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読評 「空白の五マイル」(角幡唯介 著)

 

著者の作品にはまってしまったようで、このところ続いて4作目になる。かつて若い頃は登山小説とかを好んで読んだ時期があるが、老齢にもなって、自分とは縁遠い冒険物のノンフィクションを読むとは思っても見なかった。まあ、続けて読んでいるくらいだから、自分の歳を忘れるほどに面白い。

 

どう面白いかというと、ただ単に著者自身の冒険行動をノンフィクションとして語るだけではなく、探検場所の歴史背景や事実、そこに生きた、あるいは今も生きている人物の描写=生き様などを、活写するのに巧みな点だ。

 

著者がかつて朝日新聞の記者をした経験があり、取材能力や事実を適切に記事にする=ノンフィクションに描くセンスがあるだけでなく、一流の小説家のように、読者を冒険世界に引き込む文才や、読者を楽しませるユーモアのセンスにも恵まれていると思う。

 

この本は副題に、『チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』とあるように、著者が人跡未踏の空白区に挑んだ、2002〜2003年の探検と、2009年冬の単独行からなっている。どちらの回もほとんど絶体絶命の状況に遭遇している。それでもなおかつ、その後の『極夜行』にもあった大ピンチも凌ぎ生還しているところを見ると、体力プラスよほどの強運の持ち主なのかもしれない。

 

私はチベットの秘境にツアンポーという峡谷があること自体を知らなかったが、表紙絵の写真や中綴じにも著者が撮った写真が数ページあり、グランドキャニオンなども足元に及ばないという景観に興味をひかれた。写真集でもあったら欲しいくらいだ。

 

また、この本には、チベットの民に伝わる伝説の理想郷(ベユル・ペマコ)に通じているような、500人くらい収容できそうな巨大な洞窟を発見(表紙写真は洞窟の中から峡谷を写したもの)したシーンがある。私はワクワクしながら読んで、昔、チベットの民は外敵に襲われて逃げ込んだこともあろうかと、しばし空想にひたった。

 

ちなみに、本作品は2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞している。

author:u-junpei, category:読評, 19:19
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読評 「極夜行前」(角幡唯介 著)

 

前回取り上げた「極夜行」は2018.2刊。今回の「極夜行前」は2019.2刊で、内容はタイトルの通り、極夜探検の準備やそれに費やした、前後3回に及ぶ旅のあれこれになっている。したがって、著者の探検行の時系列はタイトル通り「極夜行前」→「極夜行」となる。

 

時系列通りに読むなら、探検の背景が理解し易いだろう。例えば、「極夜行」では働き手として一人前になった犬と一緒に橇を挽いて行くのだが、「前」では、訓練前の犬との葛藤が描かれていて興味深い。

 

また、「極夜行」では旅の開始直後のブリザードで、天文観測の六分儀を失ってしまう。その観測器は現在位置を知るのに準備したもので、「前」では準備旅で習熟し改良が加えられた様子が描かれている。したがって、その喪失がどんな意味を持つか、「前」を読んでいると読者にも切実に分かる。

 

「極夜行」実施前に1年間の空白がある。これは旅券切れによる国外退去命令を受けたからだが、「前」にはその経緯が詳しい。

再入国には3年と最初に警察から伝えられたときの、著者の怒りと失望が伝わる。

 

「前」の最後は、著者が極夜行本番のためにデポした食料が、白熊に荒らされたという連絡が入ったところで終わる。これはカヤックで海伝いに運ぶ途中、海象(セイウチ)に襲われ死ぬ寸前で逃れたり、氷海が開けなかったり、テント泊中にカヤックが流されたりがあってようやくデポした、極夜行の旅の成否に関わるものだ。

読者には、著者が呆然としている様子がありありと目に浮かび、「極夜行」を読んでいない読者は、ぜひ続きを読んでみたいと思うだろう。

 

「前」を読むと、著者がこの探検行にGPSを携行しないという理由も納得できる。その上で「極夜行」を読むと読者には合点することが多いかもしれない。

だが、私のように「極夜行」を読んだ後に「前」を読んでも、なるほどそういうことだったのかと分かるのも面白かった。

author:u-junpei, category:読評, 17:30
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読評 「極夜行」(角幡唯介 著)

