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新・反「隠れキリシタンイズム」 その7

 

上は、松岡幹夫著「日蓮正宗の神話」で、著者の幾つかの論文からなる研究本。内容はかつて創価学会の総本山であった大石寺に関するもので、たいへん興味深いのだが、本稿の隠れキリシタンとは全く関係がない。

 

にもかかわらず、このブログの「読評」ではなく、「隠れキリシタン」のカテゴリーで取り上げたわけは、全文431ページ中のたった1行の記述にあった。もちろん、これは著者のあずかり知らぬことであろうことは間違いない。

 

 

 

上の画像は、古文書が引用されているページ(236頁)。これは大石寺14世法主から15世日昌に「金口相承」がなされた事実を、当人達が相互間で証明する文書で、日昌の請書に日付の記載があり、次のようになっている。

 

文録第五丙申天九月朔日  大石寺日昌花押

 

つまりは、天年号で表記されている。「文録」は正しくは「文禄」だろうが、古文書の表記が文録なのか、この本の誤記なのかは分からない。

文禄五年は慶長元年で1596年にあたる。日本史でいえば、この5年後の慶長五年に関が原の戦いが行われた。

 

フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を布教に来たのは1549年のことだから、上の古文書の年代には日本にキリスト教徒がいて、キリシタン大名とかもいたくらいだから、一般の信者人数も相当数いたことだろう。

だが、徳川家康の禁教令は1614年のことで、それ以後が「隠れキリシタン」ということになるだろう。ちなみに日本から宣教師が一人もいなくなったのは1644年以後だ。

 

隠れキリシタンと天年号の問題は、このブログの「隠れキリシタン」カテゴリーの主要なテーマになっている。私の「隠れキリシタンイズム」に反論する為の資料は、反証として十分に集めたと考えているが、もし、天年号の使用がザビエル来日以前からあると証明できたなら、完全に隠れキリシタン隠符説を否定することができる。

 

今回は、それに近い年代の天年号使用例を、上の本に引用された古文書にあることを見つけたことになる。

ちなみに、天年号=隠れキリシタン隠符説に対する私の批判は、下のブログにまとめてあるのでご参考までに。

もちろん、日蓮宗系の総本山寺院の法主が、隠れキリシタンであるわけがない。

 

http://blog.kiriume.com/?eid=1222661

author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 22:22
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新・反「隠れキリシタンイズム」その6『輪王寺行者堂の石塔』


日光の社寺の壮麗で華麗な建物群を見慣れると、この輪王寺行者堂の黒塗り一色のシンプルさが際立つ。この行者堂には役行者が祀られている。創建は平安時代の山岳信仰が盛んな頃と推測されているが、輪王寺に再建記録があり、それによると天正三年(1575年)とあるそうだ。もっとも、もう1つ案内板があり、それによると天正十三年(1585年)だという。栃木県の文化財指定を受けているのだから、正確さが欲しいところだが、10年ほどの違いに、目くじらを立てることもあるまい^^;
それに、今回の本題は別のところにある。



中を覗いてみると、彩色された役行者と2匹の鬼がいる。役行者は流罪にされたけれども、自由に空を飛んで富士山に出かけたりしている、堂内は真っ暗なので、フラッシュを使った。我が国最初の超能力者だから、さぞかし怖そうなお顔かとおもったら、けっこう優しげなご老人だった。



この行者堂の左から山道が延びている。上の画像の後ろの道だが、ここが女峰山の登山口になっている。山頂までは1700mの高低差があるので、けっこう厳しい登山を覚悟しなければならないだろう。

4面にそれぞれ梵字が1字ずつ彫られた石塔が今回の本題だが、その石塔の傍らに首がとれた石仏が4体傾いて置かれている。とりあえず並べたという感じで荒れた雰囲気なのだが、こんなところにも廃仏毀釈の嵐があったのかもしれない。



