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二童子像刻青面金剛庚申塔


石仏は寺社に奉造されるだけでなく、いわゆる野仏としても建てられている。したがって、その歴史民俗遺産としての調査は地方自治体(教育委員会)が行っているようだが、中心となる人物や団体の力量で、その資料内容の出来具合がだいぶ違う。また、全く調査がなされておらず、町村史誌の民俗編にも掲載がないこともけっこうある。

我が館林の石仏調査はかなりしっかりしていて、各地域ごとの記録出版物として残されている。ただし、調査は昭和40年後半から50年代に行われ、今ではその出版物を手に入れることができない。
また、図書館にもその記録出版物が全冊はなく、私は教育委員会を訪れるなどして、資料を探すのが大変だった思い出がある。

庚申塔に特化した調査出版物では、「足利の庚申塔」(田村充彦・星野光行 著、2002年刊)が素晴らしい。これは足利市全域の庚申塔を全調査しており、私は館林の庚申塔を観察する上で大変参考になった。

その「足利の庚申塔」によると、足利全域で庚申塔は2345基を数える。館林は232基。この差は、足利には数十から数百を数える庚申塔群がいくつもあるが、館林には庚申塔群は1つもないからだろう。
これは山地に囲まれた足利と平野地にある館林の立地条件の違いや、大がかりな庚申塔群をつくった庚申信仰指導者の存在、あるいは庚申講そのものの違いもあるかもしれない。

しかし、例えば、青面金剛庚申塔の造塔割合をみると、足利は6%で140基だが、館林は34%で80基を数える。庚申塔建立の歴史でで言えば、館林には万治4年(1661年)のものがあり、足利最古のものより6年古い。
ただし、足利の庚申塔は数が多いだけに、立派なものも多いように思う。

また、青面金剛庚申塔は1660年代から1740年代にかけて盛んに造られるが、その後、なぜか急速に衰退して文字庚申塔に変わってしまう。この推移を見ると、青面金剛庚申塔は時代背景が伴う特異な民俗遺産として、きちんと残されてしかるべきだろう。

さて、前置きが長くなったが本題に入ろう。上の画像の青面金剛庚申塔が今回のテーマ。
これは先日「3県境」を見に行った際に、周辺を散策してたまたま出会った。場所は埼玉県加須市小野袋だが、詳しい地番とか、そこにあったお堂が何を祀るのかも分からない。

この庚申塔は享保元年(1716年)造立で、ちょっと見にはフツウの青面金剛庚申塔と変わらない。
だが、上に述べたような青面金剛庚申塔のなかでも、かなり珍しい形態に入るかと思う。



上の画像は、この青面金剛像の足元で、両サイドに童子が彫刻されている。青面金剛の儀軌によれば、2童子はそれぞれ手に宝珠や香炉を持っているとされる。
この画像では、何を持っているかはよく分からないが、2童子はかなりしっかりと浮き彫りされている。

2童子が彫られている庚申塔は、青面金剛庚申塔が140基もある足利でもわずかに2基しかない。元禄10年(1697年)と寛政12年(1800年)のもので、前者は市指定文化財、後者は県指定文化財になっている。
館林にも80基のうち寛文5年と年代不詳のものとに2童子があるが、磨耗が激しく、2童子だとようやく分かるくらいで状態は良くない。
ちなみに、足利の庚申塔は県指定1基・市指定5基が重要文化財になっている。残念ながら、館林には1基もない。

してみると、小野袋の青面金剛2童子庚申塔は、おそらく全国的にも珍しいものと思われ、貴重な庚申塔に位置づけて良いのではなかろうか。
ただ、画像のように全体的な保存状態は良いのだが、合掌している手の部分がちょっと欠けてしまっている。
もし、これが完全無欠で、私が加須市民でもあれば、指定文化財に推薦したいものだが・・・
author:u-junpei, category:石仏, 13:13
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Comment
その場所は、栃木市藤岡町下宮です。加須(北川辺)には、二童子付きが多いですよ。撮影済みですが、まだブログには書いてません。
青面金剛像, 2016/04/06 7:18 AM









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