昨夜からラジオをかけっぱなしで寝ていて、ふっと耳に入ってきたのが、『お母さんなんて、言われたくない』 という言葉だった。場面がよく分からないが、リスナーからの投稿を読んだ後らしい。『自分よりより年上の人からそう言われると、あんたの母親じゃないよと言い返してやりたよね』、という反応のきつそう女子アナだか女のコメンテーターだかのコメントでおよそ推測した。これは、だれか「年長の男」から、そういう表現で「女である私」が呼ばれたということだろう。
したがって、状況によっては別におかしくもなんともない。子どものいる家庭内では、夫が妻をお母さんとかママとか呼ぶだろうし、子ども連れの若い母親に向かって、お母さんと呼びかけるのはフツウのように思える。私も教室で生徒の母親と面談するときは、そのような呼び方をしていると思う。
では、どんなときに、ムカッとするのだろう? と思いながらうつらうつら聞いていたのだ。
そんなことに無意識にでも反応したのは、今年の本屋大賞を受賞した「舟を編む」を読み終わって寝たからだろう。
ここでいう「舟」とは言葉の海を渡るための手段で、それを「編む」というのは国語辞典を作ることをいう。それに携わることは言葉で言うほど簡単なことではなく、15年とか30年とか長い年月も要するから、いわば変人めいたキャラクターの専門編集者が存在するだろう・・・というのがこの本の設定かと思う。
当然のことながら、そういうキャラクターを小説で描くときに、視覚化すればマンガチックにならざるを得ないだろう。そうでなくれば、国語辞典を編集する作業なぞ面白くもおかしくもなく、この本の帯にあるように30万部も売れるはずがなく、本屋大賞にも選ばれるはずがない。
しかし、昨年の本屋大賞に比べれば、同じくマンガチックなキャラクターであっても、私ような許容範囲の狭い胸にもすぽっとおさまる。それは、この本には、編集だけでなく、それぞれの「仕事」にかける意味とか意義といったものが、大げさに言えば人生といったものが、きちっと描かれているからだと思う。
それと、この小説の最初の場面に、中学生の頃に国語辞典をむさぼるように読んだという編集者の述懐が書かれている。実は、私もそういう中学生だった。そういう共通の思い出があって共感したのも、この本を一気に読ませた理由だったに違いない。いわば、私もある意味では中学生らしからぬ変な中学生だったということだろうか。
それにしては、私の人生で成し遂げた「仕事」といえるほど程の誇れるものがないのは、ちょいと寂しくはある。若い読者には、豊かな人生となりうる何かを見つけて欲しいものだ。