どっしりと重厚な感じのする石塔だが、これは参道普請完成の記念塔のようだ。蓮華台の下の基壇(下から3段目)の側面に、次のように彫られている。

〇堂道
修複施入
惣中
願主前住
禪智院〇〇
 法師〇〇
 浄林進士 
享保十四己酉天
  四月
滝尾
當上人〇〇

最初の行の「〇堂道」の〇は尭にシンニョウなので、行の当て字と思われる。「修復」も「修複」になっている。
他の〇も読めなくはないが、人名につき正確を期すため不明にした。

建立紀年は天年号になっている。隠れキリシタン隠符説によれば、役行者を祀るお堂の参道修理にたずさった隠れキリシタンがいて、彼らは滝尾上人承認の下で、仏菩薩を表す梵字を刻んだ修復記念碑を建てたことになる。しかも、その願主の法師や世俗の人名(戒名のようだが)も明らかなのだ。
彼らが隠れキリシタンだとは、とても無理な推論だろう。

結論:天年号=隠れキリシタンの説は、ここでも破綻している。
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 18:18
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新・反「隠れキリシタンイズム」 その5 「青面金剛真言庚申塔」



天年号というのは、紀年の表し方のひとつで、例えば、上の画像の庚申塔のように、「元文五庚申年」とするところを「元文五庚申天」とする場合をいう。
これは江戸時代の石造物(墓石・地蔵・観音・その他もろもろ)に多くみられ、けっして特殊な表記ではない。しかし、なぜ「天」を使うのか、現在では歴史学者も職業坊主も知らないし、もちろん辞書の類いにも載っていない。

そこで、統計学的手法を使って、天年号と隠れキリシタンとの関係を説いたのが、統計学者の吉田元だった(「石が語る謎の群馬切支丹」上州路157号)。だが、素人の私が言うと語弊があるかもしれないが、この論文には「?」になる突っ込みどころが多々あって、彼自身がいうほどの確証的な説ではないように思う。いわば仮説に過ぎない。

しかも、吉田自身がいみじくも、
『しかし天が付いているからといってそれは全部切支丹のものであるといった無茶なことをいっていない。それには必らずそれを裏付ける証拠をえたもののみについてである』
と言っているように、天年号が必ずしも隠れキリシタンを表すものでないならば、天年号を隠れキリシタンの理由とするのは、いわば「いわずもがな」なのだ。

とはいえ、彼が天年号=隠切支丹とした結論は、十分に一人歩きしてしまう。彼の説を引いている「関東平野の隠れキリシタン」(川島恂二著)は、さらに孫引きされて、今では、天年号=隠れキリシタンは通説になっている観がある。

だが、天年号を隠れキリシタンに一般化することは、『庚申講や念仏講が、役人を欺むき隠れキリシタンの集会に利用された』とするのと同じく、隠れキリシタンとは無関係なその他多くの庶民の信仰を、捻じ曲げて解釈されるおそれが出てくる。また、それが石造物に及ぶなら、その地に伝わる民俗遺産をも歪曲しかねないだろう。

上の画像は足利市松田町の松山集落への入り口にある文字庚申塔で、他に石祠や地蔵も並んでいることからみて、おそらく塞の神として大切にされてきたのだろう。
松山の集落が隠れキリシタンとする証拠がない限り、天年号から隠れキリシタンを疑うのは、この地区の民俗とか習俗に反するかに思う。

さらに、この庚申塔が特別なのは、自然石正面に刻まれた青面金剛を表す文字にある。足利には2400基余りの庚申塔が確認されているが、「足利の庚申塔」(田村充彦・星野光行著)によれば、青面金剛真言(青面金剛心呪)を15文字の種字(梵字)だけで表した稀有な庚申塔だそうだ(他に2基あるのみ)。



青面金剛真言を刻んだという文字は、上の小さな画像では分かりにくい。実見しても、梵字の知識がなくてはチンプンカンプンだ。ちなみに、「足利の庚申塔」によると、『オンディバヤキシャバンダバンダカカカカソワカー』とあるそうだ^^;

