿の様子も並べ方に工夫があり、浮彫りも厚く肉感的に仕上げられていて良い。

ちなみに、この庚申塔は前回と同じ丸山にあったもので、「元文五庚申天」の天年号で、「丸山村中」とある。天年号ゆえに隠れキリシタンとするなら、当時の丸山村は全員がキリシタンということになるが、そんなバカなことはあるまい。
author:u-junpei, category:石仏, 23:23
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二臂青面金剛庚申塔


太田市の丸山は平地にぽこんとあるお椀型をした独立峰で標高は114m。だから、山というより丘陵なのだが、この山が有名とされているゆえんは、北側斜面にカタクリの自生地(太田市指定天然記念物)があるからだろう。
もっとも、いまから400年ほど昔、慶長11年(1606年)に丸山の麓に丸山宿が開かれ、その頃に丸山の山頂に越後から米山薬師が勧請されて、その薬師堂の方が厄除け薬師として有名だったかも知れない。

その米山薬師は平成4年に焼失し、麓にお堂が再建されているが、山頂への立派な参道は、いまでもしっかりと残っている。その参道脇には石仏等がいくつも置かれていて、上の画像の青面金剛庚申塔もその1つ。

今回、この庚申塔をとりあげたのは、フツウは六臂で描かれる青面金剛像が、珍しく二臂であること(臂というほ腕の数え方)。
また、邪鬼を踏みつけておらず、ヘビがまとわりついている様子もないし、髑髏もない。なにより、下の画像のように顔が、近所にいそうな、頑固なオジサン顔で、なんとなく親しみさえ感じられたからだ。



私は、青面金剛像庚申塔が、前回のブログで見たように、一時期は盛んに造られたにもかかわらず、元文5年(1740年)の庚申の年以後、急速に文字庚申塔に変わって行ったのは、像塔の高額な建立費用という経済的理由のみならず、青面金剛のオドオドロシイ様子が、結局のところ農耕民族である日本人の気質に合わなかったからだと考えている。



また、庚申塔では見猿・聞か猿・言わ猿の三猿が描かれるのが一般的だが、この庚申塔は二猿で、おそらく夫婦か若いカップル(もしくは小猿)かもしれないが、右の猿(メス)が左の猿(オス)に何かを渡そうとしていて(あるいは、メスの方が受け取ったところかも知れない)、その仕草と表情がいい。

この庚申塔は延宝4年(1676年)に建立されたもので、『奉造立庚申 為二世安楽』と刻まれている。
ちなみに、紀年号は天年号になっている。もちろん、隠れキリシタンイズム者がいう天年号=隠れキリシタンではないだろう。
author:u-junpei, category:石仏, 22:22
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二童子像刻青面金剛庚申塔


石仏は寺社に奉造されるだけでなく、いわゆる野仏としても建てられている。したがって、その歴史民俗遺産としての調査は地方自治体(教育委員会)が行っているようだが、中心となる人物や団体の力量で、その資料内容の出来具合がだいぶ違う。また、全く調査がなされておらず、町村史誌の民俗編にも掲載がないこともけっこうある。

我が館林の石仏調査はかなりしっかりしていて、各地域ごとの記録出版物として残されている。ただし、調査は昭和40年後半から50年代に行われ、今ではその出版物を手に入れることができない。
また、図書館にもその記録出版物が全冊はなく、私は教育委員会を訪れるなどして、資料を探すのが大変だった思い出がある。

庚申塔に特化した調査出版物では、「足利の庚申塔」(田村充彦・星野光行 著、2002年刊)が素晴らしい。これは足利市全域の庚申塔を全調査しており、私は館林の庚申塔を観察する上で大変参考になった。

その「足利の庚申塔」によると、足利全域で庚申塔は2345基を数える。館林は232基。この差は、足利には数十から数百を数える庚申塔群がいくつもあるが、館林には庚申塔群は1つもないからだろう。
これは山地に囲まれた足利と平野地にある館林の立地条件の違いや、大がかりな庚申塔群をつくった庚申信仰指導者の存在、あるいは庚申講そのものの違いもあるかもしれない。

しかし、例えば、青面金剛庚申塔の造塔割合をみると、足利は6%で140基だが、館林は34%で80基を数える。庚申塔建立の歴史でで言えば、館林には万治4年(1661年)のものがあり、足利最古のものより6年古い。
ただし、足利の庚申塔は数が多いだけに、立派なものも多いように思う。

