太田市市場町に琴平神社がある。由緒は不明であるが、山田郡誌には「市場の琴平様」として、次のような記載がある。
『毛里田村大字市場にあり、癪の神にて三月十日・十月十日を祭日とし、病そこぬけとなるたとへより祈願せる者、全快すれば柄杓の底をぬきしものを奉納す。』
街中にある琴平神社の境内には、狭いながらも柄杓の奉納所がある(下の画像)
穴の空け方に決まりはないようだが、柄杓の底を抜いている。木製や竹製もあり、かなり古いことがうかがわれる。
「癪の神」とあるが、癪(しゃく)とは『腹痛・胃けいれんなどのために起こる、胸部・腹部の激痛で、中高年の女性に多い』(明解国語辞典)という病の俗称で、実際には胃がんや乳がんを含む重大な病気なのだろう。
讃岐(香川県)の金刀比羅宮が琴平神社の総本社で、その主祭神は大物主命=大国主命だそうだ。大国主命は「因幡の白兎」の伝説で知られるように医薬の神様でもある。「癪の神」といのもそういうことだろう。
穴を空けた柄杓を奉納する例はほかにもある。静岡県伊東市の音無神社や東京都府中市の大國魂神社などでは、安産の祈願に穴の空いた柄杓を奉納している。
これは、穴から水が流れ落ちるように赤ん坊が出てくるイメージからだろう。
栃木県足利市の門田稲荷神社は、「縁切り稲荷」で悪縁を切る願掛けに穴あけ柄杓を使っている。ここは隣市で近いから、どんな様子か見学してみたいとは思うが、凄まじい呪いを込めた絵馬がたくさん奉納してあるそうで、安易な訪問は躊躇するものがある。
他に癪の例はないか調べていたら、群馬県の太田市史(通史篇民俗)に「牛沢の雷電神社」があった。
これは、『牛沢の雷電神社を信仰すると、シャクがなおるという。なおるとひしゃくの底をぬいて、「底ぬけになりました」といってお礼にあげた』という。祈願理由は市場の琴平神社と全く同じだ。
この雷電神社は朝子塚古墳の墳頂にある。ネット情報には画像もあったが、柄杓の奉納には触れていない。
朝子塚古墳は全長123mの前方後円墳で、群馬県指定史跡になっている。朝子塚(ちょうしづか)という名前の由来にも興味があるが、現在は柄杓の奉納はしていないのか、確かめに行ってもいいと思っている。
もし、太田市史に書かれてる奉納の事実がないとすれば、医学の進んだ現代には、神様も住みづらくなったかも・・・。
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この本は「古事記」から始まり、明治の「武士道」まで24の古典を、教科書では扱わない(時にHだったりし、教科書検定に通らない)古典の猥雑な内実を紹介するもの。それゆえ、排除される側=野というコンセプトで「野」の冠が付いている。
だが、著者は能楽師であり、この講座(著者の主催する社会人向けの寺小屋で、普段しゃべっているスタイルで書かれている)の多くは、能の視点から解説しているうえに、古典を読むには能の謡のように声を出したりして、『身体的』に取り組むと良いと一貫して勧めている。
したがって、著者は明言していないが、「野=能」に掛けているのかもしれない。そうだとすると、「能から見た古典」ということで、本書の内容にぴったしだと思って読んだ。だが、能は一般人にはマイナーな感があるから、この題名では売れなかったかも知れない。
特に興味深く読んだのを紹介すると、
第五講『論語』はすごい
論語の中のいくつか代表的な言葉をテーマにしている。その最初にあげているのが、論語の「四十にして惑わず」いわゆる「不惑」についてで、孔子の時代に「惑」の漢字はなかったことを指摘する。
したがって、「不惑」と孔子が言うわけがない、と著者はいう。
では、何かというと、著者は孔子が言いたかったことは「不或」ではないかとする。意味は「或(くぎ)らず」で、自分を限定せず、可能性を広げることで、四十を過ぎたら、『いままでまったく手をつけなかった分野のことを極めてみる。苦手だと思っていたことにトライする。それが孔子の勧める生き方なのです』という。
私は四十歳ころ、自分は不惑どころではないなあと、自分を卑下したものだ。反面、なぜ孔子はこうなことを言うのかずうっと不思議でもあった。「惑」の字はなかったということから、私は著者の考え方に大いに賛同する。
第十九講 ゆっくり歩く
健康のためのウォーキングは少し早めに(1時間に5,6km)歩くと良いといわれる。ところが著者は、1時間4kmのスローウォーキングを勧める。『時速一里でたらたら歩きながら、途中の景色を楽しみ、植物を愛で、雲を眺め、感興が湧けば句を詠む。そのなかでいつのまにか自分も風景の一部になっている、そんなスローウィークを薦めています』という。
これは著者が2010年から始めてることで、引きこもりの人たちと一緒に、「おくのほそ道」を1週間から10日ほど、1日8時間ほど歩くそうだ。すると、まず、彼らが作る俳句に変化が起きるという。歩いているうちに体験する様々な自然現象と対峙して、その中で俳句に必要な季語を探すことから、自然を強く意識して一体化する、すると季語と彼らの心象風景がかさなるようになるという。
それは、『彼らの意識を拡張させ、「自分」という小さな殻に閉じこもっていた自己を解き放つことにもなり、抱える苦しみや悲しみに対する見方も変わってきました。その変化はやがて表情に現れ、次いで行動に現れ、そして多くの人たちが引きこもりをやめました』という。
正直、すごいなと思った。
そんな効果もある旅が、十九講で取り上げてる芭蕉の「おくのほそ道」で、芭蕉が旅した距離は全行程2400kmだという。旅を始めたとき芭蕉は46歳で現代の感覚では70歳くらいというから、まさに死出の旅だったというのも頷ける。
著者は、芭蕉のこの旅の収穫を次のように述べている。
『おかしみ(笑い)を尊んだかつての俳諧を否定し、風雅の誠というコンセプトを確立した芭蕉が新たなステージで獲得したのは、おかしみと風雅の誠を統合した、「軽み」だったのです。』と。
その「軽み」の俳句は、旅の後半、大山で泊まった時のもので
蚤虱馬の尿する枕もと
なるほど、「夏草や兵どもが夢の跡」と源義経の鎮魂を目的にした旅の前半とは、まるで雰囲気が変わっている。
この本は、私にとって、大いに勉強になった一冊だった。これは図書館で借りた本であるが、私の書棚にも置いておきたいと思うほどだ。残念だが、終活の年代なので、書物の購入はできるだけやめている。
惜しむらくは、もっと若い時に啓蒙されていたら、人生をもっと豊かに過ごせただろうと思った。
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「サクラやモモ等を枯らす クビアカツヤカミキリ を発見したら、たたきつぶしてください!!」とある。
これは桜の木に巻かれたネットに付けられた表示で、この昆虫の絵と特徴・発生期が書かれている。
群馬県では、私の地元館林を含む東毛地区が、最初の発生地になったらしい。おそらく、今年はもっと拡散しているのではないか。
画像は足利市郊外を流れる矢場川河畔の桜並木で撮ったもので、両毛地区(館林太田・足利佐野)に広まっていることをうかがわせる。
コロナウィルス対策が後手後手に回り、どうにも拡大を止められない。同じように、この昆虫も気が付いた時には手遅れになっていることが多いようだ。
「発見したら、たたきつぶして」とは、市民に向けた要求だろうが、こうした行為は、なかなかできるものではない。少なくとも、ゴキブリを怖がる者には無理だろうと思う。
私の教室には、いろんな虫が入ってくるが、平気で掴める生徒はおよそ皆無だ。黒い虫はみんなゴキブリに見えるらしい。
夏になると、カマキリやアブラゼミなどが玄関先に来たりする。アマガエルは図々しく入って来るが、男子でさえ怖がっているのは不思議でならない。
そんな状況を見てるので、「たたきつぶせ」と言われてもなあ、というのが正直な感想だった。
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矢場川の「矢場」には、どんな由来があるのだろうか。それを明らかにするのが、私の矢場川遡行の第2の目的だった。
武士が馬術の訓練をした場所を「馬場」という。今でも名の残る江戸の高田馬場がそうだ。ならば弓術の訓練場を「矢場」といったのではないか。矢場川の流域のどこかに矢場があり、それで川の名前も矢場川になったのではないか。
そう思い、矢場を調べたら、元来は弓矢の鍛錬をする場所のことで間違いなかった。ところが、江戸時代になると、弓の射的が庶民の娯楽になり、かつ、そこにいる商売女目当ての場所となり、それも「矢場」と称されたという。
ちなみに、吉原のような幕府公認ではないから、矢場での売春は違法行為で取り締まりの対象だった。運悪く捕まったら色々と大変だったろう。それが「やばい」の語源だそうだ。
また、非公認の宿場を「間の宿(あいのしゅく)」という。宿場には「飯盛り女=遊び女」を置くのが認められていたが、間の宿には公式には認められていなかった。正規の宿場は維持管理費用がかかるので、いわば見返りとしての差別化だった。
「矢場川考その4」で述べたように、日光例幣使街道が矢場川を渡るところに新宿があった。これは正規の宿場ではなく間の宿だった。そんな宿場に歓楽目的の「矢場」があってもおかしくはないだろう。
と、考えながら、矢場川遡行をしていたのだが、文献を調べてみると、どうやら私の邪推だったようだ。
矢場川がまだ渡良瀬川の河川だった、鎌倉時代から室町時代ころ、矢場川上流部から中流部にかけてを矢場郷といった。
矢場郷は天正年間(1573年〜)に藤本・里矢場・本矢場・新宿に分村するのだが、天和二年(1682年)に再び合村し矢場村になっている。
ちなみに、これら4村は現代の町名にもつながっているのだが、明治以降昭和に至るまでに、数回にわたり太田と足利に振り分けられている。それがこの辺りの県境が矢場川ではない原因になっている。
山田郡誌によると、新田郡を支配した横瀬氏に連なる矢場十騎と称する武士団が、矢場郷の地を支配していたようだ。
さらには、矢場の「矢」は「谷」のことだという。この「谷」はV字谷を表す「ヤツ」ではなく、緩傾斜地の湿地を指して単に「ヤ」と呼んだのだという。
そんなこんなで、私の矢場歓楽説は否定されるようだ。だが、なぜ「谷場」をわざわざ「矢場」に変えた理由が分からない。やはり、しつこいようだが、「純粋な意味での矢場」があったのではなかろうか。矢場郷に武士団がいたなら、弓矢の訓練をした場所もあっただろう。もしくは、獣を弓矢で射る狩り場のような場所とか・・・
ちなみに、上の画像は太田市指定天然記念物で『市場の大ケヤキ』と呼ばれるもの。矢場川の琴平橋右岸にある。樹齢500年を超えるという巨樹で、根元から幹が3本に分かれ、根回り14m、樹高23mほどあるという。真ん中の主幹には大きな空洞(画像の裏側)があり、ボロボロになって痛々しいが、樹勢は衰えていないそうだ。
琴平橋の辺りは矢場川の最上流域で、この辺りは、それこそ「ヤツ」と呼んでも良いと思うほど、深く抉れた幅狭い水路になっている。
この大ケヤキなら、戦国時代の矢場川が、渡良瀬川の河川だったことも見ているだろうし、「矢場」の本当の由来も知っているに違いない。
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矢場川の遡行をしようと思い立ったとき、当然ながらまず第一に、最終目的地となる水源はどこなのか調べた。
手っ取り早くウィキペディアで「矢場川」を見ると、『太田市市場町字八幡林に源を発し、上流は足利市を流れる・・・』とある。
そこで、地図上で出発点の落合橋から上流をたどり、矢場川の行きつく先を見てみた。矢場川の表記が詳しいのはグーグルマップで、それによると、矢場川は最後に北関東自動車道に行き着いて途絶える。
この自動車道ができる前は、矢場川はさらに延びていたはずだ。すると水源は市場町でなく、さらに北西の太田市只上町に入り、もうちょっと延ばせば渡良瀬川に行き着いてしまう。
もう一つの手がかりとして、ウィキペディア「矢場川」には、上流から下流の渡良瀬川合流点までの橋梁名の記載がある。これによると、一番上流の橋は矢場川橋(栃木県道・群馬県道5号足利太田線)で、この橋と私が出発点にした落合橋との間には、31橋梁あり、そのうち7橋梁は名称不明となっている。
そこで、名称不明橋の名を明らかにすることも、私の遡行目的に加えることにした。これらの名前は全て画像に収めたが、矢場川橋が最上流の橋ではなかった。さらに矢場川上流には5つの橋が存在している。
群馬県のHPで、県内を流れる一級河川の表をみると、矢場川の上流端は「太田市大字市場字八幡林685番の4地先の取水堰」とある。大字・字名で表記されているのは、おそらく表を作成した時点のままで、その後の新住所表示に改めてないのだろう。
そこで、「太田市市場町685番地」で地図検索してみたら、上の画像付近を示し、すぐ近くに取水堰もあった。ここはベンチがあり親水公園のようになっているが、手入れはされていないようだ。夏草の季節には近寄れないかもしれない。
下の画像が、その取水堰。
後の調査で知ったことだが、この取水堰は「市場堰」といい、この取水堰より下手を矢場川という。つまり、一級河川としての矢場川はここから下流になる。これより上流は、河川法では矢場川ではなく、渡良瀬川の太田頭首工を起点とする「矢場川水系」の導水路といことになる。
なお、視認できる導水路は北関東自動車道脇までで、そこから太田頭首工とはパイプラインと暗渠でつながっているという。
ちなみに、この地点から北方向に300mくらいのところ八幡宮がある。それで、ここら辺りの小字名を八幡林といったのかも知れない。
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日光例幣使街道が矢場川を渡る橋を新宿橋という。
この辺りは、現在は栃木県足利市新宿町だが、かつては群馬県山田郡新宿村だった。
新宿の由来は、山田郡誌によると、「新宿はアラシュクと称し、旧例幣使街道の通路に出来たる宿駅に因めるか」とある。
例幣使街道が国境(矢場川)を挟む正規の宿場は太田宿(上野)と八木宿(下野)で、この間は約8kmある。新宿は大体中間点くらいだから、距離的にみれば、ここに宿駅=宿場が必要とは思われない。
それとも、朝廷の軟弱な公家には長旅はきつく、短い距離でも休憩が必要だったのだろうか。あるいは、矢場川が増水で渡れないなんてことを想定しているのだろうか。
ちなみに、例幣使街道の宿場間には、1?とか2kmなんてのもあるから、なにか他に理由があるのかもしれない。
新宿橋の右岸に長浜観音堂がある。この観音堂の南面に、如意輪観音像が浮彫りされた念佛供養塔(上の画像)がある。養の字が異体字の「羪」になっている。最近、古文書の文字に関心があるので興味をひかれた。
石仏の左側面に「上?山田郡矢場新宿村願惣村中」、右側面に「寛政五丑年十一月吉日」とある。寛政5年は1793年だから、江戸時代後期に造られたものだ。
台座に道標べが彫られている(下の画像)
「右たて者やし」(「者」は旧仮名の「は」で、くずし字で彫られている)、「左さの道」(「道」は、くずし字)と書かれている。だが、この供養塔の置かれてる現在地では、道標が指し示す方角が合わない。
観音堂前に由来が書かれた案内板がある。それによると、元は八坂神社近くにあったという。地図で見ると、その神社は現在地から600mほど離れた旧例幣使街道沿いにある。この供養塔も一緒に移転して来たのだろうか。
例幣使街道は矢場川を渡ると、八木宿→梁田宿→天明宿(佐野市)と続く。したがって、もしこの供養塔道標が例幣使街道沿いにあったなら、館林方向と併せて、設置された場所が特定できるのではないか。
そう思いながら、この周辺の道路地図を眺めているのは面白い。もっとも、江戸時代の道路筋は、現在の道路地図とは大分違っていたに違いない。
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県道38号線(足利千代田線)が矢場川を渡る橋を両毛橋という。東京の両国橋が武蔵国(東京)と下総国(千葉)を結んでいるのに因み、両毛橋も上毛(群馬)と下毛(栃木)を結ぶことから名付けたという。
だが、現在の両毛橋は左岸は足利市堀米町、右岸も同じく足利市藤本町なので、ふたつの国を跨いではいない。この辺りでは矢場川が県境になっていないのだ。
正確に言うと、両毛橋の少し下流にある足利島橋の辺りで、県境は矢場川を離れ西に2kmほど延び、それから直角に北に向きを変える。以後は湾曲しながら、ノコギリの歯のように県境が入り組んでいる。
したがって、矢場川の最源流部は栃木県側に突き出た群馬県太田市市場町なのだが、上流域のほとんどは栃木県内を流れている。
かつて、矢場川上流部の村々は上野国山田郡だった。明治22年(1889年)の町村制施行、同26年(1893年)の分村、さらに昭和35年(1960年)の足利・太田市への編入によって、この辺りでは矢場川が県境ではなくなってしまった。
あるいは、矢場川の流路そのものが、現在とは違っていたのかもしれない。
両毛橋の右岸に矢場川浄化施設があり、その一角に両毛橋由来が書かれた石碑がある。その案内板によると、上記の橋名由来のほか、最初は木橋が架かっていたが、県道の新設により交通量が増加したため、地元の有志200余名の寄付により、安全な石橋にしたのだという。
この石橋を「華麗な」という言葉で形容している。建設当時(大正2年)地元民自慢の橋だったのだろう。
現在の橋は2代目だという。欄干の4ヶ所の袂に2匹の魚(コイだろうか)が、優雅に遊泳しているレリーフがはめられている。
これが初代の石橋に取り付けてあったものかは記述がない。矢場川に架かる全ての橋(名前の分かる橋で40橋ほどある)の中で、装飾レリーフがあるのは両毛橋だけだった。名前の由来と併せて印象に残っている。
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前回の、常楽寺の裏手の土手を散策中に、少し腰が曲がりかけたお婆さんが、矢場川の土手を一人で歩いているのに出会った。声を掛けて聞くと、上手に橋があり一周するのが日課だという。その橋は見えないが、すぐそこみたいなことをおっしゃる。30分くらいのウォーキングだそうだ。
このお婆さんがやってるくらいなら、足腰の弱ってる私にもできるだろうと試しに歩いたのが最初で、前回述べた「落合橋」をスタート地点にして、次の「足森橋」まで歩いた。天気の良い日を選んだこともあるが、菜の花が咲きだした春先の土手歩きは気持ち良い。
1回やってみると欲が出て、どうせなら源流部まで行ってみようと、全9回の遡行で目的を果たした。1回ごとに車を停めたところに戻るため、左岸あるいは右岸と周回し、どうやらフルマラソンくらいの距離を歩いたことになった。
館林から太田に向かう国道122号線で、矢場川が最も近接するところの信号を北に入ると小曾根橋がある(落合橋からは、この間に足森橋・八幡橋・鶉橋・平成橋がある)。
この橋脇の左岸の土手を広くし、駐車場と東屋が設置されている。ここに国土交通省の道標があり、それで合流点から6km地点だと知った。
さらに、これより上流600mのところで、矢場川は二手に分岐する。その場所が上の画像。ここから上流には土手はなく、コンクリート岸で、中河川というより水路掘の趣に変わる。さらに上流地区になると、まるで用水路になってしまうのだが・・・
上の画像で左から分岐に来る川はすぐ上流に橋がかかり、橋げたに「千原田橋」と「矢場川第二捷水路」という銘板がある。この捷水路は、下に述べる旧矢場川の先で藤川と名称を変え、管轄も国土省から群馬県になっている。
したがって、画像奥からの流れが矢場川本流で、この分岐点からの県境も本流ルートになっている。
ちなみに、「捷水路」とは、曲がりくねって蛇行する川を直線的にショートカットするように、新たにつけられた流路をいう。
この辺りの地図を見ると、県境は、分岐の矢場川本流を1?ほどいった「下の宮橋」手前にある小公園のところで、本流から離れ左側に入るようになる。蛇行し湾曲している県境は、いかにも古の流路を思わせて興味深い。
地図に明らかなように、ここは群馬県側の邑楽町と栃木県側の足利市とがコブあるいは巾着のように、隣り合わせに出っ張りあっている。捷水路ができる以前、その縁を県境となる旧矢場川が蛇行して流れていたのであろう。
現状では、第一捷水路(本流)の押切橋のすぐ上流に堰があり、旧矢場川に分水し、流れは小川のようになって蛇行し、第二捷水路まで流れたのち1.5kmほど下り、赤谷戸橋の少し上流の堰で、もう一度旧矢場川に水流を入れ、大きく湾曲した流れになり第一捷水路に戻っている。
