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読評 「五年の梅」(乙川優三郎 著)

 

小説を読むときに、本屋に出向くことがあれば、パラパラめっくって読書意欲が湧くかどうかをみる。そうでなければ、新聞の書評を参考にしている。最近は図書館で借りることが多く、後者が断然多くなった。

 

ところが、この本は私が留守のときに、山友が置いていった。したがって、全く前知識がない。作家も知らないし作品を読んだこともない。もし、帯のコピーにある『人生に近道などなかった』に興味をひかれなければ、この本を読むのも、それこそ「遠回り」したかも知れない。

 

この本には時代小説の短編が5編納められている。本の題名になっている「五年の梅」はその中の1つ。本は2001年に山本周五郎賞(第14回)を受賞している。賞としてどの作品が評価されたのかは分からないが、帯は「五年の梅」をあげているから、おそらくこれが主編なのだろう。

後で知ったことだが、時代小説家の山本周五郎の名を冠した賞でありながら、時代小説で受賞したのはこの作家が初めてだったという。

 

私は、時代小説フアンというほどではないが、嫌いではない。特にいえば、藤沢周平の「蝉しぐれ」や、山本一力の「あかね空」は好きな小説だ。それで、これらを読んだ後では、時代小説を読んで面白かったどうかは、これらが私の比較基準になっている。

 

「五年の梅」は最後まで読まないと、なぜ「五年」で「梅」なのか分からなかった。そういう意味では、他の短編も題名の付け方は、最後まで読んでなるほどと思うようになっているようだ。

 

たとえば、最初に納められた短編は「後瀬の花」という。「後瀬」は「のちせ」と読ましているが、私は「ごせ」って何だろうと思って読み始めた。

これは、いがみ合う男女が登場人物で、金を着服して逃亡している責任を押し付けあっている。私はこういう話は嫌いで、この作家はこういう醜さを描くのかと、危うく先入観に陥るところだった。

ところが、この2人は、追っ手から逃げて、崖から飛び降りていた。物語の最後に来て読者は初めて、この2人は亡霊なのだと知る構成だ。2人はお互いをののしりあったあとで、ふと冷たい体温を感じ、まだ生きているかも知れないと、2人して崖下に下りてみようとする。それで、作家は、ちっぽけだが、どうにもならない人生の悲哀を描いたのだと分かる。

 

最後に収録されている「五年の梅」は、他の4編とはちょいと毛色が違っている。猪突猛進型の若侍が主人公で、どうやら、正義感ばかりがはやり、体力勝負で頭はあまり良くないのだろうなと思わせる。

藩主に直情的に諫言したことから蟄居生活を命じられるが、だんだんと生きる為にはどうしたらよいかを学び始める。さらに好きだった女が不幸な結婚生活に沈んでいるのを知り、それを助け出すために知恵を絞るようになる。この辺りから、物語の真骨頂になるのだが、作家は若者が落ち着いた大人の男になっていくのを描き、読者に安心感を持たせるのが良かった。

 

この作家の特徴は、この本に限るのかどうか、他の作品(「行き場」・「小田原鰹」・「蟹」)の登場人物もけっこう醜い性格や情況に描かれる。それは生来の環境からだったり、人生の途中のふとした行き違いだったりするのだが、いずれもどうにもならないふうにまで描かれる。

それが物語の最後には、生きるにせよ死ぬにせよ、読者がホッとするように変える結末がある。私には、これが作家の持ち味のように思えた。

author:u-junpei, category:読評, 00:11
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