また、青面金剛庚申塔は1660年代から1740年代にかけて盛んに造られるが、その後、なぜか急速に衰退して文字庚申塔に変わってしまう。この推移を見ると、青面金剛庚申塔は時代背景が伴う特異な民俗遺産として、きちんと残されてしかるべきだろう。

さて、前置きが長くなったが本題に入ろう。上の画像の青面金剛庚申塔が今回のテーマ。
これは先日「3県境」を見に行った際に、周辺を散策してたまたま出会った。場所は埼玉県加須市小野袋だが、詳しい地番とか、そこにあったお堂が何を祀るのかも分からない。

この庚申塔は享保元年(1716年)造立で、ちょっと見にはフツウの青面金剛庚申塔と変わらない。
だが、上に述べたような青面金剛庚申塔のなかでも、かなり珍しい形態に入るかと思う。



上の画像は、この青面金剛像の足元で、両サイドに童子が彫刻されている。青面金剛の儀軌によれば、2童子はそれぞれ手に宝珠や香炉を持っているとされる。
この画像では、何を持っているかはよく分からないが、2童子はかなりしっかりと浮き彫りされている。

2童子が彫られている庚申塔は、青面金剛庚申塔が140基もある足利でもわずかに2基しかない。元禄10年(1697年)と寛政12年(1800年)のもので、前者は市指定文化財、後者は県指定文化財になっている。
館林にも80基のうち寛文5年と年代不詳のものとに2童子があるが、磨耗が激しく、2童子だとようやく分かるくらいで状態は良くない。
ちなみに、足利の庚申塔は県指定1基・市指定5基が重要文化財になっている。残念ながら、館林には1基もない。

してみると、小野袋の青面金剛2童子庚申塔は、おそらく全国的にも珍しいものと思われ、貴重な庚申塔に位置づけて良いのではなかろうか。
ただ、画像のように全体的な保存状態は良いのだが、合掌している手の部分がちょっと欠けてしまっている。
もし、これが完全無欠で、私が加須市民でもあれば、指定文化財に推薦したいものだが・・・
author:u-junpei, category:石仏, 13:13
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道しるべ 「いづる道」


上の画像の道標は、岩舟町小野寺の大慈寺門前にあります。画像の反対側の面は、「右とちきみち」と刻まれています。安永年間(1773年頃)に造立されたものです。

「とちきみち」は栃木道です。江戸時代以前の小野寺から栃木へ出る古道も、現在の東北自動車道と平行している県道75号線(栃木佐野線)と考えて、まず間違いはないと思います。

問題は「いつるみち」ですが、前回の「いづる道」,粘篏町新里からたどるならば、現在の県道282号線(中岩舟線)と同じく、小野寺を経て藤坂峠を越え葛生町に出るルートが考えられます。

ところが、大慈寺の門前で「左いつるみち」では西方向になり、大慈寺の東寄りから上がる藤坂峠を通らない疑いがあります。もっとも、古道は大慈寺前で蛇行していたかもしれません。また、大慈寺の先住が他所から移動したとも聞いたので、それが本当なら旧位置を確認する必要があるかもしれません。

また、大慈寺より南の県道沿いに昭和3年建立の道標があります。これには「→ 田沼町」と刻まれています。この道標の山越えの道は、今ではすっかり藪になり廃道となってます。この山道の峠は京路戸峠といいますが、田沼町方面へ下る道は現在でもハイキング道として使われています。
したがって、江戸時代以前の古道「いづる道」も、田沼を経て葛生に出たとも考えられ、この京路戸峠を通った可能性がないとはいえません。

いずれにせよ、少なくとも江戸時代の中頃、小野寺の北を山越えする「いづる道」があったことは間違いなく、大慈寺から諏訪岳の西側(京路戸)か東側(藤坂)を越えていく道だったはずです。
私は『峠と石造物 藤坂峠』の考察から、少なくとも江戸時代の「いづる道」は藤坂峠越えであったろうと推測しています。

