- 読評 「傑作はまだ」(瀬尾まいこ 著)
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2019.06.12 Wednesday
前作の『そして、バトンは渡された』は義理の父親と娘の物語で、実母が亡くなった後、父親が3人も替わるという、実際にはありえないと思われる作品だった。
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それが、平成31年の本屋大賞に選ばれたのには、私には多少意外だった。今どきは、たいした問題提起もせず、肩もこらない軽めの小説がうけるのかとさえ思った。
それは、それとして、今回の作品は、実父と血のつながりがあるだけの息子との物語。結婚もせず母は私生児となる息子を産んだ。いわば成り行きで妊娠したようなわけで、父母双方に結婚の意志はない。父親は息子が成人するまで、約束した毎月10万円の養育費をきちんと送ってきたものの、そのほかは全く親子の交渉を持っていない。親として息子に会いたいとも思わなかったようだ。
母親の方も、毎月の「受け取りました」とだけ書かれた手紙に、息子の写真1枚同封するだけ。
だから、父親は息子に会った事もなく、その写真がどのような状況のものかの説明もないので、父親としての関心も湧かないできたようだ。
その息子が25歳になり、前ぶれもなく突然会いに来て、数週間同居する。物語はその間の親子のやり取りが中心になっている。
父親は小説家が生業なのだが、まるで世間とは没交渉で日常の生活感がない。たとえば、食事もサプリメントで栄養補給して済まし、書斎に閉じこもったままで運動なぞしている様子もない。いわば引きこもりのような生活をしているのだが、病気にもならないのが不思議だ。
これまでの25年間に、小説を30冊出していて、その印税の収入だけでも生活できるという。だが、隣近所はもちろん、世間とは関わりを持たない生活をしていて、良い小説が書けるはずがないと思うのだが、彼の生き様は私には理解不能だ。もちろん、母親の対応も意味不明で承知できない。
もっとも、物語の最後に、息子が会いに来た理由も明かされるのだが・・・
というわけで、この作品も、前作と同様に、現実にはありえないコトを書いた小説だと思った。だが、『事実は小説よりも奇なり』というから、もしかしたら、実際世間にはそういうこともアリなのだろうか。
それゆえ、この作品と姉妹作のような前作も本屋大賞になったのだとしたら、高齢者の仲間入りした私には、理解不能な時代になってきているのかも知れない。
- 読評 「地球の履歴書」(大河内直彦 著)
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2019.05.28 Tuesday
本を書店で購入するときには、面白そうかどうかは、たいていは本の帯を参考にする。
いわば、本の帯は初対面の第一印象と同じく、そこに書かれてるコピーの影響は大きい。だが、それに紹介者の顔写真まであると、出版社はその人の知名度を当て込んでるのかと興ざめしないでもない。
私は、最初、この顔写真は著者かと思った。学者にしてはやけに笑顔の印象がし、本の内容は大丈夫だろうかと思ったほどだ。この笑顔は商売人のそれだ。
私は、ライフネット生命会長兼CEOと肩書きされた出口冶明なる人物を知らないし、興味の対象にもない。書店で見たら、購入したかどうか分からない。この本を通販で購入したのは、結果として幸いだった。内容は大変興味深かった。
通販の時は、手にとって見られない分、コメントを参考にする。この本の場合も見た。
私はふつう評価の低い方が気になる。納得できる理由なら買わない。
この本には、低い評価に『思ったより専門的な記述で難解』で『期待したほどワクワクさせる内容ではなかった』とあった。
しかし、最新の科学で事柄を説明するのに、ある程度専門的な言及になるのは当然だろう。期待したほどでなかったというのは参考にならない。ワクワクするかどうかは好奇心レベルの問題であるからだ。
で、私が読んでどうだったかというと、専門分野の記述は無視できる程度だった。というか、無視する。そうしても、テーマの大勢に影響はない。
例えば、この本では触れられていないが、最近ブラックホールの撮影に成功したというニュースがあった。私の理解ではブラックホールは光も吸収してしまうのに、なぜ映像が撮れるのか分からない。だが、分からなくても興味深い。
