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館林市第一資料館 「徳川綱吉ー館林城主から将軍へー」


徳川綱吉は家光の四男で、館林宰相と呼ばれました。もっとも、彼自身はもっぱら江戸の神田館に住み、館林城には日光参拝の折に4.5日間滞在したことがあったに過ぎなかったそうです。

五代将軍になってから、「生類憐れみの令」を出し、それが天下の悪法といわれて、あまり芳しくはない評判をとっています。この特別展には、一日に3030石もの食を与えた御犬小屋(これでも小規模な小屋のひとつ)の資料も展示されています。

犬ばかりが目立ちますが、病気の牛馬のみならず野鳥なども保護するように命じている資料もあります。今日では、調査捕鯨とかが世界各国から責められますが、我が国はかつては動物保護の最先進国だったのです。綱吉は世界的にも再評価されて良いのではないでしょうか^^;

私がこの特別展で関心をもったのは、綱吉自筆の書画でした。 特に「母不敬」という書や中庸から引かれた掛け軸などは、上手かどうか私には分かりませんが、生真面目な雰囲気があります。馬を描いた「松下走馬図」や白鷺を描く「芦鷺図」などは、名前を伏せてプロの絵だといわれても頷いてしまうと思いました。

綱吉の頃、館林領は25万石の大藩だったわけですが、これまで私は館林周辺で25万石だとばかり思っていました。ところが、上野国館林の領地は11万石余で、残りは下野国・甲斐国・美濃国・近江国にあったということです。

館林藩は幕末では6万石ですから、これでは明治の廃藩置県以後の統合で、群馬県にはなっても、館林県にはならなかったはずです。館林は『鶴舞う形の群馬県』(上毛カルタ)でクチバシ辺りになりますが、県庁所在地の前橋に行くより、東京に出るのがずっと速くて便利です。地元民である私は、群馬県民としては、群馬の中心地から遠い僻地にいるような気がします。

しかし、もし、綱吉の頃の規模で明治維新まで続いていたら、領地だった下野国の佐野市域も範囲で館林県が成立し、全国48都道府県だったかもしれません^^;
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 22:22
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粕川歴史民俗資料館


『謎の山岳寺院跡 宇通遺跡を探る』という企画展を、前橋市粕川歴史民俗資料館でやっていることを知り訪ねた。施設は旧粕川村にある膳城本丸跡の北(北郭)にある。 



宇通遺跡は、昭和40年(1965年)4月の山林火災により、赤城山南麓の標高650m前後の山中に発見された。4,5haという広大な範囲に、12棟の礎石建物と50軒以上の竪穴住居があるという。

発掘された地層と出土品から、礎石建物は計画的に順次建設され、その時期は10世紀から11世紀で、12世紀中に廃絶されたものと考えられている。



私の興味を引いたのは、女神像と称する金銅製の4cmくらいの大きさのものだった。これは礎石建物Aから出土したものであるから、女神というのは納得に欠ける。良く見ると両手を組むか合掌しているようだから、むしろ仏像のように思える。

この不審は、最初に群馬大学が発掘した時(山林火災直後)に、三夜沢にある赤城神社の西宮の旧地ではないかと推量された経緯から、女神だろうとしたのではなかろうか。
その後の、粕川村教育委員会の調査(昭和58年から平成3年)では、仏堂跡とされているのだから、この女神像の再検証もなされて良かったかもしれない。

ちなみに、遺跡地は現在は草木に覆われ山林化しているそうだ。再び深い眠りに帰ったとでも言おうか。
企画展は8月31日までやっている。入館料無料。



この資料館には、粕川村で発掘された埴輪が多く展示されている。重要文化財に匹敵するような埴輪(?)が、観察者がそばで見られるように置かれている。もちろん、「手を触れないで下さい」とはあるのだが・・・職員に聞いたら、レプリカではなく本物だそうだ。

上の画像は、大小4つ並べてある馬の埴輪の一番小さいもの。特徴は馬なのに目が前についていること。カワイイというので他館の展示会に貸し出されることもあるという。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:42
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相沢忠洋記念館

