太田市市場町に琴平神社がある。由緒は不明であるが、山田郡誌には「市場の琴平様」として、次のような記載がある。
『毛里田村大字市場にあり、癪の神にて三月十日・十月十日を祭日とし、病そこぬけとなるたとへより祈願せる者、全快すれば柄杓の底をぬきしものを奉納す。』
街中にある琴平神社の境内には、狭いながらも柄杓の奉納所がある(下の画像)
穴の空け方に決まりはないようだが、柄杓の底を抜いている。木製や竹製もあり、かなり古いことがうかがわれる。
「癪の神」とあるが、癪(しゃく)とは『腹痛・胃けいれんなどのために起こる、胸部・腹部の激痛で、中高年の女性に多い』(明解国語辞典)という病の俗称で、実際には胃がんや乳がんを含む重大な病気なのだろう。
讃岐(香川県)の金刀比羅宮が琴平神社の総本社で、その主祭神は大物主命=大国主命だそうだ。大国主命は「因幡の白兎」の伝説で知られるように医薬の神様でもある。「癪の神」といのもそういうことだろう。
穴を空けた柄杓を奉納する例はほかにもある。静岡県伊東市の音無神社や東京都府中市の大國魂神社などでは、安産の祈願に穴の空いた柄杓を奉納している。
これは、穴から水が流れ落ちるように赤ん坊が出てくるイメージからだろう。
栃木県足利市の門田稲荷神社は、「縁切り稲荷」で悪縁を切る願掛けに穴あけ柄杓を使っている。ここは隣市で近いから、どんな様子か見学してみたいとは思うが、凄まじい呪いを込めた絵馬がたくさん奉納してあるそうで、安易な訪問は躊躇するものがある。
他に癪の例はないか調べていたら、群馬県の太田市史(通史篇民俗)に「牛沢の雷電神社」があった。
これは、『牛沢の雷電神社を信仰すると、シャクがなおるという。なおるとひしゃくの底をぬいて、「底ぬけになりました」といってお礼にあげた』という。祈願理由は市場の琴平神社と全く同じだ。
この雷電神社は朝子塚古墳の墳頂にある。ネット情報には画像もあったが、柄杓の奉納には触れていない。
朝子塚古墳は全長123mの前方後円墳で、群馬県指定史跡になっている。朝子塚(ちょうしづか)という名前の由来にも興味があるが、現在は柄杓の奉納はしていないのか、確かめに行ってもいいと思っている。
もし、太田市史に書かれてる奉納の事実がないとすれば、医学の進んだ現代には、神様も住みづらくなったかも・・・。
]]>
この本は「古事記」から始まり、明治の「武士道」まで24の古典を、教科書では扱わない(時にHだったりし、教科書検定に通らない)古典の猥雑な内実を紹介するもの。それゆえ、排除される側=野というコンセプトで「野」の冠が付いている。
だが、著者は能楽師であり、この講座(著者の主催する社会人向けの寺小屋で、普段しゃべっているスタイルで書かれている)の多くは、能の視点から解説しているうえに、古典を読むには能の謡のように声を出したりして、『身体的』に取り組むと良いと一貫して勧めている。
したがって、著者は明言していないが、「野=能」に掛けているのかもしれない。そうだとすると、「能から見た古典」ということで、本書の内容にぴったしだと思って読んだ。だが、能は一般人にはマイナーな感があるから、この題名では売れなかったかも知れない。
特に興味深く読んだのを紹介すると、
第五講『論語』はすごい
論語の中のいくつか代表的な言葉をテーマにしている。その最初にあげているのが、論語の「四十にして惑わず」いわゆる「不惑」についてで、孔子の時代に「惑」の漢字はなかったことを指摘する。
したがって、「不惑」と孔子が言うわけがない、と著者はいう。
では、何かというと、著者は孔子が言いたかったことは「不或」ではないかとする。意味は「或(くぎ)らず」で、自分を限定せず、可能性を広げることで、四十を過ぎたら、『いままでまったく手をつけなかった分野のことを極めてみる。苦手だと思っていたことにトライする。それが孔子の勧める生き方なのです』という。
私は四十歳ころ、自分は不惑どころではないなあと、自分を卑下したものだ。反面、なぜ孔子はこうなことを言うのかずうっと不思議でもあった。「惑」の字はなかったということから、私は著者の考え方に大いに賛同する。
第十九講 ゆっくり歩く
健康のためのウォーキングは少し早めに(1時間に5,6km)歩くと良いといわれる。ところが著者は、1時間4kmのスローウォーキングを勧める。『時速一里でたらたら歩きながら、途中の景色を楽しみ、植物を愛で、雲を眺め、感興が湧けば句を詠む。そのなかでいつのまにか自分も風景の一部になっている、そんなスローウィークを薦めています』という。
これは著者が2010年から始めてることで、引きこもりの人たちと一緒に、「おくのほそ道」を1週間から10日ほど、1日8時間ほど歩くそうだ。すると、まず、彼らが作る俳句に変化が起きるという。歩いているうちに体験する様々な自然現象と対峙して、その中で俳句に必要な季語を探すことから、自然を強く意識して一体化する、すると季語と彼らの心象風景がかさなるようになるという。
それは、『彼らの意識を拡張させ、「自分」という小さな殻に閉じこもっていた自己を解き放つことにもなり、抱える苦しみや悲しみに対する見方も変わってきました。その変化はやがて表情に現れ、次いで行動に現れ、そして多くの人たちが引きこもりをやめました』という。