余談ですが、「いづる道」の目的地である出流山満願寺を含む坂東三十三観音札所は、鎌倉時代、源頼朝が選定したといわれています。その頃の岩舟地方からの「いづる道」は、もしかしたら、京路戸峠越えだったかもしれません。
ちなみに、京路戸の名は大慈寺関連で経論堂に由来しているという説があります。しかし、京路戸は田沼町にある小字名です。むしろ、古代の東山道にかかわりがあるのではと考えています。
author:u-junpei, category:石仏, 18:00
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道しるべ 岩舟町の「いづる道」


栃木県岩舟町(合併して栃木市)新里(にっさと)の県道282号線沿いにある八幡山(八幡宮がある)の麓に、大小19基を数える石仏群があります。その半分以上は磨耗して建立年も分からないのですが、ほとんどが馬頭観音だと思われます。中でも1番大きな物は「勝善神」の文字が彫られたもので、この地が産馬にも関係していたことが伺われます。

私はこれほどの数の馬頭観音が1ヶ所にあるのを見たことがありません。それで、この石仏の多くは他所から集められたのではないかと疑いました。
ところが、調べを進めるうちに、ここはかつて死馬を埋葬した不浄場だったという情報を得ました。そうだとすれば、これらの石仏は、おそらく最初からこの地に建てられたのかもしれません。

なぜ、建立地を問題にするかというと、ここに「道しるべ」を刻んだ馬頭観音があるからです(下の画像)。



この馬頭観音は高さ50cmくらいですが、馬頭観音群の中で像容が浮き彫りされた唯一のものです。像の向かって右に「天保六乙未八月吉日」、左に「左 いづるみち」と刻まれています。入手した資料によると、「宮崎兼吉」という建立者の文字もあるようですが気づきませんでした。

江戸期は天明の大飢きんに代表されるように、冷害や飢きんがたびたび起きています。ちなみに、天保六年(1835年)は天保の大飢きんの最中です。天保八年には大塩平八郎の乱が起きるなど、百姓一揆や打ちこわしが多発しています。

そんな厳しい時代にも、いやそんな時代だからこそ、人々は観音信仰を頼み、出流山満願寺(坂東三十三観音17番札所)へと旅したのでしょう。この石仏の建立者は労苦した愛馬の菩提を祈ると共に、旅人の安全と無事を願って「道しるべ」を刻んだのだろうと思います。
author:u-junpei, category:石仏, 17:17
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小野小町
 

葛生の化石館からの帰り道を、東に藤坂峠を越えて岩舟町に抜けてみた。
峠を越えたところが小野寺というところで、ここには646年創建の村檜神社や栃木県で現存する最古の古刹・大慈寺が並んでいる。
この大慈寺には小野小町伝説があり、近くの田んぼの中には小町の墓もある。

上の画像がそれだが、平成20年に新たに整備されたようだ。以前はイチョウの木立の下に小さな石が置かれているだけで、それといわれなければ、ただの石としか見えないものだった。



小町の墓は日本全国にある。私が調べたところでは、北は秋田県から南は山口県まで、本州内に15を数える小野小町終焉の地があった。

その中でも、もっともみすぼらしい墓がここ小野寺のものかと思うが、それはそれで、むしろ良いのではとさえ私は思う。

なにしろ、ここの小町伝説では、彼女の最期は大慈寺の裏山の断崖絶壁から身を投げて死んだことになっているからだ。

かつては道端にあったかもしれない小さな塚に、今も残っている小さなただの石と言ってしまえるようなものが、何百年もの間、村人の言い伝えで小町の墓だとされてきたのだ。
それはあまりにもそれらしくない墓ゆえに、いや増して小町の哀れさを誘うように私には思えてくるのだが、いかがであろうか。
author:u-junpei, category:石仏, 23:41
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七地蔵の謎?
    

茨城県古河市に七地蔵の石幢(せきどう=石灯篭に良く似ているが、火袋はない)があるそうだ。通称「化け地蔵」といわれているらしい。

ところが、仏教では七地蔵はありえないから、そもそもが地蔵を彫ったものではなく、図柄もキリスト教の七聖人もしくは七天使に違いなく、切支丹が造立したものだという(川島恂二著「関東平野の隠れキリシタン」に詳しく記述され、 川島グループの亀田氏が第5回全国隠れ切り支丹大会にて発表とある)

