RSS | ATOM | SEARCH
足利・雷電尾根の「しらひげ神社」

 

コース案内図に、ひらがなで「しらひげ神社」とある。

ふつう、神社名はちゃんと漢字で書くはずで、いくら簡単な案内図でも、こんなバカなことはするまい。たとえば、両崖山の山頂にある三峰神社を「みつみね神社」とはしないだろう。これにはなにかワケがあるはずだ。そもそも、どなたが祀られているのだろう?

それが、この「しらひげ神社」に興味をもった始まりだった。

 

両崖山への本城1丁目コース登山口にある案内板によると、この場所は両崖山から大岩毘沙門天に向かうメインルートの中間点あたり、無名ピークから東の尾根(雷電尾根)への分岐ルートの際あたりになるようだ。

メインルートは、何度かハイキングしたことがある。だが、このピーク近くに神社の建物や祠があることには、全く気づいていなかった。

 

ネットで「しらひげ神社」を検索すると、「白鬚神社」でヒットする。だが、両崖山ルートや雷電尾根ルートで検索しても、この場所にある「しらひげ神社」について書かれたサイトはなかった。

それゆえ、興味を持ってしまったからには、自分の目で確かめる他あるまい、と出かけてきた。

ちなみに、「雷電尾根」というのは、東に伸びる尾根の端近くの麓に雷電神社があるので、ネットではそう呼ばれているようだ。神社の上のピークは北から東方面の展望が良く、雷電山という。

 

 

戦国時代の足利城の規模はどれくらいだったろう。城主の長尾氏は北条と上杉に挟まれて、この地方の覇権を争っていたから、本丸のある両崖山を防備するには、周囲の尾根筋にも、幾つか出丸を築いていたと思う。

 

メインルートと電電尾根ルートが分岐する無名ピークは、頂上部分が平らになっていてちょっとした広さがある。ここには「関東ふれあいの道」の立派な道標が立てられ、テーブルベンチや大きなケルンなどもある。この広さなら、かつては出丸が築かれていたかも知れない。

 

上の画像の石祠のある場所は、このピークから少し下ったところで、人工的な段地になっていて、数畳くらいの小平地になっている。出丸の武者溜りだったかもしれない。石祠は一番奥のさらに一段下がったところにあり、石を組んだ上に置かれている。

 

この小平地の横にコンクリート製の石段があり、雷電尾根のハイキング道になる。狭くて、かなり急な階段なので、足元に注意が向いていたりすると、石祠の存在には気づかないだろう。

 

石祠は北東方向を向いている。そちらは切れ落ちてるような急斜面で、下りていけるような道はない。したがって、雷電尾根のハイキング道の一部が、かつては参道だったのかもしれない。

もっとも、石祠は磨耗が激しくて、建立年や奉納者についての情報は得られなかった。

 

 

だが、この石祠が、ほぼ間違いなく「しらひげ神社」だろう。

石祠に彫られた前額を腰をかがめて覗いてみると、一番上に「白」、二番目はおそらく「ひげ」を表す漢字、その下に「神社」の文字が刻まれているようだ。もっとも、私の先入観で、そのように読んでしまってる懸念はあるが・・・

 

ネットを見ると、全国の「しらひげ」神社には、「白鬚」のほかに「白髭」や「白髯」がある。ヒゲの漢字はそれぞれ、アゴヒゲだったりクチヒゲだったりホオヒゲだったりで当てられる文字が異なる。だが、それぞれの神社では意識して文字を使い分けているようではなさそうだ。

祭神は猿田彦命。日本神話では天孫降臨の際に道案内をした神。身長が2mを越える大男で、天狗のように鼻が長く、目はらんらんと赤く輝き、ヒゲをぼうぼうに生やした風貌だから、「ヒゲ」の漢字など取り立てて問題になりそうもない。

 

とはいえ、この石祠は、私が見るところでは、おそらく白「髭」神社だと思うのだが、磨耗していてはっきり断定はできない。そこで、案内板でも「しらひげ神社」にしたのではなかろうか。これなら漢字が間違っているなどというクレームは出ようもない。いわば、案内板を設置した役人の忖度だったのだろう。

 

 

石祠には「日光二荒山神社」の御札が置かれている。まだ新しい。水を供える茶碗もある。

この石祠が「しらひげ神社」で間違いないなら、祭神の猿田彦命と日光二荒山神社=男体山の神様との関係は何だろうか。

 

たぶん、関連性はない・・・と思う。とすれば、ここに御札がお置かれた理由は置いた者しか分からない。おそらく、信仰深い者の善意の仕業かもしれぬ。

だが、神様の気分は推測しようもないが、私の感覚では、自分の家に、断りもなくかってに他人が入り込んでいるような気がしないでもない。

author:u-junpei, category:峠と石造物, 21:42
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「日光坂峠」付録