この青面金剛真言は、庚申講を行う際に唱えられる真言(呪文)だという。おそらく、庚申講の夜、あのいかにも恐ろしげな青面金剛像が描かれた掛け軸の前で、皆して唱えたのだろうが、アーメンとはかなりというか全くというほどかけ離れていている。これが隠れキリシタンらしくないことといったら、この真言こそ極まりないだろう。

その真言が、庚申塔に刻まれていても同じことだから、いかに隠れキリシタンイズム者でも、建立者が隠れキリシタンであると牽強付会するは困難な事例だろうと思われる。

ちなみに、この庚申塔には15文字の青面金剛真言の種字の冒頭に、ウーン(青面金剛を意味する梵字)があり、上にあげた天年号の建立年の他には、十月廿三日・十一人・施主・敬白の文字が刻まれている。クロス(十字)の隠符もなく、この11人が隠れキリシタンであるとする証拠は何もない。

author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 21:00
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新・反「隠れキリシタンイズム」 その4 「子抱き地蔵」


足利市名草上町の臥龍寺(臨済宗)は、周りを山並みに囲まれた名草に幾つかある寺の中では最奥にある。境内の樹齢二百数十年のエドヒガン(シダレザクラ)の大木は、昭和41年に足利市重要文化財(天然記念物)に指定されている。

寺は名草川に架けられたいかにも弱そうで、車では躊躇するような橋をわたり、細い坂道を上って行ったところにある。私は車を橋の手前の空き地に止め、歩いて行ったのだが、境内は夏草が茫々と生え、いかにも無住の寺という雰囲気が漂っていた。

その桜の木と本堂の間の墓地の道を少し上がったところに、赤屋根で2間四方ほどの御堂がある。建物は荒れた様子で、破れた格子から覗いてみたが何もないようだ。
参道脇にある畑で除草仕事をしていた老夫婦に声をかけると、最初不審な目で見られてしまったが、その建物は観音堂で、御本尊は盗難にあってしまったと教えてくれた。
参道の途中に木製の祠があるが、この中に納めていたお地蔵様も盗まれてしまったそうだ。

参道坂の入り口に、如意輪観音像がある(画像の左にある石仏)。彫刻も保存状態もよく大きさもあり一級品の石仏だ。そして、画像の右に見えるブッシュの中にもお地蔵様があった。これが今回取り上げる「子抱き地蔵」だ。



↑ こちらが如意輪観音。



↑ こちらが地蔵菩薩

この二つの石仏は、どうやらワンセットで建てられたようだ。石仏が乗る蓮華台・丸い茄子座・石柱部・台石・基礎石などの仕様とサイズ、石柱部に刻まれている建立日・建立者等は同じで、刻まれた文字の字体からも同一人の石工の手によるものと思われる。

地蔵菩薩の方は立ち姿なので、像そのものは如意輪観音よりも10センチほど高いが、全体では同じ高さ(2,5m)になるように蓮華台の大きさで調節してある。



地蔵の柱部の正面には
 
 安永七戊戌天
 地蔵尊念仏供養搭
 中秋大吉祥日

向かって、右側面には

 見南明山臥龍禅院大州代
 下野國足利郡名草邑

左側面に

 願主講中

とある。
これは如意輪観音像が正面に『如意輪観世音念仏供養搭』とあるほかは、側面の文言それぞれ面を入れ替え、左右対称になっている意外は、両者とも同一の文字が刻まれている。
但し、天年号が使われているのは地蔵だけで、如意輪像では「年」の異体字になっている。 

お地蔵さんの建立年に、天年号が使われているのは、珍しいことではない。それでいちいち隠れキリシタンを疑っていたのではきりがないくらいだ。したがって、フツウのお地蔵さんなら、わざわざこの「反隠れキリシタンイズム」シリーズで取り上げることもなかった。

