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新・反「隠れキリシタンイズム」 愛宕神社の鳥居
「隠れキリシタン」というと、現代の私たちにはロマンめいて聞こえるが、幕藩体制下ではたいへん過酷な信仰形態だった。したがって、古文書の類もほとんど残されていないから、私の身の回りで言えば、隠れキリシタンだったと示される事例があっても、憶測や推測に過ぎない場合が多く、学問的裏づけがあるわけではない。 

ところが、そうした事例でも、ウソも100回重ねれれば、真実になるというナチスの説を言うまでもなく、世の中では真実でないものが真実として通用してしまう事象は多々見られる。「隠れキリシタン」もその例外ではない。

隠れキリシタン論者が言う『天年号=隠れキリシタン』はその代表的なものだ、と私は考えている。これについては、これまで私のブログでは反「隠れキリシタンイズム」として具体例をあげて、反論を試みてきた。

天年号というのは、例えば『平成24年』と書く時に、『平成24天』とするのを言う。かつては、「年」の他に「稔」「歳」「季」などの表記もなされていて、「天」もその一つで、墓石や石仏その他様々なものに見ることが出来る。

それを、隠れキリシタン説では、天は天国に通じるからキリシタンが密かに『隠符』として用いたのだとする。確かに単純明快だが、常識的に見るとバカらしい。
しかし、最初の主張者はともかく、それを信じる「隠れキリシタンイズム」者は、更に書籍や出版物に記載してはばからない。

『天年号』についての私の仮説は、『隠れキリシタンも使ったかも知れないが、隠れキリシタンであるがゆえではなく、一般的に使われた年号表記でしかない』というものだ。

第三者的に言えば、そんなことはどうでもよさそうだが、エセ論が真実を歪めてしまうのは納得できない。で、時々は、新たに確認した反論事例をブログに載せようと思う。



画像は、埼玉県羽生市上新郷の信号「愛宕神社前」脇にある愛宕神社。江戸時代に八王子千人同心が八王子と日光を往復した日光脇街道沿いにある。いかにも愛宕神社らしく、築山(古墳?)の上に社殿が建っている。

県道7号線(旧・日光脇街道)の道路に削られているが、境内には摂社も多く、薬師堂もあり、かつてはかなり広い地所だったと思われる。

この愛宕神社の、上の画像に見られる石鳥居の建立年が天年号になっている。
下の画像は、向かって左の柱で、延寶五年丁巳天九月吉日と刻んである。



たいていの場合、建立年号や建立理由・奉献者は柱の裏面に書かれている。ところが、この鳥居では正面に刻まれている。理由は分からないが、もしかして、道路拡張で移設の際、あるいはそれ以前に、裏表の向きを間違えてしまったってことはないだろうか^^;

愛宕神社と「隠れキリシタン」の関連については、明確に関係を述べた記事を私は確認していない。
だが、明治維新前の愛宕神社の祭神と勝軍地蔵との関係を考証せず、勝軍地蔵をキリストの降臨像とした事例はあった(群馬県板倉町丸谷の勝軍地蔵について、川島恂二著「関東平野の隠れキリシタン」)

ところで、愛宕神社の鳥居に建立年を天年号で刻み、わざわざ「隠れキリシタンここりあり」と「隠譜」する理由があるだろうか?
私は、合理的な理由は「ない」と思っている。
肯定するには、この氏子である地域住民が、「愛宕大明神をデウスとして信仰する集団だった」、といわざるを得ないだろう。そんなことを大胆かつ大真面目でいえるだろうか。合理的根拠がなければ空想でしかない。

ちなみに、延宝五年は1677年で今から335年前、四代将軍徳川家綱の時代だから、この石鳥居は歴史的な価値評価をすべきと思う。
また、この鳥居中央に掲げられた石額は「愛宕社」で、「宕」の字のウ冠が「山」の字形で彫られているのが興味深い。

板倉町丸谷の『勝軍地蔵』について、私のブログ↓
http://blog.kiriume.com/?eid=1156559
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 13:07
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