なぜこんな面倒なことをするのか。県境となっている旧矢場川を残すためであろうか。この水路の様な旧矢場川には遊歩道が設けられているのだが、とくに下流の方は魅力的な雰囲気ではない。おそらく、ここを散策やウォーキングする人は、よっぽどの物好きだろう。そう思えるほど寂しい遊歩道だった。
本流から分水された上流部の旧矢場川には、中ほどに公園のような「こぶな村」がある。かつて矢場川浄化運動を始めた連中が作ったそうで、それを伝える石碑がある。
今でも活動しているかは分からないが、この小川の水質は澄んで川底が良くみえる。魚が棲んでいるか覗いてみたら、コイと思われる大きな魚影があった。
足利市域の大コブの中は工場団地や住宅地で、南の矢場川第二捷水路に羽刈橋、北の矢場川本流に押切橋が架かり、県道で群馬と栃木が結ばれている。
ところが、邑楽町域の小コブは、第二捷水路に千原田橋と赤谷戸橋の2つの橋が架り、中には住宅もあるが、道路は行き止まり、栃木県側に抜けることができない。
邑楽町にしか出られないのは不便だろうが、コブの奥には公有地か私有地か分からないが、広大な空き地が広がっている。
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矢場川は館林の北の郊外を、西から東に流れている1級河川で、館林の北東部で渡良瀬川に合流している。
それゆえ、矢場川は渡良瀬川の支流の1つなのだが、戦国時代末までは渡良瀬川の旧河川で、渡良瀬川=矢場川だった。
渡良瀬川は大間々台地(現在のみどり市)から関東平野に流れ出ると、ほぼ直角に東向きに流れを変えている。
ところが、地質地理で読み解くと、古代ではそのまま南流していたが、1〜5次にわたって段々と東向きに向きを変えてきたという。おそらく、大雨が降るたびに氾濫を繰り返した結果であろう。
矢場川が渡良瀬川の旧河川だったのは、その第5次の段階だという。面白いことに、現在でも群馬県と栃木県の県境が、渡良瀬川ではなく、矢場川になっているのはそのせいだ。
館林には多々良沼や近藤沼をはじめ、大小の沼が多くある。私は高校生の時、地理の教師にこれらは河川が残留した沼だと教わった。
その先生の授業で、館林高校の南に広がっていた田園地帯に、河岸段丘の跡を案内されたときの様子は印象深いものがあった。この時の体験が生きてるせいか、今でも館林の郊外を歩くと、「ああ、ここは川が流れていたんだろうな」と想像つくことがある。
上の画像は、上流から蛇行を繰り返し流れてきた矢場川が、館林市木戸町で多々良沼から流れ出る多々良川や姥川と合流する地点で、背後の水面が見えるのが矢場川。
ここは「弁天渕」といい、地元の郷土史家?氏が立てた案内板がある。
この説明板に書かれた由来が興味深い。
『弁天渕
足利義兼は源頼朝の再従兄弟で頼朝の妻、北条政子の妹時子と結婚し、「木戸堀の内」の館に住んでいた。
義兼は鎌倉に在って兄頼朝の手伝いを終わって舟運にて多々良沼北岸に上陸した。途中、鶉を捕まえて江川を渡り、杉の木林に上陸し、妻時子の待つ「堀の内」に着いた。義兼は航行の無事を祝って、上陸地点に弁財天を祭った。これを杉森弁天と云う。そして鶉を捕まえた処は地名「鶉」となった。
館林城主徳川綱吉は、木戸郷の西北に古墳塚をこわして土手を築かせた。従って杉森弁天に接する土手を「弁天渕」と称した。
義兼は時子や部下達の霊を供養する為「大日堂」を建立したと云う。真言宗常楽寺の前身と言われている。』
常楽寺は多々良川の右岸にある古刹で、私はここにある石仏を訪ねて来て、裏の土手を散策した際にこの画像を撮った。この時点では矢場川を源流めざして遡行してみようという気は、まだ少しも抱いていなかったのだが・・・
ちなみに、ここは渡良瀬川と合流する地点から、およそ3kmの地点で、すぐ近くに木戸町を通る足利街道が矢場川を渡る「落合橋」がある。
実は、この「落合橋」にも興味深い伝説がある。源義経が兄頼朝に追われ奥州に逃れるときに、手助けをした金売吉次と落ち合ったのがこの場所だという。もっとも、当時はこれより500mほど下流にあったらしい。
この先、国道50号線に入り、足利方面に進むと間もなく、吉次の名前を冠した歩道橋がある。近くに彼の墓があるそうだ。
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太田市龍舞町の田園地帯に、昭和48年に水田の土地改良整備の際に、偶然発見された古墳群がある。6世紀前半のもので、13基を数えるという。
そのうち4号墳は帆立貝の形をしていて(主軸長22.5m、後円部直径17.7m)出土した埴輪は300以上に上る。
埴輪は円筒埴輪のほか家・楯・太刀・馬・人物など、出土位置もほぼ明確で、これらの埴輪集団は「埴輪祭式を表現」したものとして、一括して国の重要文化財になっているそうだ。
4号古墳は整備されて古墳公園になり、昭和53年に群馬県指定遺跡になっているというが、私はこの古墳の存在を知らなかった。
この古墳があることは、道路地図などには載ってないし、駐車場もないから、古墳マニア以外は知る人ぞ知る古墳かもしれない。
なにしろ、見渡す限りだだっ広い区画整理された水田地帯の中にある。「塚廻り」という名称だが、周囲に塚らしきものは残っていないので、場所を探すのに一苦労するかもしれない。
以前、埴輪で唯一の国宝の『武人ハニワ、群馬に帰る!』という展覧会を、群馬県立歴史博物館に見に出かけたことがある。その時の感動を思い出しながら、ここに並べてある埴輪集団をしばらく眺めていた。
全体に小ぶりかもしれないが、人物埴輪の一つ一つは表情豊かなのだ。上の画像の中央にいる椅子に腰かけてる男が、この集団の族長で、祭祀継承の儀式を表しているのだろう。
この古墳の様子や、出土埴輪については、下記のサイトに詳しい。
tukamawari.pdf (city.ota.gunma.jp)
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この「対決!日本史」は、私はタイトルの「対決!」に惑わされて、対談者が「対決」して論争を繰り広げると思って読み始めた。だが、それは私の早とちりだった。
世界史的観点について、対談者は歴史観を含め、ほとんど共通の認識をしている。重商主義と重農主義という経済社会構造の基本的相違や、旧保守勢力や宗教と権力の関わり方など、歴史上の登場人物たちの様々な行動があり、それが本書でいう「対決」だった。
そのうえで、本書では互いの実体験や専門分野の知識で語り合い、読者をより深みのある歴史認識の世界に引き込んでいる。
副題に「戦国から鎖国篇」とあるように、この時代は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が次々に国家権力を握っていく。その時代背景には、日本史的認識では不十分で、世界史で見る様々な事象がカギを握っている。
具体的にはポルトガル・スペインの世界分割の植民地化と、その背後にあるカトリック教会という構図だ。キリスト教を宣教したイエズス会はその先兵で、いずれ日本にも植民地化が迫っているという時代背景がある。
端的に、イエズス会は軍隊組織なのだという。私はこれまでそこまでの認識はなかった。
最近の大河ドラマの主人公だった明智光秀についても、私はTVを見てないので承知でないが、対談者は単に怨恨による謀反だとは見ていない。
秀吉は毛利に本能寺の変の事実を話し、毛利から鉄砲500丁を借り受け、さらに人質までとって京に引き返してきた(「徳川実記」に、そう書かれているという)。
それが可能だったのは、秀吉の背景には海外勢力(イエズス会)があり、足利幕府の再興を謀る旧保守勢力や光秀に対し、秀吉は毛利がどちらにつくかの選択を促したのだという。これは当時の日本でも世界情勢ぬきにして語れないということだろう。
例えば、教科書的に見ると、鉄砲伝来はポルトガル船が種子島に「漂着」したとなっている。だが、当時の状況をみれば漂着などありえなく、ちゃんとした戦略のもとに、計画的に種子島に到着したはずだと対談者は看破している。
秀吉は朝鮮出兵の際、長崎がイエズス会に寄進され教会領になり、大砲を備え要塞化されているのを実見した。危機感を抱いた秀吉は宣教師の国外追放(バテレン追放令)を決断している。この時、長崎から日本の植民地化はすでに始まっていた。へたすれば長崎はマカオや香港のようになっていたかもしれない。
それでも秀吉は重商主義政策をとったが、家康は関八州の経営政策の成功体験から、重農主義と鎖国政策を行った。これは結果的に徳川幕府275年間の安泰と、同時に日本の植民地化を防いだことになる。
さらに「戦国から鎖国」という事象も、いずれは幕末の開国や明治維新と結びつく。歴史が持つ類似性を鑑みれば、歴史を学ぶということは、現代を読み解いていくことで、そこに意味があるはずだ。
そのために、安部竜太郎は次の3つを挙げる。
?歴史についての情報量
?歴史と対峙した経験
?そこから生まれる発想力全体を「歴史的な教養」とする
私はこれを読んでいて、若い時にもっと歴史を学んでおくべきだったと思った。
さらに、私が興味深かったのは、佐藤優は同志社大学で神学を学んだキリスト教徒でプロテスタントだが、その視点からカトリック教会=イエズス会をみていることだ。
それゆえ、キリシタンの殉教や踏絵をするのを背信と考えるのは避けられたことだとする。悲劇が行われたのは、イエズス会のキリスト教指導が信徒に対し説明不足で間違っていたからだと、専門であるキリスト教神学から、その理由を明確に説明しており、私は大いに納得できた。
他にも、十字架は十字軍による異教徒(イスラム)征服イメージがあり、チェコのプロテスタント教会の多くは、それを避けて十字架ではなく、ワイングラス(ワイン=キリストの血)がシンボルになっているという。
これは初めて知った。ちなみに、彼の専門はチェコ神学だそうだ。
その他、イエズス会関係の事柄は私には新知識が多く、それが歴史的事象にいかに強く結びついているかを知った。老齢になっても、知識欲が引き出されたということで、この対談本はとても興味深く面白かった。
近頃読んだ中では一番のお勧め本だと思う。
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人類が猿から人へ進化した起源は、アフリカ単一起源説が従来の通説だった。これは新たな化石の発見や、様々な年代測定技術の発展によって、近年では異論・反論がなされているようで、本書もそれに組している。
それは、本書の「まえがき」で
『本書は、人類発生のためにどのような進化ステップが必要だったのか、という疑問を追っていく。類人猿が困難な環境に適応したことから始まり、直立二歩行に光を当て、人類の進化がアフリカで進行したわけではない理由を説明し、われわれの種族がほかのヒト科の動物と共存した世界を描写する』
とあり、こういう進化論に興味がある人には面白い本かも知れない。
私も興味があると思って読み始めたのだが、残念ながら、私には予備知識や想像力というものが不足していたようだ。つまりは、読んでいて内容が頭に入ってこなかった。
共同著者は他に2人いて、一人は科学ジャーナリスト、もう一人は映画プロデューサーとプロフィールにあるが、それぞれがどの著述を担当したのか、訳者も書いてないので分からない。
そういう専門があるなら、記述内容に画像などを掲載できただろうし、何百万年かにわたり、その間に人類と共存していた動物の様子とかも視覚的に分かる。
いわば、私のようにカタカナ表記だけの動物名では様子が分からない、知識や想像力不足を補ってくれたはずだ。そんな本だったら、読むのも楽しかったかもしれない。
それはともかく、この本を読み終えたのは、もう一つの関心ごとがあったからだ。それはアメリカ大統領バイデンの最近の次のような発言だった。
『何も問題はない、マスクを外そう、なかったことにしよう、というネアンデルタール人のような考え方は、何よりもしてはいけないことだ』
これは、テキサス州とミシシッピ州が、マスクをしないでよろしいという方針を打ち出したことへの批判だ。
私は、この本を読んでいた最中だったが、何でここにネアンデルタール人が引用されるのか分からなかった。
ネアンデルタール人はホモ・ネアデルタレンシスで、われわれ人類のホモ・サピエンスとは、私の理解で言えば先輩後輩の位置で進化したヒト仲間だ。
バイデン大統領は、ネアンデルタール人は絶滅した種族で、新型コロナウイルスにマスク不要というのは、ホモサピエンスの意味である「賢い人」ではないと言いたかったのだろうか。
ちなみに、本書でも触れているが、ネアンデルタール人の遺伝子は、われわれ現代人の遺伝子に1〜4%残されているという。これはネアンデルタール人とホモサピエンスが交雑したことを意味している。
さらに、ネットで読んだのだが、そのネアンデルタール人の遺伝子の中に、新型コロナウイルスで重症化するDNAが見つかったそうだ(沖縄科学技術大学院大学ペーボ教授)。
バイデン大統領の発言は、この研究が裏付けにあったのだろうか。コロナウイルがネアンデルタール人の絶滅原因になったかもしれないと考えると、大統領の発言は納得できる。
もっとも、同教授の2021年の研究発表では、軽症化につながるDNAも見つかったようだ。4万年前にネアンデルタール人は絶滅したというから、その原因は何とでもいえる想像力の問題かもしれない。
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江戸が「大好き」になるかはともかく、くずし字が読めるようになりたい一心で読んでいるので、その時代の諸々を知るのは興味深くはある。
当時の文書は筆書きであるから、書いた人の癖もあろうし、各人のくずし字にも違いあるはずだ。それでも大体共通するということは、江戸時代の文字の手習い教育が、日本全国およそ一律に通じていたことを意味する。
これは、江戸幕府という制度が長く続き、当然ながら、文書にも制度的な共通性が求められたからに他ならない。
この本では、江戸の大呉服店だった白木屋日本橋店(後々の東急百貨店)の店の決まり事を書いてある「永録」の一部と(第1章)、店員の不行跡とその処罰を書き残した「明鑑録」から一例を取り上げ(第2章)、くずし字を学習する構成になっている。
私がより興味を持ったのは第1章で、その一つは次の画像の決まり事だった。
ここには、『一つ、内外とも大酒たべ候こと無用に候、酒呑み候儀は、御店定法にもこれ有る通り、三十歳過ぎず内は、法度の事に候・・・』とある。
つまり、役員以外店員の飲酒は30歳まで禁じられている。客を接待する時も、自分は酒は飲めない質なのでとか言って断れとも定法にあるという。
これを厳しいとみるかどうかはともかく、規則にあるということは、著者も言ってるように、おそらく守らない者が結構いたのだろう。
私は20代で酒を飲んでいて、高齢者になった今も飲んでいるような者だから、白木屋の若衆(店員)には決してなれなかっただろう。まあ、規則を破って懲らしめられていたのは間違いない。
白木屋は台所衆を含めて、すべて男だった。それゆえ、私の関心は店員の結婚とかはどうなっていたのかだが、これまで読んだ著者の書では、そういうことには触れられていない。
ちなみに、この本の第2章で取り上げられた中村嘉助という入店8年目(20歳くらい)の者は、店から家出(出奔)し、故郷の近江に帰った挙句、また、江戸に下ってきて、店に泥棒に入り、450両以上も盗み、吉原で馴染みの女郎と遊んだ翌朝、店の者に捕まっている。
ところが、店では厳しく吟味し全ての経緯を白状させているが、奉行所とか司直に委ねず、店で内々に処理している。店に傷がつくのを恐れてのことだという。
このような事例で奉行所で処断されたら、どんな事になっていたのだろう。これも著者は触れていない。江戸時代を知るということでは、私は大変興味があるのだが・・・。
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ずいぶん以前になるが、まだスマホが出回る前、ガラケイ全盛の時代に、地元で著者の講演会があり、聞きに行ったことがある。
氏の話の中で、例の夜回りに関するもの以外で、今でも記憶に残ってる印象深いものがある。
1つは、舞台にバケツが用意してあって、携帯電話は諸悪の根源(そう言ったかは? 趣旨は大体同じだろう)だから、ここに捨てていきなさいと。なぜ不要かは氏の話に頷けるものがあったが、おそらく、誰も捨てて帰らなかったのでは・・・
今では、スマホは若者の引きこもりを支える道具になっていているようだが、流石に捨てよとは氏も言わないだろう。スマホからも氏宛てのメールや電話が入るのだから・・・本書ではいくつか具体例が上げられているが、実際に氏と若者が命をつないだ手段にもなっている。
2つは、当時、ヤンキー先生として有名だった某政治家の悪口だった。そのヤンキー氏は著者に大変世話になったようだが、国会議員になって初志が変わってしまった、と嘆くというより、本当に怒っているようだった。
私はこれを聞きながら、権力を持つと人間は変わると、前々から思っていて、俄然同感だったのだが、それ以後テレビ等でその政治家が映ると、その顔や目付きがだんだん悪くなるように思ったものだ。
本書は、そういう意味では、氏の活動と政治家の関りを率直に述べたものだ。
私は正直なところ、公明党は平和と福祉の党という認識が強く、最近の安倍政権と連合を組む公明党は、その役割を果たしてないのではと思っていた。
だが、平和について国家云々と大上段に構えて論じるのも良いだろうが、身近な諸問題の解決なくして、本当の平和はないだろうと、本書を読んでしみじみと納得している。
まさに、「国家があって国民がある」のではなく、「国民があって、はじめて国家がある」という著者の言葉の裏付けは、時に氏の活動を支え、問題意識を共有し解決に行動する、政治家集団「チーム3000」の地方議員や国会議員との連携にある。
既成政党の議員らは、票にならないことはしない。世襲やピラミッド構造の組織では、そもそも社会底辺の諸問題は触れたくもないだろう。
『他のほとんどの党の場合、地方議員の方々は、国会議員を「先生」をつけて呼びます。また、国会議員もそれをあたりまえのことのように思っています。
「市区町村議員より都道府県議会議員、都道府県議会議員より国会議員の方が、極端に言えば、階級が上で偉いんだ」
いつもそんな雰囲気を感じます。そして、そのたびに不快になります。すべての議員は国民によって選ばれ、そして権利を付託された存在です。その中に上や下は、あってはならないのですから。』
と、そういう氏の指摘はうなづけるものがあった。
ちなみに、公明党では、さん付で呼ぶらしい。
そういえば、最近、コロナ禍での聖火リレーについて異論を述べた県知事を、地元の有力な衆議院議員が知事を「注意する」と発言していたが・・・。
公明党の議員は票の心配しなくともよいだろうから、氏の若者対策などにも協力を惜しまないという面はあるだろう。
だが、偏見や差別はどうにもあるものだが、創価学会が支持基盤の政党だからと、鼻から色眼鏡で見るのはよろしくない。要はその政党や一人一人の議員がどこに目を向け、どんな活動をしてるかが重要なのだ。氏も公明党以外の議員の選挙応援をしている。
本書は、氏の若者救援活動などにまつわる公明党議員チームの具体的な行動例が上げられていて、私の認識を大いに変えるものがあった。
公明党に偏見をお持ちの方には、一読されてみることをお勧めする本だ。
氏は癌に侵されているというが、死にたいと嘆く若者たちのためにも、そうぞ長生きをと願わずにはいられない。
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今年の目標に、古文書の勉強を始めた。くずし字でかかれてる文字は全くのド素人で、入門書となる図書選びは相談する相手もなかった。
だが、そこは学習塾を長年してきたおかげで、「教わり方」のコツみたいなものは心得ている。問題があるとすれば、記憶力と根気力の低下だ。これはもう仕方ないから、ボケ防止によいはずだと思っているしかない。
上の本は著者の3冊目に読んだものだが、その前に読んだ本で、文句なく著者のファンになった。
その「古文書はこんなに面白い」本では、教材に取り上げた古文書は、お寺の住職でもある寺子屋の師匠が、生徒の入塾時に渡した、いわば学習塾の定め事で、普段の勉強の仕方や生活態度について箇条書きになっている。
私も関係者として読んでしまうのだが、いつの時代も本質的なものは変わっておらず、それについては大変興味深いものがあった。
