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新・反「隠れキリシタンイズム」 その4 「子抱き地蔵」


足利市名草上町の臥龍寺(臨済宗)は、周りを山並みに囲まれた名草に幾つかある寺の中では最奥にある。境内の樹齢二百数十年のエドヒガン(シダレザクラ)の大木は、昭和41年に足利市重要文化財(天然記念物)に指定されている。

寺は名草川に架けられたいかにも弱そうで、車では躊躇するような橋をわたり、細い坂道を上って行ったところにある。私は車を橋の手前の空き地に止め、歩いて行ったのだが、境内は夏草が茫々と生え、いかにも無住の寺という雰囲気が漂っていた。

その桜の木と本堂の間の墓地の道を少し上がったところに、赤屋根で2間四方ほどの御堂がある。建物は荒れた様子で、破れた格子から覗いてみたが何もないようだ。
参道脇にある畑で除草仕事をしていた老夫婦に声をかけると、最初不審な目で見られてしまったが、その建物は観音堂で、御本尊は盗難にあってしまったと教えてくれた。
参道の途中に木製の祠があるが、この中に納めていたお地蔵様も盗まれてしまったそうだ。

参道坂の入り口に、如意輪観音像がある(画像の左にある石仏)。彫刻も保存状態もよく大きさもあり一級品の石仏だ。そして、画像の右に見えるブッシュの中にもお地蔵様があった。これが今回取り上げる「子抱き地蔵」だ。



↑ こちらが如意輪観音。



↑ こちらが地蔵菩薩

この二つの石仏は、どうやらワンセットで建てられたようだ。石仏が乗る蓮華台・丸い茄子座・石柱部・台石・基礎石などの仕様とサイズ、石柱部に刻まれている建立日・建立者等は同じで、刻まれた文字の字体からも同一人の石工の手によるものと思われる。

地蔵菩薩の方は立ち姿なので、像そのものは如意輪観音よりも10センチほど高いが、全体では同じ高さ(2,5m)になるように蓮華台の大きさで調節してある。



地蔵の柱部の正面には
 
 安永七戊戌天
 地蔵尊念仏供養搭
 中秋大吉祥日

向かって、右側面には

 見南明山臥龍禅院大州代
 下野國足利郡名草邑

左側面に

 願主講中

とある。
これは如意輪観音像が正面に『如意輪観世音念仏供養搭』とあるほかは、側面の文言それぞれ面を入れ替え、左右対称になっている意外は、両者とも同一の文字が刻まれている。
但し、天年号が使われているのは地蔵だけで、如意輪像では「年」の異体字になっている。 

お地蔵さんの建立年に、天年号が使われているのは、珍しいことではない。それでいちいち隠れキリシタンを疑っていたのではきりがないくらいだ。したがって、フツウのお地蔵さんなら、わざわざこの「反隠れキリシタンイズム」シリーズで取り上げることもなかった。

ところが、このお地蔵さんは左手に如意宝珠の代わりに赤子を抱いて、右の足元にも幼子がすがりつき、お地蔵さんを見上げるような仕草をしている。
もし、これが観音菩薩であったなら、子安観音・慈母観音としてごくありふれた構図なのだが、天年号ゆえに『マリア観音』なんていわれたかもしれない^^;

また、如意輪観音像のほうが天年号であったなら、「念仏講を隠れ蓑とした隠れキリシタン」とまでいう「隠れキリシタンイズム」説に、有力な反論をするのは難しいかも知れない。

逆に言えば、この場合は地蔵菩薩であるがゆえに、「子抱き地蔵」ではいかに隠れキリシタンイズム者でも、隠れキリシタンを主張するのはつらいところだと思う^^;

私の仮説を繰り返すが、『天年号はフツウ一般に使われていた紀年の表記の1つであって、隠れキリシタンも使ったかもしれないが、天年号=隠れキリシタンではない』は、今回の事例にも当てはまると思う。

ちなみに、この2つの石仏が建立された安永七年は1778年で、今から二百三十数年前になる。当時の臥龍寺は辺鄙な山奥の禅寺であったろうが、これほどの石仏を建立できた事からみて、名が刻まれている大州師が住職の時代には最盛期を迎えていたのだろう。

また、この名草の地域には臨済宗の寺だけでも、臥龍寺を含み5ヶ寺もあったことにも驚く。現代まで残った臥龍寺も無住になり、今さらながら、栄枯盛衰の変遷を思わずにはいられないが、江戸時代における寺と地域住民との強い結びつきを考えさせもする。
(臥龍寺は名草中町にある清源寺の兼帯になっているという。清源寺は足利尊氏の重臣でこの地を治めた南氏の菩提寺)
author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 20:00
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