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新・反「隠れキリシタンイズム」 その3 『念仏岩』


群馬県の東毛地区にある大間々町は、合併により、みどり市になった。その大間々町時代の町誌を見ると、石仏等の調査もしっかりなされていて、この町の文化が高かったことをうかがい知ることができる。

私が手にしたのは、「大間々町誌別巻7」で石造物関係の記録だが、パラパラめくっただけでも、天年号の年号が刻まれている石造物をいくらでも見つけることができる。あまりの多さに、天年号=隠れキリシタン説者はどう思うのだろうか。
「念仏岩」もその天年号が刻まれているひとつだ。

この念仏岩(上の画像)は高さは3mほどもある大岩で、みどり市桐原沢ノ入の燧坂(町誌では「ひろちざか」とルビがふってあるが、「ひうちざか」の間違い?)の途中にある。坂のちょうど半分くらいの地点だろう。
坂の上部にある広大な平坦地を瀬戸ヶ原といい、現在では開拓されているが、かつては、ここから北の山間の峠を抜け神梅に出る山道が、足尾銅山から銅を運んだ銅山街道だったという。

大間々から足尾方面の神梅の区間は、いまでこそ国道122号線になっているが、渡良瀬川に深く削られた急峻な崖地(それゆえオオママの名がある)で、そのため銅山街道は、山中の峠越えのコースにならざるをえなかった。
その街道は2万5千分の1地形図では破線になっている。車が通れるような道ではない。実際には廃道化していて、峠から神梅は踏み跡を探すほどだというが、私はまだ確認していない。

その峠の名前が燧坂峠とか日光坂峠(二荒坂峠)というそうだから、念仏岩のある燧坂も、あるいは銅山街道として使われたことがあるかもしれない。

この念仏岩には民間伝承がある(「町誌別巻7」・「大間々町の民俗」)
『昔、石がうなり出したので、尼さんが祈って「南無阿弥陀仏」と書いて供養したら、うならなくなった』というものだ。
これは、どんなウナリ声だったのか興味深いが、全国に伝わる「泣き石伝説」と同じようなものだろうか。



自然の巨石や崖面を利用して、名号(南無阿弥陀仏)を彫ったものを磨崖名号といい、大間々にある磨崖名号は、町誌ではこの念仏岩だけが確認されている。

表面の平らな面に、あるいは平らに削ったのもしれないが、中央に南無阿弥陀仏霊位・向かって左に見妙心禅定尼・右に元禄十二己卯天八月と刻んである。
前もって知っていなければ、この岩に文字が刻んであることなど、そばを通っても見過ごしてしまうであろう。

この念仏岩は伝承民話からみても、また、建立者の名からしても、隠れキリシタンとは無関係だと思う。
私は、「天年号=隠れキリシタン」とする誤りの証例の一つだと考える。
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 19:19
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