いずれの本でも、著者はそこで書かれている文字の読み方や時代背景などの解説をするのだが、読者に語り掛けるように普段の話し言葉で書いている。
著者はかつて中学校の教職に長年いて、いわば「教え方」のプロであるから、本を読んでいると、あたかも先生と生徒の関係で学習してる疑似体験の感覚になる。
私などは、著者が次のように語り掛けると、初々しい若者になった気分で、素直にうなずいてしまったりする。
『だいじょうぶでしたか。前に何度も出てきた字でも、少しくずし方がちがっていたり、傾いていたり、大きかったり小さかったり、久しぶりに見たりすると、もう読めないものです。でも、そんなことでがっかりして挫折していたら、せっかくの古文書の醍醐味が味わえません。忘れて当然、読めなくて当然、でも読めたら限りなくうれしい。読み取れたら世界が広がる、ということで、楽しみながら読み進めていきましょう。何度も音読して、真似して書いてみる、くずし字の運筆や全体の字形をじっとにらんでつかみ取る、この方法で続けていきましょう』
私の様な初心者に向けられた、見事な励まし方だと思う。こんな風に呼びかけられたら、誰しも「ハイ」と言ってしまうだろう。
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著者は朝日新聞の記者をしていた人物で、したがって、この本は学者のいわゆる研究本ではない。初版は昭和16年であったが、それから33年後の昭和50年に復刻した。既に、著者自身は鬼籍に入られている。
なぜ、そんなに時日が経過して再販したのかは、遺族を探し出して出版にこぎつけたという編者の山田野理夫も明確にしていない。
編者は、昭和16年といえば、第二次大戦に突入する時期で、この本も一部の愛好家のみの目に触れたに過ぎないというが、それではもったいない内容だったということなのだろうか。
復刻にあたり、キリシタン遺物等の写真を32ページに亘って口絵にし、さらに切支丹研究家の内山善一による校註が加えられた。これと併せて読むと、現代のキリシタン研究本にも遜色ないものになっていると思う。
編者も、『これに拠って時代の差を縮めた筈である』と、巻末の編集覚書に述べている。
この本は三部構成で、第一編切支丹思想篇−中世西欧思想の日本的展開ー、第二編民族信仰篇ー切支丹信仰の日本的醇化ー、第三編切支丹伝承篇−人情文物の融合ーになっている。
私は、最初図書館で借りたのだが、面白いと思うところに付箋をしていたら、その数が煩くなるほどに多くなった。つまりは、私にとって資料価値があるということで、特に第三編に書かれていることは、民間伝承であるから、いずれ忘れ去られるであろうと思うと興味深いものがあった。
それで、ネットで中古本を購入することにしたのだが、今どきはあまり見ない箱入りの本であったのは驚きだった。
面白いと思ったのを1つ挙げる。
大坂奉行所与力だった大塩平八郎と潜伏キリシタンの件を書いた、第二篇二十六の「京都切支丹巫女」
京都で稲荷のお力で万病を治癒すると触れ込み、文政12年(1829年)当時畿内で有名だった豊田貢という女がいた。身分も賤しからぬふうで、九条家の紋のある高張で結構な構えだったという。
それを大塩は怪しいと睨み、彼の配下を囮にして潜入させ、豊田貢がキリシタンであることを見事に暴いた。著者はこの顛末を書いた「異法修行の罪人手板」という折本があり、大坂市藤田一夢氏が所蔵してると書いている。
まさに、新聞記者が情報収集する本領発揮であろう。
私は、大塩平八郎は陽明学者で、1837年に当時の悪政に反乱を起こした人物という教科書レベルの知識しかなかった。それゆえ、彼にキリシタンとの関りがあったと知り、その意外さに驚いた。
私は潜伏キリシタンを見つけ出すのが与力の仕事の内かは存じないが、江戸幕府のキリシタン禁制からみて、庶民に近いところにいる警察官である与力には、そのような役目もあり得るようには思う。
ちなみに、大塩が捕縛する前に、京都の与力関根忠次郎が調べていたのだが、証拠がなく放免している。それゆえ、彼は大塩の挙に驚き引責切腹したという。
そんなことで、切腹して責任を取るのかと、江戸時代とはそのような時代だったと知るのも、大変興味深いものがあった。
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著者は、バチカンに留学したこともあるカトリック教徒で、長崎純心大学の教授をしていた。
それゆえであろうが、『真正なキリスト教徒とは、一神教たるキリスト教の教えを正しく理解し、唯一絶対なる神の存在を信じ、聖書の教えに従って生きる』者で、『現実には真正な仏教徒がまれなように、真正なキリスト教徒もまれなのも至極当然』だという(P40)
真正な仏教徒がまれであると断言するのはいかなる根拠によるのか述べていないが、キリシタンについては洗礼を受けたと言っても、『結論から述べれば、それまで日本人がおすがりしてきたもろもろの神仏の上に、さらに効き目のあるなんでも願い事を叶えてくれそうな南蛮渡りの「力あるキリシタンの神」を、ひとつ付け加えたに過ぎなかった』とする(P41)
この結論は、潜伏キリシタンについて書かれた本書で、著者が最も言いたいことであった。それゆえ、本書のいろいろの場面で、似たようなフレーズが繰り返し書かれている。
たとえば、『二三〇年の長い潜伏時代を通して、キリシタンの信仰だけが救いにいたる唯一の正しい教えであるという明確な自覚を持ち続けた信徒は存在しなかったといっても過言ではない。』
『繰り返しになるが、ここでいうキリシタンとは、現代のわれわれが思い描く一神教的なキリスト教とは似て非なるものであり、日本の諸神仏信仰の上にさらに効き目ある新米の神が付け加えられた、キリシタンという多神教的な宗教であったことを頭に入れておきたい』(P108〜109)と述べている。
さて、このように著者がキリスト教徒ではないとする潜伏キリシタンであるが、その主張の目的は、キリシタンの歴史に幻想を抱き、ロマンをみないようするべきだということにあるようだ。
著者は「あとがき」で、『夢とロマンの幻想世界』から目を覚ませと述べている。
著者の学者としての目を通せば、彼のキリシタン史観はそうなるのであろう。だが、私は潜伏キリシタンにロマンを抱いたことはない。そのうえで、かれらの殉教の歴史的事実に興味を持って、この本を読んでいたのだから、それへの記述を期待していた。
著者は潜伏キリシタンがキリシタンだと発覚した時に、なぜ殉教を選んだのかには、明確な根拠をもって示していない。『彼らが命がけで何かを守り通そうとしたということだけは紛れもない事実であるが、その守り通してきたものは、キリスト教ではなく別のなにかだったのだ』(P84)とし、
『先祖に対する子孫の務めとして大切に守り通してきた』(P108)とする。
著者は、棄教した事例を示し、このようにいうのだが、これは学者としてはかなり冷めた見方であろうと思う。もし、彼がキリスト教徒として、一人の信仰者としては、殉教に至ったキリシタンの心情に触れ、深く共感することもあろうかと思うのだが・・・真正なキリスト教徒はまれだと、著者自身が断言していることではあるし。
本書の最後の章「日本ではなぜキリスト教徒が増えないのか」では、著者は日本のキリスト教徒は人口の1%にも満たないことを嘆き、その対策を論じようとしている。だが、キリシタンへの信仰者としての共感がなければ、これもむべなるかなの思いで読み終えた。
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2月3日が立春になるのは、124年ぶりだそうだ。
ということは、この123年間は2月4日の立春がずっと続いていたということだろうが、1日ずれたからと言って、そうなんだというくらいで、とりわけ感慨が湧くわけでもない。
ところが、この日、庭隅の日当たりのよい所に、オオイヌノフグリが咲いていた。まだ、ほんの数輪だが、春は確実に来ていると、こちらには感慨が湧く。
早くコロナが収束してほしいと祈っているが、それまでは春の訪れを心から楽しめないのは残念だ。
節分の鬼がコロナに代わりけり
庭先に青い星咲き春立ちぬ 嘆潤子
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「孔丘」は儒教の祖、孔子のこと。最初、題名見たときには分からなかった。
どうやら、孔は姓(氏)で、丘は諱(いみな)、孔子というのは後世での尊称ということだ。他に字(あざな)があって、仲尼(ちゅうじ)という。仲は次男を意味するそうだ。字はいわば呼名で、普通にはこれを使う。
ようするに、私はこの本を読むまで、「孔子」は孔子としか知らなかった。
他にも、孔丘が身長2メートル16センチもの巨漢で、面貌も異相だったという。これらは私の抱いてたイメージとは全然違う。ネットで孔子像を見たが、実際はもっと恐い面相だったに違いない。
小説の内容は師と弟子の物語なのだが、孔子その人より、弟子や周囲の人々を通して孔子を描いたというべきか・・・。
著者は「あとがき」で、50代のときに孔子を描こうとしたが、資料集めした段階で小説にするのをあきらた。60代でもう一度書こうとしたが、やはり無理だとあきらめた。70を過ぎたときに、神格化された孔子を描くのではなく、失言あり失敗もあった孔丘という人間なら描けると肚をくくって書き始めたという。
いわば、著者が73歳で亡くなった孔子の年齢になって、著者にも見えてくるものがあったのだろう。
小説の最後に、孔丘が10人ほどの弟子を連れ、本国の魯(ろ)を追われてから、13年間の流浪の果てに、ようやく魯に戻れるようになるくだりがある。その状況が死と隣り合わせであっただけに、弟子たちが師を守り抜こうとする様子には、読んでいても感動するものがった。
孔丘に人を引き付ける魅力があったことは間違いないが、孔丘を孔子にしたのは、孔丘亡き後の弟子たちの活躍があってだと思った。
それにしても、中国の人名や地名は難しい。最初に出てくるときは、フリガナが振ってあるのだが、私は覚えるのが苦手で、前に戻って確認することがしょっちゅうあった。これは本を読む興味を半減しかねない。
本を読むにも、それなりの知力を必要とする。まあ、ボケ防止にはなるかもしれない。
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『六十の手習い』ということわざがある。
「手習い」とは元々「習字」のことだが、歳をとって、新たに物事を習うことをいう。その心は "Never too old to learn."ということだ。
私は60を一回りも上回ってしまったが、この頃は人生百年時代なんていわれてるし、けっこう長い老後だから、何か新たに学ぶのに遅いということはあるまい。
年が明けてコロナが猛威をふるってる。年寄りだからと負けてはいられないと、新年にあたり久しぶりに決めたことがある。それは古文書を読む力をつけることだ。
古文書は私の身の回りにはないし、今のところ解読する必要性も皆無だ。だが、これからでも勉強してみたら、読めれるようになれそうな気がするし、興味もある。まあ、内心であるが、読めるんだぞとエバってもみたい。
古文書講座みたいのがあれば参加したいが、どうやら地元にはなさそうで、とりあえずは独学するほかない。それで入門に良さそうな本をネットで探したのが、上の本だった。
著者は中学校の教師をした経歴がある。そのせか、この本の言葉遣いは、初心者に向けて、やさしく語りかけるように書かれている。
この本が教材に取り上げているのは、「南組夜番帳」という江戸時代の農村の集落で行われていた夜回りに関するもので、素材を通して、当時の生活が身近に感じられるものであるのは良かった。
前に出ていた「くずし字」がまた出てきて、『どうですか、わかりましたか』などと聞いてくるように書かれているのだが、私はどうやら中学生のように、『ビミョウで〜す』と応えてしまう。
『微妙なんて言うな、完璧に理解しろ』などと、私はふだんは塾生に言っているのだが、『ビミョウ』と言いたい心理がわかるような気がした。
私はこの本を読み、半分は凹み、半分は意欲を搔き立てられた。それは、「夜番帳」の後半に、農民自身それぞれが、その中には小作人もいるであろうが、彼らが夜番を勤めた証に自署していているのが意外だったからだ。
江戸時代の一般庶民には寺小屋教育があり、当時の識字率は世界に誇れるものだった。それで、農民でも自分の名は普通に書けてたのだろう。それも崩し字を当たり前に使ってだ。
私は江戸時代の者ができたことなら、現代の私にもできるはずだと思った。それゆえ、もっとよく学ぶためには必要であろう、「くずし字辞典」を購入することにした。
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新聞の広告に、”15万部突破!ベストセラー“ ”待望の文庫化” ”書店員が選ぶ 泣ける本 第1位!”とあった。
最近、年のせいだろうが、私の涙腺は弱くなっている。だが、本を読み、本格的に感動して涙を流すというのは少なくなった・・・と思う。
じゃあ、ひとつ泣いてみるかということで、地元の図書館を検索したら、1018年4月刊の初版本があったので借り出してきた。
木皿泉という作家の小説を読むのは初めてだ。本の最後の著者欄を見ると、「木皿泉」は脚本家で、和泉務と妻鹿年季子の夫婦のペンネームだった。よほど夫婦仲が良くないと、作品を仕上げられないだろうなと思うのだが、実際はどんなふうに共同作業をしているのだろう。
そんなことが気になり、この文や内容は夫(男)の感性、こちらは妻(女)の感性だろうとか思って読んだりした。そんなこんなで読めば、話の内容がどんなに良くても、泣くムードにはなかなかなれない。
ともあれ、本の題名の「さざなみのよる」は、漢字表現したら、「小波(細波・漣)の夜」だろうと思い読み始めた。
ところが、それらしいのは第1話でナスミが43歳で癌で死ぬのだが、その死の間際、「ぽちゃん」と石(自分自身)を井戸に落とした言葉を呟くシーンがある。これは姉の鷹子と子どものころ、鉛筆削りのハンドルをぐるぐる回し、それを井戸に見立て、どちらの井戸が深いかを言い争ったことを思い出してのことだった。その他に、この小説には水面に波が立つような話はなかった。
それに、彼女が死んだのは6時8分だから、もう夜とは言えない時間だろう。
この小説の舞台が、富士山が見える田舎で、近所の中学生から「贋コンビニ」と呼ばれているほど冴えない商店であることや、鷹子・ナスミ・月美の三姉妹ということで、なんだか記憶していることがあった。
それで思い出したのが、NHKの正月ドラマ「富士ファミリー」(2016・2017)だった。主要登場人物は同じだ。小泉今日子がナスミ、薬師丸ひろ子が鷹子を演じていた。ドラマではナスミは笑子ばあさん(片桐はいり)にしか見えない幽霊で登場する。検索してみたら、このドラマの脚本は木皿泉だった。
ということは、自分の脚本ドラマを小説にしたのが、この小説ということになる。な〜んだそういうことかと思ったのだが、テレビドラマと小説の内容は、ドラマの記憶はあいまいだが、ずいぶん違うような気がする。
ナスミが幽霊で登場するのは、この小説では14話あるうちの第12話で、ナスミの昔の同僚が本を出版しサイン会をしているところに現れる。ナスミは元同僚を祝福し、本にサインをもらって立ち去る。
だが、私には幽霊とかで登場させる必然性が感じられず、私の涙腺はハタと閉じてしまったのは残念だ。
ともあれ、”さざなみ”とは何だろう。テレビドラマでは正月ドラマらしく、多少のドタバタ感があったが、小説では作家はそれとは違う”泣ける”ものを狙ったのかもしれない。とすれば、わざわざ平仮名にしたくらいだから、単純に”さざなみ”=小波ではないのではなかろうか。
そこで、この小説の全14話を振り返ると、鷹子(第2話)や月美(第3話)や夫の日出夫(第4話)や笑子ばあさん(第5話)と、ナスミの最も身近にいた人物達から、家出を企てた幼馴染や、かつての職場の同僚たちへと、関係性のあった人たちへと広がる。それぞれの話では、ナスミとどんなやり取りがあったかを、各話の話し手の視点から語られる。
そこでは、各話の話し手とナスミの関係からナスミの人柄が浮かび出て、人生の生きざまで大事なことや、ポジティブな考え方に変化する様子やらが取り上げられる。上に書いたように書店員が”泣ける本”と言っているのは、そんな登場人物とナスミとの関りが描かれているからだろう。
そういう小説全体から見ると、”さざなみ”とは、ナスミとの関りを思い出す中で、各人の心の中の”揺れ”=”心の動き”を指しているのだろう…と私は思った。
ちなみに、思い出のシーンは、なにげなく、夜が多いようだ。
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こうしん山のテングさまが、まだ子どものときじゃった。お山のてっぺんに、大きな池を作ろうと思ったそうじゃ。ほら、大きな山には、たいがい大きな池があるじゃろ。しらね山にも、あかぎ山にもあるじゃろ。見たことあるべ。うんだな、沼ともみずうみともいうがの。
そんで、ご自分のお山にも、ほしくなったんじゃろな。それをつくるにはの、お山のてっぺんを、こう、けづらにゃあかん。なんせ、大むかしのこうしん山は、トンガリボウシのようでな、おとなりのすかい山よりもずっと高かったそうじゃよ。
やりはじめたはいいがの、大きな岩は出てくるわ。小さな岩は出てくるわ。お山をくずすのは、たいそうな大しごとじゃ。
大きな岩は、ドッコイショともちあげたり、ゴロゴロころがして、谷にドーンドーンとおっことしたそうな。お山のまわりに、今も大きな岩がたくさんふさいどるじゃろ、きっとそのせいだべな。
小さな岩はの、ポイとほうりなげればよかったんじゃがの、子どものやることだべ、どこまでとばせるか、やってみたいじゃろが。そんで、おもいっきり、ブーンとなげてみる。これが、おもしろいのなんの。
とおくのほうまでなげて、ビョ−ン・ドン・ストーン・ガラガラ、ビョ−ン・ドン・ストーン・ガラガラ。まあ、たいていはの、おんなじところまでとんでの、いつのまにやら、たくさんつみかさなってしもうた。そんところが、『てんぐのなげ石』いうところじゃ。こないだ、ハイキングさ行って、見てきたべ。
お池はどうなったかのう。くたびれて、やめてしもうたわけではないぞ。なんせ、ビョ−ン・ドン・ストーン・ガラガラじゃ。えらく音がするでの。
それで、びっくらこえたのが、かしょう山の大テングさまじゃ。おちおちひるねもできんと、やめさせてしもうたんじゃ。
そういうことでの、こうしん山のお山のてっぺんに、お池はできておらんのよ。今では、ただ広くて、平べったくなっておるがの。そんでもな、雨がふると、小さな水たまりができるそうじゃ。そこは、お池をほりはじめたところじゃそうだがの。バーさんは見たことはねえが。バーさんのまたバーさんから聞いたお話しじゃ。
おしまい
画像は、足尾の銀山平から庚申山に入る途中の林道脇にある『天狗の投げ石』という場所。
幅・高さとも数十メートルにわたり、同じくらいの大きさの岩(城の石垣にちょうど良いくらい)が、累々と積み重なっている。
設置された看板には『足尾七不思議』とあるが、それ以上の説明はない。
異様な光景ではあるが、地質的な由来は専門家ならわかるだろう。そうした説明板が欲しいところではある。
私は他の「七不思議」が何か知りたくて、標識の設置者であろう足尾町(現日光市)に問い合わせたが、分かりませんということで拍子抜けしたことがある。
それで「足尾七不思議」のサイトを立ち上げて情報を求めたところ、土産物店の宣伝に使った「足尾のしおり」というのに載っていたということまで分かった。だが、その「しおり」はどこにも現存していない。その店もない。
私は、情報者の記憶やその他から、七つのうち3つまで絞り込んだが、それ以外は不明。今となっては「七不思議」を知る人はいないだろう。
ちなみに、この画像は2003年5月に撮影したもので、現在も『天狗の投げ石』の標識があるかは知らない。
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この本は、中島みゆきの「糸」に触発されて書かれ(令和元年12月刊)、今年4月に映画化された。私は、映画は見てないが、予告編を見て面白そうだと思った。DVDが出たらレンタルしたいと思っていたが、たまたま書店でこの本を見て、先に読んでしまおうと思い購入した。
本や映画の内容は、ネットでも取り上げられてるので、ここではあえて割愛する。
読み始めて、最初に気になったのは、文体構成だった。
著者の林民夫は脚本家(映画「糸」の脚本も彼がしている)。それゆえだろうか、文章を組み立てるセンテンスが非常に短い。その上、センテンスごとに頻繁に改行している。例えば、第1章縦の糸の冒頭は、こんな具合だ。