 

高緯度の極地に「白夜」があるのは知っていたが、反対に夜がずっと数ヶ月続くのを「極夜」というのは知らなかった。

この本は、その極夜の中を、グリーランドにあるイヌイットの最北の居住村から、犬1頭を相棒に橇を挽き、グリーランドを縦断し、旅の最後に北極海で極夜開けの太陽を体験しようという、約80日間の人類未知の極夜探検行を描いたもの。

 

図書館に借りたい本があり出かけたので、この本を最初から読もうと思っていたわけではない。目的の本は検索してたのだが、なぜか借り出されたあとだった。それで、そのまま帰るのもシャクなので新刊本コーナーを見た。

そこに、著者の最新刊『探険家とペネロペちゃん』があった。私は探検モノにあまり興味はない。したがって、著者が著名な探険家であることも、どんな作品があるかも知らなかった。だが、まるで内容が掴めないタイトルと、その表紙の写真に興味を魅かれて手に取った。

 

 

この本で、著者のプロフィールみたら、『極夜行』が第1回本屋大賞ノンフィクション本大賞になっていることを知り、『極夜行』はついでに借りて来たというわけで、本の内容に期待感があったわけではない。本屋大賞ならまあ読んでもいいか位の気持ちだった。

 

ところが、最初に読んだ『探険家とペネロペちゃん』が意外に面白い。ペネロペちゃんというのは著者の「あお」という娘のこと。本名のままに書くと、ひらがな文のなかにうまって分かりづらくなるので、本の中での呼称のために名付けた名前だという。スペインの女優の名に由来するそうだ。

この本では娘の出生から4歳までの、父と娘の関係性を描いている。読者には「親バカまるだし」と思わせながら、語り口や切り口がともかく面白く、一気に読ませる。

 

この本で著者に対する親近感が湧き、引き続き『極夜行』を読んだから、この探検物も格段に面白かった。久しぶりに本の世界=それは現実にあったノンフィクション世界を堪能することができた。

 

私は著者と一体の感覚で、闇夜の氷河やツンドラ氷原を道もなくコンパスを頼りに行く不安、強烈・猛烈に吹きまくるブリザードに閉じ込められる恐怖、デボしてあった食料を白熊に食われてしまっていた絶望感。生き抜く為にあらん限りを尽くしても、それを上回る自然の脅威。久しぶりに探検行の妙味を味わった。

 

もっとも、私は暖かいコタツや、ストーブの前でぬくぬくと、まるで生命の危険のないところで読んでいたのだが・・・かつて、赤城山からの夜景を見たくて、鍋割山に単独行で登り、足下の前橋から遠く関東平野を埋め尽くす光景に感動し、帰路は月も星もない、懐中電灯の光さえも届かない闇の中を、夢中で下山したときの恐怖を思い出していた。

author:u-junpei, category:読評, 22:22
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読評 「学校を変える いじめの科学」(和久田 学 著)

 

「科学」というと、いわゆる「自然科学」がイメージされる。それゆえ、当方に何の準備もなく、「いじめの科学」というタイトルが目に飛び込んで来て、おもわず手に取った。何で「いじめ」と「科学」が結びつくのだという素朴な疑問からだった。

 

ふだん子ども相手の仕事をしているので、「いじめ」には関心がある。

かつて、どこかの教育長が、『いじめは、加害者が悪いのはもちろんだが、いじめられる子どもの方にも問題がある』と言ったことがある。事実、そういうこともあるかもしれない。

 

おそらく、こうした考えは彼の経験則から述べられたものだろう。だから、そのような人は、いじめの解決にも自分の経験則で対応しようとするに違いない。

だが、この考えを前提にすると、いじめは学校から絶対になくならない。経験そのものに個人差があり、各人の経験則で個別対応するのはむしろ危険だ。過去の経験は、意識的にしろ無意識にしろ脚色があったりして、それでは加害者・被害者双方を納得させられない。状況に応じた対応策・解決策を導くことは困難だ。

