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神仏分離令・廃仏毀釈から生き残る為に?

 

栃木県佐野市並木町に、二柱神社がある。

境内にある佐野市教育委員会の案内板には、貞享元年(1684年)の創立とある。「創建」ではなく「創立」という表現に違和感を覚えて読んだのだが・・・神社の境内や建物の規模はフツウの規模だと思う。だが、ぐるっと見て廻ると風格が感じられた。それもそのはずで、明治以前の神仏混交時代には聖天宮だったという。

 

聖天宮というのはインド由来の歓喜天を祭る。その像容は頭が象の形をし、体は人間の姿をしている。それも男女神が抱き合っているので、たいていは秘仏にされているようだ。

 

ここは、明治維新の神仏分離令で、ご本尊は別当寺だった安楽寺に移され、建物は神社として再出発している。

ご祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ)になったので『二柱神社(ふたはしらじんじゃ)』という。日本神話では最も初期の神様だが、一般的にはちょっとマイナーな気もする。おそらく、神社として継続するために引っ張り出されたのだろう。

 

 

聖天堂は彫刻で有名なところが多い。ここも本殿の軒から建物下部まで回り全てが、霊獣や古代中国の故事をモチーフにした彫刻でうずめられている。外からは金網越しでしか見られないのは仕方ないにしても、塗装がほとんど剥げているのが残念だ。

 

私が見たうちでいえば、聖天堂の彫刻で特に素晴らしいと思ったのは、埼玉県妻沼の聖天様だった。これは7年の歳月と13億円余の費用をかけて修理され、見事に往年の輝きを取り戻した。平成24年に国宝に指定され『埼玉日光』と呼ばれているそうだ。

それとは規模が違うにしても、ここの彫刻もかつては彩色が施されていたという。もし彩色が復元されたなら、重文級の文化財として見直されるに違いない。私はそれほど見事な彫刻だと思う。

 

栃木県は日光東照宮があるので、それに比べたら、ここの彫刻が見劣りするとでも思うのか、行政は彩色などの修理費を出し惜しみでもしているのだろうか。だが、この彫刻の素晴らしさには、誰しも一見したならきっと驚嘆することだろう。

 

ちなみに、この建物は栃木県の文化財指定にはなっているが、このままでは宝の持ち腐れに思う。彩色修理などするには多額の費用がかかるとしても、もっと世間に知られて良いように思う。

 

いわば、この聖天宮の建物は、神仏分離・廃仏毀釈からの破壊を逃れる為に、神社に変更してでも、後世に存続させようとした先人の知恵があった・・・まあ、私の想像ではある。

 

そんなことも、百数十年を経てしまうと、昔の人々の苦労は地域住民でも忘れてしまっていることだろう。しかし、文化財保護の精神は持ち続けたいものだ。

 

実は、私がこの神社に来たのは、この神社の宮司を兼ねる人丸神社の宮司さんから紹介されたからだ。我が館林市の図書館長をされていた方が来訪し、彫刻の様子を賞賛していたと言う。

館林にも、近隣にも聞こえた見事な彫刻が施された聖天宮があったそうだ。明治維新後に焼失してしまい、今は跡形もなく中学校の校庭になっている。私は薮蚊に閉口しながらも、この神社の彫刻がずっと将来にも失われないことを祈って眺めた。

author:u-junpei, category:寺社巡り, 23:23
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青い目の狛犬

 

神社に狛犬はつきものだが、造られた時代によって、表現や彫り方などに違いがあるという。だから観る人が見れば、おおよその年代の予想がつくらしい。

残念ながら、私にはそんな知識はない。上の画像の某神社の狛犬についても、第一印象をはっきり言ってしまうと、なんとデブな狛犬だと思ったくらいだ。 

 

 

それで、いつの時代の奉納かと、近づいて周りをぐるりと見ていて、狛犬の目が異常なのに気付いた。青いガラス玉(ビー玉か?)が嵌められている。

少しは目の部分に穴を穿ったのだろうが、うまく入らずに、接着剤で貼り付けたような感じだ。これでは、とてもじゃないが、玄人の職人がした仕業とは思えない。

 