高橋漣が生まれたのは平成元年だった。
一月八日、早朝に産声をあげた。
「平成初の赤ちゃんですよ」
:
:
漣にはすべてが遠い世界の出来事のように思えた。
バスが旭川空港に着いた。
北海道を出るのは、今日が初めてだった。
北海道を出るどころか、飛行機に乗るのも初めてだ。
漣は搭乗手続きのカウンターに向かった。
改行ごとに、形式段落と同じように、一文字下げるている。だが、カギかっこの「 記号は下げてないので、ページで見ると、バランスはあまり美的ではない。
長い段落も短文で続けられて、それも2〜4行くらいで、次の段落になり、1文字下げられる。
こういう文体で文章を読むのでは初めてなので、最初はぎこちなく感じた。
だが、慣れてしまえば、リズミカルに時間が過ぎるようで、テンポの速い展開は悪くない。まあ、映画のシーンを見ていると思えばよい。
おそらく、著者としても、映画化が念頭にあっただろう。
本の最後に、「この作品は書き下ろしです」とあった。私の購入本は令和2年4月の5版で改訂版ではない。だから、次の疑問はある意味仕方ないかもしれないが・・・主人公高橋漣の娘で7歳の結が、この物語のキーパーソンのひとり、村田節子にさよならを告げるシーンで、こう言っている。
「じゃあ、おばあさん、待たね!」
「待たね」は「またね」だろうが、この漢字表現には違和感を覚える。いろいろ調べてみたが、この漢字で「さようなら、またね」の使用例は見つからなかった。7つの女の子だし、わざわざ漢字を使う必要はあるまい。
ちなみに、このブログを読んでいる男子諸君で、洋式トイレで小便をするとき、座ってする者はどのくらいいるだろう。
この物語では、漣は結婚相手になる香と同居するさい、濡れた体のままで風呂から出てくることを禁止されたし、上のような方法で小便をするように「命令」されている。
著者が命令という言葉を使っているので、今どきの夫婦とはそういうものかと読んだが、高齢者といわれる私には風呂はともかく、小便の仕方には抵抗がある。私は立ってしている。
もっとも、私の知り合いには、そのやり方で奥さんに躾けられた者もいるので、他人に良し悪しは何とも言えないのだが、まあ、立ってすれば失敗も多い。
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アメリカ映画に『女神の見えざる手』(2017年公開)というのがある。
米議会で銃規制法案を通すために、権謀術数で敵だけでなく味方さえ欺く、女性ロビイストを描いたものだった。法案反対側も同じように手段を選ばぬロビー活動をするので、女性ロビイストの方は敗色濃厚に追い詰められるが、最後にどんでん返しがあり、映画の面白さがあった。
こちらの小説は、選挙コンサルタントを描いたもの。そういう職業があるとは知らなかったので興味深く読んだ。
小説の冒頭は「選挙は戦争だー」で始まる。主人公の聖達磨は手掛けた選挙で99%の当選を誇り、「当確師」の異名を持つ。たが、小説に描かれた内容は、『神の見えざる手』と比較してしまうと、やはり日本人作家らしい作品のように思えてしまう。
いわば、選挙は食うか食われるかの弱肉強食=戦争だが、映画では女性ロビイストが自身の収監に引き換えても勝利を手にしたことに比べると、この小説は”なまぬるい”ように思えてしまう。
この当確師は公職選挙法に触れないように、いわば保身を図りながら当確を目指している。公示前までが彼の仕事であり、その時点で当確と判断できなければ、”おりる”こともあるとさえ言っている。それゆえ、サスペンスのようなハラハラドキドキ感には欠けている。
物語の中心は、政令指定都市の高天市長選挙で、3期目を目指し圧倒的支持率を誇る現市長が、権力者としてほしいままにふるまい始めたことに対し、聴覚障害者で無名の女性候補を対抗馬に立てて選挙を争う話になっている。いわば、悪と正義みたいな構図で、上に書いたような”なまぬるさ”とはそういうことだ。
だが、読んでみて物語がつまらなかったということではない。この小説を原作に、20年冬にテレビドラマになるという。当確師の聖達磨役が香川照之だそうで、私の読後感ではぴったしの配役のように思う。面白いドラマになるに違いない。
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さあさあ、みんなおコタにお入り。子どもは風の子、雪の子だけど。ほら、こんなにホッペが冷たくなるまで遊んで。さあ、あったまりなさい。ミカンをおあがり。今度は、バーさんが、むかし話でもしてあげようかね。
むかし、むかし、大むかしのことじゃ。人間のご先祖さんが、おサルやシカやクマさんたちとお友だちで、まだヒトとよばれていたころじゃ。
日光の男体山の神さまと、お隣りの上毛(こうづけ)のクニ、今の群馬県じゃな、そこの赤城山の神さまが、大ゲンカをなさったそうな。日光のお山の大きな原っぱで戦(いくさ)をしての。そうか、それは聞いたことがあるんかいの。そうとも、その原っぱを、今では戦場ヶ原と呼んでおるなあ。
男体山の神さまは大蛇に、赤城山の神さまは大ムカデにお化けになったそうな。そうとも、変身〜ん、っといったかもしれんなあ。えっ、大きさかえ。そうさなぁ。大蛇は、日光の杉並木の、一番大きな杉の木くらい太さでの、長さは五十メートルほどもあったかのう。見たら、ビックリするなあ。大ムカデも同じくらいだったかのう。こっちは足が百本もあって、やっぱり見たこともない大きさじゃ。
それが、にらみあって、そのうち、くんづほぐれづ、からみあって、上になり、下になり、ドスンバタン、ドスンバタン、たいへんなものじゃ。なんじゃ。神さまもケンカなさるかじゃだと。う〜ん、それはするわな。神さまかて、ごはんを食べる、うんちもしなさる。人間とおんなじじゃ。ケンカだってするだろうさ。
その戦はどうなったろうかね。両方とも神さまじゃから、なかなか勝負はつかんかったはずじゃ。今ではな、栃木の人間は、大蛇が勝ったと言っとるがの、群馬の人間は、大ムカデが勝ったと言っているそうじゃ。それぞれに、身びいきというもんがあるんじゃな。人間は自分かってという、見本みたいなもんじゃの。
でもな、おまえたち。戦争ってのはな、何にもなくて始まるものじゃないよ。するからには理由があるもんさ。そのところを、ちゃんと考えないとな。勝ったほうが正しくて、負けたほうが悪者になってしまう。そうさな、勝ったからといって、いつも正義とはかぎらんくらいは、おぼえておいで。
そこでじゃ、大蛇と大ムカデの戦、まあ、ケンカじゃな、その原因てのがあったはずじゃ。今日は、バーさんがその話をしてあげよう。バーさんが、そのまたバーさんから聞いたお話じゃ。
足尾の山奥の、ずっと山奥に、マツキヒメという、それはそれは、たいそう美しい娘さんがおったそうな。歳は十八ころじゃ。そのヒメさんが現れると、あたりは七色の虹のように光り輝いての、なんともいえぬ甘い花の香りが、プーンとただようてきたそうじゃ。
その評判はの、高天ヶ原にまで聞こえての。スサノウノミコトも会いに行こうとしたそうじゃ。それをお姉さんのアマテラスオオミカミが、太陽の神さまじゃがの、ぜったいにダメだと言って引きとめたそうな。おまえが許しもなく行くと、天の岩戸に閉じこもってしまうぞと、おどしたくらいだ。なんせな、スサノウというのは、とてつもない乱暴者でな、また悪さしてきては困ると心配なさったんじゃろな。おや、お話しがわきにそれてしまったのう。
そんなマツキヒメには、結婚を約束したいいなずけがおっての、その相手というのが、赤城の神さまじゃった。赤城の神さまは、ピュ−ゥピュ−ゥと、からっ風にのって、マツキヒメに会いに毎日のように来とたんじゃ。が、それは冬の間のことじゃ。
夏場になると、そうはいかないんじゃよ。からっ風がふかないからの。それでも会いたくなると、赤城山からいくつも山々を越えて、袈裟丸山を越えて、皇海山を越えてやって来たそうじゃ。長い長い山道をな、登ったり下ったり、登ったり下ったり、それは大変じゃ。
だからの、一週間に一度、二週間に一度、ひと月に一度と、どうしてもまどおになるじゃろ。今も足尾に間藤というところがあるがな、渡良瀬渓谷鉄道の終点駅があるところじゃ。その名前はの、赤城の神さまが訪ねて来るのは、『なんと間遠くなるの』ってな、マツキヒメがなげきながら待っとったところだからだそうな。こりゃ本当かどうか分からんがのう。
そんな夏のある日のことじゃ。日光のサル軍団をひきつれて、男体山の神さまが、マツキヒメを一目見ようとやって来た。それでもって、一目ぼれじゃ。それからは、毎晩のように夜這いしてくる。なんせ、日光と足尾はすぐ近くじゃからのう。えっ、ヨバイってなんだとな。う〜ん、それはの、え〜、そうじゃな、結婚してくれとな、夜中におなごのところにいくことだべ。
まあ、ところがじゃ。男体山の神さまには、もう奥方さまがいらっしゃるだよ。ニョホウサンヒメという方じゃな。だから、マツキヒメもなかなかウンといわねぇ。赤城のいいなづけの神さまもおるしのう。
そうこうしているうちに、赤城の神さまも、男体山の神さまが、マツキヒメにちょっかいをだしていることを、お知りになったと。怒った、怒った。『オレのヒメになんばしよるか』ってな。
男体山の神さまも、ひっこんでいねえ。ここではちょっといえんような、売り言葉に買い言葉があったんじゃがの。それでは、力と力の勝負で決着をつけることになったわ。
赤城の神さまは大ムカデに姿を変えて、日光に攻めよせてきた。男体山の神さまも、大蛇になって迎えうっての大ゲンカじゃ。ああ、これは前に話したの。ケンカの原因なんて、たいていこんなもんじゃ。
それで、戦場ヶ原で戦ったわけじゃが、男体山の神さまには、地の利があるというものじゃ。サル軍団だけでなく、ニョホウサンヒメも、夫の浮気はあとでしめあげてやるべってな、いまは負けたら一大事じゃと、弓矢の名人に助っ人を頼んだりしての、日光一家の総力をあげたんだべな。ついには、大ムカデの赤城の神さまは大ケガをおっての、やっとこさのおもいで、赤城山に帰られたそうじゃ。
その話しが、どのように伝わったかのう。マツキヒメのところに、庚申山の大ザルがやってきての。赤城の神さまは大ケガがもとで死んでしもうた、とな。マツキヒメハはそれを信じ込んでしまわれた。なげくこと、なげくこと。毎日毎日、泣いて泣いて泣きつづけたそうな。そうさな、今も泣いておられるかのう。その涙が松木沢の水かもしれんなあ。
あまりの悲しさに、マツキヒメは赤城山の方の空をみつづけ、いつしか動かぬまま岩になってしまわれたそうな。それはそれは、真っ白で美しい姫姿をした大岩だったそうだ。
その岩がドコにあるかってか。それが今はわからないんじゃよ。なぜかというとな。そのむかし話をな、親から子へ代々言い伝えてきた、松木村という村があったんじゃが、足尾銅山の煙にやられての。畑の作物もとれなくなってしもうての、それで生きていけんようになってしもうた。
村人は一人去り、二人去り、三人と。そうやってとうとう、村人みんなが村を出て行ってしもうた。だからの、マツキヒメの岩がどこにあるか知っている者は、ひとりもおらんようになってってしもうたのよ。
バーさんもマツキヒメの姫岩を見てみたいがの、バーさんのそのバーさんも見てはおらんがの。村人だった友達から、話だけ聞いたそうじゃ。だから今は、どこにあるかわからない、まぼろしの岩になってしもうた。誰も行かなくなった山も荒れて、松木沢のどこかに埋もれてしもうたかもしれんなあ。残念なことじゃ。
お話はこれでおしまい。ほら、もう暖ったまっただろう。もうひと遊びしておいで。子どもは風の子、雪の子じゃ。
【画像説明】
1枚目…足尾銅山の公害で廃村になった松木村があったあたりから、松木川の上流方向を望む。
2枚目…松木川上流は、日本のグランドキャニオンと称され、煙害で山々が丸坊主になった荒涼とした風景が広がる。画像の大岩はジャンダルムと呼ばれる。
(2002年6月撮影)
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主人公は62歳。東京板橋の商店街で中華そば店を営んでいた。高校退学ながら、店の二階に蔵書800冊の読書家だ。小説にはそうなった経緯が書かれていて、主人公の人格形成だけでなく物語の展開に大きな意味をもっている。
家族は、証券会社に勤め同居する27歳の長女のほかに、名古屋で重機販売会社の営業をしている社会人1年生の長男と、京都の大学で土木工学を学ぶ次男がいる。次男はまだ大学1年だが、大学院に進みたい希望を持っている。
そうした家族状況だが、主人公は2年前に妻を突然に亡くして以来、夫婦でやっていた父親以来の中華そば店(流行りの「ラーメン」ではなく「中華そば」であることは、物語の中核をなしている)を閉じてしまっている。
物語は、主人公が『神の歴史』(カレン・アームストロング著)という本を、仰向けに寝転んで読んでいたときに、一枚の葉書がページの間から落ちてきたところから始まる。
この葉書は、30年ほど前に妻宛てに届いたもの。差出人は男性名で、大学生活最後の夏休みに灯台巡りをしたと書いてあり、その下半分にどこかの岬らしいジグザグの線が描かれ、黒点が一か所につけられている。その黒点は灯台の位置のようだった。
ところが、妻は差出人の大学生の名前に全く思い当たることがないという。
主人公が難解ゆえに未読の『神の歴史』に葉書を挟んだのは、妻以外にありえなかった。どうして、妻が葉書を取って置き、この本に挟んだのかは謎になった。
そんな折に、主人公と同じ商店街で惣菜店を営む幼馴染の店に、たまたま貼ってあった灯台のカレンダーを貰い受けた。葉書の灯台はどこかわからないが、自分も灯台巡りをしようかと思いはじめ、ネットで『ニッポン灯台紀行』を購入した。
私は旅行経験が少なく、実際の灯台を見た記憶がない。灯台に興味がないわけではない。何十年も前、小学生の頃に見た『喜びも悲しみも幾年月』という灯台守の人生を描いた映画は、今でもストーリーの大体のところは覚えている。
それくらいだから、私もこの小説を読んで、灯台巡りをしてみたいと思った。「ニッポンの灯台紀行」も購入予定に入れようかと・・・残念ながら、主人公ほど(あるいは著者ほど)の行動力がない。
この物語の最後のほうで、葉書の黒点は出雲日御崎灯台と分かる。私はネットにあった海上保安庁の動画を見てみた。日本独自の石造り技術で造られた高さは44mもあり、白亜の灯台は雲一つない青空に映えていた。小説でも描写されていたように、白く屹立した美しい灯台だ。
国の登録有形文化財だが一般公開されている。内部の163段の螺旋階段で灯下にある展望台に上がれるが、高所恐怖症の私には無理かもしれない。
小説の主題は、妻が葉書の差出人に心当たりはないとしていたことの謎解きなのだろう。物語の終盤で、40数年前に女子高生であった妻と、差出人が当時小学2年生だった男児との、出雲での邂逅が描かれる。この二人にあった出来事が、著者が『灯台巡り』や『灯台の明かり』とかではなく、『灯台からの響き』というタイトルにしたのかも知れないが、著者は「響き」が「何」かは、直接的には書いていない。
未読の宮本輝ファンのために、これ以上はこのブログに書かないでおこう。
ちなみに、物語の内容に直接の関係はないと思うが、著者はこの本の中で、車椅子の科学者ホーキンズ博士が日本で行った公演で、『宇宙での瞬きする時間の長さは、地球時間では100年に相当する』と、ある作家の質問に答えたと書いている。この辺は、著者独特の蘊蓄だろうが、妙に印象に残った。
もちろん、100年が瞬きするほど短いというだけのことではないだろう。残り時間少ない私は、人生とはなんぞやなどと考えてしまう。
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著者は、この本の「はじめに」で、季語について
『季語は俳句に春夏秋冬という一年の循環に基づく時間認識を付与することで、人間の存在感、生命感を普遍的な詩として定着させる重要な言葉の装置である』とし、
『時代のその瞬間瞬間のあまたの出会いを開示しながら、その一瞬を永遠化する装置として働く』と述べている。
こんな表現から、この本は難しいことになりそうだと思って読み始めたのだが、これを私の視点で単純化するなら、『季語は季節を表す語であるけれども、それにとどまらない奥深いものがある』ということだろうと思った。
しかし、俳句の詠み手の意図がなんであれ、その句が世に出た後は、読み手に任されてしまうのだから、読み手=鑑賞者の鑑賞力や経験値に左右されてしまうことは予想されるだろう。
たとえば、この本で夏の季語として取り上げている夏草について、芭蕉の『夏草や兵どもが夢の跡』を、著者は、次のように解釈する。
『「夏草や」の「や」の働きに忠実に読むなら、それら眼前の事物現象の彼方にある時間そのものが「夏草」となっていると読むべきであろう』とし、
『その時間自体を今、夏草が覆っているのである。「夢の跡」はまず芭蕉自身の心にこそ存在していたのだ』と。
まさに、この本のタイトルのように、著者は『季語の時空』で鑑賞しているのだろう。
だが、私の鑑賞力のレベルでは、『兵どもが戦かった城跡には、今は夏草が覆うばかりだ』という情景を詠んだもの、ということから一歩も深まらない。
他に、私が興味深く思った季語に、「狼」=冬があった。狼は現在の日本には生息していない。したがって、これを俳句にすれば、それこそ時空を超えて鑑賞することになるのだろう。
たとえば、『おおかみに蛍が一つ付いていた』(金子兜太)の句を、著者は『狼は滅びたゆえ、詩歌の世界で不滅となった。滅びて、なお、原初的な生命そのものである』という。
この著者の主張は私の理解を超えている。現に存在しない動物は、もはや想像の産物でしかなく、日常生活からかけ離れている「狼」の真実は、もはや分からないはずだ。
著者も触れている「遠野物語」には、オオカミの話しが幾つも収録されているが、あくまで民話伝承であって、そこにオオカミの実態があるとはいえないと思う。
この本では、40の季語を取り上げて解説し、それの俳句を5,6句くらい鑑賞する。その文章はエッセイ風で内容は豊かだった。特に、この本の元は東日本大地震の数年後に俳句誌に連載されたもので、震災の前後により俳句の状況にも変化あるというのは興味深い。
震災は、著者の時空にも変化をもたらしたようだ。
俳句は、五七五で詠む世界で最も短い詩。私のように指を折りながら、ボケ防止で作るような俳句は、素人の極みであるにしても、私自身はそれでも良いと思っている。
それゆえ、この本を読み終えての感想は、俳人と称する人たちには「かなわないなあ」というのが正直なところだ。
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館林の北外環道と、館林と足利を結ぶ旧足利街道の交差点が上の画像。
そこの横断歩道脇に草むらがあり、雑草が生えているように見える。
そこを拡大したののが下の画像。
交差点の横断歩道脇の、格子状の蓋がある側溝の中から小枝が延びて出て、紫の実をつけている。
私は、夏前の花が咲いていた頃に、これに気付き、雑草ではなく、おそらくムラサキシキブだろうと思った。
だが、このような場所だから、もしかしたら、道路管理者に刈り取られてしまうかもと思い、それゆえ無事に実がなるこの季節を楽しみにしていた。
いま、この鈴なりの紫の実をみれば、間違いなく、ムラサキシキブと確認できる。
だが、なんでこんな側溝に生えたのか、考えてみると不思議でならない。
まず、側溝の格子状の蓋は、この1ヶ所だけにある。茂み化した枝は、その格子の中から出ているので、誰かが人工的に植えたものではないことは明らかだろう。
となると、このムラサキシキブは実生ということになろう。
すると、たまたま、実をついばんだ鳥の糞に混じった種が、この側溝の格子から落ちて、あるいは上流のどこからか流れて来て、この場所にたどり着き、きわめてまれなことに、ここには発芽できるだけの土があり、種が土に埋まり、発芽し、成長し、側溝から水が溢れるような大雨があっても、流されず、数年かけて、ついには側溝の格子の上まで成長したことになる。
こんな、偶然が重なるようなことは、ふつうでは100%ありえないだろう。これを奇跡といわずに何といおうか。
ちなみに、実が小さく枝びっしりと連なっている様子をみると、「コムラサキ」と呼ばれる品種かと思われる。
ムラサキシキブは「紫式部」で、平安時代の女流作家(源氏物語の作者)から取られたという。実が美しい紫色していることからの連想であろうか。
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SF小説を読まないわけではないが、ファンというほどではない。