 

いじめは100%加害者が悪い。その上で、加害者の行為の原因と対策、被害者が重大事態(自殺・不登校)に陥ることのない対応を見つけなければならない。その際には、いじめの現場にいる多数の傍観者こそが解決の糸口になるだろう。というのがこの本の主題であった。このところは、私も大いに共感できる。

 

そのためには、「いじめ対策プログラム」を科学の知見で開発するのが必要だ。それによって誰もが共通認識を持つことができるからだ。欧米ではこうした研究が進み、プログラムも開発されているという。

この本ではそうしたプログラムの具体的内容を詳しく紹介していないのが物足りなかった。もっとも、欧米の研究が即日本に適用できるとは著者も考えていない。

 

私がこの本で関心を持ったのは、「学校風土」という問題だった。最近、神戸の小学校で教師が教師を苛める事件が公になった。これはマスコミ取り上げられ、大騒ぎになっているが、教師同士間の苛めは珍しいものではないようだ。5〜6人に1人は何らかの形で苛められた経験があるという調査がネットにあげられている。

まあ、教師だからといって素晴らしい大人だとは言えない。悪いことがあれば、子どもに対しての影響(教師や大人への失望)はダメージが大きいに違いない。そうしたことでは、いじめに限らず学校風土の良し悪しは大事な視点だろう。

 

2011年に起きた大津中2自殺事件を契機にして、おそらく学校や教育委員会の保身からの、いじめの事実の隠蔽が問題になり、2013年に「いじめ防止対策推進法」が制定された。そこでは従来曖昧だった「いじめ」を定義をし、いじめ防止対策を学校や行政に求めている。

 

そのせいもあろうか、文科省発表によると、平成30年度のいじめ認知件数は54万4千件で過去最多となった。特に小学校での認知件数が急増していて、1000人あたり66件にのぼっているという(2019.10.17産経新聞)

 

この本は、2019年4月発刊なので、この文科省発表前だが、著者や彼のいう対策プログラムはこの認知件数にどう反応するのだろうか。学校風土という視点から、私の個人的な感想は、残念ながら、かなりマイナス思考になっている。

author:u-junpei, category:読評, 21:42
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読評 「犬と猫どっちが最強か決めようじゃないか」(今泉忠明 監修)

 

数年前まで、我が家には「りく」という名の犬がいた。迷子か捨てられたのか分からないが、子犬のときに母が拾い、15年を越えて生きていた。母が亡くなった後は彼も元気がなくなり、最期は私に撫ぜられてる中で息を止めた。

私も老齢になってしまったから、もう責任を持って犬の一生の面倒はみられないだろう。だから、飼いたいと思う犬種はあったのだが、再び飼うことはあきらめている。

 

まだ、我が家には「のら」という猫がいる。これは20年近くなるので、相当の婆さんだろう。人間のことなどお見通しの、「化け猫」候補かもしれない。

 

「りく」が生きていたときは、私はイヌ派だった。ところが、残っているのは猫だし、今ではもっぱらネコ派だ。猫とはお互いあまり干渉しないのがいい。トイレか何だかは、「にゃん」と鳴いたりして、外に出ることを要求するので出してやればよく、犬のように散歩に連れ出す世話もなく気楽だ。

 

この本は、犬と猫の習性というか、それを「知力」・「感情」・「運動能力」・「五感」・「生活」の五項目で、それぞれいくつかの具体的な場面(55番勝負)をあげて、それぞれの動物心理を背景に、『どっちが最強か』と比較考察されている(犬26勝・猫21勝・引き分け8)。それらは表紙絵にあるような、イラストやマンガが使われていて、たいへん面白く読める。

 

おそらく、この本に書かれていることは、犬や猫の飼い主には日常的に経験しているようなことだろう。だが、未経験の者にも興味深い内容に違いない。私もあっという間に読み終えた。

author:u-junpei, category:読評, 22:05
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読評 「ハートで感じる英文法」(大西泰斗/ポール・マクベイ 著)

 

「英語が話せる」という目的で勉強するなら、これまで学んだ英文法の丸暗記ではダメというのがこの本の趣旨となっている。

 

ネイティブが使う英語や英単語には、彼等の感覚が込められてあるのだから、まずはそれを掴まなければならないという主張だ。場面場面でネイティブが使う英語の感覚が分かるなら、中学や高校で学んだこれまでの英文法は、むしろ邪魔な知識だったとさえいえる・・・ということのようだ。

 

例えば、この本の最初の方で取り上げている

I like playing with my kids in the park.