もっとも、狛犬もズングリムックリなので、彫った石工の力量を窺わせる。この狛犬の様子では、神様をお守りする威力があるとは思えない。

それで、彫ってしまった全体はどうにもならないから、せめて目だけでもガラス玉をはめ込んで、睨みをきかす迫力を出そうとしたのだろうか。あるいは、奉納されたずっと後日、奉納者にも気を遣わずに済むようになってからの、宮司さんや氏子さんたちのアイデアだろうか。

 

誰かさんの悪戯ということはなかろう。でもまあ、これは洒落ですよ、などと言われれば私もそれなりに納得するだろう。だが、左右対になっている阿吽形の狛犬が、いずれも出目金なのはいただけない。

上の画像は阿形の方だが、吽形の狛犬の青玉は、もうちょいで玉が取れそうなほど出目になっている。おそらく、近いうちに修理が必要になるだろう。

 

そこで、次に入れるなら、こちらは赤玉にしたらいかがだろう。関係のない第三者のささやかな提案ではあるが・・・きっと、外人さん風の、ひょうきんな丸い青目より迫力が出ると思う。

 

ちなみに、この狛犬は昭和40年代に、某県会議員が勲章をもらった記念に奉納したものだった。なるほど〜、青い目は他とは違うんだという差別化の自己主張だったのかも。それなら、何も言うことなし。

author:u-junpei, category:寺社巡り, 22:22
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なぜ、柿本人麻呂=人丸神社なのか?

 

島根県益田市に、万葉の歌人・柿本人麻呂を祭神とする柿本神社がある。全国に401箇所あるという柿本人麻呂に関係する神社の多くは、この柿本神社から勧請しているようだ。

 

私が最初にこの柿本神社に関心をもったのは、別の用件で訪れた足利市野田町の「柿本大明神」だった。万葉の歌人としか知識のなかった柿本人麻呂が、神様になっていることをその時に初めて知った。

その後、柿本人麻呂が「人丸神社」の名称でも祀られていると知ったのだが、それ以来、なぜ「人丸」なのだろうと疑問に思ってきた。

 

人丸信仰は、平安末期ころより柿本人麻呂を歌聖として崇拝し(彼の歌は万葉集4540首のうち、1割強の497首を占める)、歌会などの催しでは、人麻呂の画像が掲げられたという。『人丸影供(ひとまるえいぐ)』というのがそれで、どうやらこの辺から「人丸」という名前が使われだしているようだ。

 

人丸神社は、関東地方では栃木県が柿本人麻呂関係社19社の内に8社を数えて特に多い。中でも、元慶元年(877年)に創建したという、佐野市小中町にある人丸神社がその中心神社であるようだ。

 

明治維新前の神仏混交時代、これら「人丸」神社の前身はなんという名称だったのだろうか。これは大変興味深いのだが、別当寺があった神社では、例えば上の野田町のように『正一位 柿本大明神』(上の画像)とか『人丸大明神』などと名乗っていたのではなかろうか。

 

 

小中町の人丸神社(上の画像)では拝殿に掲げられた額は『郷社 人丸神社』で、これは明治時代に作られたものだ。神社入り口の石柱には『村社 人丸神社』とあるが、格式に違いがあるのは年代的なものだろう。

 

ちなみに、私の地元の館林には、柿本人麻呂に関わる神社は1つもない。渡良瀬川を挟んで、星宮神社が栃木県側に、長良(長柄)神社が群馬県側の邑楽郡に、それぞれが限定的・特徴的に見られるのと同じように、柿本(人丸)神社にも、地域的な特別な事情があるのかも知れない。

 

柿本・人丸神社は水に関係し、海や河川などの周辺に立地するものが多いという(「関東における柿本人麻呂に関する事績」五島高資)。上の野田町の人丸神社や佐野市山形町の人丸神社も、それぞれ渡良瀬川や彦間川近沿いにある。水運関係での信仰があったのだろう。

小中町の人丸神社には湧き水でできたの大きな池がある。これは才川の源流になっていて、今でも付近の田地を潤しているそうだ。

また、佐野市出流原町の弁天池には、雨乞いのときに、柿本人麻呂が岩を杖で突いたら水が湧き出たという伝説がある。池の傍には人麻呂を祭った涌釜(わっかま)神社がある。

 