この「三体」も第一部を読んでいたので、今年6月に発刊された第二部も、いわば、引きづられるように読んだという趣がある。小説の内容については、ネットにもたくさんの情報があるだろうから、いちいちについては取り上げないでおこう。
私自身の読後感は、三体人の地球侵略も、現実感がなく「ふ〜ん、そうなんだ」という感じだった。ようするにSF小説の世界は、私には、ひまつぶしの好奇心の対象ではなさそうだ。
ところで、宇宙人の存在について、それが確実であると思われるのに、確証が得られないという矛盾を、それを唱えた物理学者の名をとって、『フェルミのパラドックス』というそうだ。
この小説も、この矛盾を解くカギを、この第二部の副題になっている「黒暗森林」理論に求めている。
高度の文明を持った異星人は、自分たちの存在を脅かす存在かどうかにかかわらず、暗い宇宙の森に潜む猟師のように、密かに、問答無用で、その星を消滅させてしまうのだという。その方が自分の安全にとって、最も有効な方法だからだ。
それゆえ、ひたすら、他星人に見つからないようにしている。これが、『フェルミのパラドックス』が生じる理由になる。逆に、宇宙に向けて、自己の存在を知らせようと、電波や人工衛星を飛ばしている地球人ほど、無知な存在はない。
地球とは比べものにならないくらい高度な文明を持った三体人ですら、地球侵略のかたわらで、より文明の発達している他の異星人によって、三体星を消滅させられる危機感や恐怖を持っている。それで「黒暗森林」理論を逆手にとって、それが地球人が地球を守る方法・手段になるというのが、三体第二部の主題だろう。
先日、河野防衛大臣が、アメリカの国防総省のUFO画像の公開に関連して、自衛隊でも『UFOに遭遇したときの対応マニュアルを検討している』という発言をした。
いわば、宇宙から来たかも知れないモノへの対処方針なのだが、それが明らかになれば、宇宙人は身近に存在するという証明になろう。
だが、仮にUFOが宇宙から来たモノと分かっても、日本政府は秘密にしてしまうような気がする。この小説でも、地球人は三体人の存在にパニックをおこしている。
アメリカではどうか。日本よりは情報公開は民主化されていると思うがどうだろう。
UFOに限らず、思い込みというのがある。この本を下巻まで読み進んでいるうちに、私の頭はSFの論理に疲れていた。読むスピードも落ちた。それゆえ、気付いたともいえるのだが、
下巻29ページに、次のようなシーンの記述があった。
『・・・酒のにおいがぷんぷんした。・・・と呂律がまわならい口調でいう』
正確には、呂律が「まわらない」というべきだろう。ところが、酒を飲んだら、呂律が「まわらない」のは、ごくありふれた現象だから、「まわならい」と書かれていても、「まわらない」と平気で読み進めてしまうのだ。
これは、おそらく出稿時からのミスで、誤植ではないような気がする。だから、校正にも引っかからず、そのまま出版になってしまったのではないか。
それともSF世界では、フツウに「まわならい」という表現をするのだろうか。
なんで、こんなどうでもいいことを取り上げたかというと、実は、私はこの本の上下巻を読み終え、最後にあった「訳者あとがき」を読むまで、副題の「黒暗森林」を「暗黒森林」だとばかり思い、そのように疑いもなく読んでいたのだ。
いわば、フツウは「暗黒」とはいうが、「黒暗」とはいわないだろう。「暗黒森林」と読んでいたのは、私の完全な思い込みだった。
こればかりは、校正ミスであるわけがない。もっとも、読了した今も、「黒暗」と「暗黒」の違いがどうあるのかは、分からないでいる・・・
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我が家の庭は、狭いながら家庭菜園にしてる。スイカを作りたいが、フツウのようにツルを地面に這わせる広さがない。そこで、ネットを垂直に立て、そこにツルを誘導して絡ませることを考えた。
果実を2個取る予定で苗も2本植えた。特別な手入れもなく、受精を手伝ったわけでもないが、予定通りそれぞれのツルに1個づつ結実した。
小玉西瓜だが、果実が大きくなるにつれ、それなりの重量が増す。ネットの方はともかく、果実につながるツルが、その重みに耐えるかどうか分からない。
それで、スイカが結実し、だんだん実が大きくなるのを確認してから、果実の底に、コロナウィルス用の使い捨てマスクをあてがった。果実が大きくなるにつれ、ゴム紐が伸びて果実を支えるだろうというのも、予想通りだった。
だが、誤算があった。
それぞれ大きくなった。収穫時期は梅雨明けごろだと思っていた。だが、今年の梅雨明けは遅れていた。収穫をやきもきして見計らっていたのだが、そんな時、ネットを支えていた横棒が折れ、ネットがぐったりとたわんでしまった。
小玉西瓜とはいえ、2個にもなるとかなりの重量になる。それで、ネットの上部で横に渡した棒が折れてしまうとは予想外だった。スイカ自体はマスクのおかげで無事だった。
スイカを予定通り亡き母の仏前に供えることが出来た。だが、収穫してから食べるまで、どのくらいもつのだろうか。お盆にはまだ間がある。いつ食べるか、それがあらたな問題ではある。
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今日は7月7日の「七夕」。七夕は五節句の1つで、和名は「たなばた」だが漢名では「しちせき」。なぜ「七夕」と書いて「たなばた」と読むのか。
以前は「たなばた」と読むことを、特に意に介していなかったが、このごろは気になったりする。もっと若いときから、そうしたことに拘りを持っていたら、大袈裟かもしれないが、もう少しマシな生き方をしていたかもしれない。
上の画像は我が家の「ハンゲショウ」だが、今頃の季節に地味な花が咲く。漢字では「半夏生」と書く。1年の真ん中7月1日は七十二候の「半夏生」といい、私はこの半夏生とハンゲショウを単純に結び付けていた。
ところが、半夏生は「半夏が生ずる」という意味だろうから、「馬から落馬する」の類と同じく、「半夏生が生ずる」というのは変だ。「半夏」という別物があると考えるのが正しいように思われる。
調べてみると、この半夏はカラスビシャク(烏柄杓)のことだそうだ。やはり、7月1日ころに見られ、この根茎を漢方で「半夏」というそうだ。
カラスビシャクはマムシグサと同じくサトイモ科で、ヘビの頭のような苞の形態はよく似ている。ただ残念ながら、マムシグサは山歩きでよく見ているのだがが、カラスビシャクは確認したことがない。
ちなみに、ハンゲショウは「半化粧」とも書く。白い葉が出て、これを化粧に見立てている。半は葉の半分が白くなるということだろうが、我が家のいくつかの株を見る限りでは、比率的に半分白くなると限らないようだ。
この白い葉は、ハンゲショウは虫媒花なので、虫に己の存在をアッピールするためにあるらしい。朝顔の葉緑体のない斑入りの葉とは異なる。
やがて白い「化粧」は落ちて、緑色になってくる。化粧する必要がなくなるからだろうが、なんだか、人生も同じような気がしないでもない。
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教室の隣は水田で、先ごろ、稲苗が植えられた。すると、突然のようにアマガエルの大合唱が始まる。毎年のコトながら、彼らがどうやって集まってくるのか、それまで、どこにいたのか、不思議でならない。
夜になると、灯に集まる蚊などの虫を餌にするためだろう、教室の入り口に何匹もやってくる。ガラスに張り付いて自在に動くので、彼等の足の吸盤の強力さに感心する。
中には、恐れを知らず、教室の中に侵入するものもいて、たいていの塾生は、男女をきらわず、カエルが苦手で、教室は阿鼻叫喚の地獄と化すのが、毎年の恒例でもある。
捕まえて、外に放り出せと言っても、誰も手出しをしない。まあ、私は苦手ではないから、始末するのは私ということになる。
そういうわけで、私はアマガエルを見慣れているので、上の画像のカエルもアマガエルだろうと思った。
だが、これは我が家で撮ったもので、近隣に水田、あるいは、彼らが生息するような水場はない。それに木に登っていることも気になった。体長も4センチくらいあるので、アマガエルにしては大きい方でなかろうか。
それに、良く見ると、アマガエルにしては見た目で皮膚感覚が違うように思う。アマガエルはもっとヌメっとしていて、ビニールのように滑らかな皮膚をしている。腹の辺り、彼をひっくり返さないと正確にはいえないが、アマガエルのようにヌッペリとした白色をしていないようだ。
なぜ、このカエルを発見したかというと、彼のいるのは柑橘系の木で、この近くに下の画像の芋虫がいて、これがどうなったか見にいったからだ。
これはアゲハチョウの幼虫で、ミカン科の葉を食卓にしている。アゲハチョウがヒラヒラと我が家の狭い庭を訪問するのは、私としては大歓迎で、ミカンの葉っぱなんぞ、いくらでもそうぞ〜と食べるに任せている。
ところが、幼虫からサナギになっているところを観察したことがない。それで、気になって様子を見にいったら、芋虫はどこにもおらず、代わりにカエルがいたというわけだ。
こいつが、芋虫を食ったのだろうか。そうかんぐると、こころなしか腹がふくれているような感じもする。
だが、ネットでアマガエルの食性を調べたが、芋虫を食うという記録は見つからなかった。いや、それ以前に、我が家の環境から考えて、彼をアマガエルだとは断定しがたいものがあろう。
いったい、彼は何ガエルだろう。Who are you?
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著者は大学一年のとき、金子みすゞの詩に出会い、激しい衝撃を受けたという。
それが、「大漁」という詩だった。
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。
後半の、『海のなかではとむらい』をしているという視点に、著者は「人間中心の自分の目の位置をひっくり返される、深い、優しい、鮮烈さを受けた」と述べている。著者がこの詩に出合った「日本童謡集」には、みすゞの詩はこれ1つしか載っておらず、ここから、著者は幻の童謡詩人といわれた「みすゞ探し」を始めることになる。
金子みすゞは全作品620余を3冊の手帳に残しており、それを託した実弟上山雅輔と著者が運命的な出会いをしたとき、金子みすゞは再び世に生き返る。みすゞを探し巡っていた著者は、その時、30代半ばを過ぎていた。
その後、著者は金子みすゞの詩集を世に送り出したり、みすゞの生地に記念館を作るなどし、今や金子みすゞを知らないものはいないだろう。それは、たった一人の青年の感動から始まったものだと思うと、感慨深いものがある。
私が初めて出会った金子みすゞの詩は、教科書に載ったものだった。また、彼女が26歳の短い生涯を閉じたのが自殺だったというは知っていたが、理由を知らず、長い間わだかまりを持っていた。
例えば、教科書にも出てくる「私と小鳥と鈴と」という詩は、生への賛歌にあふれていると思っている。こんな詩を書く人が、どうして自殺という手段を選ぶだろうか。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
ところが、この詩は結婚生活に行き詰まり、夫から詩作や投稿仲間との文通さえ禁じられた頃に作られたもののようだ。
したがって、この詩は、各自が自分の個性をそれぞれ伸ばせば良いのだ、ということだけを単純に詠ったものではなさそうだ。
この頃、遊郭で遊び狂う夫から、みすゞは性病(淋病)をうつされた。当時は特効薬のない不治の病で次第に悪化する。結局は離婚するが、一人娘の親権は夫に渡る。これが当時(昭和5年)はふつうであった。
夫が娘を引き取りたいというのは、金銭目当てでもあったようだが、みすゞが自殺する直接の動機になったようだ。みすゞは夫が娘を迎えに来るという前日の夜に、夫宛に娘を連れて行かないでと頼む遺書を残し、睡眠薬自殺をした。
この本では、みすゞの生涯ということで、その自殺に至る経緯を述べられてはいるが、それ以前、彼女の娘時代が生き生きと描かれ、これを読むと、みすゞの豊かな詩情が生れた原点を理解することができる。
私は、むしろ、みすゞの死に関心があって読み始めたのだが、この本で、彼女の詩情の生れてくる彼女の青春(結婚前)時代に、より深く関心が持てたことは良かった。
ちなみに、「みすゞ」というのはペンネームで、本名は「テル」というのは、この本を読むまで知らなかった。「みすゞ」という音がとてもいいと思う。その意味もあるのだが、これは書かないでおこう。
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ヒナゲシのヒナは漢字で「雛」で可愛いという意味。英名のポピーという音も、なんだか可愛い感じがする。虞美人草ともいうが、命名の元になった虞妃はどんな美女だったのだろう。
画像はナガミヒナゲシで、ナガミは「長実」でフツウのヒナゲシの実より細長い。
私は来るもの拒まずで(まあ、不精に手入れを怠ってるだけだが)、それゆえ我が家の庭には、いろんな雑草が生え、ときには興味深い花も咲いていたりするから面白い。このナガミヒナゲシもいつの間にやら、やたらはびこってしまっている。
ご近所の家の庭には生えていないようだから、このナガミヒナゲシはポピーほどには人気がないのかもしれない。私も、色とりどりに咲いてるポピーのほうが好ましいが、庭にこのヒナゲシが咲いてる内は、なかなか引き抜いてしまうことが出来ないでいる。
雛罌粟の一叢残し草を刈る 嘆潤子
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一時期、空き缶の風車作りに夢中になり、庭のそこら中に置いた。今、花壇は草ボウボウだが、それでも季節の花が咲くので、時折りカメラを手に庭に出る。
それで、ふいに気付いた。風車の中に蜂の巣がある。上の画像の、下にある風車だ。
缶ビールの風車だから、その中にできてる巣はさほど大きくはない。それでも、径4〜5センチはありそうだ。巣の形状から、アシナガバチの巣のようだ。
幼虫を育てた穴もたくさんあるから、活動の最盛期にはずいぶんな数の蜂が飛び交っていたかも。だが、あまりにも突拍子もない場所だし、私は蜂の巣があることには全く気付かなかった。
蜂の巣はとても軽い。それゆえ、風車の回転にはあまり影響ないようだ。だが、蜂自身は大丈夫なのだろうか。風車はそっと吐く息でも回転するから、自然状態ではかなりのスピードで回転する。そんな回転している中での子育ては大変だろうと思うのだが・・・こんなところに営巣した女王蜂は、考えが浅かったか、よほど風変わりな性格だったのだろうか。
ちなみに、アシナガバチの天敵は鳥やクモで、とりわけアリが強敵だそうだ。だから、回転する風車にこれらの天敵が侵入してくる恐れは、かなり軽減されるに違いない。
とすると、ここの女王蜂は、風狂だったわけではなく、むしろ賢明だったのだろうか。
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本を読んでみようという動機は、たいていは新聞などの書評だったり、書店や図書館でたまたま手に取ったりしてだが、この本への道筋は変わっていた。
NHKラジオの語学番組に、「Enjoy Simple English」というのがある。その月曜日のシリーズは、ストリートパフォーマーの日本人とアメリカ人の2人組みが日本全国を旅して回る。今年の2月10日の回は"Morioka & Tono"で、岩手県の盛岡で椀子蕎麦に挑戦し、その後、日本人のアキオが河童の夢を見て、遠野に行くという話だった。
私が興味を持ったのは、その話の中で出てくる遠野の「五百羅漢」だった。私は埼玉県の寄居にある羅漢山をハイキングしたことがあり、そこの五百羅漢には強い印象があった。
http://blog.kiriume.com/?eid=1223210
ネットで検索してみると、遠野の五百羅漢は線彫りらしく、表面が苔生し、何が彫られているさえ分からないほどの状況で、寄居の五百羅漢像とは比べくもないものでガッカリした。
その検索中に著者のブログに当たり、宮沢賢治の周囲に悪女伝説というのがあるのを初めて知った。高瀬露という女性が嫌がる賢治にストーカーのように付きまとったというのだ。
著者は、悪女説は捏造されたものであり、彼女の人権上、名誉回復する必要があると主張する。ところが、宮沢賢治学会では会員でもある著者の言い分は一顧だにもせず、むしろ現在は著者を排除する動きに出ているらしい。
高瀬露という実名が公表されたのは、ある有名出版社が賢治の手紙の下書きを、露の死後、新発見として露宛のものと断定して出版してからのようだ。それまでは「T」として、本名は知る人ぞ知るということだったようだ。
私は宮沢賢治の作品は、誰でも知っているような有名なものは読んでいるが、フアンというほどでもない。だから、賢治に付きまとう女性がいたなどとは知らなかった。
だが、悪女伝説がわざと作られたもの、いわば捏造で、それを実証しようという著者の行動には興味を持った。それがこの本を読む動機となった。
著者は、「仮説検証型研究」という手法で、反証がない限り、彼の仮説を限定付きの「真実」としている。その綿密な調査は十数年にわたり、聞き取りや現地調査だけでなく、当時の天候等にまで及んでいる。
そうした中でなされる考察は、宮沢賢治自身の人間性にまで及ぶことになり、これまでの偶像化された賢治像が覆されてしまうことにもなる。著者は賢治がダブルスタンダードだったという言葉さえ使っている。
宮沢賢治学会の幹部たちが著者の存在を迷惑に思うのも、彼等の保身ゆえかも知れない・・・それが私の読後感だった。
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「日本体育大学が超本気で取り組んだ命の授業」という副題がついている。「本気」に「超」と付けられているのは、この大学の本気度を表しているのだろう。逆に言えば、この大学では体罰が横行していたのかも・・・
先に問題になった日本大学のアメフト部などで見られるように、体育会系では、スポーツ根性を育てると称し、シゴキや体罰やイジメが横行するような世界なのかも知れない。
著者は日体大に2016年に赴任した准教授(法医学)で、以来、学生に「命の授業」となる研修会を行っている。この本には、部活動などで死亡した子どもの親を招き、彼らに講演してもらった七つの事例が取り上げられている。
いわば、多くの卒業生が体育教師になる大学で、学生の意識改革を喚起した実践の記録本だ。
この本で最初に取り上げられた草野恵さん(高1)の事例は、バレーボール部の合宿中に起きた死亡事故で、顧問教諭は日体大の出身であった。
ここでは、顧問の女性教諭による理不尽な体罰=暴力行為、死に至らしめた放置行為、それを隠蔽した学校の無責任な対応などが語られている。
ちなみに、ネットを検索したら、恵さんの両親が訴えた民事裁判(刑事裁判は証拠不十分として不起訴処分)での、両親への尋問の様子が書かれているのがあった。
http://www.jca.apc.org/praca/takeda/message2009/me090320.html
http://www.jca.apc.org/praca/takeda/message2009/me090712.html
また、この本では、教員による「指導死」という問題の事例も取り上げている。指導と称し、もたらすであろう結果(生徒の自殺)に対する配慮に全く欠ける教員の資質のなさには、これが教育者の現実なのだろうかと疑った。
もっとも、神戸の小学校のイジメ教師たちの愚行もある。最初に知ったときは唖然としたものだが、しょせん教師といえども人間であるから、さもありなんなのだろう。
されど、日本の教育は終わってるとは思いたくいない。この本のような実践例もあるのだから・・・聴講した学生の多くは、アンケートに体罰は不可と答えている。そのような教員が増え、彼らが連帯するようならば、教育現場も変わっていくに違いない。
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ニュートンの万有引力で、天体力学の問題に「三体問題」というのがある。それを私はこの本を読んだ後に知った。もし、読む前にその知識があれば、このSF小説をもっと興味深く楽しめたに違いない。
もし、この問題を知らない読者は、この本を読む前に知っておいた方が、小説の内容がずっとよく理解できると思う。これはネットを検索するとたくさん出ている。