I like to play with my kids in the park.

の違いについて、私が関わっている中学レベルでは、動名詞と不定詞の質感の違いなどには触れていない。どちらも「公園で遊ぶのが好き」と訳されて、高校受験ではそれで必要十分なのだ。

 

ところが、日本人が英語を話せないのは、ネイティブの感覚の違いが分からないから、あるいは分かる学習をしていないからで、この本のこだわりは、そうではないでしょうということだ。

 

それゆえ、willとbe going toにみられるような、ネイティブの「未来表現」の感覚や、Will you ~?をWould you ~?と「過去形」を使うと、なぜ丁寧な表現になるのかとかが理解されるべきで、それが分かれば従来の丸暗記文法はいらないということになる。

この本では、そういう言葉の背景にあるネイティブの感覚=こころを学ぶべきだとして、「ハートで感じる」というタイトルになっている。

 

本の帯に、”目からうろこ”の英文法とあるが、内容も文体も読者の興味をひくように書かれていて、私は文法本としてではなく、フツウに読書をしている感覚で読めておもしろかった。

 

ただし、文法は不要だといっても、中学・高校で学ぶ基本的・基礎的な文法知識は必要であろう。この本でも従来の英文法を前提に解説しているから、そういう知識のある者を相手にして書かれている。それゆえ、一通り学んだ高校生や大学生が読むと興味深いかも知れない。

さらに言えば、勉強に楽はない。日本人がネイティブスピーカーのような話者になるには、やはり、文法丸暗記と同じような努力が必要だと思った。

author:u-junpei, category:読評, 22:02
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読評 「ルポ 人は科学が苦手」(三井 誠 著)

 

題名を見たときに、その意味するところがすぐに分からなかった。現代社会や日常生活で、我々が科学の恩恵を受けないことはありえない。学問としての科学が、理解や知識の範囲を超えるというのであればともかく、なぜ『人』が『苦手』としなければならないのだろう。それが、この本を手にするきっかけになった。

 

副題に、”アメリカ「科学不信」の現場から” とある。したがって、タイトルに「人」とあるのは、人間一般を言うのではなくて、主にアメリカ人を指してのことだろう。

つまり、現代科学の最先端を行く科学大国のアメリカ人が、実は「科学不信」だというのだ。著者は科学を専門とするジャーナリストで、彼はこの本で何を言いたいのか、私の一番の関心はそこにあった。

 

私がこの本を読んで、特に興味をひかれたところは、次のような内容が書かれたところだった。

 

例えば、『宗教が人生で非常に重要な役割果たしているか』という質問を、世界50カ国の国民にした調査結果(米国民間調査機関ビュー・リサーチ・センターの2015年発表)が興味深い。それによると、共産国の中国が3%で一番低い。それについで低いのは日本で11%。GDPで見ると、経済力が高くなると宗教に頼る割合は低くなるという。

ところが、米国は例外で53%の高い割合で肯定している。ちなみに、英国やドイツでは21%、フランスで14%だった。アメリカ人は宗教心が飛びぬけて高いことが分かる。この結果は私には意外だった。平気で無宗教を標榜するような日本人には、とうてい分からないだろう。

 

米国で「進化論」を支持する人は国民全体の約2割に過ぎないという。なぜなら、聖書に基づく「創造説」によれば、人類の歴史は6000年より前に遡ることはないからだ。

学校で進化論を教えていても、家庭では親が子に伝えるのは聖書で、『猿から人間になるなんてありえない。デタラメだ』とか『犬の子は犬だ』と直感的な事実で進化論は否定される。大学生に10万年前の化石だといって見せても、それはありえないと教授にまじめに反論したりする。