ところが、このお地蔵さんは左手に如意宝珠の代わりに赤子を抱いて、右の足元にも幼子がすがりつき、お地蔵さんを見上げるような仕草をしている。
もし、これが観音菩薩であったなら、子安観音・慈母観音としてごくありふれた構図なのだが、天年号ゆえに『マリア観音』なんていわれたかもしれない^^;

また、如意輪観音像のほうが天年号であったなら、「念仏講を隠れ蓑とした隠れキリシタン」とまでいう「隠れキリシタンイズム」説に、有力な反論をするのは難しいかも知れない。

逆に言えば、この場合は地蔵菩薩であるがゆえに、「子抱き地蔵」ではいかに隠れキリシタンイズム者でも、隠れキリシタンを主張するのはつらいところだと思う^^;

私の仮説を繰り返すが、『天年号はフツウ一般に使われていた紀年の表記の1つであって、隠れキリシタンも使ったかもしれないが、天年号=隠れキリシタンではない』は、今回の事例にも当てはまると思う。

ちなみに、この2つの石仏が建立された安永七年は1778年で、今から二百三十数年前になる。当時の臥龍寺は辺鄙な山奥の禅寺であったろうが、これほどの石仏を建立できた事からみて、名が刻まれている大州師が住職の時代には最盛期を迎えていたのだろう。

また、この名草の地域には臨済宗の寺だけでも、臥龍寺を含み5ヶ寺もあったことにも驚く。現代まで残った臥龍寺も無住になり、今さらながら、栄枯盛衰の変遷を思わずにはいられないが、江戸時代における寺と地域住民との強い結びつきを考えさせもする。
(臥龍寺は名草中町にある清源寺の兼帯になっているという。清源寺は足利尊氏の重臣でこの地を治めた南氏の菩提寺)
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 20:00
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新・反「隠れキリシタンイズム」 その4 「諏訪大明神」


邑楽郡千代田町赤岩に、空海が再建したといわれる光恩寺という古刹がある。
画像は特に変哲もない石祠であるが、この寺の境内社跡地と思われる円形塚の端に置かれている。

 





石祠に向かって右の側面(上画像)に、「再建立 元文五庚申天」とあり、その下に施主として新右衛門他3人名。左側面(中画像)に「五穀成就攸 赤岩山 六十四世 香巡代」。裏面(下画像)には「ウーン」を表す梵字と「八月廿五日」が刻まれている。

赤岩山は光恩寺の山号であり、住職名の六四世香巡は実在している。したがって、元文五年(1740年)に何らかの理由で石祠を再建し、この寺の境内あるいはごく近場に置かれたものと思われる。

何を祀ってあるのかと仔細に調べてみると、石祠の内部の正面壁に「諏訪大明神」と刻まれているのが分かった。
その「諏訪大明神」の文字は画像からは分からないが、刻字の筆跡からして、同一の石工によって刻まれたものと思われる。

諏訪の神様はタケミナカタノカミで軍神とされている。しかし、戦国期はともかく安定した江戸期では諏訪大明神は農業神として祀られたようだ。これは、石祠に「五穀成就攸」と刻まれた文言でも明らかだろう。

さらに言えば、この石祠は元文五年の『庚申の年』に再建立とあるから、庚申信仰との結びつきが考えられる。江戸期以後の庚申信仰は庚申講で行われたが、農村では主神の青面金剛も本来の三尸説を色濃く残しながらも、農業神を祀るものへと変化している。
この石祠と庚申信仰との関係は、石祠の裏面の梵字がウーン(ウン)で、庚申塔によく使われる文字であることからもいえるのではなかろうか。

こうしてみれば、天年号が使われているから=隠れキリシタンを疑うより、庚申信仰と諏訪大明神との結びつきを考えてみる方が、よほど実際的であるし、民俗学的にも興味深いと思うがいかがであろう。