車を停めた瀬戸ヶ原集会所の東側に共同墓地がある。新しい墓石なのは、最近に墓地の整備がなされたからであろうが、入植の歴史が浅いということもあろう。
墓地に入ってすぐのところに馬頭観音がある。元からの場所がここであるかは分からないが、銅山街道筋にふさわしく思える。

左の肩に「如是畜生発菩提心」、右の肩に「寶暦十三癸未八月廿九日」とあるが、建立者名は不明。宝暦13年は1763年で、天明2年(1782年)に沢入に旅した高山彦九郎に先立つこと20年近く、彦九郎も見たかもしれないが、神道家の彦九郎は素通りしたかも^^;

今から250年前の建立にしては磨耗が少ない。新鮮な菊が供えられているのは、共同墓地にあるからだろうか。あるいは、この辺りに住む篤信のご老人の仕業かもしれない。
この集落の周辺に庚申塔を見なかった。これは瀬戸ヶ原が江戸期からの開墾地ではないことを物語っているようだ。



瀬戸ヶ原の北辺にある手振山は標高368m。麓にある桐原浄水場からは、気持ちの良い尾根歩きだそうだが(サイト「やまの町 桐生」)、瀬戸ヶ原からでは、ほんの数分で登れてあっけないくらいだ。山頂に四等三角点がある。



三角点から一段下に、小さな石祠が3つ並んである。何を祀っだ社か分からないが、酒の1合瓶が供えてあった。
ここからは南の展望が開ける。



遠方が霞んでいるが、もっと冬枯れしたら、良い展望が得られるかも。



瀬戸ヶ原から集落に下ってくると、ブロック塀にラン科(?)の草が生えていた。よく見ると数種類混じっているようだ。ブロックの接合部のひび割れに潜り込んだのか、あるいはこの部分が大きく割れているのかは分からないが、自然にできた(?)造形が面白い。こんなのが、この塀に2つ3つできていた。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 19:30
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「日光坂峠」


足尾から銅を運んだ銅山街道は、神梅と大間々の間は現在のような国道122号線のルートではなく、手振山(368m)の西麓を抜ける山越えの道だっだ。私がこれを最初に知ったのは、高山彦九郎が沢入の自然搭(白蛇搭=双輪搭=沢入搭)を訪ねたときの紀行文「沢入道能記」(天明2年・1782年)でだった。

それはずいぶん前のことなのだが、私は袈裟丸山の東南麓にある寝釈迦像に関する資料探しをしていて、銅山街道の経路については大して興味があったわけではない。
ところが、少しでも気になっていると他の情報も入ってくる。その1つ、「群馬の峠」(須田茂 著)に「日光坂峠」の記載があり、私も現状を確認したいと思うようになった。

高山彦九郎は「沢入道能記」で、この日光坂のルートを、桐原村に住んでいた知人の深沢氏に聞いている。その一部が画像の道と思われるのだが、縄文遺跡があるほど古い「瀬戸ヶ原」の歴史だが、開墾入植は戦後のことで、二百数十年前に彦九郎が通った天明の頃とはかなり様変わりしているはずだ。
瀬戸ヶ原の集落から坂を上がってきて広大な開拓地に出ると、私はこのY字路を右にとったのだが、この道は手振山に行ってしまう。私は北を眺めて、最低鞍部が峠だろうと思ってしまったゆえの誤りだった。実際は画像の赤矢印のところが峠なので、正しくは左に入って行く。



道なりに進むと行きどまりで、雑木林の先は杉が植林された急斜面になっている。石畳かあるいは大きな砂利を敷いた形跡があるので、本来はこの道を行き、林の中か手前で左に折れたのではないかとも思われる。
現在では、上の画像の左側の暗くなっているところに、最初はそれと気がつかないほどの細道がある。ここはイノシシの足跡や食の痕跡が新しい。用心のため鈴を付け、携帯ラジオをONにしてボリュームを最大にした^^;



すぐに、古道と分かる小道に出る。左下にある大きな養鶏施設の北側を高巻くが、しばらくは臭気がひどくする。もっとも、瀬戸ヶ原の北部一帯は広大な堆肥場になっているので、高原の雰囲気を満喫するというわけにもいかないだろう。



養鶏場の東から回って北側を西に4〜500mほど行き北に曲がると、ひょいと、小さく開けた場所に着く。送電線鉄塔の保線路も交差しているのだが、ここに昭和3年建立の道標がある↑



道標の北側面に「此方足尾日光方面」、東面に「此方桐原大間々方面」、西面に「此方奥澤土橋方面」とある。南面に「御大典紀念 昭和三年十一月/下神梅青年會 建」とある。この御大典とは、昭和天皇の即位の儀式をいい、昭和3年に行われた。