 

聖書に基づいて考えれば、このような非科学的な結論がまかり通るだろう。だが、バカとかレベルが低いとかそういった問題ではない。米国は宗教大国でもあるのだ。特に保守傾向の強いキリスト教の福音派の勢力が、人口の25%を占める。この状況の下では、科学の合理性や事実などは簡単に覆され無視される。

 

科学不信が宗教を背景にした保守的な思考と合わさると、人工妊娠中絶に反対したり、地球温暖化と環境保護の関連性も否定される。経済活動で二酸化炭素の増加が地球温暖化をもたらしているというは、研究費が欲しい科学者のでっち上げで、気候変動に過ぎないと理解し、いわば理屈抜きに結論されてしまう。ここでは経済界と宗教が手をつないでいる。

 

それは、政界においても変わらない。泡沫候補と思われたトランプが大統領に選ばれ、彼の発言が科学の事実に反しても、彼の政策は共和党員に強く支持されている。それゆえ、米国がパリ協定から離脱する唯一の国になっても、アメリカ第一主義である彼と彼の支持者は当然だと考える。

 

著者は、米国に2013年〜2018年の間、前半はカリフォルニア大学の研究員、その後は、読売新聞のワシントン特派員として科学分野専門のジャーナリストとして活動している。そんな彼がトランプが大統領に選ばれるという、いわば歴史的転換を現場でつぶさに取材体験した。

おそらく、著者はトランプが大統領になるとは思っていなかったのではなかろうか。それが、米国社会に根強い「反科学」との関連を取材する動機になったように思われる。

なにしろ、米国には「フラット・アース国際会議」と呼ばれる、「地球は平ら」だと考える人々がいて、広範な活動を展開している。例の、アポロ宇宙計画での月面着陸は、ソ連に対抗する為にNASAがでっち上げたのだと主張しているのがこの団体だそうだ。

また、米国には創造説に基づいた博物館施設や、ノアの箱舟を聖書に書かれてる通りの、実物大(全長150m)の施設があったりする。まあ、模型のキリンの首が短くなっているそうだが、ちゃんとした理屈があるようだ。

 

だが、本書の眼目は、単にアメリカ社会の分析にあるのではないようだ。米国内が政治的に共和党と民主党の支持者に分離し、それが地球規模での経済活動に及ぶばかりでなく、アメリカ人自身を分断・対立させてる現実を、ジャーナリストの冷徹な目で見ている。

 

著者はこの本を全4章に構成し、第1章「自分が思うほど理性的でない私たち」で、人間一般について、米国での反科学的な理由を取材している。しかし、ここでは、米国と日本やその他の国との比較検証はなされていない。

だから、仮に、経済や風俗などでよく言われるように、日本が米国のあとを追いかけてるというのが真実だとしても、宗教風土は全く異なるという違いは無視できないのではなかろうか。そういう意味では、日本のほうが無軌道・無道徳に走ってしまう危惧があるように思うが・・・。

また、狩猟民族と農耕民族といったDNAの違いは、最後には国民の思考を左右するかも知れない。

 

ともあれ、第4章「科学をどう伝えるか」では、米国で起きている分断対立社会の『今後』=「科学不信」からの脱却について、米国だけの問題ではないという視点で書いている。米国の科学者自身がどう向き合おうとしているか、様々な活動や研究を取材していて興味深い。

ぞれが、著者をして、「人は科学が苦手」といわしめ、啓蒙活動としての取材活動を目指した・・・ように読了して思った。

author:u-junpei, category:読評, 19:00
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「ピカソ展」ゲルニカ[タピスリ]をめぐって (県立館林美術館)

 

ピカソの絵はいろいろと目にするが、私には端から「分からないもの」と思っていた。それが、館林美術館で「ピカソ展」をやっていると知っても、地元なのに腰が重くなっていた一番の理由だ。

だが、「ゲルニカ」の実物大のタピスリ(縦約3m×横約7m)が展示されているというからには、見るチャンスを逸するのはもったいない。それで、学芸員の解説会があることを知り、その日をスケジュールしていた。

 