また、人丸信仰は江戸時代には「火止まる」で防火神として、あるいは「人生まる」で安産神として広まったという。

さらには、製紙や製鉄などの職能集団の神でもあったようだ。製紙は柿本人麻呂が生没地の石見国に伝えたという。また、製鉄では、熱や火の粉を浴びて目を傷めてしまうことが多い。人麻呂は隻眼だったという言い伝えがあって、それで目の神として職能集団で信仰されたという。

 

ちなみに、小中町の人丸神社の宮司さんから聞いた話だが、当地に来た人麻呂が難を逃れる際に黍畑に隠れたのだが、黍の穂で目を突いて片目になってしまった。それで、ここら辺ではキビは作らないのだという。

 

こうしてみると、柿本人麻呂は万葉集の歌聖として崇められているうちに、おのずと歌神の地位にまで高められた。それが貴族社会から一般民衆に広められる過程で、諸々の信仰の対象にもなったのだろう。

その際に、神様が人間の名前そのままでは具合悪いと考える古人もいたであろう。それが、「人麻呂」→「人丸」と語呂が似ているので「人丸さま」になり、ずっとのちの神仏分離後の名称変更では「人丸神社」にしたのかも。それは神社の名称としては、かなり安易ではあるが・・・。

だが、人間のやることなんて案外こんなもので、むしろ人間臭くて親しみやすいかも知れない。

 

 

ちなみに、上の画像は、小中町の人丸神社拝殿の格子天井に描かれている花鳥風月。天保年間(1830〜1843)の作。画家の署名に「○齋安貞画」とあるが、○は難しくて読めなかった。

これは佐野市の文化財指定でないのが不思議に思われるくらい美しい。拝殿入り口にある珍しい親子龍の彫刻と共に、一見の価値があると思う。

author:u-junpei, category:寺社巡り, 17:17
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「客人神社」(まろうどじんじゃ)


栃木市の太平山をハイキングするので周辺地図を見ていたら、太平山の東南麓に「客人神社」という風変わりな名前の神社を見つけ、とても興味をひかれました。それで、どんな神社なのか見たくなり、また、由来も知りたいと思って現地に出かけました。

鳥居の額には確かに「客人神社」とあります。境内にあった石碑によると、拝殿は老朽化のため平成2年に建て替えられたようです。
しかし、それ以外には情報がなく、祭神とか何を祀ってあるのかも分かりません。せっかく来たのですから、地元の大平町図書館に資料があるか訪ねてみました。



大平町誌に次のようにありました。

『主祭神 武御名方命
沿革 創立は不詳である。応永三十年(一四二三)十月二十日、客人大明神禰宜宛の古文書(「知行 下野国磯山西御庄下皆川郷内客人大明神田畠事)が現存するので、かつては明神として地域の人々の信仰をうけていたことがわかる。つい最近までは十月二十日に秋の大祭を実施していたが、これは古文書の月日にならったものであるという。』

他には、宮司さんの名前や、氏子が33戸で、境内地が450坪であることとかが書いてあるだけです。この町誌は昭和57年の発行です。当時でさえ氏子の数が少ないですから、神社の伝承も不確かになっているのかもしれません。

祭神の武御名方命(タテミナカタノミコト)は、古事記に出てくる神様で、出雲の大国主命の息子の神様です。長野の諏訪大社の主祭神ですから、この客人神社も諏訪神社になるはずです。ところが「客人」となっているのはなぜでしょう。

ネットを探すと、埼玉県大宮にある氷川神社に「門客人神社」という摂社があり、それとアラハバキ神との関係を説いたサイトがあります。その説をこちらの「客人神社」にも同じように関連付けているのもありました。

アラハバキは「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)で伝承している古代の神様です。しかし、その文書は1970年代に発見されたのですが、現在では古文書ではなく偽書であるとされています。それを無検討に「客人神社」に当てはめるのは問題があります。

私が思うに、おそらく、武御名方命をこの地に招聘したので、端的に「客人」に迎えた神としたのではないでしょうか。アラハバキのように、主人の神がいて、その客になった神がいるというのではないように思います。
また、明神と言うのは、神仏習合で仏教側からの神の尊称ですから、当地にお出で頂いた諏訪の神様を大明神と呼ぶことはなんら不思議なことではありません。

