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全身緑色したクモ

 

全身緑色のクモがいた。場所は我が家の食卓となっているテーブルの上。おそらく迷い込んだのではなく、私が庭から持ち込んだものに付いていたのだろう。

 

緑色が美しいので、どこかに逃げないうちにと急いでカメラを構えた。撮ったあとは放っておいたら、どこかに行ってしまった。家の中では生息していけないだろうから、外に出してやれば良かったが、このクモには気の毒だった。

 

調べてみると、「ワカバグモ」というようだ。北海道から九州にかけてフツウに生息しているというから、私が初めて目にしただけで、そう珍しいわけではなさそうだ。5月辺りから見られるらしいから、ちょっと早めのお出ましかも知れない。

 

大きさは1cmくらい。♀は全身が緑だが、♂は脚先が赤く色づくという。画像のクモは、脚先の緑色が抜け、少し赤みが差しはじめているようだから♂かもしれない。

画像では分かりにくいかも知れないが、頭部に目がある。拡大してみると、なんと8個もあって八方を睨んでいるので驚いた。

 

クモがダメと言う子は多い。生徒が教室で突然大きな声をあげたりするのは、たいていはクモなど小さな虫がいるといって騒いでいる。こんなことで、災害の多い時代を生きていけるのかと心配に思うことがある。

 

だが、虫を怖がったり気持ち悪く感じるのは、生理的なものだから仕方ないのかも・・・と、私は情けないと思いながらも、ややあきらめている。

author:u-junpei, category:雑記, 21:39
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読評 「創価学会」(田原総一朗 著)

 

自民党と連立与党を組む公明党は、創価学会との関係なくしては語れない。当の学会は、かつてはその自民党からも野党からも、言論出版妨害事件や政教分離に関して激しい批判攻撃を受けている。私も当時の秋谷会長が国会喚問を受けたのをテレビ中継で見た記憶がある。

また、創価学会は日蓮正宗の信徒団体としてスタートしているが、1991年にはその宗門から破門され、宗教団体として存立が危ぶまれた。

 

そのたびごとにと、著者は当時を振り返り、ジャーナリズムの「われわれ」は、創価学会は衰退すると予想したという(本書まえがき)。

ところが、2018年現在、SGI(創価学会インターナショナル)は世界192ヵ国・地域に広がり、日本以外の国に240万人もの会員を擁している(p319)

 

いわば、創価学会は今や日本発の世界宗教であって、幾たびの危機的状況を乗り越え、なぜそのような発展をしているのか、「まえがき」で著者はジャーナリストとして、その実態をつかみたかったという動機を率直に述べている。

 

私も、とくに公明党との関係には強い関心がある。さらに、世界宗教であるキリスト教・イスラム教を信奉している人々と仏教がどう関わって、なぜ創価学会の信仰が受け入れられているのかにも興味をもって読んだ。

 

著者は、『おわりに』という「あとがき」で、次のように述べている。

 

『・・・他宗を一切認めないという立場を貫けば、いかに大きな宗教集団をいえども孤立する。しかも、それを乗り越えるのは至難の業である。

当然、民主主義国家では生きにくくなるだろう。なぜなら、民主主義とは自分の意見は持ちつつも、異なる意見を認めることで成り立つからである。宗教と民主主義は相容れないのではないかと私は感じていた。公明党が結党し、政界に進出したときにも、創価学会はこの矛盾にどう対処するのかと案じたものだ。

 

だが、池田大作氏は宗教における”排除の壁”を見事に乗り越えた。どのような宗教も否定せず、他宗教の信者たちともコミュニケーションを図り、信頼しあうことに成功した。この一点だけでも、私は池田大作氏を高く評価している。

これは、どの宗教にも成し遂げられなかったことであり、私はそこに、創価学会としてのすごさを感じるのである・・・』

 

本書の内容は、このような結論に至ったことを、第1章「創価学会の誕生」〜第9章「特別インタビュー原田稔会長に聞く」まで、様々な場面で検証したもので構成されている。

著者は1934年生まれ。テレビで見る様子は、かつてほどには迫力がなくなっているようだ。だが、本書にはジャーナリストとしての生涯に恥じない魂があると思った。

 

本書に書かれた池田会長をはじめ、学会や公明党幹部へのインタビューには、かなりキツイ突っ込みを入れているが、偏見を排した公正な誠実さが感じらる。ジャーナリストの真骨頂とはこのようなものをいうのであろうか。

