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読評 「死体は噓をつかない」(ヴィンセント・ディ・マイオ ロン・フランセル 満園真木 訳)

 

「全米トップ検死医が語る死と真実」という副題が付いている。10件の事例を挙げて、死体の状況や解剖から死の真相を追究したノンフィクション。

 

アメリカでは現在でも住民選挙で選ばれる検死官制度というのがあるそうだ。その検死官はたいていは葬儀屋だったり墓地職員だったりするのだが、全米の検死局の4割は検死官制度で、医者でないものでも検死をし、死因を判断しているという。そういうことでは専門の法医学者である検死医の方が、真実に近づけることはいうまでもない。

 

ところが、アメリカの刑事裁判は陪審員制度なので、検事も弁護士も彼等の心証を自分側に良くしようとする。また、司法取引という制度もあり、犯罪の真実が問われるべき裁判が、恣意的にゆがめられることもあるようだ。人種差別というアメリカ社会に根深い問題も、司法判断に影響を及ぼしてもいる。

この本でも、著者の解剖所見では被告人無罪であると思われても、有罪になったり司法取引(早く出所できる)で有罪を認めてしまう事件が取り上げられている。

 

本書では、著者が検死医として扱った数十年間の事例のなかから、特に印象深いものを取り上げたのだろう。口絵に実際の写真が数ページあるが、事件がらみの死体というのは気味の良いものではない。

 

私が興味深かった事例は、ケネディ大統領の暗殺者であるオズワルドが、実は偽者だったのではないかという問題が暗殺当初から提起されていて、彼の死から18年後になって、それを確かめるために彼の死体を掘り起こし、本人か否か検証した話や、自殺したとされる画家のゴッホが、実は他殺ではないかという著者の論証などだ。専門の検死医の目を通せば、『死体は噓を付かない』というのもうなづけた。

 

日本でも、東京都監察医務院長だった上野正彦の「死体は語る」という本が出ている。こちらは日本での出来事のなので、より身近な印象を持った記憶がある。

 

最近、新潟女児殺害の犯人が逮捕された。女児の遺体は司法解剖が行われて、電車に轢かれる前に扼殺されていたことが明らかにされた。もし、監察医の解剖所見がなかったら、犯人の思惑通り、電車に轢かれた不慮の事故で片付けられたかもしれない。

 

検死医や監察医制度には、こうした大きな成果がありながら、なり手が少ないのが現状だという。アメリカでさえ専門の検死医は500人足らずだそうだ。日本では監察医務院があって機能しているのは東京のほか2都市で、全国の監察医そのものも常勤・非常勤を含め100人くらいしかいない。

これは3Kのせいもあるが、フツウの医者や開業医に比べて待遇が低すぎるのが大きな要因らしい。医師の使命感に頼るばかりでなく、待遇改善を国家的事業として図る必要があろう。

 

ちなみに、この本では、著者に二人の名がある。検死医はヴィセント・ディ・マイオの方で、ロン・フランセルはジャーナリスト。この2人がどのような役割で著作に携わっているのかは、本書や「訳者あとがき」でも触れていないのは気になった。

また、医学や心理学の専門用語がカタカナで出ているが、簡単な説明や語注とかはない。知識に疎い私のような読者には、なんだか不親切な訳本だと思いながら読んだ。

author:u-junpei, category:読評, 23:55
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