正直、すごいなと思った。
そんな効果もある旅が、十九講で取り上げてる芭蕉の「おくのほそ道」で、芭蕉が旅した距離は全行程2400kmだという。旅を始めたとき芭蕉は46歳で現代の感覚では70歳くらいというから、まさに死出の旅だったというのも頷ける。
著者は、芭蕉のこの旅の収穫を次のように述べている。
『おかしみ(笑い)を尊んだかつての俳諧を否定し、風雅の誠というコンセプトを確立した芭蕉が新たなステージで獲得したのは、おかしみと風雅の誠を統合した、「軽み」だったのです。』と。
その「軽み」の俳句は、旅の後半、大山で泊まった時のもので
蚤虱馬の尿する枕もと
なるほど、「夏草や兵どもが夢の跡」と源義経の鎮魂を目的にした旅の前半とは、まるで雰囲気が変わっている。
この本は、私にとって、大いに勉強になった一冊だった。これは図書館で借りた本であるが、私の書棚にも置いておきたいと思うほどだ。残念だが、終活の年代なので、書物の購入はできるだけやめている。
惜しむらくは、もっと若い時に啓蒙されていたら、人生をもっと豊かに過ごせただろうと思った。
]]>
「サクラやモモ等を枯らす クビアカツヤカミキリ を発見したら、たたきつぶしてください!!」とある。
これは桜の木に巻かれたネットに付けられた表示で、この昆虫の絵と特徴・発生期が書かれている。
群馬県では、私の地元館林を含む東毛地区が、最初の発生地になったらしい。おそらく、今年はもっと拡散しているのではないか。
画像は足利市郊外を流れる矢場川河畔の桜並木で撮ったもので、両毛地区(館林太田・足利佐野)に広まっていることをうかがわせる。
コロナウィルス対策が後手後手に回り、どうにも拡大を止められない。同じように、この昆虫も気が付いた時には手遅れになっていることが多いようだ。
「発見したら、たたきつぶして」とは、市民に向けた要求だろうが、こうした行為は、なかなかできるものではない。少なくとも、ゴキブリを怖がる者には無理だろうと思う。
私の教室には、いろんな虫が入ってくるが、平気で掴める生徒はおよそ皆無だ。黒い虫はみんなゴキブリに見えるらしい。
夏になると、カマキリやアブラゼミなどが玄関先に来たりする。アマガエルは図々しく入って来るが、男子でさえ怖がっているのは不思議でならない。
そんな状況を見てるので、「たたきつぶせ」と言われてもなあ、というのが正直な感想だった。
]]>
矢場川の「矢場」には、どんな由来があるのだろうか。それを明らかにするのが、私の矢場川遡行の第2の目的だった。
武士が馬術の訓練をした場所を「馬場」という。今でも名の残る江戸の高田馬場がそうだ。ならば弓術の訓練場を「矢場」といったのではないか。矢場川の流域のどこかに矢場があり、それで川の名前も矢場川になったのではないか。
そう思い、矢場を調べたら、元来は弓矢の鍛錬をする場所のことで間違いなかった。ところが、江戸時代になると、弓の射的が庶民の娯楽になり、かつ、そこにいる商売女目当ての場所となり、それも「矢場」と称されたという。
ちなみに、吉原のような幕府公認ではないから、矢場での売春は違法行為で取り締まりの対象だった。運悪く捕まったら色々と大変だったろう。それが「やばい」の語源だそうだ。
また、非公認の宿場を「間の宿(あいのしゅく)」という。宿場には「飯盛り女=遊び女」を置くのが認められていたが、間の宿には公式には認められていなかった。正規の宿場は維持管理費用がかかるので、いわば見返りとしての差別化だった。
「矢場川考その4」で述べたように、日光例幣使街道が矢場川を渡るところに新宿があった。これは正規の宿場ではなく間の宿だった。そんな宿場に歓楽目的の「矢場」があってもおかしくはないだろう。
と、考えながら、矢場川遡行をしていたのだが、文献を調べてみると、どうやら私の邪推だったようだ。
矢場川がまだ渡良瀬川の河川だった、鎌倉時代から室町時代ころ、矢場川上流部から中流部にかけてを矢場郷といった。
矢場郷は天正年間(1573年〜)に藤本・里矢場・本矢場・新宿に分村するのだが、天和二年(1682年)に再び合村し矢場村になっている。
ちなみに、これら4村は現代の町名にもつながっているのだが、明治以降昭和に至るまでに、数回にわたり太田と足利に振り分けられている。それがこの辺りの県境が矢場川ではない原因になっている。
山田郡誌によると、新田郡を支配した横瀬氏に連なる矢場十騎と称する武士団が、矢場郷の地を支配していたようだ。
さらには、矢場の「矢」は「谷」のことだという。この「谷」はV字谷を表す「ヤツ」ではなく、緩傾斜地の湿地を指して単に「ヤ」と呼んだのだという。
そんなこんなで、私の矢場歓楽説は否定されるようだ。だが、なぜ「谷場」をわざわざ「矢場」に変えた理由が分からない。やはり、しつこいようだが、「純粋な意味での矢場」があったのではなかろうか。矢場郷に武士団がいたなら、弓矢の訓練をした場所もあっただろう。もしくは、獣を弓矢で射る狩り場のような場所とか・・・