 

相沢忠洋は1946年(昭和21年)20歳の時、現在のみどり市笠懸町の切り通しで、赤土の崖の中に剥片石器(長さ3cm幅1cm)を3点発見した(現在の岩宿遺跡、1979年国指定史跡)。

その3年後の1949年、同所の赤土の中から槍先型尖頭器を見つけ、これによって旧石器時代(無土器時代)があることを確信する。

それまでの考古学では、関東ローム層(赤土)は盛んな火山活動(北関東では赤城・榛名・浅間・男体山など)によって出来たもので、降りしきる火山灰の中では人間が住めるような環境ではなかったとし、日本には縄文時代以前の旧石器時代はないとされていた。
(今でこそ、火山が年がら年中爆発していないことなど常識だし、ローム層も火山灰の降灰がそのまま積もったものではないとされている。ちなみに100年で1cm、1万年で1m)

相沢は、たまたま知り合った明大大学院生の芹沢長介を信頼し、その槍先型尖頭器発見の直後の九月、明治大学の発掘調査隊(芹沢ほか2名)を案内して、地元の仲間数名と共に発掘に参加している。

その際に出土したハンドアックス(卵型をした握って使う石器で、明大隊のリーダー杉原荘介助教授が発見した)は、1975年に国指定重要文化財になっている。しかし、相沢が同所の赤土の中から発見し、日本に旧石器時代があったことを証明する岩宿遺跡のきっかけとなった槍先型尖頭器は、なんら文化財の指定を受けていない。

これについて、相沢忠洋記念館(上の画像)館長で相沢夫人の千恵子は、「歴史と旅」(平成8年6月号)で『・・・杉原壮介明大助教授の発見した資料など二番煎じの資料だと思います』と語る。
かなり手厳しい意見だが、杉原助教授(当時)が帰京した直後の新聞発表で、相沢の功績について語ることもなく済ましたことへの反発心が、この手記を書いた平成8年ころにも残っているかのようだ。
それにしても、地元の町や県の文化財指定もないのはなぜだろう?

今でこそ、相沢忠洋は岩宿遺跡発見者として評価されているが、当時は納豆売りの行商をしている若者で、学歴も夜学の小学校卒でしかなく、周囲からかなり馬鹿にされていたことが知られている。今でも『アマチュア考古学者』などと書いて平気でいるサイトもある。

私は、この相沢夫人の手記を読んでから不審に思い、いろいろネットサーフィンしたのだが、相沢忠洋の生涯の協力理解者とされる芹沢長介(東北大名誉教授)と、対する杉原荘介(明大教授)の手柄横取りと見る構図は、あまりにも単純すぎて納得しがたい。

また、2000年に、考古学界の前代未聞の不祥事、神の手をもつといわれた藤村新一の旧石器遺跡捏造事件が明るみに出されるまでは、旧石器時代をめぐる考古学は25年の長きにわたり、架空の方向に捻じ曲げられてきた。
したがって、ネットを見る際も、2000年以前に書かれた記事であるかどうかは注意を要する。

その藤村は25歳くらいの時、相沢から槍先型尖頭器をみせられ、ぶるぶる震えるほど大感激していたという。そんな彼が、旧石器遺跡捏造を謀るのは、おそらく彼だけの責任だけではないように思う。
彼が師と仰いだのが、東北大学教授で考古学の第一人者の芹沢だし、芹沢は相沢忠洋記念館の名誉館長を務め、相沢忠洋賞の第一回受賞者が藤村であった(ただし、記念館は相沢の死後1991年開館。藤村への授賞は1992年)
捏造事件発覚後、誰もが騙されたとし、知らぬ存ぜぬで、全ての責任を藤村一人に押し付けて済ますような学会や、マスコミを含め考古学を取り巻く社会のあり方は、どうにも釈然としない。