さらには、無茶なことを言うようですが、「まろうど」という語は、本来は「客人」ではなく、「守り神」とかが訛った言葉で、事情を知らない後代の人が「客人」を当て字にしてしまったのかもしれません・・・
author:u-junpei, category:寺社巡り, 23:23
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足利・浄林寺 「からくり屋敷」
 

足利市五十部町にある浄林寺は臨済宗のお寺で、画像の「離れ」の建物は天保三年(1832年)の頃、15代住職の隠居所として建てられました。今では珍しくなった茅葺の屋根です。普段は公開されていませんが、足利市文化財一斉公開で内部に入ることができました。

この建物には低い天井や隠し部屋・入り口の分からない小屋裏などがあるので、通称『からくり屋敷』と呼ばれているそうです。その変わった構造の訳は、渡辺崋山と交友関係にあった五十部村の代官岡田立助が、崋山の隠れ家としての機能を持たせようとしたからだといわれています。実際に、崋山がこの住居にどのくらい滞在したかは分かりません。

明治から昭和初期にかけては、当時の三重村の役場として使われていたそうです。偉い役人が訪れた折には、襖などに貼られていた崋山の絵を、土産としてはがしとったといいます。
現在は1階6畳間に崋山自筆の人物画の掛け軸が懸かっていますが、そのほかに崋山を偲ばせるものはないようです。

画像の2階右隅は白壁で、外部から入れる窓などはないですが、そこに隠し部屋があります。実はこの部屋には内部からも入り口がありません。何処から入ったのでしょう?
一斉公開で立ち会っていた説明員にも分からないそうです。

昭和61年(1986年)に市文化財として指定を受けた翌年、解体修理され作成された平面図には、2階の6室の内、図面にはこうした入り口のない部屋は他に1室あり、さらに2室は入り口が分からないように工夫されています。
残り2室はフツウの畳敷き4畳半の続き部屋ですが、天井が低くなっています。これらの部屋の真下にある1階の座敷部屋も天井が低くなっています。これは敵が刀を振り回せない工夫だといわれています。つまり、この天井は桐で出来ているのですが、それを知る住人側は容易に刀が抜けるというわけです。

この天井が低い理由を、実際は3階建てになっているからだというのをネットで見ましたが、図面を見る限りは2階建てで、隠し3階建てではないようです。
author:u-junpei, category:寺社巡り, 18:00
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足利市板倉町 「雷電神社」


雷電神社の総本宮は群馬県板倉町にあります。この神社は社殿の彫刻が美しく、県指定重要文化財になっていています。
それで、「板倉町の雷電神社」には馴染みがあるので、こちらの足利市板倉町の雷電神社は前知識がなかったのですが、「板倉城跡」という案内にも気を引かれて車を停めました。
板倉町3丁目自治会館の脇が鳥居の立つ入り口になっています。



最初の鳥居をくぐり抜けると、幅1mほどの石段があり、すぐに二番鳥居があるのですが、ここまで来て躊躇しました。 天に突き上げるような石段だったからです。60度くらいの恐ろしい傾斜に見えてビビッてしまいます。

運動不足で太った身体でもあるし、これはやめようと思いました。それで、実は1度車まで戻ったのです。しかし、好奇心の方がすぐって、2本ストックを取り出し、これでなんとかなるだろうと甘く考えました。



実際に、その考えは甘かったのですが、一旦上りだすと、もう行かざるを得ないという気持ちに支配され、休み休みで上りました。後で調べるとこの山は標高150mで要害山といい、鳥居からの石段の比高差は80mくらいあります。これが一直線に上るので斜傾度がきつく見えるのです。実際には30〜45度くらいかもしれません。途中、石段が危なっかしくなっているところもありますが、上りきると岩尾根になり、さらに岩の間を登ります。

上の画像は、岩場に立つ自然石の石塔で、正面に「山神宮 大天狗 小天狗」とあります。左の側面に嘉永六丑年四月吉日と刻まれています。嘉永六年は1853年で、そろそろ安政の大獄が始まる幕末の頃に建立されたものだと分かります。



雷電神社はさらにひとつ越えた先にありました。頂上は山城というより砦のような規模ですが、2画区に別れているようです。神社のある頂上との間に、空堀のような堺があります。