ちなみに、上の画像は太田市指定天然記念物で『市場の大ケヤキ』と呼ばれるもの。矢場川の琴平橋右岸にある。樹齢500年を超えるという巨樹で、根元から幹が3本に分かれ、根回り14m、樹高23mほどあるという。真ん中の主幹には大きな空洞(画像の裏側)があり、ボロボロになって痛々しいが、樹勢は衰えていないそうだ。
琴平橋の辺りは矢場川の最上流域で、この辺りは、それこそ「ヤツ」と呼んでも良いと思うほど、深く抉れた幅狭い水路になっている。
この大ケヤキなら、戦国時代の矢場川が、渡良瀬川の河川だったことも見ているだろうし、「矢場」の本当の由来も知っているに違いない。
]]>
矢場川の遡行をしようと思い立ったとき、当然ながらまず第一に、最終目的地となる水源はどこなのか調べた。
手っ取り早くウィキペディアで「矢場川」を見ると、『太田市市場町字八幡林に源を発し、上流は足利市を流れる・・・』とある。
そこで、地図上で出発点の落合橋から上流をたどり、矢場川の行きつく先を見てみた。矢場川の表記が詳しいのはグーグルマップで、それによると、矢場川は最後に北関東自動車道に行き着いて途絶える。
この自動車道ができる前は、矢場川はさらに延びていたはずだ。すると水源は市場町でなく、さらに北西の太田市只上町に入り、もうちょっと延ばせば渡良瀬川に行き着いてしまう。
もう一つの手がかりとして、ウィキペディア「矢場川」には、上流から下流の渡良瀬川合流点までの橋梁名の記載がある。これによると、一番上流の橋は矢場川橋(栃木県道・群馬県道5号足利太田線)で、この橋と私が出発点にした落合橋との間には、31橋梁あり、そのうち7橋梁は名称不明となっている。
そこで、名称不明橋の名を明らかにすることも、私の遡行目的に加えることにした。これらの名前は全て画像に収めたが、矢場川橋が最上流の橋ではなかった。さらに矢場川上流には5つの橋が存在している。
群馬県のHPで、県内を流れる一級河川の表をみると、矢場川の上流端は「太田市大字市場字八幡林685番の4地先の取水堰」とある。大字・字名で表記されているのは、おそらく表を作成した時点のままで、その後の新住所表示に改めてないのだろう。
そこで、「太田市市場町685番地」で地図検索してみたら、上の画像付近を示し、すぐ近くに取水堰もあった。ここはベンチがあり親水公園のようになっているが、手入れはされていないようだ。夏草の季節には近寄れないかもしれない。
下の画像が、その取水堰。
後の調査で知ったことだが、この取水堰は「市場堰」といい、この取水堰より下手を矢場川という。つまり、一級河川としての矢場川はここから下流になる。これより上流は、河川法では矢場川ではなく、渡良瀬川の太田頭首工を起点とする「矢場川水系」の導水路といことになる。
なお、視認できる導水路は北関東自動車道脇までで、そこから太田頭首工とはパイプラインと暗渠でつながっているという。
ちなみに、この地点から北方向に300mくらいのところ八幡宮がある。それで、ここら辺りの小字名を八幡林といったのかも知れない。
]]>
日光例幣使街道が矢場川を渡る橋を新宿橋という。
この辺りは、現在は栃木県足利市新宿町だが、かつては群馬県山田郡新宿村だった。
新宿の由来は、山田郡誌によると、「新宿はアラシュクと称し、旧例幣使街道の通路に出来たる宿駅に因めるか」とある。
例幣使街道が国境(矢場川)を挟む正規の宿場は太田宿(上野)と八木宿(下野)で、この間は約8kmある。新宿は大体中間点くらいだから、距離的にみれば、ここに宿駅=宿場が必要とは思われない。
それとも、朝廷の軟弱な公家には長旅はきつく、短い距離でも休憩が必要だったのだろうか。あるいは、矢場川が増水で渡れないなんてことを想定しているのだろうか。
ちなみに、例幣使街道の宿場間には、1?とか2kmなんてのもあるから、なにか他に理由があるのかもしれない。
新宿橋の右岸に長浜観音堂がある。この観音堂の南面に、如意輪観音像が浮彫りされた念佛供養塔(上の画像)がある。養の字が異体字の「羪」になっている。最近、古文書の文字に関心があるので興味をひかれた。
石仏の左側面に「上?山田郡矢場新宿村願惣村中」、右側面に「寛政五丑年十一月吉日」とある。寛政5年は1793年だから、江戸時代後期に造られたものだ。
台座に道標べが彫られている(下の画像)
「右たて者やし」(「者」は旧仮名の「は」で、くずし字で彫られている)、「左さの道」(「道」は、くずし字)と書かれている。だが、この供養塔の置かれてる現在地では、道標が指し示す方角が合わない。
観音堂前に由来が書かれた案内板がある。それによると、元は八坂神社近くにあったという。地図で見ると、その神社は現在地から600mほど離れた旧例幣使街道沿いにある。この供養塔も一緒に移転して来たのだろうか。
例幣使街道は矢場川を渡ると、八木宿→梁田宿→天明宿(佐野市)と続く。したがって、もしこの供養塔道標が例幣使街道沿いにあったなら、館林方向と併せて、設置された場所が特定できるのではないか。
そう思いながら、この周辺の道路地図を眺めているのは面白い。もっとも、江戸時代の道路筋は、現在の道路地図とは大分違っていたに違いない。
]]>