小説では、地球から4光年離れたケンタウルス座アルファ星系に、3つの恒星に影響を受ける惑星がある。3つの太陽が互いに影響しあってめぐっているワケだから、とんでもない現象が起きる。
この惑星ではすでに200の文明が興亡し、現在の高度な文明を築いている「三体星人」も、いつかは存亡の危機にある。この状況がこの物語の前提となっている。
地球には、三体星人の存在を知り、連絡を取ろうとする者がいる。彼らは地球三体協会を創るのだが、この物語が中国の文化大革命の酷い描写から始まっているように、人類の俗悪で救いようのない現状に失望する者たちは、高いレベルにある三体星人に、人類を委ねようと考えている。
三体星人は地球の存在を知ると、地球に移住のための侵略艦隊を派遣する。だが、地球に到達するには450年かかる。その間に、地球の文明が三体星人より発達してしまうかもしれない。
それを阻止するために、三体星人は地球に智子と呼ばれる陽子をぶつけた。三体星人によって作られたこの陽子は、三体星を覆うほど巨大なAIで、それを、第十一次元まで折りたたむ手順で、原子核を回る陽子の大きさにしたものだ。
智子は自由意志を持ち、地球の最先端科学装置に入り込み、実験結果を混乱せしめて、それにより科学の発展を阻害する役割を担っている。
三体協会は降臨派と救済派に分裂するが、侵略艦隊を派遣した三体星人からの最後のメッセージは、『おまえたちは虫けらだ』というものだった・・・
原作は三部作で、この「三体」は第一部ということになる。2019年12月の発刊だが、第二部、第三部はまだ日本語では刊行されていない。
中国では、三部作合わせて2100万部を売る大ベストセラーになっているという。オバマ大統領も熱心な愛読者だったそうだ。ちなみに、2015年に英語圏以外では初めて、ヒューゴー賞を受賞している。
私は、最初に書いたように、万有引力に「三体問題」があることを知らずに読んだ。そのためかも知れないが、いかにも白髪三千丈をいいそうな、中国人作家らしい大袈裟なSFだなあ、という印象で読んだ。
作家は第一部では大変な大風呂敷を広げていると思うのだが、地球人はどうなったのか、第二部・第三部でどのように収束させたのか、日本語の刊行が楽しみではある。
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ネットだけを見ると、「明智光秀=天海」説は大勢を占めているようだ。だが、証拠としてどれも同じような事例を挙げているので、「最初のモノ」が検証するでもなく拡散されているように思える。
例えば、この説では光秀が本能寺の変以後、生き延びていることが前提である。その証拠として、比叡山の松禅寺には『奉納光秀元和元年二月十七日』と刻まれた石灯籠があり、光秀生存の重要資料としている(139ページ)。つまり、光秀の山崎での死から33年後の日付になる。
だが、元和は7月13日から始まるので、2月17日はまだ慶長20年である。したがって、石灯籠には慶長二十年二月十七日と刻まれていなければならない。それゆえ、著者の記述は合理性がなく、この点で証拠能力は失われてしまうだろう。
だが、「慶長二十年二月十七日」と刻まれていたらどうか。この石灯籠は「比叡山 松禅寺 光秀 石灯籠」で検索するとヒットする。しかし、比叡山に「松禅寺」という寺が、そもそも存在してなかったらどうだろう。当然、松禅寺にある「石灯籠」の存在もない。比叡山・松禅寺で検索したがヒットしなかった。所在地を地図検索しても同様だった。おそらく、比叡山に松禅寺は実在しない。
私が、他の者が実地検証もなく誰かの記述を引用している、と疑うのはこういうことだ。
本書のように、これでもかというほど様々な証拠事例をつきつけられても、おそらく全てにおいて反論が可能だろう。なによりも私が納得できないのは、「明智光秀=天海」説では、天海の没年は分かっているので、光秀の生誕年に諸説あるが、一番有力だとされてる享禄元年(1528年)説を取ると、天海は116歳で没したことになる。医学が進歩した今日でさえ疑問となる高齢なのだ。
ちなみに、信長は48歳、秀吉は61歳、家康は73歳で亡くなっている。
「邪馬台国は九州にあった、いや、畿内だ」とかいうように、古代史の謎解きはかってな想像が許されて面白い。だが、こうだと決め付ける断定的な表現の多用は、論者の牽強付会が強く、何だか胡散臭さを感じてしまう。読了してみて、この本書とて例外ではなかった。
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公が明智光秀でなかったなら、この本を手に取ることはなかっただろう。だが、ドラマの今後の展開は分からないが、明智光秀が天海ではなかったとしても、本書で信長との対比で描く光秀の人物ということでは十分に興味深かった。
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著名な登山家の高橋好輝を隊長とする雪男捜索隊は、1998、2003、2008年の3回実施され、著者は3回目に参加している。
本書はその様子と、事前にイエティ(雪男)と関係した人物(登山家の芳野清彦や田部井淳子などの目撃者)たちに、捜索に出かける事前に取材したことなどをドキュメンタリーにしたもの。
UFOや幽霊がそうであるように、実際に見たりした経験がないと、何かの見間違いだろうとか否定的に捉えるだろう(私もそのような1人だが)、それはイエティでも異ならない。
ところが、実際に体験したりすると、他人がどう言おうと本人はその存在を固く信じるし、なんとしても存在を証明しようとする者もいる。
残留日本兵小野田寛郎少尉をルバング島で発見し、日本に連れもどした冒険家鈴木紀夫もその1人で、最初に目撃したヒマラヤのコーネポン谷を全6回に亘り探索し、最期は雪崩にあって死んでいる。
いわば、イエティに完全にはまってしまう人もいる。私もその気持ちは分からないでもない。
著者の参加した第3回捜索隊は有力な手がかりとして、イエティと思われる足跡を撮影している。隊長はじめそれ以前の回に参加した隊員らは、足跡は何度も見ているので、もう足跡はさして重要なモノとは思っていない。だが、プレスの取材を受け報道されると、イエティの足跡の写真は世界的なセンセーションになった。
だが、他の動物のものだといわれれば、著者はそれを完全否定できないと考えている。いわば、著者は合理的思考の持ち主で、イエティの捜索隊に参加しているものの、存在の真偽には最後まで疑問符を抱いていた。
それゆえ「存在しない」という証明は、悪魔の証明で不可能だろうが、「存在する」という証明ならイエティそのものを映像に撮ればよい。捜索隊の目的もそれだったが失敗に終わっている。
ならばということで、著者は隊が引き上げる際に、1人現地に残り、20日間捜索テントでひたすら出現を待って証拠を撮ろうとした。だが、足跡は2度にわたり出現したが、いずれも他の動物と分かるものだった。結局、最後までイエティは出てこなかった。
ところが、この本のタイトルは「雪男は向こうからやって来た」という。私はタイトルから、『雪男が実際にいた』のだと思い、興味津々で一挙に最後まで読んでしまった。まあ、騙されたのだが、読後感は全く悪くない。
タイトルになったワードは、本書327ページに書かれている。まさに著者が本書を書いた意図もそこに集約されるのだろうが、私がその部分を書き抜いて載せてしまっては、これから読む者の興味を半減しかねないだろう。それゆえ、これは秘密にしておこう。
ちなみに、本書が出版された2011年以後にも雪男捜索隊が組まれたか調べてみたが、2008年で最後になっている。2017年12月にアメリカのイエティ研究チームが、イギリス王立協会紀要に発表しているのが興味深い。それでは、博物館などに保管されているイエティ関連物のDNAを調べたという。結果を言うと、イエティとされるのは「クマ」のものだった。
しかし、UFOを見た者は、それをUFOだというだろう。もしかしたら、イエティを見たという人や捜索する人も、これからも出てくるかもしれない。
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著者の作品にはまってしまったようで、このところ続いて4作目になる。かつて若い頃は登山小説とかを好んで読んだ時期があるが、老齢にもなって、自分とは縁遠い冒険物のノンフィクションを読むとは思っても見なかった。まあ、続けて読んでいるくらいだから、自分の歳を忘れるほどに面白い。
どう面白いかというと、ただ単に著者自身の冒険行動をノンフィクションとして語るだけではなく、探検場所の歴史背景や事実、そこに生きた、あるいは今も生きている人物の描写=生き様などを、活写するのに巧みな点だ。
著者がかつて朝日新聞の記者をした経験があり、取材能力や事実を適切に記事にする=ノンフィクションに描くセンスがあるだけでなく、一流の小説家のように、読者を冒険世界に引き込む文才や、読者を楽しませるユーモアのセンスにも恵まれていると思う。
この本は副題に、『チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』とあるように、著者が人跡未踏の空白区に挑んだ、2002〜2003年の探検と、2009年冬の単独行からなっている。どちらの回もほとんど絶体絶命の状況に遭遇している。それでもなおかつ、その後の『極夜行』にもあった大ピンチも凌ぎ生還しているところを見ると、体力プラスよほどの強運の持ち主なのかもしれない。
私はチベットの秘境にツアンポーという峡谷があること自体を知らなかったが、表紙絵の写真や中綴じにも著者が撮った写真が数ページあり、グランドキャニオンなども足元に及ばないという景観に興味をひかれた。写真集でもあったら欲しいくらいだ。
また、この本には、チベットの民に伝わる伝説の理想郷(ベユル・ペマコ)に通じているような、500人くらい収容できそうな巨大な洞窟を発見(表紙写真は洞窟の中から峡谷を写したもの)したシーンがある。私はワクワクしながら読んで、昔、チベットの民は外敵に襲われて逃げ込んだこともあろうかと、しばし空想にひたった。
ちなみに、本作品は2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞している。
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前回取り上げた「極夜行」は2018.2刊。今回の「極夜行前」は2019.2刊で、内容はタイトルの通り、極夜探検の準備やそれに費やした、前後3回に及ぶ旅のあれこれになっている。したがって、著者の探検行の時系列はタイトル通り「極夜行前」→「極夜行」となる。
時系列通りに読むなら、探検の背景が理解し易いだろう。例えば、「極夜行」では働き手として一人前になった犬と一緒に橇を挽いて行くのだが、「前」では、訓練前の犬との葛藤が描かれていて興味深い。
また、「極夜行」では旅の開始直後のブリザードで、天文観測の六分儀を失ってしまう。その観測器は現在位置を知るのに準備したもので、「前」では準備旅で習熟し改良が加えられた様子が描かれている。したがって、その喪失がどんな意味を持つか、「前」を読んでいると読者にも切実に分かる。
「極夜行」実施前に1年間の空白がある。これは旅券切れによる国外退去命令を受けたからだが、「前」にはその経緯が詳しい。
再入国には3年と最初に警察から伝えられたときの、著者の怒りと失望が伝わる。
「前」の最後は、著者が極夜行本番のためにデポした食料が、白熊に荒らされたという連絡が入ったところで終わる。これはカヤックで海伝いに運ぶ途中、海象(セイウチ)に襲われ死ぬ寸前で逃れたり、氷海が開けなかったり、テント泊中にカヤックが流されたりがあってようやくデポした、極夜行の旅の成否に関わるものだ。
読者には、著者が呆然としている様子がありありと目に浮かび、「極夜行」を読んでいない読者は、ぜひ続きを読んでみたいと思うだろう。
「前」を読むと、著者がこの探検行にGPSを携行しないという理由も納得できる。その上で「極夜行」を読むと読者には合点することが多いかもしれない。
だが、私のように「極夜行」を読んだ後に「前」を読んでも、なるほどそういうことだったのかと分かるのも面白かった。
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高緯度の極地に「白夜」があるのは知っていたが、反対に夜がずっと数ヶ月続くのを「極夜」というのは知らなかった。
この本は、その極夜の中を、グリーランドにあるイヌイットの最北の居住村から、犬1頭を相棒に橇を挽き、グリーランドを縦断し、旅の最後に北極海で極夜開けの太陽を体験しようという、約80日間の人類未知の極夜探検行を描いたもの。
図書館に借りたい本があり出かけたので、この本を最初から読もうと思っていたわけではない。目的の本は検索してたのだが、なぜか借り出されたあとだった。それで、そのまま帰るのもシャクなので新刊本コーナーを見た。
そこに、著者の最新刊『探険家とペネロペちゃん』があった。私は探検モノにあまり興味はない。したがって、著者が著名な探険家であることも、どんな作品があるかも知らなかった。だが、まるで内容が掴めないタイトルと、その表紙の写真に興味を魅かれて手に取った。
この本で、著者のプロフィールみたら、『極夜行』が第1回本屋大賞ノンフィクション本大賞になっていることを知り、『極夜行』はついでに借りて来たというわけで、本の内容に期待感があったわけではない。本屋大賞ならまあ読んでもいいか位の気持ちだった。
ところが、最初に読んだ『探険家とペネロペちゃん』が意外に面白い。ペネロペちゃんというのは著者の「あお」という娘のこと。本名のままに書くと、ひらがな文のなかにうまって分かりづらくなるので、本の中での呼称のために名付けた名前だという。スペインの女優の名に由来するそうだ。
この本では娘の出生から4歳までの、父と娘の関係性を描いている。読者には「親バカまるだし」と思わせながら、語り口や切り口がともかく面白く、一気に読ませる。
この本で著者に対する親近感が湧き、引き続き『極夜行』を読んだから、この探検物も格段に面白かった。久しぶりに本の世界=それは現実にあったノンフィクション世界を堪能することができた。
私は著者と一体の感覚で、闇夜の氷河やツンドラ氷原を道もなくコンパスを頼りに行く不安、強烈・猛烈に吹きまくるブリザードに閉じ込められる恐怖、デボしてあった食料を白熊に食われてしまっていた絶望感。生き抜く為にあらん限りを尽くしても、それを上回る自然の脅威。久しぶりに探検行の妙味を味わった。
もっとも、私は暖かいコタツや、ストーブの前でぬくぬくと、まるで生命の危険のないところで読んでいたのだが・・・かつて、赤城山からの夜景を見たくて、鍋割山に単独行で登り、足下の前橋から遠く関東平野を埋め尽くす光景に感動し、帰路は月も星もない、懐中電灯の光さえも届かない闇の中を、夢中で下山したときの恐怖を思い出していた。
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「科学」というと、いわゆる「自然科学」がイメージされる。それゆえ、当方に何の準備もなく、「いじめの科学」というタイトルが目に飛び込んで来て、おもわず手に取った。何で「いじめ」と「科学」が結びつくのだという素朴な疑問からだった。
ふだん子ども相手の仕事をしているので、「いじめ」には関心がある。
かつて、どこかの教育長が、『いじめは、加害者が悪いのはもちろんだが、いじめられる子どもの方にも問題がある』と言ったことがある。事実、そういうこともあるかもしれない。
おそらく、こうした考えは彼の経験則から述べられたものだろう。だから、そのような人は、いじめの解決にも自分の経験則で対応しようとするに違いない。
だが、この考えを前提にすると、いじめは学校から絶対になくならない。経験そのものに個人差があり、各人の経験則で個別対応するのはむしろ危険だ。過去の経験は、意識的にしろ無意識にしろ脚色があったりして、それでは加害者・被害者双方を納得させられない。状況に応じた対応策・解決策を導くことは困難だ。
いじめは100%加害者が悪い。その上で、加害者の行為の原因と対策、被害者が重大事態(自殺・不登校)に陥ることのない対応を見つけなければならない。その際には、いじめの現場にいる多数の傍観者こそが解決の糸口になるだろう。というのがこの本の主題であった。このところは、私も大いに共感できる。
そのためには、「いじめ対策プログラム」を科学の知見で開発するのが必要だ。それによって誰もが共通認識を持つことができるからだ。欧米ではこうした研究が進み、プログラムも開発されているという。
この本ではそうしたプログラムの具体的内容を詳しく紹介していないのが物足りなかった。もっとも、欧米の研究が即日本に適用できるとは著者も考えていない。
私がこの本で関心を持ったのは、「学校風土」という問題だった。最近、神戸の小学校で教師が教師を苛める事件が公になった。これはマスコミ取り上げられ、大騒ぎになっているが、教師同士間の苛めは珍しいものではないようだ。5〜6人に1人は何らかの形で苛められた経験があるという調査がネットにあげられている。
まあ、教師だからといって素晴らしい大人だとは言えない。悪いことがあれば、子どもに対しての影響(教師や大人への失望)はダメージが大きいに違いない。そうしたことでは、いじめに限らず学校風土の良し悪しは大事な視点だろう。
2011年に起きた大津中2自殺事件を契機にして、おそらく学校や教育委員会の保身からの、いじめの事実の隠蔽が問題になり、2013年に「いじめ防止対策推進法」が制定された。そこでは従来曖昧だった「いじめ」を定義をし、いじめ防止対策を学校や行政に求めている。
そのせいもあろうか、文科省発表によると、平成30年度のいじめ認知件数は54万4千件で過去最多となった。特に小学校での認知件数が急増していて、1000人あたり66件にのぼっているという(2019.10.17産経新聞)
この本は、2019年4月発刊なので、この文科省発表前だが、著者や彼のいう対策プログラムはこの認知件数にどう反応するのだろうか。学校風土という視点から、私の個人的な感想は、残念ながら、かなりマイナス思考になっている。
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数年前まで、我が家には「りく」という名の犬がいた。迷子か捨てられたのか分からないが、子犬のときに母が拾い、15年を越えて生きていた。母が亡くなった後は彼も元気がなくなり、最期は私に撫ぜられてる中で息を止めた。
私も老齢になってしまったから、もう責任を持って犬の一生の面倒はみられないだろう。だから、飼いたいと思う犬種はあったのだが、再び飼うことはあきらめている。
まだ、我が家には「のら」という猫がいる。これは20年近くなるので、相当の婆さんだろう。人間のことなどお見通しの、「化け猫」候補かもしれない。
「りく」が生きていたときは、私はイヌ派だった。ところが、残っているのは猫だし、今ではもっぱらネコ派だ。猫とはお互いあまり干渉しないのがいい。トイレか何だかは、「にゃん」と鳴いたりして、外に出ることを要求するので出してやればよく、犬のように散歩に連れ出す世話もなく気楽だ。
この本は、犬と猫の習性というか、それを「知力」・「感情」・「運動能力」・「五感」・「生活」の五項目で、それぞれいくつかの具体的な場面(55番勝負)をあげて、それぞれの動物心理を背景に、『どっちが最強か』と比較考察されている(犬26勝・猫21勝・引き分け8)。それらは表紙絵にあるような、イラストやマンガが使われていて、たいへん面白く読める。
おそらく、この本に書かれていることは、犬や猫の飼い主には日常的に経験しているようなことだろう。だが、未経験の者にも興味深い内容に違いない。私もあっという間に読み終えた。
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「英語が話せる」という目的で勉強するなら、これまで学んだ英文法の丸暗記ではダメというのがこの本の趣旨となっている。
ネイティブが使う英語や英単語には、彼等の感覚が込められてあるのだから、まずはそれを掴まなければならないという主張だ。場面場面でネイティブが使う英語の感覚が分かるなら、中学や高校で学んだこれまでの英文法は、むしろ邪魔な知識だったとさえいえる・・・ということのようだ。
例えば、この本の最初の方で取り上げている
I like playing with my kids in the park.