石祠くらいがあるのかと思っていたのですが、瓦屋根の建物で少し予想外でした。上の画像が正面だろうと思って近づいたのですが、拝殿の正面は画像の右側でした。



社が2つ並んでいるところが、少し奥まっていて、本殿であろうと思います。建物の構造的には拝殿というか控え室というか、そういう部屋が横についている形になっています。これは山頂が東西に細長いのでそうなっているのかもしれませんが、だとすると神社の最初の画像が正面であってもよいはずですから、あるいは別の理由があるのかもしれません。いずれにしても正面にも横にも扉となるものがありません。



神社の建物の東端から、1,5〜2mくらい一段低いところが平地になっています。小さな曲輪のようです。そこに、イノシシ君だろうと思いますが、土の表面をかっぱいた跡がありました。
神社の正面になる斜面の下の方から人声が聞こえます。男女の家族のようなはしゃいだ声ですが、そちらからはハイキングコースなど頂上に登ってくる道がないのに不思議な気がしました。

この声が、私の感を少し狂わせて、下山路を間違えました。ウォーキングシューズで来ていますから、道跡のない斜面に出てしまい不安でした。来る時は夢中で上ってしまいますから、下山はちょっとコースをずれると分からなくなってしまいます。
ようやく上ってきた石段を見つけたときは、正直ほっとしました^^;
author:u-junpei, category:寺社巡り, 22:22
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足利 「善光寺」(その2) 猫供養搭


この浮き彫りの像は何だろう?

この石塔は、山門に登る石段のふもとの左側に、馬頭観音や庚申塔と並んで置かれています。この石塔には動物の像のほかには、建立者も建立年も刻まれていません。
もし、この動物が猿だとしたら、1猿が彫られた「庚申塔」と考えて間違いないでしょう。しかし、どうしても私にはお猿さんに見えません。

「足利の庚申塔」という優れた調査・研究本がありますが、これには該当する石塔は載っていませんから、著者(田村充彦・星野光行)は庚申塔とは認識しなかったようです。
他の手がかりに、足利市教育委員会発行の「足利の石造物」という報告書があります。どうやら、これには猫供養搭として載っているようです。確かにこの動物は猫と見るのが一番ふさわしいと思われます。

私は、これと似たような石塔を、足利かどこかで見たような気がするのですが、どこであったか思い出せません。それで、「足利の石造物」を丹念に確認したのですが、猫供養搭なるものはこの善光寺のものしか挙げられていませんでした。
もっとも、この報告書は足利市の一部地域が未調査になっているので、足利市には猫供養搭は他にないとは断言はできません。

それゆえ、猫供養搭の手がかりは画像しかないのですが、なぜ猫の石塔を建てたのでしょうか?

これが供養搭だとすれば、馬の供養のために馬頭観音塔を建てるのと同じような意味があるはずです。いわば、今時のペット供養とは本質的に違うものだろうと思います。

まず私は、足利をはじめとする養蚕や機織地帯での天敵ネズミ退治を思い浮かべました。以前、太田市でおこなった「猫絵」の展示を思い出したからです。

http://blog.kiriume.com/manage/?mode=write&eid=1222918

ここでは、猫が養蚕の守り神として、猫の絵が効用があったとされているわけですが、実際の生きた猫だったら、まさに守り神の働きを期待できるわけです。

善光寺の猫塔はそうした働きと役割を果たす猫への供養とともに、祈りの対象とされて建立されたのではないでしょうか。だとすれば、庚申塔のような記念碑的な意味合いとは異なり、この地方にとってあまりにも一般的ですから、建立者も建立年も刻む必要はなかったはずです。

とすれば、養蚕地方に猫供養搭があるのはフツウであるはずです。そこで、ネットに検索をかけましたが、ヒットしません。なぜでしょうか?
言えるのは、私の推論が間違っているということで・・・^^;

検索していて興味を引いたのは、「猫神」という扱いでした。これは化け猫とかの伝説と関係したりするのですが、善光寺にそういう伝説とか民話があるかどうかは分かりません。

『猫の神様を求めて』というブログサイトに、「マタエンバ供養搭」の話が書かれています。これはとても興味深い伝説(民話)ですが、そこに載っている「マタエンバ供養搭」の画像は、ここで取り上げた猫供養搭の猫の像がとても良く似ています。
もしかしたら、この地にも忘れられた民話(?)があるのかも知れません。
author:u-junpei, category:寺社巡り, 20:30
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足利 「善光寺」 その1 