ちなみに、六十四世香巡師はこの石祠が建立されたと同じ元文五年に亡くなられているが、光恩寺歴代の墓所にある彼の供養搭には、「元文五庚申天」の天年号が使われている。
さらに、先々代の供養搭にも「享保七壬子天」と天年号が使われている。詳しく見てないが、八十数代も続く歴代の中には、天年号が他にもあるかも知れない。
無縁墓搭にも天年号が使われているのが、ざっと見ただけだが、享保時代のものだけで4つもある。丁寧に調べればこの何倍かの天年号があるに違いない。

これらから、赤岩地区には隠れキリシタンが住み、光恩寺の歴代住職にも隠れキリシタンの住職がいたなどとすれば、それは『隠れキリシタンイズム妄想』でしかないだろう^^;
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 18:58
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新・反「隠れキリシタンイズム」 その3 『念仏岩』


群馬県の東毛地区にある大間々町は、合併により、みどり市になった。その大間々町時代の町誌を見ると、石仏等の調査もしっかりなされていて、この町の文化が高かったことをうかがい知ることができる。

私が手にしたのは、「大間々町誌別巻7」で石造物関係の記録だが、パラパラめくっただけでも、天年号の年号が刻まれている石造物をいくらでも見つけることができる。あまりの多さに、天年号=隠れキリシタン説者はどう思うのだろうか。
「念仏岩」もその天年号が刻まれているひとつだ。

この念仏岩(上の画像)は高さは3mほどもある大岩で、みどり市桐原沢ノ入の燧坂(町誌では「ひろちざか」とルビがふってあるが、「ひうちざか」の間違い?)の途中にある。坂のちょうど半分くらいの地点だろう。
坂の上部にある広大な平坦地を瀬戸ヶ原といい、現在では開拓されているが、かつては、ここから北の山間の峠を抜け神梅に出る山道が、足尾銅山から銅を運んだ銅山街道だったという。

大間々から足尾方面の神梅の区間は、いまでこそ国道122号線になっているが、渡良瀬川に深く削られた急峻な崖地(それゆえオオママの名がある)で、そのため銅山街道は、山中の峠越えのコースにならざるをえなかった。
その街道は2万5千分の1地形図では破線になっている。車が通れるような道ではない。実際には廃道化していて、峠から神梅は踏み跡を探すほどだというが、私はまだ確認していない。

その峠の名前が燧坂峠とか日光坂峠(二荒坂峠)というそうだから、念仏岩のある燧坂も、あるいは銅山街道として使われたことがあるかもしれない。

この念仏岩には民間伝承がある(「町誌別巻7」・「大間々町の民俗」)
『昔、石がうなり出したので、尼さんが祈って「南無阿弥陀仏」と書いて供養したら、うならなくなった』というものだ。
これは、どんなウナリ声だったのか興味深いが、全国に伝わる「泣き石伝説」と同じようなものだろうか。



自然の巨石や崖面を利用して、名号(南無阿弥陀仏)を彫ったものを磨崖名号といい、大間々にある磨崖名号は、町誌ではこの念仏岩だけが確認されている。

表面の平らな面に、あるいは平らに削ったのもしれないが、中央に南無阿弥陀仏霊位・向かって左に見妙心禅定尼・右に元禄十二己卯天八月と刻んである。
前もって知っていなければ、この岩に文字が刻んであることなど、そばを通っても見過ごしてしまうであろう。

この念仏岩は伝承民話からみても、また、建立者の名からしても、隠れキリシタンとは無関係だと思う。
私は、「天年号=隠れキリシタン」とする誤りの証例の一つだと考える。
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 19:19
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新・反「隠れキリシタンイズム」 その2 『元町橋供養搭』
 

「天」年号を刻んだ墓石・石仏などは探せばいくらでもある。例えば、古い寺の無縁仏を集めた墓石搭を1つ1つ丹念に見れば、意外に多く天年号が使われていることに気がつくだろう。
これらを統計的に挙げて、隠れキリシタン論者は、この天年号を隠れキリシタン判定のメルクマールの一つにしている(川島恂二著「関東平野の隠れキリシタン」P162他)