この本では、「地球の履歴書」という視点から、8章にわたり我々が認知できる様々な地球の現象が、科学者の目から語られている。
8章の「地球からの手紙」では有馬温泉が取り上げられている。温泉は火山の近くにあるというのが常識だろうが、有馬温泉には付近に火山ない。
それなのに、90度を越える湯が1000年にも渡り噴出し続けているという。科学者魂をくすぐる「奇妙な例外」なのだそうだが、その説明にはなるほどと興味深いものがあった。
読者が興味を持つように説明を構築する。それは、著者が「まえがき」で取り上げた、夏目漱石の弟子で科学者であり文学者でもあった寺田虎彦の世界を、著者も追いかけたいということなのだろう。
科学者の目が捕らえたエッセイは、文学の香りもし、面白いものがあると思う。医者が小説世界を描くと、専門知識が生かされていのと同じだろう。
- 謎の黒仁丹虫
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2019.05.22 Wednesday
ドクダミの葉に、丸い小さな粒が密集して着いていた。
私の老眼では、色は黒いが仁丹ほどの大きさで、何かの虫の卵があるとしか見えなかった。
とりあえず、デジカメで撮り、拡大してみて驚いた。
小さいが、頭も足もある。
6本の足で、昆虫であることは間違いない。
自分が知らないモノを、なんでも「謎」というのは安易に過ぎるだろう。
だが、見た目には小さな粒だとしか見えなかったのが、動き回りもせず、そこに生存しているというだけで、何という虫なのか分からないのはナゾというほかない。
しかも、着生しているのがドクダミの葉というのが意外だ。こんなのを食生にする虫がいるのだろうか。
腹部の丸い様子から、最初はてんとう虫かと思ったが、頭が出ているので、たぶん違う。
次に思い当たるのは、臭虫だが、これは庭で育てている野菜にいっぱい付くので知っている。
そのクサムシの成虫は、腹部がもうちょっと平べったい。幼生の頃は丸いのだろうか。
しかし、クサムシだとすれば、私としては大変困る。
殺虫剤を撒くべきか迷ったが、まだ小さいので様子を見ることにした。
次の日みたら、集団で移動していて、どこにいるかすぐには分からなかった。
探してみると、ジャガイモの近いところにある雑草に移っていた。
それで、あっさりと、靴底で集団ごと踏み潰した。
- カラスノエンドウの天ぷら
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2019.05.15 Wednesday
カラスノエンドウが庭のそこら辺にかたまって生える。ふだんは迷惑な雑草でしかないが、山菜図鑑に食べられるとあった。
それで、今年こそは食ってみようと思い、実が生るのを楽しみにしていた。
天ぷらにするのに十分な量が収穫できた。
天ぷらはうまく出来たと思う。ワクワクして口にすると、味わう以前に植物繊維が固すぎて、私の弱い歯では食える代物ではなかった。
改めて図鑑を確認すると、花が咲いて実ができてまもなくの、若い莢を利用するのだという。
その旬をはずすと、固くなってしまうと書いてある。
私は、家庭菜園でつくるエンドウ豆やインゲン豆のように、莢の中の種子が膨らんだ方が良い思ったのは、カラスノエンドウに関してはとんだ間違いだった。
ちなみに、カラスノエンドウというのは通称で、和名はヤハズノエンドウという。「野原にできるエンドウ豆」ということのようだ。
しかし、上の画像のように、豆が熟すと莢が真っ黒になる。中の種子も黒い。これを見ると、通称のほうが言いえていると思う。
仲間には、スズメノエンドウというのもあるそうだが、食してみる気は、もうない。
- 大根の花
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2019.05.11 Saturday
上の画像は、花びらが4枚で十字花の特徴があるので、アブラナ科だとわかる。この植物は繁殖力が強いのか、どんなところにも群落になって咲いている。郊外の林の下などで、一面に紫色した大きな群落はけっこう見栄えがある。
私の家にも勝手に咲いているが、狭い通り沿いにあるので、車を運転する者には、通行の邪魔に思われているかもしれない。