県道38号線(足利千代田線)が矢場川を渡る橋を両毛橋という。東京の両国橋が武蔵国(東京)と下総国(千葉)を結んでいるのに因み、両毛橋も上毛(群馬)と下毛(栃木)を結ぶことから名付けたという。
だが、現在の両毛橋は左岸は足利市堀米町、右岸も同じく足利市藤本町なので、ふたつの国を跨いではいない。この辺りでは矢場川が県境になっていないのだ。
正確に言うと、両毛橋の少し下流にある足利島橋の辺りで、県境は矢場川を離れ西に2kmほど延び、それから直角に北に向きを変える。以後は湾曲しながら、ノコギリの歯のように県境が入り組んでいる。
したがって、矢場川の最源流部は栃木県側に突き出た群馬県太田市市場町なのだが、上流域のほとんどは栃木県内を流れている。
かつて、矢場川上流部の村々は上野国山田郡だった。明治22年(1889年)の町村制施行、同26年(1893年)の分村、さらに昭和35年(1960年)の足利・太田市への編入によって、この辺りでは矢場川が県境ではなくなってしまった。
あるいは、矢場川の流路そのものが、現在とは違っていたのかもしれない。
両毛橋の右岸に矢場川浄化施設があり、その一角に両毛橋由来が書かれた石碑がある。その案内板によると、上記の橋名由来のほか、最初は木橋が架かっていたが、県道の新設により交通量が増加したため、地元の有志200余名の寄付により、安全な石橋にしたのだという。
この石橋を「華麗な」という言葉で形容している。建設当時(大正2年)地元民自慢の橋だったのだろう。
現在の橋は2代目だという。欄干の4ヶ所の袂に2匹の魚(コイだろうか)が、優雅に遊泳しているレリーフがはめられている。
これが初代の石橋に取り付けてあったものかは記述がない。矢場川に架かる全ての橋(名前の分かる橋で40橋ほどある)の中で、装飾レリーフがあるのは両毛橋だけだった。名前の由来と併せて印象に残っている。
]]>
前回の、常楽寺の裏手の土手を散策中に、少し腰が曲がりかけたお婆さんが、矢場川の土手を一人で歩いているのに出会った。声を掛けて聞くと、上手に橋があり一周するのが日課だという。その橋は見えないが、すぐそこみたいなことをおっしゃる。30分くらいのウォーキングだそうだ。
このお婆さんがやってるくらいなら、足腰の弱ってる私にもできるだろうと試しに歩いたのが最初で、前回述べた「落合橋」をスタート地点にして、次の「足森橋」まで歩いた。天気の良い日を選んだこともあるが、菜の花が咲きだした春先の土手歩きは気持ち良い。
1回やってみると欲が出て、どうせなら源流部まで行ってみようと、全9回の遡行で目的を果たした。1回ごとに車を停めたところに戻るため、左岸あるいは右岸と周回し、どうやらフルマラソンくらいの距離を歩いたことになった。
館林から太田に向かう国道122号線で、矢場川が最も近接するところの信号を北に入ると小曾根橋がある(落合橋からは、この間に足森橋・八幡橋・鶉橋・平成橋がある)。
この橋脇の左岸の土手を広くし、駐車場と東屋が設置されている。ここに国土交通省の道標があり、それで合流点から6km地点だと知った。
さらに、これより上流600mのところで、矢場川は二手に分岐する。その場所が上の画像。ここから上流には土手はなく、コンクリート岸で、中河川というより水路掘の趣に変わる。さらに上流地区になると、まるで用水路になってしまうのだが・・・
上の画像で左から分岐に来る川はすぐ上流に橋がかかり、橋げたに「千原田橋」と「矢場川第二捷水路」という銘板がある。この捷水路は、下に述べる旧矢場川の先で藤川と名称を変え、管轄も国土省から群馬県になっている。
したがって、画像奥からの流れが矢場川本流で、この分岐点からの県境も本流ルートになっている。
ちなみに、「捷水路」とは、曲がりくねって蛇行する川を直線的にショートカットするように、新たにつけられた流路をいう。
この辺りの地図を見ると、県境は、分岐の矢場川本流を1?ほどいった「下の宮橋」手前にある小公園のところで、本流から離れ左側に入るようになる。蛇行し湾曲している県境は、いかにも古の流路を思わせて興味深い。
地図に明らかなように、ここは群馬県側の邑楽町と栃木県側の足利市とがコブあるいは巾着のように、隣り合わせに出っ張りあっている。捷水路ができる以前、その縁を県境となる旧矢場川が蛇行して流れていたのであろう。
現状では、第一捷水路(本流)の押切橋のすぐ上流に堰があり、旧矢場川に分水し、流れは小川のようになって蛇行し、第二捷水路まで流れたのち1.5kmほど下り、赤谷戸橋の少し上流の堰で、もう一度旧矢場川に水流を入れ、大きく湾曲した流れになり第一捷水路に戻っている。
なぜこんな面倒なことをするのか。県境となっている旧矢場川を残すためであろうか。この水路の様な旧矢場川には遊歩道が設けられているのだが、とくに下流の方は魅力的な雰囲気ではない。おそらく、ここを散策やウォーキングする人は、よっぽどの物好きだろう。そう思えるほど寂しい遊歩道だった。
本流から分水された上流部の旧矢場川には、中ほどに公園のような「こぶな村」がある。かつて矢場川浄化運動を始めた連中が作ったそうで、それを伝える石碑がある。