気になるのは西面だ。道標のすぐ後ろは山の斜面になっていて、道しるべの意味をなしていない。だだ、この道標の少し脇を、送電線(赤城南線)の5号鉄塔への細道が上がって行くが、この上に出ると土橋方面への交通路があるかどうかは未確認で分からない。

しかし、この道標は現在地より10mほど南にあったのではなかろうか。そう仮定すると、東西の面に刻まれた方向が道しるべとして生きてくる位置になる。それゆえ、現在の養鶏場の西側辺りを通る道があったのではないかと推測される。おそらく、昭和三年頃には養鶏場などはなかったろうし、高原状の山道を新里村土橋方面に下ったのではなかろうか。

ちなみに、道標に奥澤土橋方面とあるが、この峠の南側は新里村奥澤(現在は桐生市)で、南西へ1kmほどで奥澤の集落に出る。さらにその南方1,5kmの県道353号線に出る辺りを土橋というようだ。ここには「おかめ桜」という樹齢400年の桜(桐生市天然記念物)がある。

明治30年代半ばに、現在の国道122号線の前身の神梅新道が開鑿された以後でも、この日光坂が利用されていたことは、この道標の設置からも明らかだ。おそらく、明治の新道ができても、桐原や土橋方面へ行くのには、山越えの旧街道が近道だったのだろう。昔の人は1日40キロを歩くほど健脚だったのだ。彦九郎の沢入への旅でもそのくらいの距離を歩いている。

戦後、車社会の時代が来ると、この古の街道も忘れ去られたのではなかろうか。私は瀬戸ヶ原で作業をしていた人に峠道を尋ねたのだが、3人の内2人は全く知らなかった。今やこの峠にやって来るのは、イノシシと送電線鉄塔管理人と、ときたまに来る物好きなハイカーくらいだろう^^;



峠から北方面へは、しばらく平坦な道が続く。右側が切れ落ちているところにガードレールがあった。私は少し様子を見ようと来たのだが、この予想外の道路設備には驚いた。つまりは、神梅方面からは車が通る道になっていたということだろうか。

しかし、道路舗装をしていないのであるから、一般交通路としての整備ではあるまい。送電線鉄塔建設の際に工事車両入るために設置されたのかもしれない。赤城南線という送電線がいつ頃建設されたのかは知らない。
私の手元にある25000分の1地形図(平成7年修正図)には送電径路が表示されていないので、そう古くはないだろう。そうだとすると、ガードレールに傷みがない様子なのも頷ける。

ということは、銅山街道の道筋も違っていた可能性がある。ネットで、彦九郎が見た注連縄の張られた権現社が確認できなかったという記事を見たが、消滅したり見落としたとかではなく、かつての街道そのもののルートが現在と違っていたのかもしれない。

この先、神梅方面がどうなっているか下ってみたかったが、私は瀬戸ヶ原集会所に駐車しており、神梅まで行ってしまうと帰りが大袈裟になるのであきらめた^^;

このガードレールの場所からは、大間々の山なみが展望できる。だが、好展望ということでは、峠から東へ4号鉄塔へ行く尾根道があり、この鉄塔からの見晴らしが良い。ここから3号鉄塔のある手振山方面に抜けられるかと思って行ってみたのだが、尾根道はこの鉄塔で終わっている。藪漕ぎはしたくないので引き返した。

ちなみに、この日光坂の考察は、『電撃! 激坂調査隊が行く』というウェブサイトが詳しい。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 21:00
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「牛石峠」


前橋市街から赤城山に向かと、最初にぼこっとした山に出会います。これが鍋割山で、山名由来に弘法大師空海の伝説があります。また、赤城山南麓の標高650m地点に、山火事になって偶然発見された9〜11世紀頃に栄えた謎の山岳仏教寺院跡(宇通遺跡)や、櫃石(ひついし)に見られるように古代に遡る赤城神社など、赤城山は平安時代、あるいはそれ以前から、東西南北を結ぶ交通の要衝だったようです。

近代になると赤城信仰が盛んで、勤皇志士のさきがけといわれる高山彦九郎も、参拝旅日記を残しています。また、現代でも、赤城道路などが出来る前、手元にある昭和9年6月発行の赤城山観光案内図を見ると、大沼や小沼を囲む外輪山の鞍部には、昔からの峠道が少なくとも10個は確認できます。牛石峠もその1つです。

現在では自動車で3方向から行けるので、わざわざ峠道を歩くのは、山好きなハイカーくらいでしょう。それも多くの峠道は廃道になっています。

牛石峠は県道大胡・赤城線(県道16号線)で、現在は共に前橋市に合併した、宮城村と富士見村の村堺にあります。この16号線は狭くて急な九十九折れの道が続くのですが、牛石峠のところは少し広くなっています。そこに上の画像の道標がありますが、道路脇の少し上にあるので、カーブを切るのに夢中になってたりすると、見落としてしまうかもしれません^^;