 

もっとも、第二章「創価学会の拡大と救済論」で、著者自身も創価学会への懐疑と偏見があったことを、正直に次のように述べている。

『・・・実は創価学会に対して私は長い間、偏見を持っていた。というのも、私が20代だった1950年代、創価学会はきわめて戦闘的な集団と見られていたからだ。第2代会長に就いた戸田の指揮のもと、強引な折伏大行進を行い、他宗教を邪宗と決めつけるなど、排他的な集団としか思えなかった。また、その信仰観についても、いろいろな新興宗教が「難病が治った」「奇跡が起こった」というオカルトまがい話を喧伝するのと同列のうさん臭さを感じていた。』と

 

こうしたことでは、多くの人が著者と同様に思ったに違いない。いまだに偏頗な学会批判書が多いのもうなずける。

 

ところが、このような日本の創価学会の歴史と、海外では事情が全く異なるようだ。海外での布教活動は、池田会長のいわば手作りでスタートしている。上記の日本のような状況ではなく、その国や地域の文化を尊重し大事にしている点が、大いに違っているのではなかろうか。まさに、著者の「あとがき」に指摘されているとうりなのだろう。

また、本書に収められている海外の会員へのインタビューで語られている体験談を読むと、入信動機というのは人種を問わず同じようなものがあり、人間は同じなんだなと感慨深いものがあった。

 

本書は、一流ジャーナリストが忌憚なく客観的に見た創価学会の歴史を語っているということでは、学会批判者にはもちろん、、一般会員にも一読をお勧めしたい1冊だ。

author:u-junpei, category:読評, 18:00
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読評 「本と鍵の季節」(米澤穂信 著)

 

この小説は、高校2年の男子生徒2人が、図書委員となって知り合い、シャーロック・ホームズのように推理を重ねて、謎解きをする7つの連作短編集になっている。

 

例えば、最初の短編は「913」というタイトルで、やはり図書委員だった高3の女子から、祖父が残したというダイアル式金庫を開けて欲しいと頼まれる。祖父が急死し、祖父からは「大人になったら分かる」と聞かされていたものが、金庫の中にあるはずだというのだ。

 

小説の主人公である男子高校生2人は、依頼してきた女子高生の姉が急須に入れて2人に出したお茶の味と、なぜプロの金庫屋に頼まないのかという単純なことから、彼女の依頼の前提に疑いを抱く。開錠はできるのだが、そこではもっとシリアスに捻られた話が展開される。

 

7つあるそれぞれの短編に描かれる話は、身近にあるようなことで、複雑怪奇な事件を扱うような推理小説ではない。これらの短編の真骨頂は高校生2人がする推理の会話にある。作家はそこに2人それぞれの個性を描いている。

 

この本は推理小説であるから、細部を紹介してはルール違反になるからこれ以上は書かない。主人公と同年代の高校生が読んでももちろん、私のような老齢者が読んでも十分に楽しめる内容だったとだけ述べておこう。

author:u-junpei, category:読評, 22:33
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ヤブカンゾウの天ぷら

 

自宅の庭にヤブカンゾウが生える。母が健在のころ、彼女の友人が数株持ってきたのだが、今では困るほど増えている。

それで、私は食って減らそうと試みているのだが、成長が早く1日に1cm以上も伸びる。したがって、上の画像のような食べどきは限られているので、いっこうに減らずにますます増える。

 

 

ノカンゾウを山菜として食べるレシピはいろいろある。私はもっぱら天ぷらにする。

天ぷらだと青臭さが抜け、少し甘みもあって結構美味しい・・・と思う。

味噌汁の具にしてみたが、わずかに青臭さが残る。それが山菜らしくていいのだと言う人もいるかもしれない。

 

 

ちなみに、ヤブカンゾウはユリ科で、上の画像が花。

同類にノカンゾウがあるが、それとの違いはヤブカンゾウの花は、画像のような八重咲きになる。

 

また、ヤブカンゾウは「ワスレグサ」とも呼ばれる(「和名抄」平安時代)。『若芽を食べると美味しくて憂いを忘れる』からだそうだ。

author:u-junpei, category:雑記, 22:11
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読評 「すぐ死ぬんだから」(内館牧子 著)

 

すごいタイトルにひかれて借りようと思った。私もそうだが、いわば先のない高齢者の物語だろうと予想したが若干違っていた。

 