私は長い間、この花の名前を「ダイコンの花」と呼んでいたのだが、野菜の大根じゃないのに「大根の花」はオカシイとは思っていた。正しくは「花大根」という。
では、正真正銘の「大根の花」はというと、下の画像がそう。
大根は薹(とう=花茎)が立つと、大根の中心にスが入ったり大きな空洞になったりし、そうなるともう食用にはならない。
この大根は、私が育てたわずか5本のうちで、どんな花が咲くのか知りたくて、わざわざ残した1本だった。気分的にはかなりもったいないと思った。
大根はアブラナ科だから十字花だが、花の魅力ということでは花大根の方が見栄えが良いように思う。
画像は白花だが、ピンク色に咲くのもあるらしい。それは大根の種類(品種)によるのだろうか。実際に見てみたいが、もちろん自分の大根で確かめるほどの気はない。
ちなみに、「花大根」という和名は、大根の花に似ているので付けられたという。中国では諸葛孔明が栽培させたといわれ、「ショカッサイ」というようだ。
しかし、「花大根」にはダイコンはないから、食用には葉っぱを食べるのだろうか。まあ、私は好奇心はあるが、花大根を食べたいとは思わない。
- タラの芽の天ぷら
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2019.04.11 Thursday
山菜のタラの芽を採る木を「タラノキ」という。一般的に、例えば桜の木はサクラで、「サクラノキ」とは言わない。そこで、正しくは「タラの木」ではないかと思った。そうであるなら、若芽は「タラの芽」であろう。
そこで、タラノキを調べてみると漢字では「楤木」と書く。私の辞書(漢語林)には、楤の字義に「たら」とある。つづけて「ウコギ科の落葉小高木。若芽は食用になる」と書かれている。
つまりは、「タラの木」でもOKなのかもしれないが、図鑑の植物名は「タラノキ」で、天ぷらにする若芽は「タラノメ」ということで、オカシイと思わないのがフツウなのだろう。
もちろん、私とて絶対的異議を唱えるつもりはない。
上の画像は、我が家のタラノメであるが、このタラノキにトゲがない。どこかで購入したはずだが正確な記憶がないが、タラノメを採りたいと思って買ったには違わない。
だが、トゲがないタラノキはタラノキらしくない。そこで、ついでに調べてみたら、自然界にもトゲなしのタラノキがあり、「メダラ」と呼ぶそうだ。
若芽にも、味の違いはあるのだろうが、私のような舌音痴には分かるまい。
我が家のタラノメの採取は、これまでに3回ほど天ぷらにすることができた。だんだん揚げ方にも慣れてくるように思う。上の画像は初回のもの。衣が厚いのか、揚げすぎたのか、あまりうまいとは思わなかったが、揚げたてで食べるので、スーパーの冷えたタラノメ天ぷらを買い、チンして食するのよりはずっとよかった。
3回目は、今年最後だと思って味わったせいか、わずかながら甘みが感じられた。なるほど、これがタラノメが山菜として好まれる理由かも知れないと思った。
某山地に野生のタラノキが群生している場所を知っているのだが・・・残念ながら、旬の季節に行ったことがない。
- アマドコロの天ぷら
- ギボウシの天ぷら
- 読評 「早々不一」(朝井まかて 著)
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2019.03.28 Thursday
この本の題名を見て「草々不一」が何だか分からなかった。それで興味をひかれたのがこの本を読む動機ではあった。
この本には8つの短編小説が収められていて、最後の短編の題名が本のタイトルになっている。その「草々不一」を読むまで、手紙の末尾に書く決まり文句だと、まるで気付かなかったのは不覚だった。
昔、というか私が小学生の時、授業で手紙の書き方を教わった。
「拝啓」で書き始めたら、「敬具」で終える。時候の挨拶抜きの「前略」で始めたら「草々」と書いて終えるのだと教わったのだ。それは、60年後の今でも忘れず、実際にも使っている。
だが、私が教わったのは、「草々」であって、「草々不一」と書くのだというのは、この小説を読むまで知らなかった。
「草々不一」の小説では、武士に学問は不要だと馬鹿にし、文字も読むことができず、武辺一辺倒で生きてきた御家人の前原忠左衛門は、武道はからきしダメで、学問に精を出す跡取り息子の清秀に不満があった。