その道標から東に細い山道を100mほど入ったところに、峠の名のいわれになった牛石もしくは牛石岩と呼ばれる大きな岩があります。

傍らにある立て札は、「日本武尊伝説の石/牛石/宮城ふるさと地域づくり推進協議会」とあります。しかし、その伝説の中身が分かりません。ネットを検索すると、「日本武尊伝説の石です」と、おそらくこの立て札の引き写しで、どんな伝説なのか書かれているものがありません。

上記のように、宮城村は現在は前橋市に合併し、村役場は宮城支所になっています。それでこの支所のメールアドレスに、いかなる伝説なのか問い合わせのメールを送ってみました。ところが、1週間以上経ってもなしのつぶてです。合併によって、地域文化を守る意識や体制が変わってしまったのでしょうか。あるいは、出先公務員らしい責任感のない単なる怠慢かも知れません^^;

そこで、私の地元の館林市立図書館にあった、「宮城村誌」・「宮城村の民俗」を閲覧してみましたが、この伝説に関する記述はありません。
旧宮城村の公的刊行本では他に「宮城村の昔話」・「宮城村めぐり」・「まんが宮城村の歴史」が前橋の県立図書館にあります。閲覧に出向いてハズレでは無駄足になりますから、図書館の相互貸借制度があるので問い合わせてもらいました。しかし、これらの本のいずれにも、牛石と日本武尊伝説に関する記載はないということでした。

ところが、さすがは県立図書館の職員さんです。隣村の富士見村教育委員会が昭和57年に出した「ふるさとむかしばなし」に、おおよそ次のような昔話が載っているのを見つけてくれました。

『むかし、大和の朝廷軍が「えぞ」の軍と戦いましたが、おもうように戦果をあげることが出来ません。そこで、赤城明神の力にすがろうと、朝廷軍の大将は赤城明神に参拝して祈願しました。その帰り、牛に乗って峠まで来ると、急に眠気がして一寝入りしました。目覚めると、繋いでおいた牛が見当たらず、牛の形をした大きな岩が横たわっていました。これは牛がねむったまま岩になったものといわれ、この峠を牛石峠と呼ぶようになりました』

なるほど〜。そうしてみると「宮城ふるさと地域づくり推進協議会」の立て札は、お隣の富士見村に伝わる昔話を、日本武尊にすり替えたパクリ伝説かも知れませんね。
宮城支所からは何も返信がないのですから、これくらいは言わせてもらいましょう^^;

ちなみに、私はこの大岩が牛に見えなくて、右に回ったり左に回ったり、さんざんと眺めたのですが・・・


追記
8月13日、宮城支所のHさんより、私の問い合わせメールに対する返信があった。
それによると、「牛石」の立て札の実際の設置者は、旧宮城村職員のY氏だったこと。
「広報みやぎ」平成9年10月号に、宮城の伝説として牛石峠が取り上げられていること。
その記事のコピーが返信メール添付されている。記事は誰の執筆か分からないが、そこに書かれている伝説の出典の部分は、
「赤城太神宮御鎮座略本記」の中に、『日本武尊山越し賜ふ時乗り賜ふ牛、石となる。牛石といふ』とある。
また、「山吹日記」という文書には、『大神の・・・牛に乗り・・・その牛の石になりたる』云々とある。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 20:40
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「般若峠」その2


峠を越えた山形の「御所の入」集落でも般若の名を使っている。ただし、こちらでは峠ではなく、「般若坂」と言っている。これは『そば処 御所の入』(上の画像)の主人から聞いた。

6、70代かと思う彼は、子どものころ、般若坂を越えて寺久保にスケートをしに行ったという。山の崖際にスケートリンクが出来ていたそうだ。
この話からも分かるように、この山越えは峠というほど大げさなものではなく、子どもでも隣に遊びに出かけるような生活道であったことがうかがわれる。
また、彼の話では、最近道が広げられて、車で峠まで行けるという。そうとなれば、ぜひとも行かざるをえまい。



私の車は四駆だから、その気になれば入れるだろうが、ここは念のため用心することと、石造物を見落とさないために、「般若坂」の入り口で車を止め、歩いて上ることにした。
寺久保集落には、クマ注意の看板があったので、鈴をザックにつけ、携帯ラジオも音出しに使った^^;



まもなく、車で上がって来なかったのは正解と分かった。峠に上がれるどころではない。これでは方向転換も出来ず万事休すだったろう。



「般若坂」の最後は、篠竹のブッシュになっている。少し上りかけたが、ムリヤリ突破するほどの意欲も気力も出ず、撤退することに。



少し引き返したところで、赤テープのあった所から上ることにした。ほとんど踏み跡はないが、どなたか、後進の者のために好意の印を残されたようだ。
私はかつて桐生の裏仙人岳で、テープに惑わされてしまった苦い経験がある。だが、この尾根では迷いようがないし、クマさんやイノシシさんとゴッツンコさえしなければ安心だ^^;