足利市松田町に善光寺があります。黄檗宗という禅宗の一宗派ですが、この宗派は現在では全国に4百数十ヶ寺ほどしかないそうです。同じく禅宗の臨済宗5千8百ヶ寺、曹洞宗1万5千ヶ寺に比較すると、かなりはマイナーですが、有名なところでは漬物のタクアンが、この宗派の沢庵和尚から来ています。

上の画像の山門には仁王像が両サイドにあり、山門と仁王像は市指定文化財です。扁額が懸かっていて「定額山」とあります。当寺を開山した密山和尚の筆によるものだそうです。定額山というのは信州や甲斐の善光寺と同じ山号です。

ちなみに、善光寺という寺は全国に119ヶ寺あるそうですが、こちらのお寺は明治7年だかに廃寺になってしまい、現在は檀家さんが管理しているそうです。



本堂内に入ると、正面に仏壇があり、本尊は金ピカな坐像の仏様です。その前に善光寺様式の一光三尊仏が「前立て」になっていて、光背は失われていますが、室町時代のものだそうです。これは市指定文化財です。大きさは主尊が48僉⇔章道が33僂把耕鄙姥寺の前立本尊とほぼ同じ大きさです。

壇の下はくぐれるようになっていて、この構造は長野や甲斐善光寺と同じだというのですが、残念ながら、私はどちらも見ていません。
その通路に3つの彫刻仏が置かれているのですが、もしかしたら、その1つで首が取れているが長野善光寺発祥の本田善光の座像かも知れません。これは腐朽が激しくて首が坐像の前に置かれているのですが、まあ、このままだと不気味かも・・・



本堂内向って右壁が二段になり十六羅漢が並んでいます。像にはかつては彩色や金箔が貼られていた名残が見られます。市指定文化財ですが県指定でもよさそうなほど、1つ1つが生き生きと厳しい表情で彫刻されています。ひとりで薄暗いところで見ているには勇気が必要かも^^;

堂内の彫刻物や、山門とそこにある仁王像(ともに市指定文化財)など、かなりの財力がなければできなかったでしょう。かつては、この地方の黄檗宗の中心寺院だったのでしょうか。

その檀家さんの墓地は本堂の東側にあります。何軒かあるのですが、墓石に描かれた家紋が武田菱です。つまり、この寺を建てた人々は、甲斐の武田家が滅びた後、この地に流れてきた武田武士だと伝えられています。

甲斐の善光寺か、あるいは信州長野善光寺か、彼らの出身がいずれなのか知りませんが、ここに同じく定額山善光寺を建てたのは、故里を偲んでであろうことを窺うことができます。
author:u-junpei, category:寺社巡り, 21:21
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板倉神社 その2


板倉神社は拝殿と本殿がそれぞれ独立した建物で離れています。しかも、本殿は拝殿の裏手にある石段を上った先に広くなった境内があって、そこに建てられています。こうした構造は私の知る限りでは、佐野市の唐沢山の支尾根山頂にあって、火祭りで有名な浅間神社くらいです。両毛地方(JR両毛線で佐野・足利と、東武線で館林・桐生辺り)では、かなり珍しいのではないかと思います。

本殿には二荒大神の額が懸かっているのですが、この祭神と出雲の神様が親戚になっているというのは、私の浅知識ではどうしてなのか分かりません。
ともあれ、板倉神社には「神迎祭(おかえり)」という神事があり、神無月に出雲に集まった全国の神様が旧11月1日に帰ったあとも、ここの神様は後片付けを済ましてから帰るので、一足遅れて旧11月の初午の日になるのだそうです。その日、氏子たちが白装束で高張提灯や太鼓・法螺貝などの鳴り物で行列を整え、村堺の大前峠まで行って神様を出迎えます。

神社からの帰り、私はその峠を通ってみました。ところが、旧道から峠へ入る道を間違えてしまいました。しかし、そのおかげで、偶然にも古老の氏子さんと出会い、「おかえり」の神事を確認することができました。
その際、彼は大前峠と聞いたら首を傾げ、観音峠と言っていました。おそらく神社にある案内板やパンフの表記は、現在の大前町に出る道なので大前峠と書いてあるようです。かつては、この峠道は観音峠と称したのでしょう。
自動車がようやく通れるような峠上の南斜面に、かなり大きな墓地があります。もしかしたら、ここに観音堂があるのか、あるいは、あったのもしれません。