しかし、いかにキリシタンが天主教とはいえ、天年号使用がキリシタンの証だというのは、うがちすぎではないか。私には、多くの事例を検討していると、単に「流行り」かそれに類したもののように思えてならない。

先日は、亡くなった友人の墓地に、如意輪観音が彫られた天年号の墓石があるのに気づいた。君の家のご先祖は隠れキリシタンだったのかね、などともう聞くわけにはいかないが、そんな気配は私が知る限りは微塵も無い^^;

私は、反「隠れキリシタンイズム」のシリーズで、天年号はイコール隠れキリシタンではないと思う事例を取り上げてきた。新シリーズでも前回の『愛宕神社の鳥居』に続き、今回は『石橋供養搭』で、ともに宗教関連ではあるが、後者の場合はむしろ記念碑のようなものだ。隠れキリシタンを疑うのはおかしな事例であると思う。

画像は、桐生市新里町山上字城山の「山上城跡公園」(県指定史跡)のすぐ東、かつては山上城の堀割りも果たしていたといわれる、蕨沢川に架る元町橋の西詰めに建てられている。ちなみに、この石橋供養搭は桐生市指定の重要文化財になっている(元新里村指定重要文化財)

建立日を、元禄十四年辛巳天八月廿五日と刻んである。これは1701年にあたるから300年以上も前になる。
建立の経緯は、下記の桐生市文化財HPで概要を知ることができる。

http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/
a170e5c408a86cd8492568ff000dcc0e/
c46eb7b584d88e6d49257114001d8bd0?OpenDocument


石橋の材料は古墳の石室に使われていた石のようだが、現在で言えば永久橋に値する石橋建設には多額の費用や、領主の許可などの手続きも要したことだろう。供養搭に刻まれた漢文4行の文からは、その困難を越えて完成した喜びが伺われる。
施主の名も数名刻まれていて、おそらく彼らは近在の有力者たちであろうが、隠れキリシタンが大っぴらに、自分たちの素性を天年号に託したとはとうてい思えない。
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 22:22
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新・反「隠れキリシタンイズム」 愛宕神社の鳥居
「隠れキリシタン」というと、現代の私たちにはロマンめいて聞こえるが、幕藩体制下ではたいへん過酷な信仰形態だった。したがって、古文書の類もほとんど残されていないから、私の身の回りで言えば、隠れキリシタンだったと示される事例があっても、憶測や推測に過ぎない場合が多く、学問的裏づけがあるわけではない。 

ところが、そうした事例でも、ウソも100回重ねれれば、真実になるというナチスの説を言うまでもなく、世の中では真実でないものが真実として通用してしまう事象は多々見られる。「隠れキリシタン」もその例外ではない。

隠れキリシタン論者が言う『天年号=隠れキリシタン』はその代表的なものだ、と私は考えている。これについては、これまで私のブログでは反「隠れキリシタンイズム」として具体例をあげて、反論を試みてきた。

天年号というのは、例えば『平成24年』と書く時に、『平成24天』とするのを言う。かつては、「年」の他に「稔」「歳」「季」などの表記もなされていて、「天」もその一つで、墓石や石仏その他様々なものに見ることが出来る。

それを、隠れキリシタン説では、天は天国に通じるからキリシタンが密かに『隠符』として用いたのだとする。確かに単純明快だが、常識的に見るとバカらしい。
しかし、最初の主張者はともかく、それを信じる「隠れキリシタンイズム」者は、更に書籍や出版物に記載してはばからない。

『天年号』についての私の仮説は、『隠れキリシタンも使ったかも知れないが、隠れキリシタンであるがゆえではなく、一般的に使われた年号表記でしかない』というものだ。

第三者的に言えば、そんなことはどうでもよさそうだが、エセ論が真実を歪めてしまうのは納得できない。で、時々は、新たに確認した反論事例をブログに載せようと思う。



画像は、埼玉県羽生市上新郷の信号「愛宕神社前」脇にある愛宕神社。江戸時代に八王子千人同心が八王子と日光を往復した日光脇街道沿いにある。いかにも愛宕神社らしく、築山(古墳?)の上に社殿が建っている。