直ぐに尾根に出た。おそらく、ここが「般若峠」だろう。雑木が新緑に覆われ見通しは全く無い。下り口を示す赤テープもあるが、慣れてないと見落とすかもしれない。もっとも、自動車交通の今時に、歩いて峠越えする必要はないし、山形方面からここを通って寺久保山に登るハイカーも、ほとんどいないだろう。尾根を上り下り両方向に少し行ってみたが、倒木も多く、あまり歩かれている様子ではなかった。



帰路は、そこら中に生えているマムシグサを観察して下った。その中には葉が斑入りの個体もあった。希少種だろうか。仮にそうだとしても、この気味悪げなマムシグサを採って、家に持ち帰りたい気にはならない^^;

ちなみに、「御所の入」とは、なんとも雅な小字名だと思って調べてみると

平家を京から追い払った木曾義仲の長男で、源頼朝の人質になっていた木曾義高がいる。義高は頼朝と政子との間に生まれた大姫と結ばれていたが、頼朝による義仲追討の際に追われて、武蔵国入間川で討たれてしまった。
ところが、義高は死んではおらず、下野国佐野基綱を頼って、この「御所の入」の地に逃げてきたという伝承があるそうだ。ここには「御所様の墓」という鎌倉期とおもわれる五輪塔があり、義高の墓だとされている。

また、後醍醐天皇の皇子で足利尊氏と対立した護良親王(征夷代将軍・大塔宮)が、一時ここに住していたという。それが御所入りの由来で、「御所様の墓」も護良親王のものだという説もある。

さらに、妙光山報恩寺という臨済宗の古刹がある。豊臣秀吉の小田原攻めの際に軍功を立てた天徳寺了伯(剣豪法師として知られた唐沢山城主佐野房綱・佐野藩主佐野信吉の養父)が中興し、彼の墓もここにある。この寺は木曾義高改め佐野義基が開基したと伝えらているそうだ。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 19:44
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「般若峠」その1


1998年1月、寺久保山(357m)に登った。 この山は、2005年の佐野市と田沼町・葛生町の合併前には、佐野市の最高峰だった。現在は旧田沼町の熊鷹山(1168m)が一番高い。
寺久保山は不動山とも呼ばれ、登山口の医王寺から20分ほど入ったところに、旧佐野市では唯一の滝といわれた不動滝がある。私が行った時には渇水期だったせいか水が落ちていなくて、がっかりしたものだった。

私はこの不動滝コースで登ったのだが、他にも登山コースがある。その1つ、寺久保集落の一番奥近くに、般若峠コース入り口の案内標識があり、次に来る時はこれを登ってみようと思ったのだが・・・それから16年間、ついに登ることがなかった^^;

今回、寺久保山には最初から登る予定はなく、般若峠を確認しようとだけ思って出かけた。ところが、かつてあった案内標識が見つからない。

記憶を頼りにうろうろ探したのだが、実は、上の画像の石の道標のあるところが般若峠への入り口になっている。この道標には側面に大正4年の日付と、寺久保青年会によって建立されたことが刻まれている。正面は磨耗してよく読めないが、『御大典記念 右山形 左山道』とあるようだ(「佐野の金石」佐野市史編纂委員会)

寺久保集落から般若峠を越えた先が、旧田沼町山形で「御所の入」という集落になる。道標近くの地元婦人(5,60代)の話では、『子どものころには、般若峠を越えて、山形の歯医者に行った』そうだ。

私は、峠まで上ってみるつもりでいたが、もう夏草が茂っている様子を見て、急に気持ちが萎えてしまった。マムシでもいたらヤバイと弱気になってしまったのだ。草が枯れる秋になってからにしよう^^;

余談だが、道標の『左 山道』というのが気になる。道標を動かしていないという前提で位置関係からすると、必ずしも寺久保山に登る『山道』を指してないように見える。仮にそうだとしても、わざわざ山道と書く意味があるのだろうか。
私は「いづる道」を調べている過程で、この『山道』に幾つか出会っている。一般的に見ると、旅人に『この先は山へ登る道だから、フツウは行かない山道ですよ』と告げているように思える。

だが、はたして、それだけだろうか。『山道』が山越えの道(峠道)を意味する場合もあるのではないか。つまり、この道標の場合、『左 山道』とあるのは、寺久保山より南にある鳩峰山(317m)の山頂にある鳩峰山神社への参詣道であると共に、この山を越えて足利の樺崎八幡宮方面に出る峠道を指しているのではないか・・・

私は、この道標を建てた大正の頃、寺久保から足利に出るには、現在「関東ふれあいの道」で整備されている塩坂峠越えよりも、鳩峰山を越える道が一般的な生活道だったように思う。これは、足利側の樺崎町赤坂にある馬頭観音等でも確認している。塩坂峠も古い峠のようだが、昔の石造物・道標や資料等は未確認でいる。
http://blog.kiriume.com/?eid=1222995