それが先日のこと。駐車場がほぼ満杯なので、もしやと思ったら、やはり解説会は盛況で、6,70人はいただろう。平日2時からの催しのせいか、中高年の、それも女性が圧倒的に多い。女性は歳をとっても、美への意識が高いのかも知れない。解説の学芸員も30代くらいの女性だったのは、解説会が初めての私には意外だった。

 

男の鑑賞者が数人しかいなかったのは、たぶん、高齢でヒマがあっても、ピカソの絵ような「分からない」ものに時間を割くことは、ムダだとでも思っているに違いない。まあ、それは良く分かる。私を含め、高齢の男は腰も重くなる。

そういえば、展覧室の隅っこの椅子に腰掛けて、静かに見張ってる人は皆女性で、男がやっているのは見たことがない。なぜだろう。男はずっと腰掛けて見張るような忍耐力にも欠けるとか。

 

私は、解説を聞くことで、少しは理解が進むだろうと思ったのだが・・・「ゲルニカ」の意味すら知っていなかったのは、恥ずかしいといえば恥ずかしい。ちょっと検索でもすれば分かったはずだが、ゲルニカはスペインの都市の名前という事すら無知だったのだ。

 

解説を聞いたので、いっぱしのことは、私より無知の者に伝えられる・・・とは思うが、まあ、そんなことはしない。知ったかぶりは、私の美意識に反する。

それに、2100円のカタログ代をケチって、150円のポストカードにしたほどの者が何をか言わんだろう。

author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:42
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読評 「国境を越えたスクラム」(山川 徹 著)

 

副題に「ラグビー日本代表になった外国人選手たち」とある。タイトルよりも、これが私が読んでみようと思う動機になった。

 

W杯での日本代表の大活躍で、『にわかラグビーファン』が増えたという。私もファンになったというほどではないが、大いに関心が湧いたというのは本当だ。

 

私の最初の日本チームの印象は、多くの外国人が代表メンバーになっていることだった。それを見て、プロ野球のようにラグビーにも助っ人ガイジンがいるのかと思った。

そうだとすれば、私には、いわばガッカリすることだったが、代表チームのキャップテンが外国人で、しかも流暢な日本語を話すことも不思議だった。それは大変興味深いことで、さらに外国人選手は日本人選手以上に、日本代表であることに誇りを持っているようだったのには驚くとともに好感を持った。

この本を読む動機は、こうした何故?があったからだ。

 

この本で、ラクビーには独自の代表選抜があることを知った。

日本代表だけでなく、W杯に参加した代表チームは多国籍化しているという(アルゼンチンのみ同国人)。しかも、外国人が他のスポーツのように、いわば助っ人選手であることとは様相がちがっている。

 

その代表選手になれる条件は3つあって、国籍を問わず、そのいずれかを満たせばよい。

 ―仞乎呂その国

◆[梢董∩追稱譴里Δ前貎佑その国出身

 その国で3年以上継続して居住、または通算10年にわたり居住(3年居住要件は日本大会以後は5年)

 

これは、ラグビーがイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四国で構成されたイギリスが発祥の地であることや、ニュージーランドやオーストラリアなどのイギリス植民地に広まったことが歴史的背景にあるという。いわば多国籍チームになることを受け入れる素地は、もともとあったといえる。

 

日本の場合は、今から30年ほど前、2人のトンガ人の留学生(ソロバン習得をトンガ国王に命じられてだそうだ)が最初で、彼等が、後に代表入りするようになってからだ。

もちろん、先駆者の苦労が並大抵でないことは、ラグビーの世界に限ることではない。それは逆に日本から外国に渡った事例が如実に物語っている。先駆者が成功して道を開き、それに後輩たちが続くという図式は変わらない。

 

この本は、そうした事例を丹念に取材し、いわば”One for all, All for one”といわれるラグビーの世界で、外国人選手が受け入れられるようになった過程を描いている。その取材には、著者自身が高校・大学とラグビーに取り組んだことが大いに役立っている。

 