県道7号線(旧・日光脇街道)の道路に削られているが、境内には摂社も多く、薬師堂もあり、かつてはかなり広い地所だったと思われる。

この愛宕神社の、上の画像に見られる石鳥居の建立年が天年号になっている。
下の画像は、向かって左の柱で、延寶五年丁巳天九月吉日と刻んである。



たいていの場合、建立年号や建立理由・奉献者は柱の裏面に書かれている。ところが、この鳥居では正面に刻まれている。理由は分からないが、もしかして、道路拡張で移設の際、あるいはそれ以前に、裏表の向きを間違えてしまったってことはないだろうか^^;

愛宕神社と「隠れキリシタン」の関連については、明確に関係を述べた記事を私は確認していない。
だが、明治維新前の愛宕神社の祭神と勝軍地蔵との関係を考証せず、勝軍地蔵をキリストの降臨像とした事例はあった(群馬県板倉町丸谷の勝軍地蔵について、川島恂二著「関東平野の隠れキリシタン」)

ところで、愛宕神社の鳥居に建立年を天年号で刻み、わざわざ「隠れキリシタンここりあり」と「隠譜」する理由があるだろうか?
私は、合理的な理由は「ない」と思っている。
肯定するには、この氏子である地域住民が、「愛宕大明神をデウスとして信仰する集団だった」、といわざるを得ないだろう。そんなことを大胆かつ大真面目でいえるだろうか。合理的根拠がなければ空想でしかない。

ちなみに、延宝五年は1677年で今から335年前、四代将軍徳川家綱の時代だから、この石鳥居は歴史的な価値評価をすべきと思う。
また、この鳥居中央に掲げられた石額は「愛宕社」で、「宕」の字のウ冠が「山」の字形で彫られているのが興味深い。

板倉町丸谷の『勝軍地蔵』について、私のブログ↓
http://blog.kiriume.com/?eid=1156559
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 13:07
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反 「隠れキリシタンイズム」 その39 「かくれキリシタン庚申」
 

国道354を群馬県板倉町から埼玉県北川辺町(現在は加須市)に向かい、大きく右にカーブし谷田川を渡ると埼玉県に入り、すぐに養性寺という真言宗豊山派の寺がある。境内にある地蔵堂の地蔵菩薩座像は町指定文化財になってる。私はたまたま通りすがりの訪問だったのだが、住職が境内に出ておられて、話をする機会があった。
私が石仏に興味があるのだと言うと、彼の方から隠れキリシタンの墓があるという。どうしてか聞いてみると、古河の川島恂二さんがそう言ったとのことだった。

そのキリシタン墓は寺から北へ少し行った離れ墓地にあるというのだが、墓場の中を探し回ったりしてまで、どうしても見てみたいほどの興味はない。
『ご住職も隠れキリシタンの墓だと思われるのか』とは、なんだか失敬のような気がして、聞きそびれたのだが、境内南にある墓地内に、それ目当ての見学者が来る墓があるといって、先に立って案内してくれた。

最近に整理されたような某家墓地は、屋根型の同じような形をした大きな墓石が、ややぎゅうぎゅう詰めで並んでいる。よく見に来るという墓石は、塔柱に蓮華だかの彫刻が施されたものだった。が、私にはさほど興味を覚えるものではなかった。次に彼が指差したのは、向かって右側に並ぶものの一つで、古河の殿様の側室だった人の墓だという。なるほど、墓石に刻まれた法名は院殿大姉の立派なもので、しかも天年号を使っているので、住職に許可を得て記録をとった。

帰ってから、この側室さんは古河藩主のどなたさんの側室だったのかネットで調べているうちに、古河藩ということで検索に引っかかったのが、川島恂二著「古河藩とその周辺の隠切支丹」だった(画像)