ちなみに、鳩峰山神社は佐野側のものと聞いたことがある。現在は取り壊されて、石宮だけになっている。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 19:19
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「藤坂峠」(2)


藤坂峠を南に下った小野寺に入るとすぐに、天台宗の古刹大慈寺があります。栃木県で現存する寺院では最も古く、比叡山第三代座主慈覚大師円仁が9歳で修行に入った由緒あるお寺です。

大慈寺の住職が書いたという古文書に『小野寺旧記』(弘化年代・1844年頃)があります。その中に「八方道陸神」の項があり、「藤坂 一」と記述されています。これは藤坂峠に立てられた道陸神(どうろくじん)が1基あるということでしょう。

道陸神は道祖神(どうそじん)のことで、村境や道路の分岐点などに立てられ、村人や旅人の安全を守る神さまですから、村堺いだった藤坂峠に立てられたことは納得できます。

藤坂峠の石仏は磨耗してしまい、道祖神であるやら何であるやら確定できませんでした。しかし、これを立てた昔の人の気持ちを思えば、粗末にはできないですね。



藤坂峠は西の藤坂山と東の絹ヶ岳に挟まれた鞍部ですが、この藤坂山の南面に「身投洞」という断崖絶壁があります。ここは大慈寺で老後を過ごした小野小町が、薬師如来に迎えらるて身を投げたという伝説があります。

また、小野寺旧記には「小野寺七石」の記述もあります。その七石の1つに屏風岩があげられています。私はこの『身投洞』という岩場が、まさに屏風のように立ち上がっている様子なので、別名(もしくは本名)で『屏風岩』というのだとばかり思ってました。

ところが、上の案内標識(身投洞への入り口駐車場に立っている)の裏面に、身投洞とは少し離れて、諏訪岳方面の山腹にある巨岩(高さ20m、幅25m)の岩場だと書かれていました。わざわざ書き込みがあるということは、私以外にも勘違いしている者がいたのでしょうね^^;
実際に見てみたいものですが、どうやら登山道は入り口で塞がれているようです。



身投洞の岩場は私設のロッククライミング場「藤坂ロックガーデン」になっていましたが、昨年5月に閉鎖されてしまいました。事故多発が理由ですが、どうやら、クライマーの初歩的なミス、うっかりかどうか知りませんが、安全対策を怠ってしまうようなちょっとしたミスが、大事故の原因にあげられているようです。

この藤坂ロックガーデンの管理者は著名なクライマーで、私の母校(館林高校)の幾つか上の卒業生でした。私は彼を師匠と呼ぶシスター青年と、私のホームグランドだった大小山で数度会ったことがあります。そのときはさして関心がなく、へ〜と思ったくらいですが、ここは初心者がクライミングを学ぶには、とてもよいクライミング場だったようです。復活されるといいですね。

私は1度だけこの身投洞を登ったことがあります。といっても、私は高所恐怖症ですからクライミングなんかじゃありません。この麓から大慈寺の裏山の諏訪岳に行ける縦走路があり、岩場の頂上にも上がることができたのです。でなけりゃ、小野小町さんもロッククライミングするしきゃなかったわけで、もしかしたら、ここから身投げもできなかったかもしれません。

この断崖上に立ち、彼女が仏に迎えられる様子をイメージしたくとも、私は絶壁の端っこにはいけませんでした。もちろん、小野小町が身を投げたのは伝説ですから、その伝説を実現してしまっては洒落にもなりません^^;
author:u-junpei, category:峠と石造物, 16:44
comments(0), trackbacks(0), - -
峠と石造物 「藤坂峠」(1)


以前、この峠シリーズで「藤坂峠」を取り上げました。

http://blog.kiriume.com/?eid=1222940

その「藤坂峠」と今回の「藤坂峠」は別な峠で、今回のは佐野と栃木の市境にあります。

画像の奥(北)が佐野市葛生町、手前が栃木市岩舟町小野寺で、県道282号線(中岩舟線)が通る峠です。この県道は葛生方面と岩舟方面を最短で結ぶ生活道です。また、葛生は砕石の町ですから、その運搬道としても重要な道です。
したがって、葛生町(佐野市と合併)と岩舟町小野寺とは、この峠を越えて昔から強い結びつきがあったと思いますが、合併協議は紆余曲折を経て、岩舟町は栃木市と合併しました(2014、4,5)



峠の脇に空き地があり、そこに2基の石碑と3基の石仏が置かれています(上の画像)
手前の大きな石碑は「隧道竣工記念碑」で、かつて藤坂峠はトンネルになっていたことがわかります。碑によると隧道は昭和10年に完成しました。隣に「殉難者之碑」があり、それによると、工事完成の数ヶ月前に2回にわたり計5名の死亡者が出ています。