主人公の忍ハナは78歳。老人は歳相応にナチュラルではなく、オシャレや外見に気を配り、いかにもジジババに見える年寄り臭さを断固排除して生きるべきだという自論を実践している。

上の画像(表紙絵)のように、老人の特徴は、男も女も誰もがリュックを背負い、帽子をかぶっている、お決まりのジジババスタイルだという。

ハナはというと、下の画像(裏表紙絵)のようで、とても78歳には見えない。

 

 

1歳上の夫の岩蔵とは夫婦円満で、自他ともに素敵な夫婦だと認めている。岩蔵はハナにやかましくいわれて、外見(食べるものから着る物まで)をいわば強制されているのだが、日頃からハナと結婚して幸せだみたいな事を、臆面もなく言うような夫だった。

それというのも、夫婦して浮き沈みの激しかった自営の酒屋経営をきりもりし、人生の苦楽を共にしてきたからでもあった。今は長男に店を譲り、夫婦はマンションで悠々自適に暮らしている。

 

ここまでが第1章で、ハナの高校時代の同窓会に出席した時の様子などで描写されている。

ところが、第2章の最後で岩蔵が硬膜下血腫が原因で突然亡くなる。

 

この物語の本題は第3章からだ。岩蔵の自筆遺言書が見つかり、家庭裁判所で検認を受けると、認知していない息子がいるという、家族の誰もが思いもしなかった、晴天の霹靂のような事実が書かれていた。

2号というか妾というかはともかく、ハナには極秘に40年間も他所で続けらていた生活があったことが明らかになる。

そんな事実は、私だったら遺言書に残さず、秘密のままに墓場に持っていけばよいと思うが、岩蔵はそうしなかった。

 

まあ、それで『物語り』になるのであろうが、作家の前作である定年退職後の男を描いた「終わっ人」に比べると、不自然な展開で釈然としない。

今作は主人公が老女であるから、ハナの考え方も作家自身の投影なのかも知れないが、岩蔵のようにそんなバカなことするだろうかという気分が、第8章まである最後まで抜けなかった。

 

だが、高齢者がどのように日常を生きるべきかという視点でみると、大変参考になる作品ではあった。「終わった人」はドラマ化されたようだが、この「すぐ死ぬんだから」も映像になったら、小説とは違う面白さがあるかもしれない。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「人魚の眠る家」(東野圭吾 著)

 

今年初めての読書。こんなに長い間、一冊の本も読まないでいたのは初めてかもしれない。

未読の本は友人の蔵書を引き受けたのでいくらでもあるのだが、やはり自分で読みたいと思った動機がないと、なかなか読了に至らず、中途でやめてる本も何冊かある。だから、読書から遠ざかっていたのは、まさか、歳のせいではあるまいと・・・

 

この「人魚の眠る家」は映画の予告か何かを、テレビでチラッと見た程度であるが、直感的に面白そうと思った。

ただ、映画館へ見に行く余裕がないので、小説で読むことにした。2015年の作品なのだが、人気作家の小説で、しかも映画化になったばかりだったせいか、すぐに借りれなく順番待ちで今になってしまった。

 

読み始めて、重いテーマの作品だと知った。プールで溺れ、脳死状態になった6歳の女児が、まだ生きていると信じる母親の懸命な介護に加え、父親の会社の研究者により電磁的な工学システムで横隔膜を動かして呼吸し、電気的に脊髄反射を使い手足も動かす。外見だけ見れば眠っているようにも見える。結局のところ小学4年になる直前まで成長し、医師の間では密かに奇蹟の少女と呼ばれていたようだ。

題名の人魚と言うのは、自分の足で歩けないことから来ていて、いわば眠れる人形ということなのだろう。

 

この脳死状態というのが、いわゆる植物人間とは違う。法律の要件に従い、脳死判定を受ければ「脳死」となり、一切の延命措置を施さず心臓停止するまで臓器移植提供ができることになる。いわば法律上の死ということだ。だが、その状態でも親が脳死判定を拒否すれば、自然に心停止するまで人工呼吸器を続け、栄養補給もすることになる。

 

その脳死状態がどれくらい続き自然死するかは分からない。特に子どもの場合は確定的なことはいえないのだそうだ。もちろん、脳は死んでる状態なので、復活するということは100%ない。

 

