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新・反「隠れキリシタンイズム」 その5 「青面金剛真言庚申塔」



天年号というのは、紀年の表し方のひとつで、例えば、上の画像の庚申塔のように、「元文五庚申年」とするところを「元文五庚申天」とする場合をいう。
これは江戸時代の石造物(墓石・地蔵・観音・その他もろもろ)に多くみられ、けっして特殊な表記ではない。しかし、なぜ「天」を使うのか、現在では歴史学者も職業坊主も知らないし、もちろん辞書の類いにも載っていない。

そこで、統計学的手法を使って、天年号と隠れキリシタンとの関係を説いたのが、統計学者の吉田元だった(「石が語る謎の群馬切支丹」上州路157号)。だが、素人の私が言うと語弊があるかもしれないが、この論文には「?」になる突っ込みどころが多々あって、彼自身がいうほどの確証的な説ではないように思う。いわば仮説に過ぎない。

しかも、吉田自身がいみじくも、
『しかし天が付いているからといってそれは全部切支丹のものであるといった無茶なことをいっていない。それには必らずそれを裏付ける証拠をえたもののみについてである』
と言っているように、天年号が必ずしも隠れキリシタンを表すものでないならば、天年号を隠れキリシタンの理由とするのは、いわば「いわずもがな」なのだ。

とはいえ、彼が天年号=隠切支丹とした結論は、十分に一人歩きしてしまう。彼の説を引いている「関東平野の隠れキリシタン」(川島恂二著)は、さらに孫引きされて、今では、天年号=隠れキリシタンは通説になっている観がある。

だが、天年号を隠れキリシタンに一般化することは、『庚申講や念仏講が、役人を欺むき隠れキリシタンの集会に利用された』とするのと同じく、隠れキリシタンとは無関係なその他多くの庶民の信仰を、捻じ曲げて解釈されるおそれが出てくる。また、それが石造物に及ぶなら、その地に伝わる民俗遺産をも歪曲しかねないだろう。

上の画像は足利市松田町の松山集落への入り口にある文字庚申塔で、他に石祠や地蔵も並んでいることからみて、おそらく塞の神として大切にされてきたのだろう。
松山の集落が隠れキリシタンとする証拠がない限り、天年号から隠れキリシタンを疑うのは、この地区の民俗とか習俗に反するかに思う。

さらに、この庚申塔が特別なのは、自然石正面に刻まれた青面金剛を表す文字にある。足利には2400基余りの庚申塔が確認されているが、「足利の庚申塔」(田村充彦・星野光行著)によれば、青面金剛真言(青面金剛心呪)を15文字の種字(梵字)だけで表した稀有な庚申塔だそうだ(他に2基あるのみ)。



青面金剛真言を刻んだという文字は、上の小さな画像では分かりにくい。実見しても、梵字の知識がなくてはチンプンカンプンだ。ちなみに、「足利の庚申塔」によると、『オンディバヤキシャバンダバンダカカカカソワカー』とあるそうだ^^;

この青面金剛真言は、庚申講を行う際に唱えられる真言(呪文)だという。おそらく、庚申講の夜、あのいかにも恐ろしげな青面金剛像が描かれた掛け軸の前で、皆して唱えたのだろうが、アーメンとはかなりというか全くというほどかけ離れていている。これが隠れキリシタンらしくないことといったら、この真言こそ極まりないだろう。

その真言が、庚申塔に刻まれていても同じことだから、いかに隠れキリシタンイズム者でも、建立者が隠れキリシタンであると牽強付会するは困難な事例だろうと思われる。

ちなみに、この庚申塔には15文字の青面金剛真言の種字の冒頭に、ウーン(青面金剛を意味する梵字)があり、上にあげた天年号の建立年の他には、十月廿三日・十一人・施主・敬白の文字が刻まれている。クロス(十字)の隠符もなく、この11人が隠れキリシタンであるとする証拠は何もない。

author:u-junpei, category:隠れキリシタン, 21:00
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Comment
はじめまして。ちょっと前の記事にさかのぼりますが、愛宕神社のことで、愛宕の「宕」がウ冠に岩と書いてあると仰っていましたね。 ある古文書のなかに愛宕地蔵のことを書いているのですが、その愛宕もウ冠に岩のほうでした。時代も同じく1660年代ぐらいだと思われます。 当時はそういう風に書いていたんでしょうか? 
れもん香, 2013/07/23 1:40 AM









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