このトンネルは終戦後に壊されました。隧道の拡張工事をするよりは、山を削ってしまった方が良いという判断のようですが(公報「いわふね」2011年9月号「岩舟の歴史ばなし」)、もしかしたら、砕石との一石二鳥だったのでしょう^^;



3基の石仏の内、向かって一番右は馬頭観音(文字)です。左は地蔵像のように思われますが、これと真ん中のものは磨耗が激しくて年代とかも分かりません。
岩舟町の図書館(中央公民館)に資料があるか訪ねてみましたが、町では全く調査記録をとっていないということでした。

私は、これらの石仏はトンネルができるずっと前(江戸期)のものだろうと推測します。それは藤坂峠には古い伝説が残されていて、峠を北に下りた葛生町中にある小藤神社も、昔はこの山奥にあったといわれているからです。

http://blog.kiriume.com/?eid=548327
http://blog.kiriume.com/?eid=548932

残念ながら、この石仏のまえの空き地は、投棄されたゴミだらけでした。
author:u-junpei, category:峠と石造物, 23:00
comments(0), trackbacks(0), - -
まぼろしの「いづる道」 その3


田沼町閑馬の閑馬小学校の裏手に高林寺という寺がある。いや、あったというべきだろう。地元で尋ねると、10年ほど前に建物が取り壊され、現在は更地になっている。

その高林寺参道入り口の右側で、画像で言うと、一番左に「普門品供養」塔がある。田沼町史によると、この塔には『右いつルハセバみち』と刻まれているという。

この供養搭は、天保三壬辰年三月吉祥日の建立で、建立者や寸法を含め、田沼町史の資料と照らしてまず間違いない。
ところが、この供養搭のどこを見ても、「道しるべ」の刻みがない。もしや磨耗しているのではないかと、よくよくニラメッコし舐めるように見たのだが・・・どの面にもない。これは、田沼町史の収録間違いだろうか。

現物で確認できないので、『右いつルハセバみち』がどのように書かれているか、大事な点がわからないのだが、『ハセバ』はかつての『長谷場』村をさしていることは明らかだ。しかしながら、『いつル』という表記は大変に違和感を覚える。
私は資料を見て、『いつル』は『いづる』と思ったのだが、このような場合、平仮名と片仮名を混ぜて地名を表記することはあまりないのではないか。その下だか横だか分からないが『ハセバ』(長谷場)とあるからなおさらだ。

思うに、この『いつル』は『至ル』ではなかろうか。『至』がくずし字で書かれていれば、町史の調査者がそれを『いつ』と読んでしまった可能性がある。正確には『至ル ハセバみち』だったのかもしれない。

仮に、これが『いづる道』を意味すると、閑馬集落をわざわざ山深く北上してから『いづる』道に出る意味が分からない。現在は北奥の金原から山越えで長谷場に出る金原林道があるが、ここに古道があったとしても、いったん長谷場に出てから再び南下し、三好(栗谷坂峠越えした東の地域)に向かうのはいかにも遠回りになる。

むかし、閑馬小学校が尋常小学校だった時代、梅園には学校がなかったので、子どもたちは山越えして閑馬に通ったそうだ。
したがって、その山道(「八幡坂」と称したものと思われるが未確認)を通るか、あるいは、山裾を巻いても距離的には大差なく梅園の栗谷坂にも出られるので、閑馬を北上しさらに山越えするような「いづる道」は、まるで苦多くして楽がない。

したがって、閑馬小学校の裏手になる高林寺の「普門品供養搭」が、田沼町史がいうような「道しるべ」を兼ねていたとして(その場合は、塔の台石以外に道しるべの文字が刻んであった可能性はないと思うが、現在はその表面がはげてしまっているので確認できない)、そこに刻まれたであろう『いつル』は、『いづる』(出流)を指すものではないと推測する。

以上のように、今回の現地調査では、田沼町史にある栗谷坂「道しるべ」と高林寺普門品供養搭「道しるべ」は共に確認されなかった。また、高林寺普門品供養搭「道しるべ」が、私の推測するように「いづる道」でないとすれば、栗谷坂にあるとされた「道しるべ」にも重大な疑義を持たざるを得ない。すなわち、田沼町史の調査や編集過程でのミスなどの可能性も疑われる。

それを前提に改めて地形図を見ると、梅園から栗谷坂を越えて三好に出る「いづる道」よりは、三床山南部の山形や戸奈良の集落を経て、三好や田沼中心地に出る方が便利に思われる。特に足利樺崎周辺で確認された「いづる道」は、市境尾根越えをしたあと、閑馬や梅園に北上し、この辺りで山道に入って行く必然性がない。
なにより、クマや何やらのケモノが出てくる山道よりも、集落伝いに行く方が安心でり、道に迷う心配も少ないであろう。三好や葛生から先の「いづる道」はともかく、この辺りでは山裾を歩く方が妥当のように思えてならない。