今でも活動しているかは分からないが、この小川の水質は澄んで川底が良くみえる。魚が棲んでいるか覗いてみたら、コイと思われる大きな魚影があった。
足利市域の大コブの中は工場団地や住宅地で、南の矢場川第二捷水路に羽刈橋、北の矢場川本流に押切橋が架かり、県道で群馬と栃木が結ばれている。
ところが、邑楽町域の小コブは、第二捷水路に千原田橋と赤谷戸橋の2つの橋が架り、中には住宅もあるが、道路は行き止まり、栃木県側に抜けることができない。
邑楽町にしか出られないのは不便だろうが、コブの奥には公有地か私有地か分からないが、広大な空き地が広がっている。
]]>
矢場川は館林の北の郊外を、西から東に流れている1級河川で、館林の北東部で渡良瀬川に合流している。
それゆえ、矢場川は渡良瀬川の支流の1つなのだが、戦国時代末までは渡良瀬川の旧河川で、渡良瀬川=矢場川だった。
渡良瀬川は大間々台地(現在のみどり市)から関東平野に流れ出ると、ほぼ直角に東向きに流れを変えている。
ところが、地質地理で読み解くと、古代ではそのまま南流していたが、1〜5次にわたって段々と東向きに向きを変えてきたという。おそらく、大雨が降るたびに氾濫を繰り返した結果であろう。
矢場川が渡良瀬川の旧河川だったのは、その第5次の段階だという。面白いことに、現在でも群馬県と栃木県の県境が、渡良瀬川ではなく、矢場川になっているのはそのせいだ。
館林には多々良沼や近藤沼をはじめ、大小の沼が多くある。私は高校生の時、地理の教師にこれらは河川が残留した沼だと教わった。
その先生の授業で、館林高校の南に広がっていた田園地帯に、河岸段丘の跡を案内されたときの様子は印象深いものがあった。この時の体験が生きてるせいか、今でも館林の郊外を歩くと、「ああ、ここは川が流れていたんだろうな」と想像つくことがある。
上の画像は、上流から蛇行を繰り返し流れてきた矢場川が、館林市木戸町で多々良沼から流れ出る多々良川や姥川と合流する地点で、背後の水面が見えるのが矢場川。
ここは「弁天渕」といい、地元の郷土史家?氏が立てた案内板がある。
この説明板に書かれた由来が興味深い。
『弁天渕
足利義兼は源頼朝の再従兄弟で頼朝の妻、北条政子の妹時子と結婚し、「木戸堀の内」の館に住んでいた。
義兼は鎌倉に在って兄頼朝の手伝いを終わって舟運にて多々良沼北岸に上陸した。途中、鶉を捕まえて江川を渡り、杉の木林に上陸し、妻時子の待つ「堀の内」に着いた。義兼は航行の無事を祝って、上陸地点に弁財天を祭った。これを杉森弁天と云う。そして鶉を捕まえた処は地名「鶉」となった。
館林城主徳川綱吉は、木戸郷の西北に古墳塚をこわして土手を築かせた。従って杉森弁天に接する土手を「弁天渕」と称した。
義兼は時子や部下達の霊を供養する為「大日堂」を建立したと云う。真言宗常楽寺の前身と言われている。』
常楽寺は多々良川の右岸にある古刹で、私はここにある石仏を訪ねて来て、裏の土手を散策した際にこの画像を撮った。この時点では矢場川を源流めざして遡行してみようという気は、まだ少しも抱いていなかったのだが・・・
ちなみに、ここは渡良瀬川と合流する地点から、およそ3kmの地点で、すぐ近くに木戸町を通る足利街道が矢場川を渡る「落合橋」がある。
実は、この「落合橋」にも興味深い伝説がある。源義経が兄頼朝に追われ奥州に逃れるときに、手助けをした金売吉次と落ち合ったのがこの場所だという。もっとも、当時はこれより500mほど下流にあったらしい。
この先、国道50号線に入り、足利方面に進むと間もなく、吉次の名前を冠した歩道橋がある。近くに彼の墓があるそうだ。
]]>
太田市龍舞町の田園地帯に、昭和48年に水田の土地改良整備の際に、偶然発見された古墳群がある。6世紀前半のもので、13基を数えるという。
そのうち4号墳は帆立貝の形をしていて(主軸長22.5m、後円部直径17.7m)出土した埴輪は300以上に上る。
埴輪は円筒埴輪のほか家・楯・太刀・馬・人物など、出土位置もほぼ明確で、これらの埴輪集団は「埴輪祭式を表現」したものとして、一括して国の重要文化財になっているそうだ。
4号古墳は整備されて古墳公園になり、昭和53年に群馬県指定遺跡になっているというが、私はこの古墳の存在を知らなかった。
この古墳があることは、道路地図などには載ってないし、駐車場もないから、古墳マニア以外は知る人ぞ知る古墳かもしれない。
なにしろ、見渡す限りだだっ広い区画整理された水田地帯の中にある。「塚廻り」という名称だが、周囲に塚らしきものは残っていないので、場所を探すのに一苦労するかもしれない。
以前、埴輪で唯一の国宝の『武人ハニワ、群馬に帰る!』という展覧会を、群馬県立歴史博物館に見に出かけたことがある。その時の感動を思い出しながら、ここに並べてある埴輪集団をしばらく眺めていた。
全体に小ぶりかもしれないが、人物埴輪の一つ一つは表情豊かなのだ。上の画像の中央にいる椅子に腰かけてる男が、この集団の族長で、祭祀継承の儀式を表しているのだろう。
この古墳の様子や、出土埴輪については、下記のサイトに詳しい。
tukamawari.pdf (city.ota.gunma.jp)
]]>