ちなみに、今年の「おかえり」が行われるのは12月25日です。午後7時ごろに行列が神社を出発するそうです。お誘いを受けたのですが、仕事のある木曜日なので見に行けないのが残念です。



本殿に向う石段脇に水盤があります。刻まれている文字は
  正徳五乙未天四月吉日
  奉寄進御寶前
  施主 堀江十三郎信政
とあります。

正徳五年は1715年ですが、この紀年が天年号になっています。水盤の天年号については「反・隠れキリシタン」で取り上げています。

http://blog.kiriume.com/?eid=1222675

板倉神社の水盤についても、この寄進者が切支丹であるとするのは論理薄弱です。

ちなみに、堀江氏がどのような身分の者か分かりませんが、同じく板倉神社の元禄五年の石灯篭に堀江五郎右衛門の名や、石鳥居に堀江太郎兵衛信吉・堀江善兵衛信元の名が刻まれています。これらから、板倉村の有力な一族であったことがうかがわれます。
ちなみに、この鳥居は寛文十三癸丑天四月吉祥日とあり天年号です。それで、堀江一族を隠れキリシタンだというならば、何度も指摘してきたように、天年号=隠れキリシタンとする説は荒唐無稽・牽強付会でしょうね。 
author:u-junpei, category:寺社巡り, 19:19
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板倉神社 その1


室町幕府の足利氏発祥の地、足利市では『足利の文化財 一斉公開』を年に1回2日間にわたって行っています。この日には普段は非公開の文化財を各寺社等を訪ねて見る事ができ、今回は11月22,23日にありました。

公開は全部で60数件もあるので、全部を見るのは不可能です。私は足利市西部を中心に何件か回りました。その1つ画像の板倉神社は、足利市板倉町にある旧村社です。私の地元館林の隣町が板倉町で、1889年の明治の町村施行前には板倉村という集落がありました。同じように足利にも板倉村があったわけで、私は江戸期以前には、両板倉村との間に、何か関連があったのではないかと思っています。両村の間はわずか25kmしか離れていませんから、よく調べれば、なにか発見があるかもしれません。
そんな好奇心があって、板倉神社を訪問してみました。



板倉神社の文化財は、『石棒』が県指定文化財になっています。案内パンフには『縄文時代の子孫繁栄を祈る信仰用具と考えられています』とあります。もっと端的に言ってしまえば、『男根』を象徴したものというわけでしょう。石棒は方々の縄文遺跡で発見されており、ネットを検索すると、そのように言い切っている地方自治体HPもありました。

『石棒』は、その大きさはまちまちですが、形はほぼ同じ様子をしています。それらは、中央がやや太くなり、両サイドに丸い頭部があります。丁寧に磨かれ加工されているのも共通です。球形の頭部ではなくナット型をしているものや、線刻模様が見られるのもあります。

画像は板倉神社のものです。頭部が一部欠けていますが、全長が157cm、太いところで周囲54僂發△覽霏腓覆發里任后ネットで調べた限りでは、全国トップクラスでした。

確かに、上の画像をみれば、男根かと考えて、祭祀に用いられたとするのがフツウの見方かもしれません。しかし、上に述べたように、実態は男根の様子からはかなり離れています。江戸期などに作られた「金精様」は、同じように信仰や祭祀の対象ですが、まさにリアルに作られています。
それに比べ、いかに縄文時代とはいえ、縄文人が男根をシンボル化し、その上で両端に亀頭を作るでしょうか。そんなのはどう見ても可笑しいでしょう。それに、実際の石棒を見てみれば、男根イメージから離れて、別な角度で考えてみたくなると思います。

私は男根や祭祀用具などでもなく、実際に使われた生活用具ではないかと考えています。例えば綱製作用具として、あるいは家屋固定用具として使われたのだろうと思います。
祭祀説では火に焼かれた跡があり、儀式の際に火に入れたのだとしていますが、私は単純に住まいが火災にあったのではないかと思います。

そのように考えれば、両端に頭部があることも、なにも不自然ではなく、1つの住居跡から複数個発見されるのも頷けるというものです。
author:u-junpei, category:寺社巡り, 19:19
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