I like to play with my kids in the park.
の違いについて、私が関わっている中学レベルでは、動名詞と不定詞の質感の違いなどには触れていない。どちらも「公園で遊ぶのが好き」と訳されて、高校受験ではそれで必要十分なのだ。
ところが、日本人が英語を話せないのは、ネイティブの感覚の違いが分からないから、あるいは分かる学習をしていないからで、この本のこだわりは、そうではないでしょうということだ。
それゆえ、willとbe going toにみられるような、ネイティブの「未来表現」の感覚や、Will you ~?をWould you ~?と「過去形」を使うと、なぜ丁寧な表現になるのかとかが理解されるべきで、それが分かれば従来の丸暗記文法はいらないということになる。
この本では、そういう言葉の背景にあるネイティブの感覚=こころを学ぶべきだとして、「ハートで感じる」というタイトルになっている。
本の帯に、”目からうろこ”の英文法とあるが、内容も文体も読者の興味をひくように書かれていて、私は文法本としてではなく、フツウに読書をしている感覚で読めておもしろかった。
ただし、文法は不要だといっても、中学・高校で学ぶ基本的・基礎的な文法知識は必要であろう。この本でも従来の英文法を前提に解説しているから、そういう知識のある者を相手にして書かれている。それゆえ、一通り学んだ高校生や大学生が読むと興味深いかも知れない。
さらに言えば、勉強に楽はない。日本人がネイティブスピーカーのような話者になるには、やはり、文法丸暗記と同じような努力が必要だと思った。
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題名を見たときに、その意味するところがすぐに分からなかった。現代社会や日常生活で、我々が科学の恩恵を受けないことはありえない。学問としての科学が、理解や知識の範囲を超えるというのであればともかく、なぜ『人』が『苦手』としなければならないのだろう。それが、この本を手にするきっかけになった。
副題に、”アメリカ「科学不信」の現場から” とある。したがって、タイトルに「人」とあるのは、人間一般を言うのではなくて、主にアメリカ人を指してのことだろう。
つまり、現代科学の最先端を行く科学大国のアメリカ人が、実は「科学不信」だというのだ。著者は科学を専門とするジャーナリストで、彼はこの本で何を言いたいのか、私の一番の関心はそこにあった。
私がこの本を読んで、特に興味をひかれたところは、次のような内容が書かれたところだった。
例えば、『宗教が人生で非常に重要な役割果たしているか』という質問を、世界50カ国の国民にした調査結果(米国民間調査機関ビュー・リサーチ・センターの2015年発表)が興味深い。それによると、共産国の中国が3%で一番低い。それについで低いのは日本で11%。GDPで見ると、経済力が高くなると宗教に頼る割合は低くなるという。
ところが、米国は例外で53%の高い割合で肯定している。ちなみに、英国やドイツでは21%、フランスで14%だった。アメリカ人は宗教心が飛びぬけて高いことが分かる。この結果は私には意外だった。平気で無宗教を標榜するような日本人には、とうてい分からないだろう。
米国で「進化論」を支持する人は国民全体の約2割に過ぎないという。なぜなら、聖書に基づく「創造説」によれば、人類の歴史は6000年より前に遡ることはないからだ。
学校で進化論を教えていても、家庭では親が子に伝えるのは聖書で、『猿から人間になるなんてありえない。デタラメだ』とか『犬の子は犬だ』と直感的な事実で進化論は否定される。大学生に10万年前の化石だといって見せても、それはありえないと教授にまじめに反論したりする。
聖書に基づいて考えれば、このような非科学的な結論がまかり通るだろう。だが、バカとかレベルが低いとかそういった問題ではない。米国は宗教大国でもあるのだ。特に保守傾向の強いキリスト教の福音派の勢力が、人口の25%を占める。この状況の下では、科学の合理性や事実などは簡単に覆され無視される。
科学不信が宗教を背景にした保守的な思考と合わさると、人工妊娠中絶に反対したり、地球温暖化と環境保護の関連性も否定される。経済活動で二酸化炭素の増加が地球温暖化をもたらしているというは、研究費が欲しい科学者のでっち上げで、気候変動に過ぎないと理解し、いわば理屈抜きに結論されてしまう。ここでは経済界と宗教が手をつないでいる。
それは、政界においても変わらない。泡沫候補と思われたトランプが大統領に選ばれ、彼の発言が科学の事実に反しても、彼の政策は共和党員に強く支持されている。それゆえ、米国がパリ協定から離脱する唯一の国になっても、アメリカ第一主義である彼と彼の支持者は当然だと考える。
著者は、米国に2013年〜2018年の間、前半はカリフォルニア大学の研究員、その後は、読売新聞のワシントン特派員として科学分野専門のジャーナリストとして活動している。そんな彼がトランプが大統領に選ばれるという、いわば歴史的転換を現場でつぶさに取材体験した。
おそらく、著者はトランプが大統領になるとは思っていなかったのではなかろうか。それが、米国社会に根強い「反科学」との関連を取材する動機になったように思われる。
なにしろ、米国には「フラット・アース国際会議」と呼ばれる、「地球は平ら」だと考える人々がいて、広範な活動を展開している。例の、アポロ宇宙計画での月面着陸は、ソ連に対抗する為にNASAがでっち上げたのだと主張しているのがこの団体だそうだ。
また、米国には創造説に基づいた博物館施設や、ノアの箱舟を聖書に書かれてる通りの、実物大(全長150m)の施設があったりする。まあ、模型のキリンの首が短くなっているそうだが、ちゃんとした理屈があるようだ。
だが、本書の眼目は、単にアメリカ社会の分析にあるのではないようだ。米国内が政治的に共和党と民主党の支持者に分離し、それが地球規模での経済活動に及ぶばかりでなく、アメリカ人自身を分断・対立させてる現実を、ジャーナリストの冷徹な目で見ている。
著者はこの本を全4章に構成し、第1章「自分が思うほど理性的でない私たち」で、人間一般について、米国での反科学的な理由を取材している。しかし、ここでは、米国と日本やその他の国との比較検証はなされていない。
だから、仮に、経済や風俗などでよく言われるように、日本が米国のあとを追いかけてるというのが真実だとしても、宗教風土は全く異なるという違いは無視できないのではなかろうか。そういう意味では、日本のほうが無軌道・無道徳に走ってしまう危惧があるように思うが・・・。
また、狩猟民族と農耕民族といったDNAの違いは、最後には国民の思考を左右するかも知れない。
ともあれ、第4章「科学をどう伝えるか」では、米国で起きている分断対立社会の『今後』=「科学不信」からの脱却について、米国だけの問題ではないという視点で書いている。米国の科学者自身がどう向き合おうとしているか、様々な活動や研究を取材していて興味深い。
ぞれが、著者をして、「人は科学が苦手」といわしめ、啓蒙活動としての取材活動を目指した・・・ように読了して思った。
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ピカソの絵はいろいろと目にするが、私には端から「分からないもの」と思っていた。それが、館林美術館で「ピカソ展」をやっていると知っても、地元なのに腰が重くなっていた一番の理由だ。
だが、「ゲルニカ」の実物大のタピスリ(縦約3m×横約7m)が展示されているというからには、見るチャンスを逸するのはもったいない。それで、学芸員の解説会があることを知り、その日をスケジュールしていた。
それが先日のこと。駐車場がほぼ満杯なので、もしやと思ったら、やはり解説会は盛況で、6,70人はいただろう。平日2時からの催しのせいか、中高年の、それも女性が圧倒的に多い。女性は歳をとっても、美への意識が高いのかも知れない。解説の学芸員も30代くらいの女性だったのは、解説会が初めての私には意外だった。
男の鑑賞者が数人しかいなかったのは、たぶん、高齢でヒマがあっても、ピカソの絵ような「分からない」ものに時間を割くことは、ムダだとでも思っているに違いない。まあ、それは良く分かる。私を含め、高齢の男は腰も重くなる。
そういえば、展覧室の隅っこの椅子に腰掛けて、静かに見張ってる人は皆女性で、男がやっているのは見たことがない。なぜだろう。男はずっと腰掛けて見張るような忍耐力にも欠けるとか。
私は、解説を聞くことで、少しは理解が進むだろうと思ったのだが・・・「ゲルニカ」の意味すら知っていなかったのは、恥ずかしいといえば恥ずかしい。ちょっと検索でもすれば分かったはずだが、ゲルニカはスペインの都市の名前という事すら無知だったのだ。
解説を聞いたので、いっぱしのことは、私より無知の者に伝えられる・・・とは思うが、まあ、そんなことはしない。知ったかぶりは、私の美意識に反する。
それに、2100円のカタログ代をケチって、150円のポストカードにしたほどの者が何をか言わんだろう。
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副題に「ラグビー日本代表になった外国人選手たち」とある。タイトルよりも、これが私が読んでみようと思う動機になった。
W杯での日本代表の大活躍で、『にわかラグビーファン』が増えたという。私もファンになったというほどではないが、大いに関心が湧いたというのは本当だ。
私の最初の日本チームの印象は、多くの外国人が代表メンバーになっていることだった。それを見て、プロ野球のようにラグビーにも助っ人ガイジンがいるのかと思った。
そうだとすれば、私には、いわばガッカリすることだったが、代表チームのキャップテンが外国人で、しかも流暢な日本語を話すことも不思議だった。それは大変興味深いことで、さらに外国人選手は日本人選手以上に、日本代表であることに誇りを持っているようだったのには驚くとともに好感を持った。
この本を読む動機は、こうした何故?があったからだ。
この本で、ラクビーには独自の代表選抜があることを知った。
日本代表だけでなく、W杯に参加した代表チームは多国籍化しているという(アルゼンチンのみ同国人)。しかも、外国人が他のスポーツのように、いわば助っ人選手であることとは様相がちがっている。
その代表選手になれる条件は3つあって、国籍を問わず、そのいずれかを満たせばよい。
? 出生地がその国
? 両親、祖父母のうち一人がその国出身
? その国で3年以上継続して居住、または通算10年にわたり居住(3年居住要件は日本大会以後は5年)
これは、ラグビーがイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四国で構成されたイギリスが発祥の地であることや、ニュージーランドやオーストラリアなどのイギリス植民地に広まったことが歴史的背景にあるという。いわば多国籍チームになることを受け入れる素地は、もともとあったといえる。
日本の場合は、今から30年ほど前、2人のトンガ人の留学生(ソロバン習得をトンガ国王に命じられてだそうだ)が最初で、彼等が、後に代表入りするようになってからだ。
もちろん、先駆者の苦労が並大抵でないことは、ラグビーの世界に限ることではない。それは逆に日本から外国に渡った事例が如実に物語っている。先駆者が成功して道を開き、それに後輩たちが続くという図式は変わらない。
この本は、そうした事例を丹念に取材し、いわば”One for all, All for one”といわれるラグビーの世界で、外国人選手が受け入れられるようになった過程を描いている。その取材には、著者自身が高校・大学とラグビーに取り組んだことが大いに役立っている。
今、何かとお隣の韓国とはギクシャクしている。日本代表には韓国人もいて、今回のW杯でそうした雰囲気を吹き飛ばすような活躍をしているのは、将来の韓日関係に好材料になるに違いないと思う。若者の多くは私のような年配者と違い、過去にとらわれない柔軟さを持っているからだ。
この本は、2019年8月に刊行されている。当然ながらW杯の結果を知らない前の取材なのだが、日本代表の好成績が予想される内容だったのは、きちんとした良い取材に基づいて書かれていたからだろうと思う。日本の良いところも悪いところもちゃんと書いている。
また、ラグビーが15人で、それぞれ1〜15の番号に配置された選手ごとの役割があることは、『にわかファン』にもみたない私には新鮮な知識だった。
私は、ラグビーは図体が大きく頑丈にできている男たちのスポーツだと思っていた。が、決してそうではなく、ポジションの役割による総合力が問われるのだと知った。
著者の「あとがき」によれば、ラグビーとは『・・・チーム内で自分の存在意義を見出し、承認欲求が満たされる・・・』スポーツなのだという。
どおりで、京都伏見工高をモデルにしたという映画『スクール・ウォーズ』で、どうしょうもない不良生徒たちがラグビーを通して立ち直り、成長していく。この高校で起こった出来事は、監督と生徒の単なる根性モノではなく、各人が役割を通して、自己を肯定的に捉えられる、ラグビー本来の教育効果なのだと合点がいった。
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2019年8月に出版されたばかりで、図書館の新刊書コーナーにあった。
14歳といえば中学2年生だが、私の塾生にも何か役立つものでもあればと思い借り出した。
副題に「佐治博士と数のふしぎの1週間」とあるように、内容を月曜日から日曜日の7つの項目に分けてある。1日1項目なら読み終えやすいだろうと見当をつけたのも、借り出す理由になった。
だが、読み始めてまもなく、それが安易な考えだと分かった。書かれている数学の内容は、中学生どころか高校生、あるいはおそらく大学生の範囲まで含まれている。こうなると私の目的には合わなかったし、出てくる数式も分からないので読み飛ばしたりもした。
また、数学用語には、当然分かってるでしょうを前提にするのではなく、対象が中学生であるなら、もっと説明があっても良いと思った。例えば木曜日の『2次方程式』の項で、2次方程式を解く「根の公式」を導く過程を説明しているが、これは中学では「解の公式」と呼ばれている。公式の導き方も、私の使っている中学の教科書に出ている方法とは異なっている。現役の中学生には『えッ』となるのではないかと思った。
私は中学生に「根の公式」という言い方をしたことがない。ネットで調べたら、どうやら「根」と「解」では視点が異なるらしい。2次方程式では「解」の方を使うようなのだが、どうなのだろう。
内容は概して、14歳の中学生には、難しいだろうと思った。それでタイトルが『14歳からの』となっているのだろうが、思い切って14歳に限定して、分かり易い内容に限定していたらよいのにと思った。
そう思って、著者のプロフィールを改めて見ると、『14歳のための物理学』、『14歳のための時間論』、『14歳のための宇宙授業』というように、なぜか14歳に限定したタイトルの本を出している。
これを見て、なるほどと思った。この『14歳からの数学』は、これら『14歳のための・・・』の集積だったのかも知れない。だから、本書では、物理や時間や著者が専門とする宇宙の『ゆらぎ』理論に触れられていたのだろう。もっとも、その多くは私には理解不能だったのであるが・・・
「あとがき」の最後に
ーー数学は論理の音楽であり、音楽は情緒の数学であるーー
とある。引用が無いところを見ると、これは著者自身の言葉なのだろう。
おそらく、含蓄深い言葉であるように思うのだが、私は音楽に疎いのでよく分からない。もしかして、これに共感できないと、高等数学は理解できないのかもしれない。
いくら『14歳から』とはいえ、高齢者の私には手遅れかと・・・残念ながら、若い人に期待するよりない。
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表紙に『当年73歳、本日も炎天下、朝っぱらから 現場に立ちます』とある。ちなみに、著者のプロフィールには
『1946年生まれ、出版社勤務後編集プロダクションを設立。出版編集・ライター業に従事していたが、ワケあって数年前から某警備会社に勤務。七三歳を迎える現在も交通誘導員として日々現場に立ちながら、本書のベストセラー化により、警備員卒業の日を夢見ている』そうだ。
『ワケあって』とあるが、その「ワケ」なるものは、家族構成を含めて本文に率直に書かれている。警備員をしているのは、この業界は人手不足で、かなりの高齢者でも採用されるからだそうだ。その辺のいきさつにも興味深いものがある。
ともあれ、私がこの本を読もうと思ったのは、私も高齢者の一員であることが一番の理由であった。
タイトルが「日記」とある。それで、著者が警備員として体験した「業務日記」でもあろうと見当つけてはいたが、その内容は私の予想を超えて、もっと興味深く面白かった。いわば警備員の仕事を通して経験した人間模様を描き、その観察眼や文章には、さすがに出版編集者である経歴が生かされている。
「日記」としたのは、「まえがき」に次のようにある。
『本書は正確には日記ではない。といって小説でもない。日記の体裁をとりいれた警備員のドキュメントであり、生活と意見である。全文27項目はテーマごとに分類している。読者に興味を持っていただくためであり、面白く読んでいただく工夫でもある』と。
著者によれば、警備員を扱ったノンフィクションはこれまでなかったという。ただし、この本は交通誘導警備員の仕事を書いているが、出版目的は著者の『生活と意見』なのだ。高齢者になってこそ得られる人生のいろいろがあるのだと思う。私自身はこの本を”ドキュメンタリーエッセイ”として読んだ。
付け加えるならば、著者=高齢者=ヨレヨレでは決してなかった。「ヨレヨレ日記」としたのは、多少の自虐が混じってのことだろう。
でも、私がこの仕事をしたら、トイレ事情ひとつをとっても、あっという間にヨレヨレになっているに違いない。
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タイトルの脇に小さく「飛騨の山小屋から」とある。この本は、1948年9月に刊行された「飛騨の山小屋」を改題し、2017年9月に再刊された、いわば復刻本で、表紙絵は元の本のままが使われているという。
だから、山小屋の中で囲炉裏の火にあたっている男は、ドテラのような着物姿で、煙草のキセルを手にしてる風情や、背後の壁に掛けてある蓑や藁沓やガンジキなども、まさに昭和前期の風俗そのものだ。
著者の加藤博二は、「昭和22年秋」で結ぶこの本の『自序』に、『森林官として十数年山で暮らしてきた』と述べている。森林官というのは、ネットで検索してみると、国有林を管理する林野庁の出先機関である森林事務所の責任者だそうだ。森林の伐採管理・調査保護や取締りの警察権限がある。
その『ながい山男の生活』の中で著者が見聞したことが、本書の短編やエッセイ風の小説になっているという。つまり、そうした昭和の初め頃の時代背景なくしては、全17編が収められているこの物語集はなりたちえない。
たとえば、物語にたびたび出てくる「山窩(さんか)」がいる。かつて存在し、深山を移動しながら外とは隔絶した暮らしをしている民だ。里人からは「山乞食」と呼ばれ、蔑まれながらも怖れられてもいた被差別民で、一族の頭の下に統率され、仲間内には厳しい掟があったという。『山窩の娘』や『密林の父』などでは、それゆえの男や女の情深く悲しい物語が語られている。
それはともあれ、タイトルが「山の不思議」とあるから、これを読む前の私は、「物の怪」などが登場するオドロオドロした話を予想していた。ところが全編を通して読むとそうでもなく、むしろ人間のサガとでもいうものが描かれている。
『猿の酒』のように、猿が作る果実酒を人間が横取りしたり、酔って寝ている間にキセルを猿に盗られたり、あるいは猿が子守をしてるような不思議な話しはあるが、まあ、怖いというほどの話ではない。