学問の世界だけではないだろうが、師弟関係は重い。独学だった相沢は、貧しく学歴もなく、在野の研究者として差別され、あるいは無視され、あるいは歴史の闇の中に埋もれて顧みられなくなっていたかもしれない。そんな中で、終生の付き合いをした芹沢の存在はありがたいものであったろう。
ましてや、藤村にとっては、それ以上の神のごときだったかも知れない。旧石器時代前期の証明にのめりこむ気持ちが、捏造事件の真相にかかわるのだろうが、なんとも人のサガとは悲しいものだ。

相沢は1989年、6年間の病院生活の後、63歳の若さで亡くなっている。生きていたら、藤村の捏造事件や、芹沢が発掘にたずさわった宮城県の座散乱木遺跡の国指定史跡の取り消しなど、どんな気持ち眺めたことだろう。

ちなみに、相沢の発見した槍先型尖頭器は、相沢忠洋記念館に展示してある(下の画像)



この槍先型尖頭器は、長さ7cm幅3cmほどで黒曜石でできている。その気になって見るせいか、実物はもっと神秘的な色合いをしている。これが、いわゆる「岩宿遺跡B地点」から発見された。
ところが、明大調査隊は、杉原の意向でB地点と反対側崖のA地点を発掘し、後に例の重要文化財となった石器他を発見した。それらを地層によって年代分けして、岩宿1石器文化(約3万年前)・鏡亟鑛顕宗別鵤暇年前)としている。

これに対し、相沢の発見した槍先型尖頭器は岩宿契亟鑛顕修醗銘屬鼎韻気譴燭里世、1949年及び翌年の調査発掘によっても、彼の発見場所だったB地点からは、石器は一つも発見されなかったとされている。

この事実については、当時の調査記録「岩宿日誌」を確認する必要があるが、どういうわけかそれが行方不明になっているらしい。それを何かを隠蔽する人的行為を示唆するようなサイトもあったが、はたしてどうだろうか?

ところが、2001年に岩宿彊篝廚箸気譴襪箸海蹐ら、岩宿契亟鑛顕修紡阿垢訐亟錣大量(約500点)に発見されたという(岩宿博物館HP)。藤村新一らの遺跡捏造行為によって、もしかしたら、相沢の名誉も犯されているのではないかと思っていたので、この記事を見て何だかほっとした^^;



この本は相沢忠洋の幼年期から丁稚奉公を経て、青年時代の岩宿遺跡発見までの自伝のようで、いわゆる考古学研究本ではない。内容は平易で読みやすく、彼の人柄が伝わってくる。
中には、地元の反相沢グループなどがどう反目し、どのような行為をしているかも、控えめではあるが、実名(?)を挙げて書かれている。

相沢は人には優しく自分には厳しかったというが、このグループからのイジメには、さすがに許しがたいものがあったのかも知れない。
私は、相沢が正で他は悪というふうに見るつもりはないが、考古学をめぐるだけでなく、それぞれの人間の生き様が見えてきて興味深かった。

author:u-junpei, category:博物館・美術館, 17:57
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新田猫


『太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設』という長ったらしい名称をもつ建物は、『太田市金山地域交流センター』という公共施設と共有した建物で、それぞれ入り口や事務室は1,2階に別れて別々だが、内部は一緒の空間になっている(画像は2階の正面口)。
これが、行財政的に合理的かつ効率的であるかは、他市から訪問する者にはたいした問題ではない。たまたま、館外にいた職員に猫絵の展示会場を尋ねたら、どちらからでもどうぞ〜といわれた^^;



『新田猫』というのは、養蚕の大敵であるネズミ除けの効果があるとして信仰された、『新田のお殿様』が描いた猫の墨絵や刷絵をいう。

新田のお殿様は新田氏と足利氏の両方の血筋を引き、江戸時代には幕府から新田源氏の主流として遇されたが、たかだか120石だったという(明治になって男爵)。



副業として猫絵を描いたのだろうが、四代に亘る猫絵は、いずれも“可愛げな”とか“ひょうきんな”といった印象だが、ネズミを捕るという獰猛さは感じられないのはなぜだろう?

