RSS | ATOM | SEARCH
新・反「隠れキリシタンイズム」 その4 「諏訪大明神」


邑楽郡千代田町赤岩に、空海が再建したといわれる光恩寺という古刹がある。
画像は特に変哲もない石祠であるが、この寺の境内社跡地と思われる円形塚の端に置かれている。

 





石祠に向かって右の側面(上画像)に、「再建立 元文五庚申天」とあり、その下に施主として新右衛門他3人名。左側面(中画像)に「五穀成就攸 赤岩山 六十四世 香巡代」。裏面(下画像)には「ウーン」を表す梵字と「八月廿五日」が刻まれている。

赤岩山は光恩寺の山号であり、住職名の六四世香巡は実在している。したがって、元文五年(1740年)に何らかの理由で石祠を再建し、この寺の境内あるいはごく近場に置かれたものと思われる。

何を祀ってあるのかと仔細に調べてみると、石祠の内部の正面壁に「諏訪大明神」と刻まれているのが分かった。
その「諏訪大明神」の文字は画像からは分からないが、刻字の筆跡からして、同一の石工によって刻まれたものと思われる。

諏訪の神様はタケミナカタノカミで軍神とされている。しかし、戦国期はともかく安定した江戸期では諏訪大明神は農業神として祀られたようだ。これは、石祠に「五穀成就攸」と刻まれた文言でも明らかだろう。

さらに言えば、この石祠は元文五年の『庚申の年』に再建立とあるから、庚申信仰との結びつきが考えられる。江戸期以後の庚申信仰は庚申講で行われたが、農村では主神の青面金剛も本来の三尸説を色濃く残しながらも、農業神を祀るものへと変化している。
この石祠と庚申信仰との関係は、石祠の裏面の梵字がウーン(ウン)で、庚申塔によく使われる文字であることからもいえるのではなかろうか。

こうしてみれば、天年号が使われているから=隠れキリシタンを疑うより、庚申信仰と諏訪大明神との結びつきを考えてみる方が、よほど実際的であるし、民俗学的にも興味深いと思うがいかがであろう。

ちなみに、六十四世香巡師はこの石祠が建立されたと同じ元文五年に亡くなられているが、光恩寺歴代の墓所にある彼の供養搭には、「元文五庚申天」の天年号が使われている。
さらに、先々代の供養搭にも「享保七壬子天」と天年号が使われている。詳しく見てないが、八十数代も続く歴代の中には、天年号が他にもあるかも知れない。
無縁墓搭にも天年号が使われているのが、ざっと見ただけだが、享保時代のものだけで4つもある。丁寧に調べればこの何倍かの天年号があるに違いない。

これらから、赤岩地区には隠れキリシタンが住み、光恩寺の歴代住職にも隠れキリシタンの住職がいたなどとすれば、それは『隠れキリシタンイズム妄想』でしかないだろう^^;
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 18:58
comments(0), trackbacks(0), - -
Comment









Trackback
url: トラックバック機能は終了しました。