『雪和郎』という「雪男」をイメージするような話も、山男だと分かっている。『尾瀬の旅人』には昔の長蔵小屋が出て来て、「ハイキング」などという新しい言葉(?)が使われているが、昔の尾瀬沼の様子が描かれ、現在のように観光地化した尾瀬とはまるで違う雰囲気が漂う物語であった。
最後の編『雪の湯町』は、東京からやって来る作家と山の温泉の芸妓の交流が描かれた物語だ。まさかと思うが、川端康成の『雪国』の原案のような気さえした。
衛星画像で見つけた山奥の家を探訪するテレビ番組がある。とても人気があるようで、その一軒家に住む人も、やはり来たかと歓迎するような面持ちが面白い。確かに山奥にあるのだが、けっこう立派な家屋だったりし、その一軒家に行くにも、車一台がやっと通れるにしても、ちゃんと山道がある。したがって、山の一軒家に住む人たちが下界と隔絶した生活をしているワケではない。
だが、この本の物語の当時、歩いてでしか入って行けない山奥にも、山小屋のような温泉宿があったようだ。薪で鉱泉を沸かしてる、冷たい風が吹き込むような草葺の宿だったりするのだが、その侘しいたたずまいは、かつてはさもありなんと思え、現代の生活者からすると興味深いものがある。
そんな物語を紡ぐ著者の文体は、表現が豊かで情景が目に浮かぶようだから、その筆力は全くシロウトの域を超えている、と思う。今どきの文章のように句読点が多く読みやすいのは、もしかして、再刊ゆえに編集者の手が加えてあるのかも知れない。
ともあれ、懐かしい「昔し話」を聞いているような、そんな雰囲気がある。いわば、今はなき、古き世の物語集なのだが、全編を通して興味深く面白く読むことが出来た。
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最近は、小説が読めなくなった。新聞の書評欄で紹介されていた本を、図書館に予約し、数週間も待って手にするのだが、数ページ読んだだけでつまらないと思ってしまう。2週間の借り出し期間を手元に置いておくのだが、結局は読み終えずに返却してしまうことが、数回連続した。
それでも、本を読めないのは歳のせいにしたくない。それで、ノンフィクションならば興味深く読めるのではと思いつくまま、この「霊性の震災学」を通販で求めた。
この本は、東北学院大学の金菱清ゼミの学生による、東日本大震災の記録プロジェクトとして、2016年に出版された。
当時、タクシードライバーが体験した『幽霊現象』を、女子学生が聞き取り調査をしたとして、マスコミを賑わしたこともあり、私もこの本の存在を知っていた。
また、私は同じく金菱清ゼミの「私の夢まで、会いに来てくれた 3.11 亡き人とのそれから」(2018.2刊)を読んでおり、ゼミ学生が学問の一環としてフィールドワークで取材し、それを本にしたものだということで関心があった。
この「霊性の震災学」を読み終えた今では、むしろ、「夢まで会いに来てくれた」の本の方が、ゼミ学生たちがいわんとする”霊性の現象”に近いのではないかと思う。
というのも、2016年刊である「霊性の震災学」では、幽霊現象=霊性とする傾向が強くあるようだ。それが、2016年の出版から2018年の出版になる間、ゼミ指導者である編者を含め、学生達のゼミ活動としての震災学が、だんだんと、より深化してきたのではと思う。
この本を通販で求める際にコメントを見たのだが、☆1つをつけた者があった。『タクシードライバーの幽霊体験は、ネットで読めるので、本を買う必要はなかった』というものだ。
私は、ネットにあるというのが、どの程度に本と同じなのか、ネットを確認していないので分からない。だが、この☆1つのコメントは、次の理由からも浅慮だろうとは思う。
「霊性の震災学」は、全8章に編集されている。8人のゼミ学生がそれぞれのテーマでフィールドワークしたものだ。女子学生がタクシードライバーの体験した幽霊現象をテーマにしているのは、その中の1章に過ぎない。
その第1章『死者たちが通う街ータクシードライバーの幽霊現』には、フィールドワーク中に、取材者の女子学生が被取材者達から受けたという、批判を含めさまざまな発言や出来事が書かれている。
だが、なぜ彼女がこの現象に取り組もうとしたのか、そもそもの『動機』が書かれていない。もしかしたら、最初は若者らしく、幽霊現象への単なる好奇心だったのかも知れない。
私はそれでも良いと思う。それが”霊性の震災学”へと発展し深化すればよいのだから・・・だが、彼女が幽霊現象を”霊魂”と結びつけた考察はいただけなかった。
それは、私が幽霊現象を体験したこともなく、見たこともないUFOと同様に、信じられないというだけではない。あくまでも、彼女のフィールド調査は宗教学ではなく、学生としての震災学=社会学へのアプローチだったはずだと思うからだ。
もっとも、指導者である編者も霊性=霊魂とする気配が感じられるので、ゼミ学生である彼女の考察は仕方ないかも知れない。
この本で私の印象に残ったのは、第6章の『672ご遺体の掘り起こし』だった。葬儀社の9人のチームが、緊急処置でいったん土葬された遺体を、火葬するために掘り起こして納棺するという作業だった。
遺体は、夏場のことでもあり、腐敗が進んでいるから、通常の神経ではとうてい作業はできないだろう。にもかかわらず、チームの誰一人として最後まで離脱しなかったという。
それは、単に職業として収入を得るためではなかろう。まさに、この本でいわんとする『霊性』への畏敬があったに違いない、と私は思いながら読んだ。
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秋の彼岸の頃に咲くので「彼岸花」という。
今年は天候がめまぐるしかったので、どうかと思っていたが、時節通りに咲きだした。
毒草であるので、かつて墓場が土葬のころは、動物の害を避けるために周囲に植えられたという。これを別名で「死人花」というのは、まさにその通りで、彼岸に咲くからだけのことではないのだろう。
もっとも、毒性は水に何度もさらすことで抜くことができ、球根からはデンプンをとることができるのだという。それゆえ、飢饉のときの貴重な救荒植物なので、ふだんは採られないような場所や田畑の畦に植えられていたのだろう。
我が家に自生するのは、おそらくその名残であるやに思う。
「曼珠沙華」という天上に咲く花という縁起の良い名前があって、こちらが本名なのかも知れない。私の好きな花でもある。
彼岸花数輪咲ける日古希迎ふ 嘆潤子
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最近、自転車通勤している。といっても、自宅から教室までほんの十数分だから、通勤というほど大袈裟ではない。
だが、車だと目は前方注視してるから、まず道端には目を向けない。
ところが自転車だと、ゆっくりと走らせているから、けっこういろいろなものに目がいく。中には興味深いものに出会って、面白いなと思うこともある。
画像は、教室の近くの元宅地だか畑だかが放置され、荒れた草地になってしまってる場所で、以前は矢車草がたくさん咲いているのを見たところだ。その道端近くの一叢の草に、赤いものがあるのが目に入って、なんだろうと気になった。
遠目には花が咲いていると思ったのだが、良く見ると、花は頭頂にあるひとかたまりの小さな粒で、その花自体は目立たない。赤くなっているのは、葉の一部が染まったように変色しているのだと分かった。
画像のように変色した葉のセットは、この株立ちにいくつもあるのだが、私の興味をひいたのは、赤い葉のところが、完全に線対称というかシンメトリーになっていることだった。
これらの葉には2つの形態があり、フツウの長楕円形をしたものと、それより数倍は大きくて、中央がくびれているものとがある。しかもこれらが、小さな花粒を挟んでシンメトリーで対生している。
もちろん、観察している時点では、この草の名前は知らず、不思議なもの見るワクワク感で、デジカメを向けていた。
ネットで調べるに当たって、『葉の一部が赤くなる植物』で検索したら、「ショウジョウソウ」だと一発で分かった。な〜んだ珍しいものではなかったのかと、すこし拍子抜けした気分になった。
漢字では「猩猩草」と書く。葉が赤いことにちなんでいるというが、問題は猩猩とは何かだ。
それで似たような名前で思い出したのが、高山植物のショウジョウバカマだ。私は山菜取りの際に何回か見たことがある。これは「猩猩袴」なのだが、調べるてみるまでもなく私の無意識の認識では、猩猩=狸という感じを持っていた。つまり、猩猩袴は狸が身につけている袴というイメージだった。私の見たショウジョウバカマの花は、もう終わりかけていたのだが、赤茶っぽい色をしていた。
だが、ネットで最初に開いたサイトでは、猩猩はオラウータンのこととあった。これだけではさっぱり分からない。なぜ赤いのかもイメージが湧かない。
他のサイトも見ると、猩猩は中国由来で猿に似た空想上の生物だという。この猿に似た生物は酒好きとされているようだ。ただし、中国では必ずしも赤色限定ではなく、黄色だったり豚をイメージしたりもするらしい。
また、能には「猩猩」という演目があって、やはりお酒が好きで、猿面をかぶり、全身すっぽりと赤い長い毛の衣装を着て舞うのだという。
ちなみに、猩猩=オラウータンというのは、中国語はオラウータンを漢字で猩猩と書くのだという。付け加えると、チンパンジーは黒猩猩、ゴリラは大猩猩だそうだ。
したがって、猩猩はもともとが伝説上の生物なのだから、このオラウータン説は採りえないだろう。もちろん、狸でもない。
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一ヶ月ほど前、NHKの深夜の再放送で、安楽死のドキュメンタリーをやっていた。難病に冒され、安楽死を受けるためにスイスに行った若い女性(50代くらいだろうか)の話だった。
途中から見たので詳細は分からなかったが、彼女の最期の瞬間まで映像で映し出していたのがショックだった。それは、安楽死とはいえど、いわば自殺だったからだ。
それを見たことで、このごろは安楽死について考えている。終活を迎える私の歳では、少し遅いくらいだろう。
私は安楽死そのものの正確な知識がない。尊厳死とはどう違うのだろう。
それで、図書館を検索して読んだのが、実際に世界各国の安楽死事情をリポートした『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一 著)だった。宮下洋一は上のNHKのドキュメントに関わる『安楽死を遂げた日本人』という本を出しており、私はむしろこちらを読みたかったのだが、地元の図書館にはまだこの本が置いていなかった。
『安楽死を遂げるまで』は安楽死の情報を得るには最適だったと思う。内容は、各国での安楽死と尊厳死の違い、各国でそれが法的にどのように扱われているかを知ることができた。これをブログの読評に揚げるつもりだったが、返却してしまったので詳細に誤りがでるといけないので割愛している。
この本の中で、今回取り上げた、橋田壽賀子の『安楽死で死なせてください』に触れていた。橋田はテレビドラマの脚本家として有名だから、あまりテレビを見ない私も知っている。それで、彼女がなぜ安楽死したいのか興味が湧き、通販で購入した。
橋田は1925年生まれで、この本を出した2017年は92歳。彼女は申し分なく楽しい人生を送っていると書いている。それでも痴呆症になることを怖れているようだ。そうなる前に楽に死にたいと思っているそうだ。だから、安楽死を肯定し、外国人にも安楽死を施すスイスに行き、安楽死したいと書いている。
この本の時点では、スイスで安楽死した日本人女性はいなかった。しかし、もし橋田が実行すれば、すごいセンセーショナルな出来事になるだろう。
もちろん、これは橋田自身の願望であって、彼女の現在の恵まれた環境を考えると、たぶん実行はないと思う。彼女のこの本の主張の真意は、死の自己決定権であって、日本にも安楽死を認める法があっても良いということなのだ。
また、橋田はスイスでは安楽死を認めているといっているが、安楽死と尊厳死との違いについて、彼女の認識しているところが正確なのか若干疑問を持った。
宮下の上記の本によれば、スイスの安楽死はあくまでも「自殺幇助」なのだ。橋田自身はどんな場合でも自殺願望はなさそうだから、彼女がスイスに行くことはないだろうと、この本を読み終えて思った。
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前作の『そして、バトンは渡された』は義理の父親と娘の物語で、実母が亡くなった後、父親が3人も替わるという、実際にはありえないと思われる作品だった。
http://blog.kiriume.com/?eid=1223489
それが、平成31年の本屋大賞に選ばれたのには、私には多少意外だった。今どきは、たいした問題提起もせず、肩もこらない軽めの小説がうけるのかとさえ思った。
それは、それとして、今回の作品は、実父と血のつながりがあるだけの息子との物語。結婚もせず母は私生児となる息子を産んだ。いわば成り行きで妊娠したようなわけで、父母双方に結婚の意志はない。父親は息子が成人するまで、約束した毎月10万円の養育費をきちんと送ってきたものの、そのほかは全く親子の交渉を持っていない。親として息子に会いたいとも思わなかったようだ。
母親の方も、毎月の「受け取りました」とだけ書かれた手紙に、息子の写真1枚同封するだけ。
だから、父親は息子に会った事もなく、その写真がどのような状況のものかの説明もないので、父親としての関心も湧かないできたようだ。
その息子が25歳になり、前ぶれもなく突然会いに来て、数週間同居する。物語はその間の親子のやり取りが中心になっている。
父親は小説家が生業なのだが、まるで世間とは没交渉で日常の生活感がない。たとえば、食事もサプリメントで栄養補給して済まし、書斎に閉じこもったままで運動なぞしている様子もない。いわば引きこもりのような生活をしているのだが、病気にもならないのが不思議だ。
これまでの25年間に、小説を30冊出していて、その印税の収入だけでも生活できるという。だが、隣近所はもちろん、世間とは関わりを持たない生活をしていて、良い小説が書けるはずがないと思うのだが、彼の生き様は私には理解不能だ。もちろん、母親の対応も意味不明で承知できない。
もっとも、物語の最後に、息子が会いに来た理由も明かされるのだが・・・
というわけで、この作品も、前作と同様に、現実にはありえないコトを書いた小説だと思った。だが、『事実は小説よりも奇なり』というから、もしかしたら、実際世間にはそういうこともアリなのだろうか。
それゆえ、この作品と姉妹作のような前作も本屋大賞になったのだとしたら、高齢者の仲間入りした私には、理解不能な時代になってきているのかも知れない。
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本を書店で購入するときには、面白そうかどうかは、たいていは本の帯を参考にする。
いわば、本の帯は初対面の第一印象と同じく、そこに書かれてるコピーの影響は大きい。だが、それに紹介者の顔写真まであると、出版社はその人の知名度を当て込んでるのかと興ざめしないでもない。
私は、最初、この顔写真は著者かと思った。学者にしてはやけに笑顔の印象がし、本の内容は大丈夫だろうかと思ったほどだ。この笑顔は商売人のそれだ。
私は、ライフネット生命会長兼CEOと肩書きされた出口冶明なる人物を知らないし、興味の対象にもない。書店で見たら、購入したかどうか分からない。この本を通販で購入したのは、結果として幸いだった。内容は大変興味深かった。
通販の時は、手にとって見られない分、コメントを参考にする。この本の場合も見た。
私はふつう評価の低い方が気になる。納得できる理由なら買わない。
この本には、低い評価に『思ったより専門的な記述で難解』で『期待したほどワクワクさせる内容ではなかった』とあった。
しかし、最新の科学で事柄を説明するのに、ある程度専門的な言及になるのは当然だろう。期待したほどでなかったというのは参考にならない。ワクワクするかどうかは好奇心レベルの問題であるからだ。
で、私が読んでどうだったかというと、専門分野の記述は無視できる程度だった。というか、無視する。そうしても、テーマの大勢に影響はない。
例えば、この本では触れられていないが、最近ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。私の理解ではブラックホールは光も吸収してしまうのに、なぜ映像が撮れるのか分からない。だが、分からなくても興味深い。
この本では、「地球の履歴書」という視点から、8章にわたり我々が認知できる様々な地球の現象が、科学者の目から語られている。
8章の「地球からの手紙」では有馬温泉が取り上げられている。温泉は火山の近くにあるというのが常識だろうが、有馬温泉には付近に火山ない。
それなのに、90度を越える湯が1000年にも渡り噴出し続けているという。科学者魂をくすぐる「奇妙な例外」なのだそうだが、その説明にはなるほどと興味深いものがあった。
読者が興味を持つように説明を構築する。それは、著者が「まえがき」で取り上げた、夏目漱石の弟子で科学者であり文学者でもあった寺田虎彦の世界を、著者も追いかけたいということなのだろう。
科学者の目が捕らえたエッセイは、文学の香りもし、面白いものがあると思う。医者が小説世界を描くと、専門知識が生かされていのと同じだろう。
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ドクダミの葉に、丸い小さな粒が密集して着いていた。
私の老眼では、色は黒いが仁丹ほどの大きさで、何かの虫の卵があるとしか見えなかった。
とりあえず、デジカメで撮り、拡大してみて驚いた。
小さいが、頭も足もある。
6本の足で、昆虫であることは間違いない。
自分が知らないモノを、なんでも「謎」というのは安易に過ぎるだろう。
だが、見た目には小さな粒だとしか見えなかったのが、動き回りもせず、そこに生存しているというだけで、何という虫なのか分からないのはナゾというほかない。
しかも、着生しているのがドクダミの葉というのが意外だ。こんなのを食生にする虫がいるのだろうか。
腹部の丸い様子から、最初はてんとう虫かと思ったが、頭が出ているので、たぶん違う。
次に思い当たるのは、臭虫だが、これは庭で育てている野菜にいっぱい付くので知っている。
そのクサムシの成虫は、腹部がもうちょっと平べったい。幼生の頃は丸いのだろうか。
しかし、クサムシだとすれば、私としては大変困る。
殺虫剤を撒くべきか迷ったが、まだ小さいので様子を見ることにした。
次の日みたら、集団で移動していて、どこにいるかすぐには分からなかった。
探してみると、ジャガイモの近いところにある雑草に移っていた。
それで、あっさりと、靴底で集団ごと踏み潰した。
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カラスノエンドウが庭のそこら辺にかたまって生える。ふだんは迷惑な雑草でしかないが、山菜図鑑に食べられるとあった。
それで、今年こそは食ってみようと思い、実が生るのを楽しみにしていた。
天ぷらにするのに十分な量が収穫できた。
天ぷらはうまく出来たと思う。ワクワクして口にすると、味わう以前に植物繊維が固すぎて、私の弱い歯では食える代物ではなかった。
改めて図鑑を確認すると、花が咲いて実ができてまもなくの、若い莢を利用するのだという。
その旬をはずすと、固くなってしまうと書いてある。
私は、家庭菜園でつくるエンドウ豆やインゲン豆のように、莢の中の種子が膨らんだ方が良い思ったのは、カラスノエンドウに関してはとんだ間違いだった。
ちなみに、カラスノエンドウというのは通称で、和名はヤハズノエンドウという。「野原にできるエンドウ豆」ということのようだ。
しかし、上の画像のように、豆が熟すと莢が真っ黒になる。中の種子も黒い。これを見ると、通称のほうが言いえていると思う。
仲間には、スズメノエンドウというのもあるそうだが、食してみる気は、もうない。
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