もっとも、ネコは得体の知れないところがある。我が家の居候雌ネコはトカゲを捕り、いたぶってあそんでいるが、そのときの顔もふだんニャ〜ンと足元に擦り寄るときと変わらないように思う。
ネズミを捕る獰猛な猫というのは、こちらの勝手な思い込みかもしれない。

ちなみに、新田猫の刷絵は、横浜から絹を輸出する際、荷物の中に入れられたという。効果があったかどうかは聞いていない^^;
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 16:16
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大川美術館 特別企画展「大川美術館の源流を見に行く」
 

4月20日、大川美術館が創立25周年を迎えて、入館料無料(通常1000円)だという。そういうことなら腰が軽くなる。空模様が少し怪しくても、行かないわけには・・・^^;

大川美術館は桐生市の水道山の中腹にある。入り口から見ると一階建てのようだが、斜面を利用して建てられているので、実際には5階建てになっている。
それでもあまり疲れないのは、作品をゆっくり見て回るせいだろうか。この美術館のメインテーマとする展示は松本竣平で、全国でも有数だという。

創立者の大川栄二氏は若い時に、当時は不治の病といわれた結核を患い、その療養中に週刊雑誌の表紙絵をコレクションしたことが(美術館では1000点収蔵しているという)、後の絵画蒐集に結びついたという。
この経緯は、赤瀬川原平氏(芥川賞作家)の下記の記事に詳しい。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1331

画像の絵は松本竣平の代表作で、「街」という大きな作品(1938年)だが、大川栄二氏と松本竣平の絵画との出会いは、画商から薦められた「ニコライ堂の横の道」という作品だったという。上記のサイトにもその絵が載っている、

それは38×45ほどの小品なのだが、茶色系の黄昏時の絵で、そこはかとない人生の寂寥感やら孤独感があり、その絵の前から離れがたくなるものがある。
これを私が若い時に見たらなんともなかったかも知れないが、そんなことを思うのは、私も年を取り同感するものがあるからだろう。

もっとも、この作品は1941年頃の作品で、戦中の暗い世相が反映しているかもしれないが、松本竣平は戦後間もない1948年(昭和23年)に36歳で亡くなっている。したがって、作者の内面描写は違うのかもしれない。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 22:00
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さいたま水族館


さいたま水族館は埼玉県羽生市の水郷公園の中にある。

この水族館には、30年くらい前に行ったことがあるのだが、そのときは今より建物も小さく、田園の中にポツンとあったような記憶がある。名称も「さいたま水族館」ではなく「羽生水族館」だったような気もするし、あるいは場所も違っているような気もするほど、公園内は良く整備されていて美しいのに驚いた。

水族館は荒川の上流から下流までに棲む淡水魚を集めている。このコンセプトは昔もそうだった。ソウギョという中国から導入した巨大魚(1mをゆうに越す)を初めて見たのもここで、やはり、いたいた^^;

当然、水族館だからサカナは水槽越しに見るのだが、むしろサカナの方から見られているのではないかというシーンは、なんだかタジタジ感を覚えてしまう。



上の画像はオオクチバス(ブラックバス)で、こちらを見ているようだ。逆に観察されている感じ・・・
確かに口が大きいので「オオクチ」バスだ。でも、体色は白っぽいのに、なんで「ブラックバス」なんだろう?
調べてみたら、ブラックバスというのは、いわばこの種属を慣習的に呼ぶ総称のようで、コクチ(小口)バスの幼魚期が黒いのだそうだ。



上の画像は、シルバーアロワナという。いわゆる魚型の尾びれの形ではなく、全体的には長方形ぽく見える。アマゾンにいて古代から栄えた種の生き残りで、生きた化石と呼ばれるそうだ。
これは1mにもなるようだが、身体はクネクネと柔らかい。大きな水槽内を動き回りながら、どうも横目で、カメラで追う私を見ているような気がしてならない^^;



上の画像はウナギ。これを見て、細長い住まいをウナギの寝床とはよく言ったものだと実感した。全部隠れていないで頭を出しているのが面白い。以前ヘビが穴から頭を出してキョロキョロしているのを見たことがあるが、細長いヤツに共通する習性だろうか?

