- 新・反「隠れキリシタンイズム」 その7
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2018.02.03 Saturday
上は、松岡幹夫著「日蓮正宗の神話」で、著者の幾つかの論文からなる研究本。内容はかつて創価学会の総本山であった大石寺に関するもので、たいへん興味深いのだが、本稿の隠れキリシタンとは全く関係がない。
にもかかわらず、このブログの「読評」ではなく、「隠れキリシタン」のカテゴリーで取り上げたわけは、全文431ページ中のたった1行の記述にあった。もちろん、これは著者のあずかり知らぬことであろうことは間違いない。
上の画像は、古文書が引用されているページ(236頁)。これは大石寺14世法主から15世日昌に「金口相承」がなされた事実を、当人達が相互間で証明する文書で、日昌の請書に日付の記載があり、次のようになっている。
文録第五丙申天九月朔日 大石寺日昌花押
つまりは、天年号で表記されている。「文録」は正しくは「文禄」だろうが、古文書の表記が文録なのか、この本の誤記なのかは分からない。
文禄五年は慶長元年で1596年にあたる。日本史でいえば、この5年後の慶長五年に関が原の戦いが行われた。
フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を布教に来たのは1549年のことだから、上の古文書の年代には日本にキリスト教徒がいて、キリシタン大名とかもいたくらいだから、一般の信者人数も相当数いたことだろう。
だが、徳川家康の禁教令は1614年のことで、それ以後が「隠れキリシタン」ということになるだろう。ちなみに日本から宣教師が一人もいなくなったのは1644年以後だ。
隠れキリシタンと天年号の問題は、このブログの「隠れキリシタン」カテゴリーの主要なテーマになっている。私の「隠れキリシタンイズム」に反論する為の資料は、反証として十分に集めたと考えているが、もし、天年号の使用がザビエル来日以前からあると証明できたなら、完全に隠れキリシタン隠符説を否定することができる。
今回は、それに近い年代の天年号使用例を、上の本に引用された古文書にあることを見つけたことになる。
ちなみに、天年号=隠れキリシタン隠符説に対する私の批判は、下のブログにまとめてあるのでご参考までに。
もちろん、日蓮宗系の総本山寺院の法主が、隠れキリシタンであるわけがない。
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