この「対決!日本史」は、私はタイトルの「対決!」に惑わされて、対談者が「対決」して論争を繰り広げると思って読み始めた。だが、それは私の早とちりだった。
世界史的観点について、対談者は歴史観を含め、ほとんど共通の認識をしている。重商主義と重農主義という経済社会構造の基本的相違や、旧保守勢力や宗教と権力の関わり方など、歴史上の登場人物たちの様々な行動があり、それが本書でいう「対決」だった。
そのうえで、本書では互いの実体験や専門分野の知識で語り合い、読者をより深みのある歴史認識の世界に引き込んでいる。
副題に「戦国から鎖国篇」とあるように、この時代は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が次々に国家権力を握っていく。その時代背景には、日本史的認識では不十分で、世界史で見る様々な事象がカギを握っている。
具体的にはポルトガル・スペインの世界分割の植民地化と、その背後にあるカトリック教会という構図だ。キリスト教を宣教したイエズス会はその先兵で、いずれ日本にも植民地化が迫っているという時代背景がある。
端的に、イエズス会は軍隊組織なのだという。私はこれまでそこまでの認識はなかった。
最近の大河ドラマの主人公だった明智光秀についても、私はTVを見てないので承知でないが、対談者は単に怨恨による謀反だとは見ていない。
秀吉は毛利に本能寺の変の事実を話し、毛利から鉄砲500丁を借り受け、さらに人質までとって京に引き返してきた(「徳川実記」に、そう書かれているという)。
それが可能だったのは、秀吉の背景には海外勢力(イエズス会)があり、足利幕府の再興を謀る旧保守勢力や光秀に対し、秀吉は毛利がどちらにつくかの選択を促したのだという。これは当時の日本でも世界情勢ぬきにして語れないということだろう。
例えば、教科書的に見ると、鉄砲伝来はポルトガル船が種子島に「漂着」したとなっている。だが、当時の状況をみれば漂着などありえなく、ちゃんとした戦略のもとに、計画的に種子島に到着したはずだと対談者は看破している。
秀吉は朝鮮出兵の際、長崎がイエズス会に寄進され教会領になり、大砲を備え要塞化されているのを実見した。危機感を抱いた秀吉は宣教師の国外追放(バテレン追放令)を決断している。この時、長崎から日本の植民地化はすでに始まっていた。へたすれば長崎はマカオや香港のようになっていたかもしれない。
それでも秀吉は重商主義政策をとったが、家康は関八州の経営政策の成功体験から、重農主義と鎖国政策を行った。これは結果的に徳川幕府275年間の安泰と、同時に日本の植民地化を防いだことになる。
さらに「戦国から鎖国」という事象も、いずれは幕末の開国や明治維新と結びつく。歴史が持つ類似性を鑑みれば、歴史を学ぶということは、現代を読み解いていくことで、そこに意味があるはずだ。
そのために、安部竜太郎は次の3つを挙げる。
?歴史についての情報量
?歴史と対峙した経験
?そこから生まれる発想力全体を「歴史的な教養」とする
私はこれを読んでいて、若い時にもっと歴史を学んでおくべきだったと思った。
さらに、私が興味深かったのは、佐藤優は同志社大学で神学を学んだキリスト教徒でプロテスタントだが、その視点からカトリック教会=イエズス会をみていることだ。
それゆえ、キリシタンの殉教や踏絵をするのを背信と考えるのは避けられたことだとする。悲劇が行われたのは、イエズス会のキリスト教指導が信徒に対し説明不足で間違っていたからだと、専門であるキリスト教神学から、その理由を明確に説明しており、私は大いに納得できた。
他にも、十字架は十字軍による異教徒(イスラム)征服イメージがあり、チェコのプロテスタント教会の多くは、それを避けて十字架ではなく、ワイングラス(ワイン=キリストの血)がシンボルになっているという。
これは初めて知った。ちなみに、彼の専門はチェコ神学だそうだ。
その他、イエズス会関係の事柄は私には新知識が多く、それが歴史的事象にいかに強く結びついているかを知った。老齢になっても、知識欲が引き出されたということで、この対談本はとても興味深く面白かった。
近頃読んだ中では一番のお勧め本だと思う。
]]>
人類が猿から人へ進化した起源は、アフリカ単一起源説が従来の通説だった。これは新たな化石の発見や、様々な年代測定技術の発展によって、近年では異論・反論がなされているようで、本書もそれに組している。
それは、本書の「まえがき」で
『本書は、人類発生のためにどのような進化ステップが必要だったのか、という疑問を追っていく。類人猿が困難な環境に適応したことから始まり、直立二歩行に光を当て、人類の進化がアフリカで進行したわけではない理由を説明し、われわれの種族がほかのヒト科の動物と共存した世界を描写する』
とあり、こういう進化論に興味がある人には面白い本かも知れない。
私も興味があると思って読み始めたのだが、残念ながら、私には予備知識や想像力というものが不足していたようだ。つまりは、読んでいて内容が頭に入ってこなかった。
共同著者は他に2人いて、一人は科学ジャーナリスト、もう一人は映画プロデューサーとプロフィールにあるが、それぞれがどの著述を担当したのか、訳者も書いてないので分からない。