一つの管に2匹でいるのも・・・これこそ同棲だね^^;



ミズカマキリというのもいた。メダカを捕食していた。このシーンは生態系そのもので興味深かった。

他にも、ミヤコタナゴがいて、懐かしい思いで見た。
これは天然記念物に指定されている絶滅危惧種だそうだが、私が子どものころは田んぼの中の用水路にいて、網ですくったりしたものだ。
平べったくてキレイな色をしていた。今でこそ、オスの婚姻色だと分かるが、当時は子ども心に、まるで熱帯魚のようだと思ったものだ。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 20:20
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東京国立博物館


この前の日曜日、久し振りに東京の上野公園へ行った。 目的は東京国立博物館の「円空仏特別展」を見ること。

私は若い頃は東京に住んでいたし、職場も銀座にあったのだが、それでも、何十年ぶりかで見た都会の様子に、キョロキョロはしないものの(してたかも)、やはりココロは田舎者まるだしだった。

公園の桜は、葉桜になっているのに、宴会をしている。それも若者が多いようだ。酒を飲むのに理由など何でも良いのだろう。私もそうだった。
それでも、何が良くてと思ってしまうのは、私が年寄りになったせいだ^^;



東京国立博物館は初めて。閉館の6時まで館内にいたので、春の庭園開放(本館の裏手にあり、14日まで10時から16時)をしていることに気づかなかった。
これは心残りだったが、公開終了日までにはちょいともう出かけられない。桜も咲いてないんだしとヤセガマンする。



画像は円空仏展の図録。

私は、栃木県佐野市にある東石美術館で、数点の円空仏を見て以来関心があった。そこに展示してある円空仏は、いわゆる木っ端仏といわれる小さなものであった。

ところが、今回の展示は、部屋に入ったとたん、2m余もあるのが立ち並んで出迎えている。ここでまず円空仏への認識を改めた。最初にビックリしたが、むしろそのせいで、一つ一つ100体の展示をじっくり見て回った。

円空は生涯に12万体彫ることを目標にしたという。そうなれば、数をこなすために乱暴になりそうだが、展示されているものは丁寧なもの(円空仏の特徴はもちろんだが)が多かった。

手を合わせて見ている中年女性がいた。私はそこまではしないが、内心では合掌したいほどの感動を覚えた。円空仏のスマイルは癒されるのだ。

千光寺では7年に1度だけ公開される秘仏の歓喜天像は、私の目的のひとつだった。意外に小さなもの(13,5cm)だった。千光寺の一般公開では厨子に納められたままだそうだが、ここの展示では360度で見られ、来たかいがあって良かった。



本館前にユリノキの巨木がある。明治14年に植えられたもので、この樹があるがゆえに、「ユリノキの博物館」とか「ユリノキの館」と呼ばれているそうだ。

ちなみに、30粒の種から育てられた苗だったというから、樹齢は140年くらいだろうか。北米が原産地というから、さすがにだなあと、何だか納得したのだが・・・
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:03
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大隈俊平美術館
 

大隈俊平(おおすみ としひら)は刀匠で人間国宝。群馬県太田市生まれで平成21年に77歳で亡くなられた。

太田市には69口(ふり)の刀剣が寄贈されているそうだ。それらを展示するための施設として、住まいだった土地建物が、平成24年11月に市立の大隅俊平美術館として一般公開された。ここには刀匠の作品のほか道具類が展示されている。仕事場だった別棟建物の内部もそのまま保存されていて興味深い。

見学するまで、私は太刀と刀の区別さえ知らないド素人だった。展示品はガラス越しに見るだけなのだが、それでも、本物の刀剣は息をのむような迫力があった。

図録を購入した。その中に、逝去の時の様子が書かれていた。
『・・・太田市由良町のご自宅で、家族に見守られ、右手で槌を持ち3回振り下ろす鍛刀の動作をして永遠の眠りにつかれた・・・』