したがって、この脳死状態はいわば眠っている状態とは違う。小説の女児の場合は、いわば電気的な手法を施して生きているのだが、他人の目で見れば死んでいるのと異ならないのだ。だが、誰しもそれを親の狂気やエゴなどと批判できないだろう。

 

この小説は脳死と臓器移植という医療の現状を背景に、人の死とは何かを問う重いテーマであったが、小説としては、さすがに東野圭吾だけあって手馴れているとはいえ、エンターテイメントとして成功している。最後のシーンはここには書かないが、ホッとし読後感は良かった。改めて、映画も見て見たいと思った。

author:u-junpei, category:-, 20:50
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読評 『中学生からの数学「超」入門』(永野裕之 著)

 

本の題名に「超」がついているので、思わず手に取った。「中学生からの」とあるのも、私のような老齢者が読んでも、興味をひかれる内容であるに違いない・・・そう思った。

 

それは、表紙に次のように書かれているせいでもある。

 

『―よく―数学が苦手だった人から―「社会に出てみたら、数学なんて必要なかったあんなに苦労したのに、算数は必要だけれど、数学なんて勉強させられて損した」という声を聞きます……仕方ないかなと、とも思います。だって、まだまだ知性も感情も未熟な中学生には数学を学ぶ意味や意義をつかむのは至難の業だからです。』

 

しかし、このコメントはおかしなことを言ってはいないだろうか。仮に、中学生時代には数学を学ぶ意義が分からなかったとしても、これは社会に出ている大人の発言として書かれている。だから、すんなり聞けるようでいて、やはり違和感がある。

 

それで、著者のプロフィールを見ると、著者は東大出身で、現在は個別指導の数学塾をしているという。本書の他にも数学関係の著書が複数ある。そんな著者が上のようなステレオタイプな表現を平気で使うのはなぜだろう。それとも、著者は本当にそのような発言を「よく」聞いているのだろうか。少なくとも、私の周りにはいない。

 

たかが義務教育レベルの数学なのに、苦労したので『勉強して損した』などと公言する大人がいたら、中学生だった時から成長がなく、社会人としても信用がおけない・・・と思う。仮に、この人が中学生の親だったら、自分の子どもにもそんなこと言うだろうか。

百歩譲って、本を売るべくの意図で著者が創作したコメントかもしれないが、この本が数学の入門書として、「超」が付くほど面白いのかどうかは読んでみないことには分からない。

それで、分かり易くて、面白かったら、私の塾にもいる数学が苦手な生徒たちに、紹介しても良いなと考えて購入した。

 

本書の解説の多くは、幾何や代数・関数などの分野ごとに、歴史過程の説明や代表的な設問があり、その解答方法を示すという構成になっている。

設問の中には、成蹊高や慶応義塾女子高、筑波大付高などの入試問題や、栃木県で受験者の正答率が5%だったという難問も取り上げている。まあ、私の塾生たちにはチンプンカンプンな問題だ。

 

それゆえ、タイトルに「超」が付けられてるのは、こういった難問を、分かり易く解説する為だったのだろう。だが、あえて言わせて貰うなら、設問が難しい必要性はあるのだろうか。

著者がやっている数学塾は、一流レベルを受験する生徒たちかもしれない。そういう生徒なら、どんな難問でも興味を持って挑戦するだろうし、上に取り上げたバカな大人のようなことは、最初から言わないだろう。

 

そうではなく、バカをいう大人にも買って読んで貰いたい入門書を目指していたのなら、数学という学問は、社会に出ても役立つことを証明するような問題はいくらでもあるだろう。それらを取り上げて、もうバカなことを言わせないようにしたら良かったに違いない・・・それが私の読後感だった。

もっとも、本書に収録してる難問に正解する喜びは別で、オレにも解けたという満足感はあったのでよしとしよう。

author:u-junpei, category:-, 00:44
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水仙と日照 植物の<知性>その2

 

水仙の種類によって、咲く時期の違いがあることは知っている。だが、冬のこの時期、我が家の北の路地に面して、全く日が当たらない場所にある水仙から、花が咲きだしてるワケは何だろう。

 

記憶は曖昧だが、今年1月の下旬、館林でも雪が降って10cm以上も積もり、この場所は日が当たらないからなかなか融けず、画像の水仙も長く雪に埋もれていた。

雪が融けた後に見ると、だいぶ葉っぱが折れたりして痛み、そのあとに、花もそれほど咲かなかったかと思う。

つまり、この水仙は、年明けに咲く、遅咲きの種であったように思うのだが・・・

 