今、何かとお隣の韓国とはギクシャクしている。日本代表には韓国人もいて、今回のW杯でそうした雰囲気を吹き飛ばすような活躍をしているのは、将来の韓日関係に好材料になるに違いないと思う。若者の多くは私のような年配者と違い、過去にとらわれない柔軟さを持っているからだ。

 

この本は、2019年8月に刊行されている。当然ながらW杯の結果を知らない前の取材なのだが、日本代表の好成績が予想される内容だったのは、きちんとした良い取材に基づいて書かれていたからだろうと思う。日本の良いところも悪いところもちゃんと書いている。

 

また、ラグビーが15人で、それぞれ1〜15の番号に配置された選手ごとの役割があることは、『にわかファン』にもみたない私には新鮮な知識だった。

私は、ラグビーは図体が大きく頑丈にできている男たちのスポーツだと思っていた。が、決してそうではなく、ポジションの役割による総合力が問われるのだと知った。

 

著者の「あとがき」によれば、ラグビーとは『・・・チーム内で自分の存在意義を見出し、承認欲求が満たされる・・・』スポーツなのだという。

どおりで、京都伏見工高をモデルにしたという映画『スクール・ウォーズ』で、どうしょうもない不良生徒たちがラグビーを通して立ち直り、成長していく。この高校で起こった出来事は、監督と生徒の単なる根性モノではなく、各人が役割を通して、自己を肯定的に捉えられる、ラグビー本来の教育効果なのだと合点がいった。

author:u-junpei, category:読評, 21:12
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読評 「14歳からの数学」(佐治晴夫 著)

 

2019年8月に出版されたばかりで、図書館の新刊書コーナーにあった。

14歳といえば中学2年生だが、私の塾生にも何か役立つものでもあればと思い借り出した。

副題に「佐治博士と数のふしぎの1週間」とあるように、内容を月曜日から日曜日の7つの項目に分けてある。1日1項目なら読み終えやすいだろうと見当をつけたのも、借り出す理由になった。

 

だが、読み始めてまもなく、それが安易な考えだと分かった。書かれている数学の内容は、中学生どころか高校生、あるいはおそらく大学生の範囲まで含まれている。こうなると私の目的には合わなかったし、出てくる数式も分からないので読み飛ばしたりもした。

また、数学用語には、当然分かってるでしょうを前提にするのではなく、対象が中学生であるなら、もっと説明があっても良いと思った。例えば木曜日の『2次方程式』の項で、2次方程式を解く「根の公式」を導く過程を説明しているが、これは中学では「解の公式」と呼ばれている。公式の導き方も、私の使っている中学の教科書に出ている方法とは異なっている。現役の中学生には『えッ』となるのではないかと思った。

 

私は中学生に「根の公式」という言い方をしたことがない。ネットで調べたら、どうやら「根」と「解」では視点が異なるらしい。2次方程式では「解」の方を使うようなのだが、どうなのだろう。

 

内容は概して、14歳の中学生には、難しいだろうと思った。それでタイトルが『14歳からの』となっているのだろうが、思い切って14歳に限定して、分かり易い内容に限定していたらよいのにと思った。

そう思って、著者のプロフィールを改めて見ると、『14歳のための物理学』、『14歳のための時間論』、『14歳のための宇宙授業』というように、なぜか14歳に限定したタイトルの本を出している。

 

これを見て、なるほどと思った。この『14歳からの数学』は、これら『14歳のための・・・』の集積だったのかも知れない。だから、本書では、物理や時間や著者が専門とする宇宙の『ゆらぎ』理論に触れられていたのだろう。もっとも、その多くは私には理解不能だったのであるが・・・

 

「あとがき」の最後に

  ーー数学は論理の音楽であり、音楽は情緒の数学であるーー

とある。引用が無いところを見ると、これは著者自身の言葉なのだろう。

 

おそらく、含蓄深い言葉であるように思うのだが、私は音楽に疎いのでよく分からない。もしかして、これに共感できないと、高等数学は理解できないのかもしれない。

いくら『14歳から』とはいえ、高齢者の私には手遅れかと・・・残念ながら、若い人に期待するよりない。

author:u-junpei, category:読評, 16:16
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