前置きが長くなったが、この本は群馬県内では館林市立図書館だけにあり、なんという奇遇かと思いさっそく借り出してきた。
結局、ネットではどの殿様の側室か分からず、またこの本にも載ってはいるのだが(75ページ)、著者が側室の墓としているのは寛文年間と書いているので、住職が示した「延宝六戊午天」のものとは違っている。

それはともかく、この本で著者は墓石側面に彫刻された、『十字蓮葉』にこだわりを見せるが、天年号であることには全く触れていない。これはこの本で取り上げている他の石仏についても、天年号は無視されている。したがって、この本の1986年出版当時の著者には、天年号=隠れキリシタンだという彼の見解はなかったかに思える。それゆえ、逆接めくが、この本の内容は大変理解しやすいものがあった。

たとえば、彼が「古河志」という古文書に書かれていると指摘するように、隠れキリシタンが古河藩領にいたことについては、説得力があり合点できるものがある。また、石地蔵の持つ錫杖の「十字」は十字架とは違うと述べている(125ページ)のも、多いに同感できる。

しかし、この「古河藩・・・」の本から12年後、彼の大著「関東平野の隠れキリシタン」が出されたわけだが、ここでは十字の隠符や天年号だけでなく、漢字に打たれている「、」を天と読ませたり、アゴに手を置く如意輪観音像を「逆手」で仏教否定だという見解等々に発展するのには、どうにも理解しがたい。私は、このシリーズで反証例を挙げて検証したのたが、はたして私の例証に説得力があっただろうか。

彼曰く
『原の庚申様の十字剣型錫杖も・・・私は「切支丹庚申様」と考える。
そうではないと否定断言出来る人は、その理由を公表して成否を世に問うべきである』(「関東平野の隠れキリシタン」130ページ)

(注・「原の庚申」とは藤岡町「猿田彦庚申」のこと)

否定断言なんていったい誰が出来ようか。そもそも、それを証明する古文書なぞおよそ存在しないのだから。それは肯定断言する立場についても同様であろう。双方とも考えることは自由なのだから水掛け論になりかねない。さらに言えば、『大声を出した方が勝ち』なんてこともあるかも知れない(~_~)

『天年号』についての私の仮説は、『隠れキリシタンも使ったかも知れないが、隠れキリシタンであるがゆえではなく、一般的に使われた年号表記でしかない』だが、説得力のある資料や誰もが納得できる普遍的論理を見つけていない。おそらく、先人が誰も成し遂げていないのだから、私が発見するとしたら、奇跡的な幸運に恵まれた時でしかありえまい。

そんなわけで、この『反・隠れキリシタンイズム』は39回を数えたが、 Thank you. ということで終了したい。もし、私に天年号の根拠発見という幸運が訪れることがあったら、その時は改めて「大声」を出してみたいと思う!(^^)!
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 19:01
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反 「隠れキリシタンイズム」 その38 「かくれキリシタン庚申」
  

画像は、猿田彦大神のお堂の中に貼ってあった護符。これは猿田彦庚申塔を写したもので、十字の部分は槍状の刃が付けられている。したがって、十字架とは全く意匠が異なる。 
もっとも、このことからは、この庚申塔ができた寛文七年当時の奉造者が、十字架を意図していたかどうかは分からない。
だだ、文字も読めないくらい磨耗しているのだから、時代を経て刃先が丸みをおびたとも考えられよう。



上の画像は、館林にある庚申塔で、これも十字架のように見えなくはない。だが、よく見ると憧幡の飾りが付けられていて、三股戟の意匠かと思われる。
ちなみに『天明四甲辰十一月吉日 赤生田村 山田講中』とあり、隠れキリシタンが奉造したとするには、かなり無理があろう。

こうしてみてくると、十字架を持っているから隠れキリシタンとするのは、はじめに結論ありきの論法と同じように思えてならない。『隠れキリシタンイズム』の信奉者ならいざ知らずだが、断定するにはもう少し証拠固めが必要に思う。
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 12:18
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