これって、凄いなと思う。

ちなみに、大隈刀匠は次のような色紙を書いている
   
   名刀は切れるもの
   切れなければ名刀にあらず
   切れるからとて名刀にあらず
   名刀は切るものにあらず

ここで言う「切る」とは、フツウに考えれば武器としてなのだろうが、現代では刀剣の持つ意味は何だろうかと考えさせられる。単に美術刀だけなのだろうか。
ちなみに、彼は平成9年に重要無形文化財保持者(日本刀)に認定され、平成13年には敬宮愛子内親王の御守刀(短刀)を謹作している。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:18
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富岡製糸場


世界文化遺産になる予定の富岡製糸場を見学した。

ボランティアの説明者の後をついて3、40分くらいで回る。建物が、「木骨レンガ造」だという説明が興味深い。要するに建物自体は木造で、木の柱の枠で囲った壁になる部分に、後からレンガを入れて積み重ねていく仕組みのようだ。
これでけっこう地震にも強いのだという。

富岡製糸場の明治5年から115年間の操業の歴史で、女工哀史などといわれることはなかったのだろうか。私にはとても気になるところだが、もともとが官営模範工場としてつくられ、診療所も充実していたのだと、案内者は自慢げであった。

画像は繰糸場を正面入り口から撮ったもの。奥行きが140mもある長い建物で、半分ほど中に入って、機械化された糸繰りの説明を受ける。
機械設備には全て透明なビニルの覆いがかけられている。いくつか説明版がイーゼルに架けてあるが、こうした施設ではよくある、人形が操作しているような、そういった工夫はなされていない。

繰糸場を含めて、重要文化財指定建物は6棟ある。だが、繰糸場以外は外観を眺めるだけで、内部は非公開になっている。また敷地内でもロープが張られ立ち入り場所が限られている。
世界遺産になるなら、それらしく公開部分を増やしてもらいたいものだ。せっかくの文化遺産でも非公開では、人々の興味も半減してしまうだろう。

製糸場には見学者用の駐車場はない。そう告げた警備員は、ええッないの、と思ったせいか、不親切な印象を受けた。下調べなしに行く、私のような者もいるだろうから、駐車場案内のチラシくらいは用意してあってもいい。そんな小さな気遣いでも、さすがに市民をあげて、世界遺産を目指してるだけのことはある・・・と思ったかも^^;
ちなみに、製糸場の見学料は大人500円。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 21:47
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県立館林美術館 「色めく彫刻 よみがえる美意識」


10月28日は群馬県民の日で、美術館の入場料が無料だった。美術好きな人は金を払うことは当たり前だろうが、私のような不心得モノはタダなら行って見ようとする。
あいにく小雨が降る天気だったが、そんな不心得モノも私だけではないらしく、かなりの人数が来ていた^^;

最近の調査研究では、古代ギリシアの大理石彫刻は、もともとは彩色してあったのだという。アジアや古代エジプトの影響なのだが、ギリシア文明に源流を求めようとする白人至上主義はそれを否定し、絵の具を削り取り、大理石の白さを磨き上げたのだそうだ。

そういう、真実を当時の日本の美術界は知らなかったろうが、それでも画像のような平櫛田中の彩色された彫刻は非難されたという。 しかし、私はズブの素人ゆえに素直に驚く。おそらく1本の木から掘り出されたであろう精巧な彫刻と、今なお鮮やかで細やかな彩色には目を奪われるものがあった。

日本の伝統的な彫刻は、日光の東照宮を挙げるまでもなく、精巧でかつ美しく着色されている。館林の近辺にも板倉町の雷電神社の彫刻や、足利市梁田の星宮神社の本殿彫刻など素晴らしいものがある。それらは彩色されているがゆえに、優れた彫刻がさらに輝いているに違いない。

行田の聖天宮の彫刻を撮った大きな写真が展示されていた。修復していると聞いていたが完成したのだろうか。近いうちに出かけてみようと思う。
author:u-junpei, category:博物館・美術館, 23:22
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