そういう専門があるなら、記述内容に画像などを掲載できただろうし、何百万年かにわたり、その間に人類と共存していた動物の様子とかも視覚的に分かる。
いわば、私のようにカタカナ表記だけの動物名では様子が分からない、知識や想像力不足を補ってくれたはずだ。そんな本だったら、読むのも楽しかったかもしれない。
それはともかく、この本を読み終えたのは、もう一つの関心ごとがあったからだ。それはアメリカ大統領バイデンの最近の次のような発言だった。
『何も問題はない、マスクを外そう、なかったことにしよう、というネアンデルタール人のような考え方は、何よりもしてはいけないことだ』
これは、テキサス州とミシシッピ州が、マスクをしないでよろしいという方針を打ち出したことへの批判だ。
私は、この本を読んでいた最中だったが、何でここにネアンデルタール人が引用されるのか分からなかった。
ネアンデルタール人はホモ・ネアデルタレンシスで、われわれ人類のホモ・サピエンスとは、私の理解で言えば先輩後輩の位置で進化したヒト仲間だ。
バイデン大統領は、ネアンデルタール人は絶滅した種族で、新型コロナウイルスにマスク不要というのは、ホモサピエンスの意味である「賢い人」ではないと言いたかったのだろうか。
ちなみに、本書でも触れているが、ネアンデルタール人の遺伝子は、われわれ現代人の遺伝子に1〜4%残されているという。これはネアンデルタール人とホモサピエンスが交雑したことを意味している。
さらに、ネットで読んだのだが、そのネアンデルタール人の遺伝子の中に、新型コロナウイルスで重症化するDNAが見つかったそうだ(沖縄科学技術大学院大学ペーボ教授)。
バイデン大統領の発言は、この研究が裏付けにあったのだろうか。コロナウイルがネアンデルタール人の絶滅原因になったかもしれないと考えると、大統領の発言は納得できる。
もっとも、同教授の2021年の研究発表では、軽症化につながるDNAも見つかったようだ。4万年前にネアンデルタール人は絶滅したというから、その原因は何とでもいえる想像力の問題かもしれない。
]]>
江戸が「大好き」になるかはともかく、くずし字が読めるようになりたい一心で読んでいるので、その時代の諸々を知るのは興味深くはある。
当時の文書は筆書きであるから、書いた人の癖もあろうし、各人のくずし字にも違いあるはずだ。それでも大体共通するということは、江戸時代の文字の手習い教育が、日本全国およそ一律に通じていたことを意味する。
これは、江戸幕府という制度が長く続き、当然ながら、文書にも制度的な共通性が求められたからに他ならない。
この本では、江戸の大呉服店だった白木屋日本橋店(後々の東急百貨店)の店の決まり事を書いてある「永録」の一部と(第1章)、店員の不行跡とその処罰を書き残した「明鑑録」から一例を取り上げ(第2章)、くずし字を学習する構成になっている。
私がより興味を持ったのは第1章で、その一つは次の画像の決まり事だった。
ここには、『一つ、内外とも大酒たべ候こと無用に候、酒呑み候儀は、御店定法にもこれ有る通り、三十歳過ぎず内は、法度の事に候・・・』とある。
つまり、役員以外店員の飲酒は30歳まで禁じられている。客を接待する時も、自分は酒は飲めない質なのでとか言って断れとも定法にあるという。
これを厳しいとみるかどうかはともかく、規則にあるということは、著者も言ってるように、おそらく守らない者が結構いたのだろう。
私は20代で酒を飲んでいて、高齢者になった今も飲んでいるような者だから、白木屋の若衆(店員)には決してなれなかっただろう。まあ、規則を破って懲らしめられていたのは間違いない。
白木屋は台所衆を含めて、すべて男だった。それゆえ、私の関心は店員の結婚とかはどうなっていたのかだが、これまで読んだ著者の書では、そういうことには触れられていない。
ちなみに、この本の第2章で取り上げられた中村嘉助という入店8年目(20歳くらい)の者は、店から家出(出奔)し、故郷の近江に帰った挙句、また、江戸に下ってきて、店に泥棒に入り、450両以上も盗み、吉原で馴染みの女郎と遊んだ翌朝、店の者に捕まっている。
ところが、店では厳しく吟味し全ての経緯を白状させているが、奉行所とか司直に委ねず、店で内々に処理している。店に傷がつくのを恐れてのことだという。
このような事例で奉行所で処断されたら、どんな事になっていたのだろう。これも著者は触れていない。江戸時代を知るということでは、私は大変興味があるのだが・・・。
]]>
ずいぶん以前になるが、まだスマホが出回る前、ガラケイ全盛の時代に、地元で著者の講演会があり、聞きに行ったことがある。
氏の話の中で、例の夜回りに関するもの以外で、今でも記憶に残ってる印象深いものがある。
1つは、舞台にバケツが用意してあって、携帯電話は諸悪の根源(そう言ったかは? 趣旨は大体同じだろう)だから、ここに捨てていきなさいと。なぜ不要かは氏の話に頷けるものがあったが、おそらく、誰も捨てて帰らなかったのでは・・・