その上で推理を組み立ててみると、栗谷坂「道しるべ」の所在について、田沼町史のいう“栗谷坂の途中”というのは、栗谷坂がゲートのあるところから始まっているのではなく、もっと手前、閑馬から梅園に入る三叉路辺りをさしていたのかもしれない。
そうであるならば、私が見つけられなかったのは当然だし、また、「道しるべ」に「向 左やま 右いづる みち」とある理由も、まさに左に行けば梅園から山越えで野上村へ抜けるし、右に行く「いづる道」も、山裾を通って山形や戸奈良を通り三好や葛生に向かうので、いづれもすっきりとうなづけるのだが・・・

この項 終わり
author:u-junpei, category:峠と石造物, 16:16
comments(0), trackbacks(0), - -
まぼろしの「いづる道」 その2



ゲートから300mほど入ると、前方が二股に分かれた沢になり、山道もY字路になる。したがって、問題の「道しるべ」があれば、ここに置かれているのがふさわしいだろう。「道しるべ」には「右いづる道」とあるはずだが、実際にも右に行くのが峠道のルートになっているからだ。
しかし、この周辺を行ったり来たりして探したのだが、境界標以外に古い「道しるべ」は見つからなかった。

とりあえず、右に入って行く。



栗谷坂の峠道は、栗谷沢(栗谷川)の左岸につけられているのだが、雑木林には山栗の木が多いようだ。それゆえ「栗谷」といわれたのだろうか。



二又から250mほど入ると、昭和57年10月完成の砂防堰堤がある。
ゲートからの山道が車が通れるほど広かったのは、この工事用に広げたのであろう。もっとも、明治生まれの古老から聞いたという話では、栗谷坂は峠下まで荷馬車が行き来したということだから、それなりに整備された山道だったと思われる。



堰堤からさらに150mほど行くと、また二又になる。「道しるべ」のもう1つの候補地はここになる。しかし、ここに置かれたとすると、左に入るのが峠道ルートであるから、「道しるべ」の「右いづる道」と齟齬をきたしてしまう。

上の画像は、左に入る峠道。実際には二又というより左に沢を渡るようになっている。この沢の右岸に薄いが山道が読み取れる。



また、この二又の右へは植林伐採のためと思われる明瞭な山道が延びている(上の画像)。したがって、この地点で左に折れて沢を渡ることを知らないと、右方向が道なりのような雰囲気なので迷うかもしれない。



左に入ってまもなく峠道は荒れはじめる。沢伝いに道がつけられているようだが、上の画像の大岩のところまで来ると急峻になり、沢道にも落ち葉が深くうずめるようになって道跡が分からなくなる。かつては荷馬が通ったという雰囲気はない。



上の画像は二又から200mほど入り、尾根の明かるみが見えたところ。画像の中央奥はおそらく栗谷坂峠ではなく、これよりやや左にカーブして上りきったところが峠であると思われる。
峠から下ってくるならまだしも、下から峠に出るのは、道がほとんど消えていて難しいかもしれない。

しかし、仮に峠まで上がってしまっては、もう「道しるべ」の意味をなさないであろうし、栗谷坂の途中にあるという田沼町史の記載にも合致しない。

引き返す地点周辺も探したが、「道しるべ」はない。もしかして、これより上にあったとしたらがっかりだが、今回はあきらめることにした。



ここで引き返すことにしたのは、他にも理由がある。
この間、私は鈴を鳴らしたり、木の幹を棒切れで叩きながら歩いている。
地主のI氏によると(彼は狩猟免許保持者)、去年の春、この地区で120圓離マが捕らえられたという。しかも、ここら辺(?)のクマは冬眠しないのだそうだ。

ガサガサする音を聞いたら、すぐに引き返すようにとか、クマの方で察して逃げるように大声で歌でもとかアドバイスを受けての「道しるべ」探しだった。さすがに誰もいなくても恥ずかしくて、大声を出して歩きはしなかったのだが・・・せいぜい咳払いくらい^^;

最初のY字路から左にも入ってみた。こちらは沢を右に見ながらの道だが、同じような距離を入ると砂防堰堤がある。しかし、この間にも「道しるべ」は発見できなかった。



栃木県の境界標が露出して山際から落ちそうになっていた。こんなふうに「道しるべ」も失われたのだろうか。
田沼町史の発刊が昭和56年だから、「道しるべ」調査はそれ以前になされていることになる。その後、堰堤工事が入ったりして、「道しるべ」もどうかしてしまったことは十分に考えられるが、ご存知の方からの情報があるとありがたいのだが・・・

この項 続く
author:u-junpei, category:峠と石造物, 20:40
comments(0), trackbacks(0), - -