私は、この説は大変興味深いが、誤りだろうと考えている。その根拠は上の画像にある。
これは群馬県大間々町(現在みどり市)の山間にあるもので、「重層型七仏輪廻庚申石幢」といわれている。元亀四年(1573年)の造立は北関東でも最古の庚申塔の1つされ、みどり市の指定重要文化財になっている。

古い時代の石塔で、1つの塔身に六体の地蔵がある、いわゆる「六地蔵」を彫った石幢はそう珍しいものではない。私は館林でも幾つか見ている。しかし、画像の石幢のように七面があり、それぞれに仏像があるのは全国的に見てもあまりないのではないかと思う。しかも、みどり市のものは1対になっている。

古河市のものも、その珍しい七仏石幢の1つなのだろう。それゆえ、上述の隠れキリシタン説のように、仏教的根拠がないと断じるのは無理もないかも知れない。私もみどり市の石幢を見るまでは、七地蔵はおかしいとは思っていたのだが、館林の寺院で七体の地蔵を並べている例を見ている。そういう寺では壇信徒さんにどう説明してるんでしょうね(^_^;)

ただし、みどり市設置の案内板によると、この石幢には『奉造立六地蔵庚申供養 朝原村本願爾左衛門 人数四十一人也』と彫られているという。
したがって、この刻文から造立者の意図は「六地蔵」であることは明らかだ。

では、もう1体の仏像はというと、それは阿弥陀如来なのだという。後の世での救済となれば、この七仏で、なるほど合点がいくではないか!
また、右の石幢には穴があいている。これは輪廻車がはめ込まれた跡で、六道輪廻が仏教教理に基づくことは言うまでもない。



私は古河市の石幢は未見だが、「関東平野の隠れキリシタン」に収録されている七地蔵の図柄と比べると、みどり市の画像のものと似通っていることがわかる。もしかしたら、そういった七仏の仏教絵図とかがあったのかもしれない。

古河市の場合も含め、七仏石幢は七地蔵石幢ではなく、六地蔵+阿弥陀如来であろう。ましてや、七聖人や七天使とするのは必然性がなく飛躍しすぎると思う。少なくとも、みどり市の場合は年代的地理的にも切支丹想定はできまい。

それゆえ、古河市のものについても、「七地蔵」の石幢だからといって、他例との検証もなく、仏教否定の切支丹遺物と断ずるのは、贔屓のひき倒しの感がある。隠れ切支丹を探し出す熱意はともあれ、墓石等に十字をみれば隠れキリシタンといってはばからない主張と同じく、私には疑問に思えてならない。
author:u-junpei, category:石仏, 17:13
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青面金剛の石工


     

左の画像は足利市八椚町にある市重要文化財の青面金剛像(延宝3年)の前後。右は館林市赤羽地区にある庚申塔(延宝7年)、共に江戸前期(1670年代)で、青面金剛像庚申塔としては出始める初期にあたる。

足利の方は、体半分で真っ二つになったものをコンクリートで継いでいる。手当てとしてはあまり上手ではないが、丸彫りの青面金剛像は大変に珍しい。そのことが古い年代であることと合わせて文化財指定の理由だろう。

私は、この2つの青面金剛像は同じ石工の作ではないか、と疑っている。特に明確な根拠があるわけではない。見た瞬間にと言うとやや語弊があるが、全体的・表現的に共通する印象を受けるからだ。職人の技法としてはむしろ稚拙な感じがする。良く観察すると、目鼻立ちや両耳の彫り方、額から髪への線が似通っているかもしれない。それが共通の印象を高めているのだろう。

寛文から延宝時代は、館林藩は徳川綱吉の25万石で足利周辺も館林領だったのだから、石工職人の仕事地域が重なっていたとしても不思議ではない。現に足利市西場町にある百観音(江戸時代)には、館林の石工の名前が刻んである観音石仏がある。

延宝の頃には、一般世間に庚申講が始まり、青面金剛なるものの共通認識がつくられるという時代背景がある。延宝8年が庚申の年で、初期の造塔最盛期になるので、石工の仕事も大いに繁盛したかもしれない。この2つを比べたら、館林の方が4年遅い分だけ、技術的には成長しているかも?

ところで、足利市は、私が知る限り、5基の青面金剛像庚申塔を市重要文化財に指定している。それに対し、館林には文化財指定の庚申塔は1基もない。というか、石仏全体でも文化財指定が一つもない。これは一体どうしたことだろう?

