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読評 「人魚の眠る家」(東野圭吾 著)

 

今年初めての読書。こんなに長い間、一冊の本も読まないでいたのは初めてかもしれない。

未読の本は友人の蔵書を引き受けたのでいくらでもあるのだが、やはり自分で読みたいと思った動機がないと、なかなか読了に至らず、中途でやめてる本も何冊かある。だから、読書から遠ざかっていたのは、まさか、歳のせいではあるまいと・・・

 

この「人魚の眠る家」は映画の予告か何かを、テレビでチラッと見た程度であるが、直感的に面白そうと思った。

ただ、映画館へ見に行く余裕がないので、小説で読むことにした。2015年の作品なのだが、人気作家の小説で、しかも映画化になったばかりだったせいか、すぐに借りれなく順番待ちで今になってしまった。

 

読み始めて、重いテーマの作品だと知った。プールで溺れ、脳死状態になった6歳の女児が、まだ生きていると信じる母親の懸命な介護に加え、父親の会社の研究者により電磁的な工学システムで横隔膜を動かして呼吸し、電気的に脊髄反射を使い手足も動かす。外見だけ見れば眠っているようにも見える。結局のところ小学4年になる直前まで成長し、医師の間では密かに奇蹟の少女と呼ばれていたようだ。

題名の人魚と言うのは、自分の足で歩けないことから来ていて、いわば眠れる人形ということなのだろう。

 

この脳死状態というのが、いわゆる植物人間とは違う。法律の要件に従い、脳死判定を受ければ「脳死」となり、一切の延命措置を施さず心臓停止するまで臓器移植提供ができることになる。いわば法律上の死ということだ。だが、その状態でも親が脳死判定を拒否すれば、自然に心停止するまで人工呼吸器を続け、栄養補給もすることになる。

 

その脳死状態がどれくらい続き自然死するかは分からない。特に子どもの場合は確定的なことはいえないのだそうだ。もちろん、脳は死んでる状態なので、復活するということは100%ない。

 

したがって、この脳死状態はいわば眠っている状態とは違う。小説の女児の場合は、いわば電気的な手法を施して生きているのだが、他人の目で見れば死んでいるのと異ならないのだ。だが、誰しもそれを親の狂気やエゴなどと批判できないだろう。

 

この小説は脳死と臓器移植という医療の現状を背景に、人の死とは何かを問う重いテーマであったが、小説としては、さすがに東野圭吾だけあって手馴れているとはいえ、エンターテイメントとして成功している。最後のシーンはここには書かないが、ホッとし読後感は良かった。改めて、映画も見て見たいと思った。

author:u-junpei, category:-, 20:50
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