ところが、その清秀は優秀で、だんだんと頭角をあらわして出世し、嫁も旗本から迎えるようになる。
忠左衛門は家督を清秀に譲り、妻との余生を送っていたが、麻疹に罹った妻に急死されてしまう。忠左衛門は気力もなく悄然とした生活を送るようになった。
すると、清秀が遺品を整理していて、妻が忠左衛門宛に書いた手紙が出てきたと見せにくる。忠左衛門は清秀に手紙を読んでもらうのだが、清秀のことで、お詫びしなければないことがあると続く。まるで、これまで極秘にしてきた、妻の不義を思わせるような内容が書かれているかのようなのだ。あわてた忠左衛門は、息子が手紙を読むのをストップする。
ところが、忠左衛門は自分では手紙を読めない。内容が内容だけに、他人に読んでもらうわけにもいかず、悶々としていたところ、ひょんなことで子ども相手の手習い塾とかかわり、妻の手紙を自分で読みたい一心で入塾する決断をする。忠左衛門は54歳だから五十の手習いということだ。
きっかけは、次のようなシーンだ。忠左衛門は自分宛の手紙であることは秘して、片仮名は読めるのだと胸を張り、「不一」を「フトイチ」と読んで、次のように諭される。
『これは漢字の二文字にて、不一と読みます。意を尽くしきっておりませぬが、そこは忖度なさってくださいとの決まり文句です。このお方はかなり達筆でおられるので少々てこずるやもしれませぬが、さほど難しい漢字を使うておられるわけではわりません。それは内容をよまずとも、見て判別できます」
恐るべしと、忠左衛門は目の前の女師匠をみかえした。
『ですから、ぜひ、ご自分でお読みになれるようお学びなさいませ。前原様」
なるほど〜。「不一」とはそのような意味かと、私もこの歳になって始めて知り、納得。
妻の三回忌が済んだ後、塾の子ども達に親分と言われながらも猛勉強した忠左衛門は、ついに妻の手紙を読む。さて、何が書かれていたか、それを言っては、読書人のマナー違反だろう。
だだ、私は思わず目頭が熱くなったとだけは・・・
他の7編も良かった。さすが直木賞作家の「朝井まかて」だなと思う内容だった。とりわけ「妻の一分」という短編は、唐之介という犬が語っているのだが、飼われている赤穂浪士の大石家にまつわる物語で、趣向は夏目漱石の「我輩は猫である」風で面白い。
私は最初、犬がしゃべっているとは分からず読んでいたのだが、犬だと分かってからは俄然面白くなった。唐之介の次のセリフには、我が家にいた犬を思い出して、なんだか親近感さえ覚えた。
大石内蔵助は寒がりで、寒い寒いと背を丸め、綿入れを重ね着している。それを三歳の娘が蓑虫のようだといい、家族皆で笑っているシーンで、
『一緒に笑いましたですよ。え、犬が笑うかって。侮ってもらっちゃあ困りますよ。犬だって笑いも泣きもするし、しようと思えば愛想笑いも噓泣きもできまさ。』
さて、我が家の「リク」もそうであったかどうか・・・
- 全身緑色したクモ
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2019.03.26 Tuesday
全身緑色のクモがいた。場所は我が家の食卓となっているテーブルの上。おそらく迷い込んだのではなく、私が庭から持ち込んだものに付いていたのだろう。
緑色が美しいので、どこかに逃げないうちにと急いでカメラを構えた。撮ったあとは放っておいたら、どこかに行ってしまった。家の中では生息していけないだろうから、外に出してやれば良かったが、このクモには気の毒だった。
調べてみると、「ワカバグモ」というようだ。北海道から九州にかけてフツウに生息しているというから、私が初めて目にしただけで、そう珍しいわけではなさそうだ。5月辺りから見られるらしいから、ちょっと早めのお出ましかも知れない。
大きさは1cmくらい。♀は全身が緑だが、♂は脚先が赤く色づくという。画像のクモは、脚先の緑色が抜け、少し赤みが差しはじめているようだから♂かもしれない。
画像では分かりにくいかも知れないが、頭部に目がある。拡大してみると、なんと8個もあって八方を睨んでいるので驚いた。
クモがダメと言う子は多い。生徒が教室で突然大きな声をあげたりするのは、たいていはクモなど小さな虫がいるといって騒いでいる。こんなことで、災害の多い時代を生きていけるのかと心配に思うことがある。
だが、虫を怖がったり気持ち悪く感じるのは、生理的なものだから仕方ないのかも・・・と、私は情けないと思いながらも、ややあきらめている。