確かに、館林には庚申山がなく、庚申塔の全数も少ない。市内全域の調査で239基を数えるくらいしかない。しかし、その中でも青面金剛像庚申塔は67基もあり、庚申塔総数の28%に当たっている。中には、他の市町村指定文化財と比べても、引けをとらないと思われる良い状態の青面金剛像もある。
もしこのまま行政の保護からも放置されるようなら、残念なことだが、いつかは文化財的存在意義も失われてしまうだろう。

author:u-junpei, category:石仏, 18:24
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男と女の並び方
 



画像はみどり市の太陽寺にある双体道祖神であるが、恐ろしげな青面金剛像庚申塔を主に調査対象としてきた目からは、この双体神は大変穏やかな表情をしていてホッとする。

表情の雰囲気や手を握る様子からすると、私には向って左側が男神のような気がするのだが、二人とも背丈も同じく、髪型や衣服がソックリなので俄かには断じ難い。

陰陽に基づく並び順を考えるならば、むかって右側が男にならなければおかしいだろう。それで不思議でいたのだが、つい最近、三月の節句のお内裏様とお雛様の並べ順が、関東と関西では逆であることを知った。伝統的なというか保守的というか、関西ではそれにのっといてお内裏様は向って右に置かれるそうである。

もっとも、その違いが出来たのはどうやら西洋の風習が入ってきた大正か昭和の頃のことらしいから、この双体道祖神には当てはまらない。この道祖神は宝暦三年(1753年)の造立なのだから・・・。
まあ、並び順なんて石工の都合でどうでもよいことだろうが、それでもやはりなんとなく気になってしまう(^_^;) 
author:u-junpei, category:石仏, 23:54
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南宝院の宝塔 その2
 

この宝塔の傍らにある案内板には、「・・・宝塔の相輪部は、九輪中断から欠損している・・・」と書かれている。しかし、私はこの記載に疑問を持っている。

画像は相輪頂部に宝珠があるが、これは私が宝塔下に落ちていた(?)ものを乗せてみたところ、具合良くぴったりと合いズレ落ちずにいる。また、九輪だったとしているが、そうすると現在残っている五輪の上にさらに四輪あったことになる。しかし、この輪の彫り方と円錐形の相輪頂部の太さからすると、更に上に重ねるのはムリかと思う。

他に宝篋印塔などの相輪の事例を見ても、九輪に刻むためには輪と輪との間はかなり狭く取っているし径も太い。そうでないと九輪を作り更に上に宝珠を重ねるのは強度的に問題が生じるからだろう。

以上の理由から、この相輪部は九輪ではなく元々から画像のような五輪だったのではなかろうか。石造では材質や技術の問題やあるし、必ずしも九輪であることは必要条件ではあるまい。



この宝塔でもう1つ興味深いのは、笠部の四隅にある飾花に穴が穿ってあることだ。

説明板では、「・・・各蓮花の中央に穴が穿かれているので、相輪からの鎖があったのであろう・・・」としている。しかし、私はこれにも疑問をもっている。仮に鎖があったとしても、このような穴を穿つことが必要だったろうか。

私は落ちていた宝珠を最初はここに乗せてみた。しかし、それは穴の大きさに合わないようだった。それで、相輪の上に乗せてみたのだった。折れた部分の角度がよくあっていて、見事にのっているのはご覧の通りだ。

では、やはり、この穴には説明板通り、相輪から垂らした鎖の端を入れたのであろうか?

説明板で、この『蓮花』とされている部分は、私は『蓮華座』だと考える。つまり、この上にもやはり宝珠かあるいは蓮華の蕾花の造形物が乗せてあったと思う。簡単に取り外せてイタヅラや盗難とかのないように、このようなかなりの深さの穴を穿ち、造形物に作った軸を差し込み連結したのではなかろうか。

そう考えると、穴のある表面がかなり粗雑な仕上げになっていることも理解できる。造形物を差し込んでしまえば、外からは見えない部分になるからだ。
鎖の端を差し込むだけの部分だとすれば、全体がこれだけ立派な塔であるから、もう少し平面部分の表面を平滑にするなど丁寧に仕上げていたであろう。私が石工だったらそうしている(^_^;)
author:u-junpei, category:石仏, 17:46
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