今では、スマホは若者の引きこもりを支える道具になっていているようだが、流石に捨てよとは氏も言わないだろう。スマホからも氏宛てのメールや電話が入るのだから・・・本書ではいくつか具体例が上げられているが、実際に氏と若者が命をつないだ手段にもなっている。
2つは、当時、ヤンキー先生として有名だった某政治家の悪口だった。そのヤンキー氏は著者に大変世話になったようだが、国会議員になって初志が変わってしまった、と嘆くというより、本当に怒っているようだった。
私はこれを聞きながら、権力を持つと人間は変わると、前々から思っていて、俄然同感だったのだが、それ以後テレビ等でその政治家が映ると、その顔や目付きがだんだん悪くなるように思ったものだ。
本書は、そういう意味では、氏の活動と政治家の関りを率直に述べたものだ。
私は正直なところ、公明党は平和と福祉の党という認識が強く、最近の安倍政権と連合を組む公明党は、その役割を果たしてないのではと思っていた。
だが、平和について国家云々と大上段に構えて論じるのも良いだろうが、身近な諸問題の解決なくして、本当の平和はないだろうと、本書を読んでしみじみと納得している。
まさに、「国家があって国民がある」のではなく、「国民があって、はじめて国家がある」という著者の言葉の裏付けは、時に氏の活動を支え、問題意識を共有し解決に行動する、政治家集団「チーム3000」の地方議員や国会議員との連携にある。
既成政党の議員らは、票にならないことはしない。世襲やピラミッド構造の組織では、そもそも社会底辺の諸問題は触れたくもないだろう。
『他のほとんどの党の場合、地方議員の方々は、国会議員を「先生」をつけて呼びます。また、国会議員もそれをあたりまえのことのように思っています。
「市区町村議員より都道府県議会議員、都道府県議会議員より国会議員の方が、極端に言えば、階級が上で偉いんだ」
いつもそんな雰囲気を感じます。そして、そのたびに不快になります。すべての議員は国民によって選ばれ、そして権利を付託された存在です。その中に上や下は、あってはならないのですから。』
と、そういう氏の指摘はうなづけるものがあった。
ちなみに、公明党では、さん付で呼ぶらしい。
そういえば、最近、コロナ禍での聖火リレーについて異論を述べた県知事を、地元の有力な衆議院議員が知事を「注意する」と発言していたが・・・。
公明党の議員は票の心配しなくともよいだろうから、氏の若者対策などにも協力を惜しまないという面はあるだろう。
だが、偏見や差別はどうにもあるものだが、創価学会が支持基盤の政党だからと、鼻から色眼鏡で見るのはよろしくない。要はその政党や一人一人の議員がどこに目を向け、どんな活動をしてるかが重要なのだ。氏も公明党以外の議員の選挙応援をしている。
本書は、氏の若者救援活動などにまつわる公明党議員チームの具体的な行動例が上げられていて、私の認識を大いに変えるものがあった。
公明党に偏見をお持ちの方には、一読されてみることをお勧めする本だ。
氏は癌に侵されているというが、死にたいと嘆く若者たちのためにも、そうぞ長生きをと願わずにはいられない。
]]>
今年の目標に、古文書の勉強を始めた。くずし字でかかれてる文字は全くのド素人で、入門書となる図書選びは相談する相手もなかった。
だが、そこは学習塾を長年してきたおかげで、「教わり方」のコツみたいなものは心得ている。問題があるとすれば、記憶力と根気力の低下だ。これはもう仕方ないから、ボケ防止によいはずだと思っているしかない。
上の本は著者の3冊目に読んだものだが、その前に読んだ本で、文句なく著者のファンになった。
その「古文書はこんなに面白い」本では、教材に取り上げた古文書は、お寺の住職でもある寺子屋の師匠が、生徒の入塾時に渡した、いわば学習塾の定め事で、普段の勉強の仕方や生活態度について箇条書きになっている。
私も関係者として読んでしまうのだが、いつの時代も本質的なものは変わっておらず、それについては大変興味深いものがあった。
いずれの本でも、著者はそこで書かれている文字の読み方や時代背景などの解説をするのだが、読者に語り掛けるように普段の話し言葉で書いている。
著者はかつて中学校の教職に長年いて、いわば「教え方」のプロであるから、本を読んでいると、あたかも先生と生徒の関係で学習してる疑似体験の感覚になる。
私などは、著者が次のように語り掛けると、初々しい若者になった気分で、素直にうなずいてしまったりする。
『だいじょうぶでしたか。前に何度も出てきた字でも、少しくずし方がちがっていたり、傾いていたり、大きかったり小さかったり、久しぶりに見たりすると、もう読めないものです。でも、そんなことでがっかりして挫折していたら、せっかくの古文書の醍醐味が味わえません。忘れて当然、読めなくて当然、でも読めたら限りなくうれしい。読み取れたら世界が広がる、ということで、楽しみながら読み進めていきましょう。何度も音読して、真似して書いてみる、くずし字の運筆や全体の字形をじっとにらんでつかみ取る、この方法で続けていきましょう』
私の様な初心者に向けられた、見事な励まし方だと思う。こんな風に呼びかけられたら、誰しも「ハイ」と言ってしまうだろう。
]]>