ところが、冬至が過ぎたところで、もう7,8分咲きになっている。我が家のよく日の当たるところにも、確か同じような種類の水仙(八重咲水仙)があるが、そちらはまだ花茎さえ出てきていない。

 

そこで、我が家の内では最も劣悪な条件下にあると思われる場所で、最初に咲きだした理由を考えてみた。

一番フツウの理由は、この冬に入る頃が暖冬だったことだろう。したがって、種類に応じるにしても、全体的に水仙の咲く時期が早くなっているのかもしれない。

だが、これは日の当たらないところから咲きだした理由にはなり難い。

 

それを踏まえると、この水仙は、前回雪に閉じ込められた苦い経験から、とりあえず今回は早く咲いてみる事にしたのではなかろうか。

植物に<知性>があるなら、それくらいのことは試してみるに違いない・・・と思うと納得がいく。もっとも、水仙は日の当たらない場所を好むというなら別だ。

 

ところが、いろいろ検索したが、日当たりの良い場所で育てるという記事は多くあったが、その反対はお目にかかっていない。光合成をする植物なら、日照を好むことは当然かも知れない。

 

   水仙の咲き始めたる冬至かな    嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 22:55
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柚子酒に変わる

 

22日は冬至だった。これからが寒くなるというのに、この日を境に日が伸びるとは、感覚では信じがたいものがある。

それはともかく、冬至ならユズ湯だろうと思い、数日前にユズを貰ってきた。ところが、匂いを嗅いでいるうちに、ユズ酒が欲しくなった。

自宅の風呂なら3個もあれば十分で、それしか貰ってない。また貰いに行くというのも、なにか意地汚い。

湯と酒とどちらにするか迷ったのだが・・・楽しみを先に延ばすことにした。呑み意地で生きてれば、数ヶ月は寿命も延びるだろう。

 

   冬至湯と貰ひし柚子は酒の中   嘆潤子

author:u-junpei, category:俳句, 19:19
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蚊逃草の<知性>

 

前回、『植物は<知性>をもっている』という本を取り上げた。

今回は、これに関連する話。

 

上の画像は、我が家の蚊逃草から、刺し枝で増やした2世で、3本試した中で1本だけ根付いたもの。

蚊逃草は寒さに弱く、外で冬を越すのは難しいと、親を購入したときの説明札にあった。せっかく根付いたのだから、だんだん寒くなってきたので、親株と共に部屋の中に入れ、日差しが入るところに置いた。

 

数日すると、植物はこんなにも日の光が恋しいのかと思うくらい、葉が窓の外を向いている。葉が垂直になっている様子は異常なくらい・・・

 

それで、ちょいとイジワルをしてみた。

 

 

180度、鉢の向きを変えてみた。

それから、数日して・・・

 

 

彼は、またも日光が入る方向に向き始めている。

これはどうやって向きを変えているかというと、ウィキペディアでは次のように説明している。

 

『植物の地上部は光の影になる部分に、成長を促す植物ホルモン(オーキシン)を移動させ、日陰側の成長を促すことによって、日の当たる方向に向き、葉などが効率よく光合成できるよう成長する』

 

しかし、この説明は、1枚目の画像で、葉が光の来る方向を向いたときの説明にはなるが、2枚目から3枚目に変わるときの説明になるかは疑問だ。

なぜなら、彼は葉の「首」を反らしたのではなく、180度回転したようなのだ。

 

もちろん、私が観察したのは、数日間で言えば、ほんの一瞬を切り取っただけで、実際に「ぐるっと回った」のを見たわけではないから、本当のところは分からない。だが、「日陰側」の部分が成長して、葉を反らすような運動では説明できないと思う。

 

それに、植物の運動がどういうメカニズムなのかは、仮に「植物ホルモン」で説明できるとしても、「移動させ」たのは植物自身なのだ。

それを、植物の知性と言うか意思と言うかはともかく、人間でも動物でも全ての運動や行動が、いわゆる知性や意思に基づき、自律しているワケではない・・・と蚊逃草を見ながら思った。

 

ちなみに、「蚊逃草」とは人間が勝手に言ってるだけで、彼自身は蚊を追いやる理由はないのだろう。我が家の蚊逃草は、すぐそばに蚊がいても知らん振りで、まるで役に立っていなかった。

author:u-junpei, category:雑記, 22:44
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